初めての「オセロー」観劇は、玉三郎デズデモーナ見たさに1977年の新橋演舞場公演。二世松緑は病気休演で先代権十郎が代役をつとめていたが、一番印象深かったのは辰之助のイアゴー。この芝居のキーパーソンはイアゴーだと刻み付けられた。早世の報道になんて勿体ないと思うことしきりだった。その頃もっと歌舞伎を観ていればと今になって思ってもせんないことではある。
2回目は蜷川幸雄演出の幸四郎オセローをTV録画で拝見。幸四郎はシェイクスピアの悲劇にはぴったり。黒木瞳デズデモーナは宝塚の娘役トップだった人だなくらいの印象。イアゴーの木場勝巳が悪の魅力を見せつける。
3回目は、東京グローブ座の「子どものためのシェイクスピアシリーズ」の佐藤誓オセロー。山崎清介さんの操り人形を登場させる演出が面白いと思った。印象的だったのは登場人物が死ぬとその場で後ろを向かせるという演出。抽象的な舞台にふさわしいと思った。
さて4回目の今回。蜷川「オセロー」としては13年ぶりという彩の国芸術劇場公演の千穐楽。最近は重たい物語はリピートせずに一回のみの観劇としている。劇場が自宅から10分のため、公演中に先に観劇されたブログ仲間さんとのお茶会は2度に及び、充実した舞台の様子はお聞きできたので心構えをつくっての観劇。それでもなかなか消化の上で書けない。秋の花粉にやられるとさらにぐずぐずしているうちに、松岡和子訳のちくま文庫も読了。解説文も役に立つ。皆様の記事も読ませていただき、反芻醗酵してきてようやく書き始めた。
配役は以下の通り。
オセロー:吉田鋼太郎 デズデモーナ:蒼井優
イアゴー:高橋洋 エミリア:馬渕英俚可
ロダリーゴー:鈴木豊 キャシオー:山口馬木也
ブランバンジョー:壤晴彦 他
あらすじは省略。
冒頭のイアゴーとロダリーゴーの会話は思いっきりヒソヒソ声なので全部の客席に届いたのかちょっと心配してしまったが、私は1階のE列だったので全くイライラ感なしで聞けた。友人には不評だったイアゴーの衣裳もロダリーゴーと同様のデザインで貴族でない階層を表した服で役の大きさから素材が革になっているのねと解釈。イアゴーは彼なりに必死に戦場でも働き、地元の名士にも取り入って昇進の口添えもしてもらったのに、貴族のキャシオーを副官に昇格させたことを深く恨んでいることがわかる。今回ここの台詞がしっかり聞き取れたことでイアゴーの深い恨みの感情がどこから生まれたのだろうという問題意識を持ちながら長い長い芝居を観ていくことができた。
吉田鋼太郎のオセローは日焼けサロンでスキンヘッドまでしっかり焼きこんでの褐色の肌が美しい。それをおしげもなくさらす白い布を巻きつけた風の衣裳が似合う。さらに後頭部にはタトゥーまで入れている。これで大竹しのぶの「メディア」も連想。効果があった手法は積み上げていく蜷川組の仕事だ。チラシで見た黒い短いヘアよりも迫力アップのオセローだ。デズデモーナの心を射止めたことを父親に説明するオセローの長台詞。その中でわかるのは、①アフリカの某国の王族出身でその誇りを高くもちながら軍人として力をつけ、数々の困難を乗り越えて今の地位に登りつめたこと、②デズデモーナに出会うまではヴェニス公国において結婚する気がおきる相手には遭遇していないこと、③被差別人種である自分が年齢差を乗り越えて求婚する気になったデズデモーナの素晴らしさ。
