ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

『遺言』原発さえなければ@京都シネマ

2014-06-22 00:27:45 | 映画感想
フォトジャーナリスト豊田直巳さんと野田雅也さんによる、東電原発事故から2年余り、放射能によって著しく汚染された飯舘村の人々を中心に追いかけたドキュメンタリー。

もっと詳しい情報はHPに任せて(^^)。
ちょっと考えたことなど。

上映時間なんと225分!
昔見た園子温監督の「愛のむきだし」が237分だったから、儂が見た映画では2番目の長さです。
休憩も入るから4時間弱の長丁場。森達也さんは、「原発の映画でこの長時間で安いわけでもない、見に来るなって言っているようなものだよ」と宣ったとか(^^)。まぁ、ふつー怯むよなこの時間映画館の椅子に座ってて、って言われたら。

でもね、愛のむきだしの時もそうだったんだけど、長時間だという事には当然理由があるし、結論を言えば結局どっちの映画も時間の長さを感じさせなかった、っていうのは正直な感想ですよ。

儂のクダラナイ分析。

原発事故が起きてから三年。撮影期間で考えても二年。
数字で見ると大した時間じゃないように感じられる人もいるかもしれないけれど、あの事故の影響を蒙って故郷を追われた人たちにとってはどうだったかってことを想像してもらったら良いと思うんですよね。
映画自体が「第一章〜第五章」という構成になってだいたい時系列になっている内容を見てもらえばわかると思うけれど、事故が起こって、汚染されて、情報に翻弄され、無念のままに故郷を後にして、までいな暮らしを奪われて、みんなバラバラになり、ついに命を断つ人が出るまでに追い詰められ、それでも想いを繋ごうとする人たち。
2年という時間の中で起こった出来事を2時間に収める事は出来るにしても、時間とともに変化していく人々の気持ちを感じるにはとても足りない時間なんじゃなかろうか。いや、勿論4時間でも十分だとは思わないけれど、けれどもその時間の重みとともに気持ちの変化を感じられるかもしれない。

福島の人達に突きつけられた苦しみに少しでも近づく為の4時間。

もう一つの特徴はナレーションも音楽も無し。
淡々と福島の人達にカメラを向けて追いかける。ただそれだけ。
共同監督の豊田さんが長谷川健一のうちで飲みながら泣いちゃうシーンとか、フツー映画に入れちゃダメだろ、って思うんだけど、対する長谷川さんもグダグダだったり、素なんだよなー。

そこにあるのは飾らない、素の福島の人たちの姿。

それはね、決して特別な「被災者」じゃないんだ、っていう事でもある。
自分たちとなんらかわらない地続きの土地で、自分たちとなんらかわらないたくさんのおっちゃんおばちゃんにーちゃんねーちゃん子供たち。その人たちの身の上に起きている事は絶対的に人ごとではないんだよ、っていう事を感じてほしいなと思う。

映画のタイトルは「遺言」

自殺した酪農家の菅野さんが堆肥小屋にチョークで書き残したメッセージが頭に思い浮かぶけれど、それだけじゃないのかもしれない。
というか、それだけにしてしまったら勿体ないんじゃないのかな。

ラスト近くでは新しい農場を手に入れ酪農を再開しようという酪農家たちの姿がある。
人は希望がなくては生きていけない。この映画が最後に映し出すのは希望であり、それでもこれからも福島を生きていかなくちゃいけない私たちへの「遺言」なのかもしれないな、と思います。

今を生きるとは、過去を感じ、今を見据え、未来の希望の為に生きる事。

それが、この「遺言」であると。

ええ、まぁ、儂の取るに足らない解釈です。

近くで上映があれば是非
http://yuigon-fukushima.com/theater/

『遺言』原発さえなければ@京都シネマの画像

『遺言』原発さえなければ@京都シネマの画像