山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

私の中の恐ろしい空想

2007-07-25 23:10:56 | 未分類過去
「エホバの証人」というのは、敬虔なるクリスチャンで、善良な人たちであると言っていいと思いますが、信じられないような言動もあります。

ハルマゲドンが来ると、地球上の人は、生き残るものと滅ぼされるものがいるとのことです。生き残るものはイエスキリストを正しく信仰する者であり、滅びるものはそうでない人たちとのことです。

となると、一般のカトリックとかプロテスタントなどは実際には聖書の教えを守ってはいない偽りの信仰であるという考えですから、生き残るのは「エホバの証人」だけということになります。それでも、かなりの人数ですが地球上のすべての人間から考えたら割合は少ないでしょう。
何ら法律を犯していない人たちも、親切な人たちも、エホバの証人で無ければダメだそうです。だから、すごくたくさんの人が死んでしまうということらしいです。
そういう人を少なくするように、みんなが救われるようにということで、エホバの証人は伝道活動をしているのだそうです。

それでも、最終的に多くの人が滅びるというのは、予言されていることなのだそうです。
どのような形で滅びるのかわかりませんが、滅びたあとは、やはり片付けたりきれいにしたりしなければならないはずだとのことです。
そうやって初めて、地球上に悪がなくなり、神に従う善良な人間と美しい地が生まれるのだそうです。

そんな話を聞いていると、じゃあ、この近所に住んでいるひともみんな死んじゃうのかと思ったりします。自分自身もその中に入るわけですけど、仮に生きていると想像して考えて見ます。あそこの豪邸に住んでいる人もいなくなっちゃうのか、などと思います。
空き家ばっかりになるのかな?それは大変だろうな。人がすまなくなると、家ってのはどんどん朽ち果ててしまうものだし、庭にも草がはびこるだろうし・・・などと思います。
道路工事とか建設業に携る人も、生き残った人のなかにどれだけいることだか。そんな社会がなりたつんでしょうか。
まあ、楽園になった後には、過去に亡くなった人が復活してくるという預言もあるので、人は減るばかりではないようですが・・・。

多くの人が滅びたあとどうなるのか、ふと空想してしまいました。
この人口密度の高い東京のひとたちが大部分いなくなったら、もう家なんか選びほうだいですよ。生き残った人間は、その辺にある他人の家の中から気に入った家を選んで住むこともできるんじゃないですか?

でも、そんな変なことを考えると、ひと気のなくなった町のなかで、私は好き放題に立派な家を選ぶでしょうか?
・・・これは恐ろしい空想です。こんなこと考えてはいけないでしょう。

ハルマゲドンとは関係なしに、たとえばの話、「どの家を選んで住んでもいいよ」なんてことがあったとしても、私が立派な家を選ぶのはやはり分不相応だと思います。
私はやはりこの公営住宅に住んでいるかもしれません。
それでも強いて選ぶなら、小さくてあまり新しくない控えめな家を選ぶことでしょう。

それにしても、早くハルマゲドンが来て地球が楽園になってほしいと思うエホバの証人には同意できません。そういう人は、自分は生き残ることが保証されていると思っているから、そんな考えをするのではないでしょうか。

私はやはりみんな生きていたほうがいいと思います。だから、永遠の命なんかいらないし地球は完全な楽園になんかならなくていいと思います。

お金持ちは豪邸に住み、貧乏人は狭い家に住めばいいのです。
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人の家にはあまり行かない

2007-07-25 22:37:35 | 未分類過去
「家見学大好き」と言っても、それは売家に限ります。知人が実際に暮らしている家にはあまり行きたくないのです。
行ったら、今度は呼ばなくてはならないというのも困るわけです。

立派な家に住んでいる人は、とかく呼びたがるのです。
何年も会っていない友人なども、すぐに遊びに来いとか言います。
かわいい血統賞つきの犬猫がいるから見に来いなどといいます。
べつにそんなの見に行きたいとは思わないんですけどね。
何時間もかけて見に行くほどの価値があるものだと思っているのは飼い主だけでしょう。
そして、きっと見たいにちがいないと思って疑わないところがあきれてしまいます。
しばらくぶりに会いましょうなどというと必ず、まだうちを見てなかったでしょうとか、一度しか来てないでしょうとか、うちのペットを見てなかったでしょうとか、そういう話になります。
いや、休みの日に遠出すると疲れるから・・・などと言うと、じゃあこっちから行こうかなどと言います。
(いや、来ないでくれ~)
どこかで、会うんじゃだめなんですかね。
私が日頃親しくしている借家住まいの友人たちは、会うとなると必ずどこかにでかけます。おいしいものを食べにいったり、街をほっつき歩いたり、酒を飲んだりします。
でも、なんか家のある人ってお互いの家に行きたがる傾向があるような気がします。
人の家に行って、貴重な休日をつぶしたくはないのですよ。

そして、だいたい、立派な家に行くと落ち込むわけです。
すっきり広々とした家で高級なカップでコーヒーなどいただいたあと、自宅に帰ってきて、急に片付けなんかしてみても、狭いキッチンはやっぱり狭いし、ちゃぶ台の上にきれいなコーヒーカップのセットなんか置いたって全然サマにならないわけです。
そこで、格差を感じるわけです。

でも、高級レストランで飲んだり食べたりするのなら、そういう落ち込みはないのです。
それは、非日常の純粋な楽しみであって、日常生活を比較することにはならないからですね。

だから、今現在、人の住んでいない売家を見学して住んだらのことを空想する。ここを誰の部屋にし、ここに何を置いて・・・などとあり得ないことを仮想するなら楽しいのです。
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世帯主と住宅手当

