ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

2014/02/08 大雪の日に粉雪を踏みしめながら運命について考えた

2014-02-09 00:59:09 | つれづれなるままに

首都圏で16年ぶりの大雪となり、都心でも積雪が20センチを超したとか。
大晦日に破損した前歯の仮の歯がとれてしまい、午前中に大宮ソニックシティまで行って、ランチはサイエスタへ行ったという話は先の記事に書いた。
その後、近くのスーパーで買い物に行って帰宅途中、近くの公園でもかまくらを作っていた子どもたちが何やら相談中。かまくらは大きい山をつくって中を掘るはずが、おやおや作り方が違うぞと思った。周りの壁を少しずつ積んでいって、てっぺん近くで時間がもうないよ~って相談していた。こういう遊びの技術も伝承がされにくい時代になっているということかと痛感。
冒頭の写真は、帰りにJR与野駅舎の架橋からさいたま新都心方面を撮影したもの。昨年1月の大雪の翌朝の時の写真と比べると、粉雪でけぶっている様子がよくわかると思う。

さて、標題の件。私は長距離走とか、長く泳ぐとか、長く歩くことが好きではない。身体が強くないので、早いペースで身体を動かしてそれで出る脳内ホルモンの快感に身を委ねるということができない。それで半端な速度でそういうことをすると、半端にいろいろと考えつめることを始める。そうなることが怖いのであまり好きではない。
暴風雪という警報も出ていたようだが、粉雪が強い風で吹きつけられる中を駅からサイエスタに向かう中、いろいろと考えてしまった。

私は運命論者である。死刑廃止論の根のひとつもそこにある。殺人などで家族を失った遺族の感情を考えると死刑が必要という主張には運命論をもって臨む。ご家族が乗っていた飛行機が落ちても、震災にあっても、最愛の家族を殺したものを死刑にはできない。その人が死ぬのはそういう運命だからだろうと思う。運命は歯をくいしばっても受けとめるしかない(しかし、あきらめるということではない)。
たまたま相手がわかって、それが人間だったら「目には目を」をいう感情を抱くというのも理解できなくはない。ただし、それを肯定してよいかといえば「否」だろう。遺された人間が心に負った傷はしっかり癒やされなくてはならない。そのために「報復」という手段をとることを肯定するのは成熟した社会とはいえない。未成年者の殺人についての山口の事件のその後の報道などでも、メディアの遺族の取り上げ方がおかしいと思えて仕方がない。メディアの主流も遺族感情をダシにして「未成年者への厳罰化」「死刑制度存続」を後押ししているのが今の日本だろう。
国連の人権委員会から、日本の死刑執行の増加に対して指摘があっても日本人できちんと受け止められる人は多数派になっていないだろう。国際社会では「死刑」を廃止もしくは運用停止をしている国が多数あるのだから、そういう国で社会としてどのように遺族をケアしているのかという情報を共有化して、日本でもしっかり社会システムとしてつくり上げていくべきだと思う。
そして最愛の家族を殺したものの本当の原因を明らかにして、それを繰り返させないための努力、それが社会の権力構造をつき動かさねばならぬときは「闘い」となるだろうが、それをするのが本当だと思う。

さて、私は自分の今の現状も運命として受けとめることにはしている。娘の不登校から始まってずっと向き合ってきた重度のうつ病、その根が発達障害にあったと最近になってわかって、さらに運命として受けとめるしかなかったと痛感。しかしながら、現実的にはかなり苦しい。
必死に相談窓口に通って定期面談をすすめながら、その時点で困っていることの改善ができるようにしているが、気持ち的にもあがいているのが実態。弱音を吐いて支えてもらえるような人が隣にいないことがつらくて泣くことも少なくない。このまま消えてしまえたらいいと思うこともしばしばあるのが本当のところ。
情けない限りだが、こういう自分も最近では肯定してみた。その上で、娘のような存在を社会が包摂してくれるようなしくみをつくってもらえるようにあがき続ける=それも闘いだと思うが、それが私の運命。
粉雪を踏みしめながら、そのことにハッと思い当った。自分の境遇を運命だとあきらめるのではなく、それに向かい合って苦しみながらあがいて闘うのが運命だと受け止めればいいのだ。
そういう中で私に必要な出会いがあったし、傷つけたことも傷つけられたこともあったし、これからもそういう出会いがきっとあるんじゃないかとも。

