ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

THE COVE@京都シネマ

2010-07-09 14:35:28 | 映画感想
ここ数日、テレビなどでも話題にされることの多い「ザ・コーヴ」
見てきました。



まず、この映画が問題にしているのは「イルカ漁」ですね。
もちろん、クジラ類のうちのイルカ、という位置づけだからクジラ全体やIWCの問題に言及することもあるけれど、基本的に映画が主張したいのはイルカの事に限定される、としておかないと、ただでさえややこしい問題が輪をかけてややこしくなるかなと。

いろんな問題があるのは承知だけどねぇ、思っていたよりも(?)、立派な映画でしたよ。映画としては見ごたえありました、うん。
「こんなんドキュメンタリーちゃう」っていう意見もあるようですが、いやいや、充分ドキュメンタリーでしょ。いちおう実際にあった事を追っているのだから。作成者の意図が入らない映画じゃないとドキュメンタリーじゃないなどと無茶な事を言う人もあるようですが、そんなんあり得へんというのは。以前「靖国」を見たときに書いたとおり。問題とするのがその手法についてなら話は別だけど。

因みに儂は、映画を見た後でも「捕鯨」には賛成だし、鯨の肉も好きですから食べます(って、年に一回食べられるかどうかっつー程度なわけですが)。

そんな前置きをしつつ、映画の事。

論点は2つかな。

一つは(場合によっては人間以上に)知的生物であるイルカを虐殺している事についての告発(<ここでの表現的な異議申し立てはあるにしても、ちょっと許してね)

もう一つは、捕獲したイルカの肉を鯨肉と偽装して販売している事と、イルカ肉に含まれる有機水銀の危険性に対しての告発。

まず、一つ目。
たとえば、「知的生物であるイルカを殺して良いのか?」というレトリックは、捕鯨問題でも繰り返されてきたもので、んじゃぁ、(知的生物ではないと暗に彼らが言う)牛や豚はいいのか?というように、動物に優劣をつけることについての問題と、鯨だけでなく猿食文化とか犬食文化とか、多くの異なる食文化にとって多分に感情的なものになってしまう問題、基本的にはそれだけでは既に議論にならない幼稚なものだと思っていた。突き詰めると最後には肉食はすべからく問題になり、果ては、植物まで(生きているのだから)食べられなくなる。行きつくところは絶食による自死だ(あ、極論ですよん)

が、どうなのだろう、
そうとも言い切れないのかもと映画を見て思うようになったのだな。
映画に出てくるリック・オバリー氏は「わんぱくフリッパー」(うん、儂も見てたなぁ)で、イルカの調教を担当していた人で、10年間イルカ調教の第一人者として活躍しながら、その後40年近くは逆にイルカの捕獲や調教に反対し、イルカを解放するためにかなり過激な活動を続けているという人。世界中のイルカショーではイルカはストレスに苛まれ、餌には胃薬がつきもの(あ、その話はどっかで聞いたことがある)。人間の欲望の為に、知的なイルカは苦しめられていると主張する。
また、この映画の告発に参加するフリーダイバーや、インタビューを受けるサーファーたちは、イルカをコミュニケーションを取れる生き物だとして、感情的にイルカにコミットメントする
成る程、彼らにとってはイルカは意思疎通のできる友達であり、牛や豚は意思疎通が出来ない家畜でしかない。

明確な線引き、それは意思疎通できるかできないか。か?。
たとえば、イルカと人間が完全に意思疎通出来るようになったとしたら、それでもわれわれはイルカを殺し、その肉を食べることが出来るのだろうか?と考えたら、強ちこういう考え方で反対することを感情的だ、と切り捨てるわけにもいかないなぁ、と思いいたる。まぁ、牛や豚は最初から意思疎通できるわけないさ、なんて思っているから安心してこういう事が言えてしまう残酷さがあるわけだ。(ゴメンね>牛さん&豚さん)。
#「家畜人ヤプー」では日本人は家畜だから、白人は日本人を食べることを当然と思うのだな、あ、これは余談

しかし、彼らをしてもこの映画の中で、伝統的なイルカ漁に反対するとか、イルカビジネスそのものを糾弾するというような主張を強くしているわけではない。
主眼はそこではなく、まさに映画のタイトルでもある「入り江」での「虐殺」についてである。んと、感情に訴えるのがメインの作りなんですね。
入り江に追い込まれたイルカたちは銛で突かれ殺されていく。「一頭も逃さずに」と強調したところから読み取れるのは、本当にそれだけの(年間2万余頭もの)イルカを獲る事が必要な事なのか?という問題提起だ。