2007-07-25 01:14:29 | 未分類過去
今日、会社で話題になったことに「世帯主」というものがあります。
この「世帯主」には給料の中に“住宅手当”がつくのだそうです。

じゃあ、共稼ぎの夫婦であって共同名義で家を買い、ローンを同じだけ分担して払っているときはどうなるのか?
住宅手当、妻も欲しいですよね。借家だって家賃の足しに欲しいです。
しかし、こういう場合も住民票の世帯主だけが世帯主であって、2人が同等だからと2人を世帯主とすることはできないのだそうです。
会社はあくまでも「世帯主」に対して住宅手当を出すのだそうです。
これは一般的にそうなのか、私の勤めている会社がそうなのかよくわかりませんが・・・。

住宅手当なんか無い会社もたくさんあります。うちの夫の場合、今現在も過去に勤めた会社にもありませんでした。
じゃあ、妻が住宅手当がつくような一流会社の正社員で、夫が住宅手当のない会社に勤めている場合、妻を世帯主にしたほうがいいのではないでしょうか?
世帯主というのは戸籍の筆頭者ではないそうです。社会通念上ふさわしいと判断できるような人を世帯主とするもので、住民票の便宜上の問題だそうです。
たぶんおそらく夫が世帯主になっているのが普通でしょうね。

住宅手当を世帯主にだけ出すというのはなんか変なんじゃないかと思います。
世帯主でなくても出すべきではないかなと思います。

これなら、「住宅手当は特に設けていませんが給料の中に入っています」という会社のほうが問題がないような気もしますが、それはそれで結局住宅手当は無いってことです。
「住宅手当」とは、住宅にかかっている経費に応じてそれぞれに算出されるもので、一律いくらというのは本当は違うそうです。

何がなんだかわかりませんが、私はパートタイマーで当然のごとく住宅手当はないし、夫も契約社員でそんなものはないので、関係ないです。
関係ないけど・・・、世帯主だけってのは変なもんだな~と思ったので書いておきます。
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21バックボーンで男を選ぶ女

2007-07-25 00:42:41 | 未分類過去
村上龍 「ダメな女」

この本に関して、2日間書いていませんでした。
この本は文庫本のエッセイ集ですが、考えてみれば、女性月刊誌に毎月連載された過去の記事です。そういう記事に今さらひとつづつコメントをつけていく人もあまりいないのではないのかなと思いますが、まあ、乗りかかった船なので最後まで書こうと思います。
でも、まだ半分も行ってないんですね。がんばろう!

“バックボーンで男を選ぶ女は
ダメな女なのかどうか”

という記事。

概要。
著者村上は、愛があれば結婚生活は幸福かどうかという話を友人としていた。
山一證券に勤めていた男が、倒産を理由に女性から婚約を破棄されたという例がある。
同席していた女性が、そんなのはおかしいと言った。バックボーンで男を選ぶべきではないということだ。女性は村上も同じ考えであると思っていたらしい。
確かに私(村上)はエッセイにそのようなことを書いてきた。(「これまで男は大企業や官庁に、女は大企業や官庁に勤める男に、それぞれ庇護を受けてきたのだが、そういう考え方は古いのでやめたほうがいいのではないか、みたいなことだ。」)
私(村上)はその女性の意見も理解できる。
しかし、友人はある体験談を話し出した。それは病院の会計で幼児をつれた母親が治療費を払えずに困っていたのを見たことだった。こういう状況や、解雇されてローンも払えなくなったような家庭を愛で救うことはできない。
その友人の話では、官僚が地方の有権者の娘と政略結婚をすることが多いという話もした。
そんな話を聞いていて、同席していた女性は結婚が何なのかわからなくなったようだった。
「将来の生活設計」という言葉に、人はどんなイメージをもつだろうか。
村上の意見
「自立すること、個人として生きていけるような経済的・精神的基盤を準備すること、それが大切だという私の意見は変わらない。そういう女性だけが男から選ばれるのを待つのではなく、男を選ぶことができる、という考えも変わらない。だが、生き延びていこうとするとき、愛さえあればその他には何も要らない、という考え方は安易だと思う。」
山一證券に勤めていた男との婚約を破棄した女がダメな女かはわからないが、村上自身はそういう女とは縁がない。
とのこと。

婚約を破棄した女というのは、相手が山一證券という一流会社に勤めているからつきあっていたのだろうか、それならば、倒産したら当然のごとく別れるだろう。
そういう女は、結婚後に相手がリストラにあったり病気になって働けなくなってもやはり別れるんだろうな、と思う。
だが、もし好きになった男がたまたまいい会社に勤めていたのならどうだろうか?
優秀な男、勤勉な男は、いい会社に勤めていることが多いかもしれない。それならば、たとえ倒産して一旦は無職となっても、また別の仕事について能力を発揮できるといえる。
このような場合、婚約は破棄しなくても、結婚を延期することはあるかもしれないと思う。
バックボーンで男を選ぶべきではないと言っても、まともな人間にはまともなバックボーンがある場合も多い。賭け事や道楽で怠けている男は結局いい仕事についていないのは当然である。
だが、たまにバックボーンとその人物の能力とが一致しない場合もある。生まれつき金持ちの家に生まれて後を継いでいるだけのバカ息子とか、逆に能力はあるのにそれを発揮できない逆境にあるひともいるだろう。

いずれにしても、女性が相手の男性の庇護を受ける生き方ではなく、自分個人として自立していることが重要である、ということだ。
まあ、それもそうなのだが、子どもを生む女性はその間は働けないしどうしても庇護が必要だ。結婚相手によって人生が変わることは確かであるなあと思う。
バックボーンだけで相手を選ぶのは愚かだが、それは全く無視するということはできない要素でもあるだろう。
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