Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

シューベルティアーデの時期「歌曲と舞曲の作曲時期から読み解く」(No.2466)

2016-02-19 22:02:39 | 作曲家・シューベルト(1797-1828
  従来、シューベルト没後、しかもシューマンが交響曲「グレート」自筆譜を発見してメンデルスゾーン指揮にて世界初演して以降の「シューベルティアーデ参加者の(没後11年以上経過してからの)記憶頼りの文章を基準に書くライターが多い。中には没後30年以上経過した記憶も混ざっている。猫頭私高本は現在56才だが、26才時の記憶は極めて曖昧><

  住んでいたのは、埼玉県久喜市の公団マンションの1階で、勤務していた会社は東京都中央区なことは鮮明なのだが、どの演奏会を聴いたのか? どのCD(またはLP)に感動したのか? などは相当に曖昧。確か、リコーダー に凝っていて、ブリュッヘンの録音や楽譜を購入して今よりもリコーダーを聴いたり吹いたりしていたことは覚えているのだが、どの曲をいつ楽譜を購入したのか? とかどの楽器をいつ購入したのか? なども曖昧><
 今よりも「録音は新譜購入が多かった」ので、CDやLPの発売日付を見て思い出すくらいである(爆

 シューベルトは31才で死んだ。友人は過半数が年上。60才過ぎてから、細かな日付を思い出せるのか? は私高本は、大いに疑問に感じている。不思議なことに、

カロリーネ・エステルハージ(D929 & D940)、ヨゼフィーネ・コラー(D575 & D299)など、実際に作品献呈を受けた女性の回顧録は見たことが無い!


 多くの文章が「老人(or 中年)に至った記憶が曖昧なシューベルティアーデ参加の男性が、「いかに自分がシューベルティアーデ内でシューベルトに深く影響を与えたか!」を熱心に語っている。

シューベルティアーデ詩人の中で 最も名曲となった「夜と夢」D827,「小人」D771,「悲しみ」D772 を作詞した コリーン はシューベルトよりも早く 1824年に没しているし!




シューベルトは「作曲を楽譜出版商に売ることで生活した世界初の作曲家」


であり、

シューベルト自身の記録は99%「シューベルトの楽譜」である! 「自筆譜」「生前出版譜」「没後出版譜」「生前筆写譜」「没後筆写譜」全てを含む「楽譜」である


 いろいろと問題含みな曲もある。だが「シューベルト研究」は『楽譜研究が中心』と私高本は感じる。

 さて、「シューベルティアーデ」について限定して見よう。「年老いたシューベルティアーデ参加者の曖昧な記憶」では 1825年以降 がシューベルティアーデの全盛期 に見えるが、これは完全に「老人の思い違い」である。この点については、私高本が最初に気付いたワケではない。アルフレート・アインシュタイン著浅井真男訳「シューベルト:音楽的肖像」のP100からに記載されている。1963年訳本出版なので、半世紀以上前に アインシュタイン は「年取った友人たちの回顧録が記憶違いが多い」をはっきり実感していたのだ。

シューベルティアーデ最盛期は、1815年「12のトリオ付きドイツ舞曲」D135+D139+D145+D146 から始まり、1824年11月「アルペジオーネ・ソナタ」D821 & 「2つの変ホ長調ドイツ舞曲」D366/17&D783/D8 まで


である。この前にもマイアーホーファー詩「湖にて」D124(1814.12.07) や、この後にも ショーバー詩「狩人の愛の歌」op.96/2 D909(1827.02)などが作曲されているので、活動期間がここだけでないことは明白。だが、

1815 - 1824.11 の10年が「シューベルティアーデがシューベルトの作曲エンジンに火を灯した


ことは間違いない。

「ゲーテ詩作曲集中時代」「ピアノソナタ作曲集中時代」「オペラ作曲集中時代」「自作歌曲変奏曲集中時代」


と軸は転々とするが、一貫して「シューベルティアーデ友人の詩に作曲」「踊るための舞曲を作曲」していた。
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