そもそも入り江は何故かくも厳重に関係者以外の出入りを禁じているのか。
これに関しては、かつてシーシェパードが漁に使う網を切るという行為があって、他者の立ち入りを厳重に禁止するようになったという経緯はあるのだけど、映画では触れられないし、それを差し引いても異常に見える。ふふふ、この先には何かあるにちまいない、うーん、映画的な期待感をそそるにぴったりな舞台装置ではあるまいか。
日本人的な感覚からすれば、この入り江の中での(映画でも最終的には盗撮され、スクリーン上で公開されてしまう)情景はやはり残酷に映り、反捕鯨団体の格好のターゲットにされると懸念されたから、(シーシェパードの事もあって)先んじてそーゆー輩が入らないようにしよう(悪く言うと隠匿しよう)、ってな感じなんだろうけど、それが、逆に映画で撮影される事で良からぬ事をやってるという印象バリバリになってしまったというジレンマ(苦笑)

>浜の人たち(漁師だけでなく役場や警察までグルになって)は悪い事をしている
>悪事が露見しないように、厳しく立ち入りを禁止
>中では残酷なイルカ漁
>イルカを年間2万頭獲っているという事実、印象が悪いだけではなく、多くの日本人にも知られたくない秘密
>イルカの肉を鯨の肉と偽装して販売しているという秘密、その1
>しかもイルカ肉には有機水銀が多量に含まれているという秘密、その2
>それでもイルカ漁に賛成ですか?アナタ。

というのがだいたい映画の流れかな。どうわかりやすい?

さて、ここまでが、映画のみから受け取られた印象。

問題とされるべきなのは物事の信憑性と、妥当性、それから演出の問題である。

面白いのは、IWCでの日本の活動を揶揄したり、プロパガンダの話をしたりするのだけれど、それが同時にこの映画自体だって完全なプロパガンダでしょ?という事を想起させること。
最近、目から鱗が落ちた表現なんだけど、「政治とは、何が正しいかではなく、何を正しいと思わせる事が出来るかだ」なのだと。
わかっている人も多いと思うのだけれども、特にIWCなんてのは、この政治ショーのとてもわかりやすい例ですよね。そこで話し合われる内容は、何が正しいか、ではなくまさに、何を正しいと思わせるか。それをアピールするために国からNGOまでこぞっての大プロパガンダ大会。如何にデータを加工し、如何に世界の感情に訴えるかを競うゲームの場ですよねぇ、言ってみれば。
そんな指摘をするという事は当然この映画もそれを狙っているものであることは容易に想像がつく。

たとえば、肉の偽装について「太地町はそれに対して水産庁の調査によっても、そのような事実はないと」しているし、イルカの水銀の含有量2000ppmについても「調査結果にはバラつきがありイルカ肉すべてが高い数値であると限」らないと注釈をつけている。自分達に都合のいいデータだけ取り上げてそれだけを示すのは、情報操作の常套手段だ。日本の上映では最後に上記のテロップがつくが、諸外国の上映時には当然つかない。言ってみれば日本は言われっぱなしよねぇ。
ちなみに鯨類に含まれるPCBと水銀のデータと厚生労働省の見解2000ppmなんてどこにあんねーん!?

IWCでは、中南米の国なんかに対して、あからさまに日本が金を出して票を買っているというような感じで表現されて、いたが、これについても、明確に否定する報道がされていたように記憶している。
まぁ、勿論、日本は多く後進国に対して政府開発援助もしているわけで、それで小国の票を買っていると言われてもねぇ。。。
#資金援助によって作られた施設が生かされていない件はまた別件

また、イルカは年間2万頭漁獲されていると繰り返されているが、太地で獲られるのはそのうち1割にも満たないらしい。一番漁獲量が多いのは岩手の沿岸部。そーいえば、それも昔聞いたことがあるような気がするな。太地町をあげつらうのは何故か?
#それはスケープゴートとか象徴とか置いた方が攻撃しやすいし、運動は盛り上がるし♪

水産庁の職員が、「現在は、イルカをなるべく苦しめない(?)をしている」と主張してるが、隠し撮りした映像では、銛で突いてる姿だけが映り、職員の主張には説得力が感じられない。たとえ、それが正しくても、主張が弱められて見えるのだ。

ところで、思い至ったのだけど、イルカも鯨類なのよね?体長で区別している程度らしい(wikiにそう書いてた)。ならば、イルカを鯨肉とするのは、問題?なの? にゅにゅにゅ? 
同じくwikiのつづきでJAS法上では、「ミンククジラ」「イシイルカ」などと表示する必要がある、が単に鯨肉として市場に出回る事もあるようである、としている。
軽く検索かけたけど、実際のところどうなのか資料になるようなページが見つからない。

儂的には、有害物質が問題ないとなれば、おいしければ食べたいというのが正直なところなのでね。鯨でもイルカでもかまわないかな。 イルカ?うん、かわいいけど、ブタだってかわいいもん!でも食べるもん!
#そーいえばイルカって「海豚」だ!