この言葉によって元老院議員たちは娘がたぶらかされたというブラバンショーの訴えを棄却する。一方でイアゴーはそれを聞きながら、なおさらオセローを憎んだのだろう。ヴェニス社会では王族とはいえムーア人は白人に並ぶべくもない人種。いくら戦功を積んで将軍になって周囲の尊敬を集めていても、身分の低いイアゴーにとっても同等くらいの人間としか思えていないのだ。その同等の人間のオセローが旗手として一番身近につくしている自分を副官に抜擢しない。実力者たちの口添えも斟酌せずに、貴族ではあるが自分より能力があるとは思えないキャシオーを副官にした。この差別される側という共通性があるはずの人間が自分に対する不当な扱いをしたということへの複雑な憎悪意識!「近親憎悪」に似た屈折した憎悪の意識があることを強く感じた今回の舞台だった。
妻のエミリアをオセローが寝取っていたという噂を聞き、「ヤツならそうするかも」と信じるのは、普段の行いからの判断ではなくてムーア人への差別意識からだろう。さらにその男がヴェニス一の美女デズデモーナをものにしたことも面白くない。そういう憎悪も副官に抜擢されなかったことで悪事の企みとして堰を切った。
デズデモーナを10代の若い娘として演出することがイギリスでも試みられて成功。ちくま文庫の解説やプログラムで翻訳者の松岡和子が「my girl」と呼びかけられる妻はデズデモーナだけとその妥当性を言及している。今回の蜷川演出もそれを踏えての蒼井優のキャスティング。ミュージカル「アニー」で舞台を踏み、蜷川の舞台2度目の彼女は若いのに堂々と舞台にいる。映画「フラガール」でフラを一人で踊る場面でも身体の動きのよさ、舞台の主軸になる力があることを感じたが、ナマで目の前の蒼井優の放つ透明な存在感に圧倒された。これで涙を流されてこれまでの生涯を讃えられたら、オセローが年齢差も肌の色の差も乗り越えられるという説得力のあるデズデモーナだった。確かに舞台での台詞回しとかは稚拙さも否めないが、オセローを動かした魅力を蒼井優のデズデモーナで初めて感じることができた。こんなに若く美しい宝を奪われた父親が嘆き死にをするのも無理がない。最後に彼女の遺体を前に親戚であるロドヴィーコーがその死を語る時にも本当にそうだろうと思えるのだ。
その父親ブラバンショーの壤晴彦の出番は冒頭だけなのに、その嘆きは物語の底辺に最後まで流れて完結するのが見事だ。彼の呪いが成就したようにも受け取れた。また「父親を裏切った娘だ。お前も裏切るだろう」という言葉がオセローを呪縛する。父親の祝福を得ていない結婚に対する後ろめたさとこの結婚に対する自信のなさがこの言葉の切っ先を鋭くし、オセローを苛むのだ。壤晴彦の台詞がベースギターのように響くようだ。
この若い白人の妻への愛はオセローを幸福の絶頂へと舞い登らせたが、長い時間をかけて揺るがぬものへと育てられるには脆弱すぎた。オセローの誇りが強いコンプレックスととともにあったからだ。そのコンプレックスをイアゴーはたくみに刺激して嫉妬という化け物を大きく育ててしまったのだ。
イアゴーの妻エミリアは多分イアゴーよりは裕福な家庭で育った女だろう。貴族の娘デズデモーナの侍女がつとまるには相応のマナーが身についている必要がある。上昇志向の強いイアゴーはそういう女を妻にし、エミリアも前のめりに生きるイアゴーにぞっこんだ。もしかしたら、デズデモーナ同様に駆け落ちでもしての結婚だったのかもしれない。夫に世界をくれると言われれば貞節を投げ出すのも厭わないという女だ。そういう気質をイアゴーはわかっていて、オセローの甘言に乗った妻が不貞を働いたと本気で思い込んでいるのかもしれない。そんな一途なエミリアを馬渕英俚可が好演。
金属製の橋とそれにつながる複数の階段を多用した抽象的な舞台が具体的な場面よりも人物の心の動きに集中させる効果が大きい。
デズデモーナが死の予感とともに歌う「柳の歌」。オフィーリアも柳の下の水の中で死んだが、柳には死のイメージがあるのだろうか。エミリアもともに歌い、女の主従の心は深くつながっていることがよくわかる。
