ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

CANTA! TIMOR@かぜのね

2010-07-31 20:13:40 | 映画感想


ソウルフラワーユニオンのツイートで紹介されていた映画の上映会があったので行ってきた。

「CANTA! TIMOR」

名前だけからして、東ティモールの映画だなー、という事しかわからず。それでも行く無謀な儂。
ほとんど思いつきで行ったのだけど、いやー、参った。
実は要予約だったり、行ってみたら、どこそこのNPOやってます、みたいな人とか、どこそこの大学でほにゃららの活動していますとか、んー百キロ歩いていますだとか、なんだかすごい人たちが集まっていて、あたしゃ場違い感丸出しで恥ずかしかったわいな。

これまた、後でわかったのだけど、今回はまだ試写会なんだって。
のはー、いやー、ちゃんと確認せんと、すんませんっすんませんっ。こんなのんぽりな儂を受け入れていただきありがとうございます、って感じです。
#まぁ、別にぱんぴーが行っちゃけない訳でもないのだろうけど。。。

まぁ、そんな感じなので、あんまり内容とかにも触れるわけにはいかないのだけれどもね。

むむむむ、、、どうしよう。
そんなに簡単に感想言って、ハイ終わり、なんていうシロモンじゃぁないんだな、これが。

でも簡単に映画の内容を(苦笑)

映画の中心にいるのはヘルデール・アレックス・ロペスという、東ティモールのミュージシャン。
フォークギター一本抱えて、常に子どもたちと歌う彼が話のとっかかりだ。
監督の広田奈津子さんが、東ティモール独立の式典で出会った「星降る島(オーマルシーラ・オーウルシーラ)」という曲を通してみる東ティモール。インドネシアによる侵攻の為に、3人のうち1人の割合で虐殺されたという東ティモールの人たちの、戦いと今を追うという内容。

映画の内容的にはそんな感じだけど、、、、
どんな感じやと思う? そういう映画?

東ティモールは、四半世紀もの間インドネシア軍の侵攻を受け、人権を蹂躙され、多数の犠牲を出した上でようやく2002年に主権を回復する。日本でも大きく報道されたけれども、1999年の独立を問う住民投票で、独立が決まった直後のインドネシア軍の侵攻の酷さも凄まじく、この時には家々の9割は焼かれたと、映画は言う、それはたった10年ほど前の出来事でもある。
重ねて、二十数年に渡るインドネシア軍による虐殺や酷い仕打ちの数々は映画の中でいやという程触れられる。生々しい証言、実際に拷問された体、ドキュメント映像。

どう?
暗く、重たい雰囲気の社会派映画!?
そう思うな、と言うのは無理だよね?

確かにテーマは重い。内容的に辛い部分も多い。目をそむけたくなるようなシーンも出てくる。社会的な映画である事は間違いない。

なのに。
なのに、なんだか明るいのだ!この映画!

はじける子供たちの笑顔。
大地を踏みしめ踊る人々。
独立の立役者であるシャナナ・グスマン大統領でさえ、どっかの陽気なおっちゃんやん!

音楽をテーマにしているという点も大きいのだけれど、それだけじゃぁない。

虐げられ、踏みにじられた人々。
彼らが語るのは、辛い思い出でや肉親や友を亡くした悲しみではあっても、うん、違うのだ。

それは辛さや悲しみではあっても、自分を谷に突き落とした上に剣を突き刺していった、インドネシア軍兵士に対する憎しみでも、国際世論の高まりにもかかわらず、インドネシアの東ティモール侵攻を熱心に支持した日本への恨みでもないのだ。
「恨んでないし、憎しみもない。」 驚くほど明確に否定する彼ら。

「そんなん、日本のカメラを前に気取ってるだけちゃうん?」
そんな穿った見方も出来る。
そんな事を言うのはカメラに映る一部の人なのかもしれない。
#コーヴでも触れたようにそういう事ができるのがドキュメンタリーだし。