2/6木曜日は母の手術の関係で執刀医の説明を聞いて必要書類作成で一日休み。テンションを上げて対応せざるを得なくて夜には胃痙攣を起こしてしまった。翌金曜日は娘の面談で半日と仕事を休んだせいで、金曜日に仕事が終わったのは夜遅く。
3月の早い段階で仕上げるプロジェクトに巻き込まれていることもあり、仕事も家族関係でも役割が重たい。これも運命だろう。
週明けからまたいろいろと頑張らなければならない。これで燃え尽きるなら、それでもいい。「前のめりで死にたい」と言ったのは坂本龍馬だったっけかな。


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2 コメント

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Unknown (hitomi)
2014-02-12 07:46:05
お嬢様の事、ご自身の事、人生には辛いことが多いものですね。お察しします。
運命は歯をくいしばっても受けとめるしかない(しかし、あきらめるということではない)。ですね。

私も死刑は反対です。冤罪だけでなく、死刑にしても被害家族は救われないそうですし、大島監督の映画にもあったように国家が殺人を犯すなんて。
もっ外国のように懲役100年とかすればいいのに。どうして日本はこんな簡単な改正が出来ないのでしょうか。

都知事に又女性蔑視者が当選、石原が当選した時、スペインのお城にいたのですが同じ旅行者から聞く聴いて落ち込みました。女性関係、発言に問題もあり反対者の会が出来てますね。尊敬する女性監督の名前が最初に出てきました。

12月から母の事で毎日格闘、疲労感でいっぱいです、なかなか新聞、本も読めず家族中、心と体に異変起きています。

難しい母と夫の間で疲労困憊です、次男もまだ家にいるので疲れます。
その二男が先日の雪の日に救急車を呼んでしまいました。
救急車から電話があり、すわ、事故かと思ったら(1キロの未熟児でした)赤ん坊の時からの持病の中耳炎こじらせ激痛になったと言うことで夫婦で遠い病院まで駆けつける羽目になりました、いつまでもいい年して甘ったれです。こちらがその直前に倒れていたのに。
でも事故でなく私もちょっと回復しました。

ぴかちゅう様もご自愛くださいません。
歯は費用も痛みもともない大変ですね。
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★hitomiさま (ぴかちゅう)
2014-02-23 22:21:25
お返事が大変遅くなって恐縮です。共感のコメントを有難うございますm(_ _)m
死刑廃止を日本でできないのは、日本の多くの国民が人権意識が未成熟なせいでしょう。犯罪者であっても生きて自分の犯した罪についてきちんと向かい合わせて贖罪させるというシステムをつくるためにはそれなりにヒト・モノ・カネをかけなければなりません。そういうことに自分たちの税金を使ってよいと思う人が多くならなければいけませんが、死刑囚にお金をかけて長く生かすことがムダという声が上がるようでは死刑廃止への道は遠いでしょう。
さて、近況です。最近になって澤地久枝さんが鶴彬について書いた文章を読みました。元は『北方文学』1999年冬号に掲載され、2007年2月発行の『発信する声』(かもがわ出版)所収の「反戦川柳作家の生と死」です。
絶版となっていた『鶴彬全集』の増補復刻を呼びかけたが誰も呼応してくれないので澤地さんが決意したのだそうです。満州からの引き揚げの苦しみを原点として戦争の証言を残す様々な仕事をしてくださっていますが、きちんと本を読むのは初めてで、自分の共感・共鳴している気持ちを交えながら証言者の姿を明らかにされていました。鶴彬の生まれ育ちからプロレタリア川柳を提唱するようになるまでの経過にも唸らされました。
『発信する声』の鶴彬についての文章の前が「ヒロシマ・最後の手紙」だったので、私が今取り組んでいる被爆者の証言の記録のボランティアに直結しました。
私の母の東京大空襲をはじめとした戦争体験もこの際、しっかりICレコーダーで録音して記録しておこうかと思っているところです。
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