最後の悲劇の場面の大きなベッドにやすむデズデモーナ。ベッドの天蓋から透けるカーテンがひかれている。「エレンディラ」のカーテンのイメージも重なってくる。そのカーテンごしに嫉妬という化け物の生贄となる女の姿が透けてみえるのが幸薄かった結婚を象徴しているかのような感じがしている。
最後の最後まで妻の不貞を信じ込み、妻の言葉を嘘をついたままだと地獄に落ちるぞと警告し、愛する気持ちの残り火を確かめながらも罪を犯した妻を自分の手で制裁することが名誉ある男が当然すべきこととして敢行したオセロー。
鋼太郎オセローが誇り高い行動だったと言い募るところを馬渕エミリアの鋭い舌鋒で真実を突きつけられていく緊迫感もよかった。夫の奸計を見通して見限り、黙れと言われても真実をしゃべる中で夫イアゴーに刺され、女主人を追って「柳の歌」を歌いながら死んでいく馬渕エミリアがけなげで哀れ。
イアゴーは「もう何もしゃべらない」と宣言。心から信じた部下の真実の姿を認めた時、オセローは怒りを漲らせた目でイアゴーの目を見据える。しかしイアゴーも憎悪の目で堂々と睨みかえし、しばし目での対峙が続く。ふっとオセローの目から怒りの色が消える。イアゴーの自分に対する憎悪の気持ちを理解したのだと思う。それぞれのコンプレックスを抱えた者どうしだったこと、そこにつけ入られたことも瞬時に理解したのだろう。そして見事に騙された愚かな男だった自分。「あまりに愛しすぎた」ことが弱点を作り出したことを自覚し、頚動脈を自ら掻ききって、白いベッドの上に横たわる白い衣裳のデズデモーナに寄り添うように白い衣裳を赤い血で染めたオセローが死んでいった。
白と赤の美しい美術的効果はやはり吉田鋼太郎主演の「タイタス・アンドロニカス」とも重なっていく。
そしてイアゴーの高橋洋。オセローとの目の対峙の後、頬を涙がつたっていた。それまで憎み馬鹿にしてきたオセローに自分との共通性を見出されて赦されてしまったことで生きる気力がなくなったとでもいうような脱力感。そう、イアゴーはオセローを憎むことを生きる力にしてきたに違いないのだ。それがなくなり、全てを失ったのだから。
こうして、愛と憎悪の悲劇は幕を閉じる。
人間ってヤツはやっぱりいろんな感情で振り回されて一生を送るんだなぁ。それが幸福であり不幸なのだろうけれど。幸福であり続けることはないものねだりだろう。
写真は公式サイトより今回公演のチラシ画像。
*書き出したらやっぱり長くなってしまった。反芻する中で熟成しきった主観的な感想なので、おゆるしいただきたい。推敲してのミスや間違いも修正・補筆もさせていただいた(冒頭の松竹の舞台も当初1972年と書いたが1977年と確認)。
追記
蜷川幸雄演出作品の感想をまとめてリンクする記事をつくった。以前こちらで決意表明したのにつくっていなかったが、今回の「オセロー」で一念発起した次第m(_ _)m
まだ全文拝読できていませんが,観劇体験がワタクシと同時代というので,つい嬉しくなってしまいました。
ということは,母上さまの膝上観劇?
後々,蜷川芝居の証人になることをご想像にだになさらなかったことでしょう。
昨日歌舞伎座初日で保ちゃんお見かけしました。アップが楽しみです。六条亭さまと,センセならこう書かれると予想立てています(爆)。
辰之助の圧倒的な暗さと目線の鋭さで実にいい舞台でしたね~。あのころの玉様は、まだまだ可憐でね。存在感も薄かったね。でも、このオセロというのは、デズデモーナがひたすら可憐でなければ成り立たない作品ですから特に演技力がなくてもよいのでしょう。
今回の高橋君は、辰之助丈に匹敵するイアーゴー役者と認めます!蒼井ちゃん、今後にもますます期待。この透明感は、類稀れなり!