そして、なんつったって演出の問題。

オープニングから、サスペンスドラマ?と思うような音楽、そして、白黒反転させた映像が流れる。うごめく人々はまるで悪の組織の構成員かと見紛う怪しさ、築地に横たわるマグロは異様さ満点そしてマグロに鉈を振り下ろすシルエット、きゃぁ~~ジェイソン
。いやいや、かわいい筈のイルカちゃんまで、とても恐ろしいですけど!!!オープニングからしてこれである。
太地の町に入ると、常に尾行される撮影隊、警察や町を挙げて監視されているとアピール、そして乱暴な言葉で粗雑な感じで荒々しく撮影隊を妨害する漁師たち!うわー、なんか嫌な感じの町~!って思うでこれ。

なんでも、撮影隊はこういう映像を撮るために漁師さんたちを何かと挑発していたという話を聞いた。そこらへんはどっかにきちんと書かれているわけではないから若干信憑性に欠けるんだけど、でも本当に映画のように警察と町が彼らに張り付き、漁師たちも敵意をむき出しの悪感情があったとしたら、深夜とは言えあんな風に撮影に及べるものだろうか?なんか不自然に思えて仕方なかったのだが。

そして、「日本人も知らないイルカ漁の実態、これで伝統と言えるのか!?」に繋げる街頭インタビュー。インタビューなんて、それこそ都合のいいとこだけ切り貼りできる、世論を誘導するのに最適な手法の一つなわけですよ、これが。
#まぁ、イルカ漁については(儂も含めて)本当に知らなかったというのは偽らざる事実なんだけど。。。(苦笑)

映像の最後に、血に染まった入り江が映っているが、これがなかなかにショッキングな映像。太地町の漁協は「海が血で染まるような方法の漁は今はやっていない。」と言っている。じゃぁあれは何?殺すために流したのではなく、その後の血抜きだ、というコメントもどこかで見たけれども、映像でみるインパクトの強さは覆すのが難しい。

しかし、うだうだ言ってもどうしようもない。編集されて世に出てしまえば、見る人にとってはこれがすべてであり、それこそが真実なのである。
これは映像化する狡さ。

ずるさ?強さか?

映像に映っている以上は真実であり、その一つ一つは間違いなく起こっていた事実を捉えている以上、ドキュメントであると言われればそうなんだと思う。たとえ、仮にその直前に撮影クルーが挑発していたとしても、乱暴に撮影隊を追い払っていたのは紛う事無く事実なのだ。そう、問題は編集の仕方である。フィルムの切り貼りによっていくらでも映像は変えられるのであり、これこそ、映像メディアが持っている最強の武器なのではないかしらん。
意味ありげに「車がついてくる」と言って駐車場の車を映せば監視されているようだし(実際されてたんだろうけど)、IWCの会合に出席している森下さんのニヤリとした表情は悪だくみをする悪の首領のようだし。
本編中でも築地市場のマグロの競りが出てくるけれども、我々日本人やしマグロだとわかるけど。どうなんだろう、イルカの話をしているのに、なぜあそこで築地のマグロを出した?早回しで流される映像は、次から次へと床にぞんざいに並べられては消え、大量に垂れ流されているイメージ、イルカもそんな風にぞんざいに扱われているかのようなイメージを演出したのではないか?

メディアリテラシィ。
多少でもそう言った映像のトリックとか、レトリックの罠とかを気にしていないと、ついつい見逃してしまう事というのはとてつもなく大きいのだ。
映画を見ている観客がみんなそんなに用心深く映像をみているだろうか?
今回の報道で穿って見がちな日本ならまだしも、そんな情報のない世界で、である。

ちなみに、映画に対して、どのような態度をとっているのか、ちなみに和歌山県が見解を載せていました。が、水産庁とか太地町、同町漁港では特別なコメントは見えず。流石に小さな町でそんなんでけへん、とか頷けますけど。
たかが商業映画に目くじら立てるなんてとか、ナンセンスな相手にまっとうに対応する愚とか、まぁそういう考え方はあるんだけど、どうだろう。だからといって、反駁しなくてよいものだろうか?これは、プライドとか正義の問題じゃなくてね、そう、これも政治の問題。

訴える相手は、別に制作会社や国ではないのだ。映画を見る一般大衆にむけてである。
鯨保護運動は、鯨の歌声からはじまった。そう、民衆への働き掛けは文化的に心情に訴えかける事でかなりの効果を上げるのだ。その点で言えば、残念ながらこの映画は大変優れた映画なのだろうと思う。
「正しくない事を、正しいと思わせる」事に長けた、プロパガンダ映画。それがわがもの顔で流布しているなんて、ちょっと悔しい。。。ぐらいでは済まない事になるのでは、と危惧するんだけどどうだろ。

ベストの方法は対抗して映画を撮ることなのだけどな。。。。
C.W.ニコルさんの「勇魚」とかどうだ? <うーん、読んだの20年くらい前だから、内容全然覚えてないけど(をい)

おそらく、イルカ漁に問題がないわけでもないのだろう。
たとえば、2万頭というイルカが年間獲られているのなら、そのイルカはどこでどう使われているのか?鯨肉とされていないのであれば、イルカ肉としてはたして流通しているのか?答えは出ていない。

私たちがもっと関心を持つ事で、実際のイルカの利用価値もわかるし、鯨の問題だってきちんと議論できる。国民が鯨の事に無関心なのに、国はIWCで捕鯨の再開を訴えることはできない。

問われているのはやっぱり我々の態度なんだろうな。