しかし、そんな風に断ずるには、あまりにも彼らは純粋に見える。

結論付けるには早急だと思うけれども、彼らの考え方の根底には土俗の民間信仰の存在があるようだ。
何度か出てくる、東ティモールの人々が語る精霊の話は、日本で語られる妖怪話と同じだよね。悪さをするやつもいれば助けてくれるのもいる、とか。夜にふらふらしてたらさらわれるとか。
日本でも昔から語られる森や大地と言った自然に対しての畏怖の表れと何ら変わる事がないのだけど、すっかり近代化ナイズされ、そんな話を鼻で笑うようになってしまった日本人と違い、彼らは今もその隣に暮らしそして信じ、それを自分たちの力にしているのだ。
ダンスにかぶれていたグスマン大統領でさえも!
二十年余りの戦火の中でも、実際に森に助けられた経験と、最後には独立を勝ち取ったという事実が、その大いなる存在を確固たるものにし、だからこそこれだけの困難をこうむりながらなお、憎しみや恨みを乗り越え平和を希求する勇気を彼らに持たせるのかもしれない。

憎しみや恨みは報復やテロを生み、悲劇を加速させるだけで何も生み出しはしない。

聡い人ならもうみんな気付いている、こんな当然な事だけど、その当然な事をするのがどれほど難しい事なのか。それも皆わかっているから、なかなか言えない事でもあるのだ。
ましてや、人々がそれを血肉化するなんて、どれだけ難しい事か!

が、しかし、
それをいとも簡単にやってのける文化がここにあるとしたら?
世界はオバマ君の核兵器廃絶宣言に期待するよりも、この文化の知恵を研究し、学習し、修身する事の方がなんぼか世界平和に近いのではないだろうか。

日本はかつて、インドネシアの東ティモール侵攻を多くの国が非難した時も、一人インドネシアを支持し続けた。油田の利権の為ともいわれる。直接軍に手を貸したわけではないけど、日本の円借款がインドネシアにでかい顔をさせた事は間違いないのであろう。その犠牲者が東ティモールである。
しかし、その事実を知りながら彼らは言うのだ
「ここで起きた事はヒロシマ・ナガサキと同じ。同じ痛みを知っている日本だから、これから一緒に平和を作って行きたい」
さぁ、我々はどう応えるべきか。
どうして、自分たちの恥を素直に認めてその声に応えないでいられるものか?

難しい事じゃぁないのだ。なにしろ

「世界中に、戦争をしたい人なんていません。武器を売りたい人たちをのぞいて」

その通り!
おおお、なんと簡潔に物事を言い当てるのだろう!

目を覚まさなあかん。
戦争につながる全ては武器商人(とそれに連なって利益を得る政治家やらなにやら)の宣伝工作でしかないのだ。
踊らされて戦争に協力し、駆り出され、死んでいく愚かな一般大衆は何も得る事は無い。残念ながらね。賢い武器商人たちだけがウハウハするだけさ。
賢くなろう。大丈夫、私たちには大地の精霊がついている。
簡単な事さ、怨まない。憎まない。

宗教の定義をね、ちゃんと考えなおさなくちゃいけないと思うのだ。
所謂きちんとした宗教じゃなくても、元から人々に根差した(便宜的に使うけど)土俗的な宗教観というのはもっと、重視しても良いのではないかね、やっぱり。
現代の日本人だって、そう考えたらちっとも「無宗教」なんかじゃないんだよ、やっぱり。

「ティモール・ロロサエ」
東ティモールの人たちは、自分たちの国をこう呼ぶ。
「ティモール・陽が昇る場所」という意味なのだそうだ。

そして私たちの国は「日本(ひのもと)」。
かつて聖徳太子は「日出ズル処」と呼んだとか。

東ティモールなんて、馴染みがないから遠いところのように感じる人も多いだろうけど、なんだろうこの共通の感覚は。彼らの考えている事にこんなにも共感できる不思議。根源的な部分で繋がっているかのような安心感なのか。

文化人類学的にどうのとか、難しい事はわからんけど、どうやらどっか根っこでつながっている彼ら、兄弟のような国の平和を願い、それと同時にこの日本も含めた世界の人々の平和のために出来る事を考えるのに、何か問題ある?

お国はどうやら東ティモールにあまり積極的にではないみたいだけど。。。。
まぁ、おエラ方が自分たちの利権の為に考えてる事なんてさ。
そんなもん知らないねー☆