待ちに待ったぴかちゅうさんの「オセロー」評、とても興味深く読ませていただきました。
私はどうしてもイアゴーよりの見方になってしまったので(笑)、オセローの深い洞察、なるほどなあ、と思いました。・・・あんなに観たのに、もう一度観たくなってしまいました(笑)。
観劇後ご一緒させていただいたお茶会、私にとって、とっても有意義なものでした。いろんな意見をお聞きすることが出来て、あの機会がなければ、「オセロー」は私の中でもっと底の浅いものになっていたかもしれません。ぴかちゅうさんの記事を読ませていただいて、改めてそう感じました。
「リア王」も是非是非お付き合いくださいねv
「愛と憎悪の悲劇」とはまさしく言い得ていますね。
最後のオセローとイアゴーの対峙・・・私もオセローの表情がふっと変わったのを感じましたが、目から怒りの色が消えたところまでは思い至りませんでした。
そう思うとその後のオセロー行動も、イアゴーのあの無表情と涙も納得がいきますね。さすがぴかちゅうさんの深い洞察に、また教えていただきました。ありがとうございました。
ベジャールさんが亡くなくなり朝日新聞に玉三郎の追悼文が載りました。写真集にベジャールのリア王、玉三郎のコーデリアがありました。ぴかちゅうさんはこれもご覧になったのでしょうか。
みなさんそれぞれの感想を読ませていただいて、
わたしなど思い至りもしなかった、この作品の奥深さに、
ためいきしきりです・・。
過去の舞台も含め、もう一度じっくり観たいものです。
わたしは今回思いのほか、蒼井デズデモーナに
感情を揺さぶられてしまいました。エミリアにも。
ただただ、男たちの醜さが悲しくてたまりませんでした。
ほとんどそれしか感想がなくて・・お恥ずかしい(笑)
こちらに足跡はすごくお久しぶりになってしまいました。いつもコメントとTBありがとうございます。
直球できちゃった蜷川版ですね。
原作に忠実になぞる事でシェイクスピアが描いたオセローという人物の悲劇の核がわかりやすく浮き彫りになったと思います。
その部分では、やっぱりシェイクスピア恐るべしですね。人間の深さ、嫌らしさ、人間とはどういう存在であるのか、というのを物語の中で語り尽くしています。
残念ながら松岡版の現代語訳は日本語の情緒がなくてあまり好きではありませんが直球版には合うかもしれませんね。
エミリア役の馬渕英俚可はなかなかよかったですね。
年齢の割りに安定感があってしっくりきました。
★とみ(風知草)様
>母上さまの膝上観劇?......そんなわけはございません。というご指摘にプログラムでちゃんと確認したら冒頭に書いた松竹の舞台を1977年なのに当初1972年と書いていました。さっそく訂正させていただきました。5歳サバ読んだわけではございません。うろ覚えで書いてしまってお詫びしますm(_ _)m
>蜷川芝居の証人......途中で観ていない時期もありますが、蜷川さんが小劇場から商業演劇に出てきたばかりの頃を観ていたので、30年以上たってから同じ作品を手がけられているのを観ると、蜷川さんも成長したし観ている私も成長しているなぁと感慨深いです。
蜷川さんの舞台の感想のまとめ記事をつくるとこのブログで宣言したのにできていません。「覇王別姫」のチケットもとったし、近々アップさせていただきます。
★「薔薇・猫・映画・演劇・旅ファン」のhitomiさま
>母がよく辰ちゃんと言っていた......その辰之助さんは「オセロー」と国立で多分一度、南郷力丸で観ただけとなってしまいました。もっと観ておけばよかったけど、それはもう仕方がないですね。
>ベジャールのリア王、玉三郎のコーデリア......残念ながら観ていません。玉三郎デズデモーナを観て「評判の玉三郎もたいしたことがないなぁ」と思ってしまって(玲小姐さんと同じ公演を別の日に観ています)、玉三郎さんの若い頃をちゃんと観ていないのです。こちらは今から取り返す勢いで観たいと思います!
★玲小姐さま
>辰之助の圧倒的な暗さと目線の鋭さで実にいい舞台......実に的確な表現ですね。遠い目になっちゃいます。
>オセロというのは、デズデモーナがひたすら可憐でなければ成り立たない作品......そこを今回は思い知らされました。そのことがコンプレックスを刺激する説得力を持つのですからねぇ。本当に蒼井優ちゃんのキャスティングは大きかったですよ。
>高橋君は、辰之助丈に匹敵するイアーゴー役者と認めます!......これは最大限の褒め言葉だね(私たちだけ?!)目と目の対峙とそれ以降の芝居が絶品でした。
★★お返事コメントができていない皆様へ
恐縮なのですが、今晩は早く寝ないといけないので、もう少しお待ちいただきたく存じます。よろしくお願いしますm(_ _)m
★「瓔珞の音」の恭穂さま
3回もお茶会をしてしまった今回の蜷川「オセロー」。あらためて充実したオフ会だったなぁと思い返しています。
松岡和子訳も読んで脳内再生したのになかなか書き出せないでいました。腹をくくって昨晩書き出したらとまらなくなって夜更かししてしまい、頭が冴えてなかなか寝付けないという愚挙をおかしました。鋼太郎オセローと洋イアゴーの最後の目と目の対峙が長かった。濃かった。それについて思い出して考えてしまうと脳内でドラマが膨らんでしまい、暴走気味に書いてますが笑わないでくださいませ。
蜷川さんファイナルという「リア王」も千穐楽で再びsakuramaruさんと3人揃います。またまた充実したオフ会をいたしましょう(^O^)/
★「地獄ごくらくdiary」のスキップ様
オセローとイアゴーのあの長い目と目の対峙をさせる演出について「これはなんなのだろう」と思いながらついついご贔屓の鋼太郎さんの目を見ていたら「あっ、怒りの色が消えた!」って感じたんです。「間違いの喜劇」で通路際で鋼太郎さんの目と合ってしまったのでやっぱり目に注目がいってしまうんですよ(^^ゞ
そう思ったら洋くんの涙にすーっと納得してしまったのです。これで蜷川シェイクスピアの悲劇部門のベスト1に輝いてしまいました!
★しろう様
名古屋での大楽も終って久しい今頃のさい芸の千穐楽の私の記事を待っていてくださって有難うございましたm(_ _)m
蒼井優ちゃんはさい芸の初日あたりだとかなり固かったらしいので鋼太郎オセローはただのエロジジイに見えてしまいそうだったという話も聞きましたが、彼女の芝居がよくなるにつれ、本当に愛し合っている夫婦に見えるようになっていったようです。名古屋ではもっともっとよくなっていたのでしょう。馬渕エミリアも一途でよかったし、そのふたりに目が行ってしまうのも無理がありません。
しばらく「オセロー」は封印したくなりました。
★♪~様
>先に平幹のバージョンを観たのですが、平幹版のほうはもう少し抽象的な作りでしたが解釈の核の部分には共通項があり、それはそれでなかなかに魅力的でした。役者さんがやはり平幹版はみな達者だったというのもあって蜷川版はその部分では物足りなかったです。特にデズデモーナ役の三田和代の透明感をもった純粋な存在感は若さだけでは太刀打ちできない輝きをもっていました。
幹の会のシェイクスピアも一度観たいと思っているのですが、見逃しています。「リア王」を観たら平さんのシェイクスピアをもっと観ようという気になりそうな予感がします。「三田和代の透明感をもった純粋な存在感」ってすごいですね。ここの評価は賛否両論を聞いていますが、よかったのですね。TVでオンエアとかしてくれないかしら。
最近BOOK OFFで小田島雄志さんの『シェイクスピアに学ぶ老いの知恵』(幻冬舎文庫)を読みましたが、自分の訳も時代とともに古くなると書いてありました。スピード感のある松岡さんの訳がけっこう好きだし、蜷川さんの演出も好き。ということは好みにあっているということかなとあらためて思いました。