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ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

「日本が滅びる前に-明石モデルがひらく国家の未来」(泉房穂著)

2024-04-24 15:31:05 | 読後感想など
言わずと知れた(?)元明石市長、泉房穂さんの著書。

あぁ、なんてわかりやすいんでしょう。
そして、なんでこのわかりやすい事が国レベルでできないのでしょう?
さらに、全国に広がりつつあるとは言いながら、我が市ではそれに程遠い市政が罷り通っっているのはなぜなのでしょう?

耳触りのいいスローガンは、本質を見えにくくしがちだけれど、泉さんの言う
「冷たい社会をやさしい社会に変えたい」
という言葉は、おそろしく素直に儂の中に入ってくるのだ。

んー、多少クサい言い方を許して貰えば、泉さんに本気を感じるからなのじゃないかな。
国政で見られる多くの政治家には感じられないものを泉さんには感じている。

で、その信用が何よりもちゃんと結果を出しているところに裏打ちされているわけさ。
人口増と税収増。そして、住民の満足度。

泉さんのやった政策はいくつもあるわけだけど、とりわけわかりやすく言うと子どもたち、子育ての政策を重点化したことと言っていいのだと思う。

儂がいつでも嫌気が差すのはゼロサムで話をすることだ。
子供のためにお金を使うのなら、老人福祉は削るのだろう?とか経済政策はおざなりになるのだろう?とか。
違う。
もうそんな批判、ほんまにいらん。後ろ向きにならざるを得ない、そんな楔を打ち込むことに一生懸命になることにどれだけ意味があるのか?
政策は短期的な効果で見るものではない。

経済政策の話をするときに、よく経済効果とか波及効果とかいうじゃない?
実際にそういうものはあるのだろうし、それは経済(お金)の話だからお金をかけることによってさらに経済効果が高まるという話で理解されやすいのかもしれない。
けれども、それはさ、経済だけに通用する理屈ではないわけさ。
子育て政策にだってその話は通用する。というか、それ以上に波及効果は大きいんじゃないかな、と思うわけだ。

多分、それがなかなか受け入れられにくいのは効果が出るまでのタイムスパンが長い、と思われていることもあると思う。
いくら子どもたちにお金をかければ大人になった時にベネフィットがあると言ったところで、何年後の話やねーんとなる。それよりも、企業誘致した方が早いんじゃね?みたいな。

でも、実際には明石市は子育てを重点化することで、その効果を数年で出している。
まぁ、社会増が多いというわけだけど、それだって子育て支援策に惹かれて転入してくる人たちの存在があるわけだから無視できないわけで。

そして何より大事なのはおそらく市民の納得感なのだと思う。
つまり、子育て政策を重点化するというのは、決して他をおざなりにすることではない。長いスパンで見た時にこの社会全体にとって最も恩恵をもたらす可能性の高い政策が子育て支援なのだ、という説得ができるかどうか。
そういえば、子育て支援政策で有名な岡山の奈義町なんかでも、最初にしたのは町民に向けてのそういった説得だった、みたいな話を聞いたことがある。奈義町の場合は過疎という切実な問題も大きかっただろうから単純に並べられないのかもしれないけれど、でもそれって住民に近いところにある地方自治の基本の部分なんじゃないのかな。
いや、国レベルだってそうか。政治の説明責任と国民の納得、まぁそれが今の日本の政治にできているとは思えないけれど。

本当は難しいことはいらんねん。
泉さんに倣おう。曰く
「1、すべての子どもたちを、
 2、まちのみんなで、
 3、本気で応援すれば、
 4、まちのみんなが幸せになる」
って。

あーもう超絶わかりやすいやないか!
もうこれ読むだけで涙が出てくる。
声に出して読みたい日本語や。齋藤孝さんに推薦するわ。
そんなんでほんまにみんなが幸せになるんか?
いや、なるよ、なるってば、なるやろ?
儂、おかしいか?(笑)

泉さんは繰り返し言う。
子ども政策の実現に増税は必要ない、と。
予算の適正化をすれば十分財源の捻出はできる、と。
全くもって同感だ。
この国の金の使い方はどう考えたっておかしい。
同様に、地方の金の使い方も然り。
もっとも地方の金の使い方には、地方交付税とか国庫支出金とかあったりとかの難しさもあるってのはわかる。
わかるよー、市役所の人たちが市民の方じゃなくて府とか国の方向いて仕事してるの、めっちゃわかるもの。
そういう財政の適正性とか言い出したら話が終わらないのでやめておくけれどさ
(っつーか、ややこしすぎて儂には追いつけん)

でも、これだけは言っておきたいな。
防衛費の増額はいらん、その分全部子育てや教育に回せ!ほんまに。

いや、もう一つ言うとさ、当然単に金をかければいい、って話でもないのだよ。
岸田さんが言い出した異次元の子育て支援。そしてその後に政府が打ち出す、異次元の的外れな政策の数々。
これから結婚しよう、子どもを作って豊かな将来を築いていこうと思えるようなメッセージなどほとんどない。
うちら、子育て世代が安心して子育てを続けられると思う社会を実現するために必要な施策などほとんどない。
そう。大事なのはわしらのモチベーションを上げる政策なのだ。金の多寡の問題じゃねーよ。
泉さんにできて、国にできないわけがない。
為政者が本当にこの国の将来のことを考えているのならね。

もちろん、お金はもっとかけるべきですよ。子は宝、国の宝に金かけるのは当然やんか。
せやろがい!


「情報公開が社会を変える─調査報道記者の公文書道」(日野行介著)

2024-02-09 00:08:45 | 読後感想など
いや、みんな情報公開請求しよう!
マジこれみんなした方がいい、っつーかせなあかん気がする。
実は、儂も読む直前だったんだけど生まれて初めて公開請求したところ。
実際のところ、するだけなら本当に簡単なのだ。
だからやろう。

実は、情報公開請求の話はおしどりのマコ&ケンさんの講演を聞いた時に、その中で言っていたのを覚えている。あぁ情報公開請求っていうのをやると、いろんな事実を突き止められたりできるのだな、と思ったのだけどなかなか自分で実際にするというきっかけを見つけられずにここまできてしまったのだ。

日野行介さんのこの本は、大竹まことのゴールデンラジオで紹介されていてそれで知った。
ラジオを聴きながら、「あそうだ、情報公開請求してみよう」と突然思い立ったのだ。

儂も自分なりに、色んな事で署名したり、デモ行ったり、パブコメ書いたり、講演会行ったり、PTA会長したり、教育委員会行ったり、議員さんと話したりetc.cte….できる部分でできる事やっているつもりだった。だけど、なかなか次のところに進めない感に苛まれたりしていた。
民主主義というのはすぐに答えの出るものではない、なんて嘯いてみたりするのだけれど、でもそうは言いながら手応えはやっぱりあるに越した事はない。
情報公開請求は(その実効性はともかく)うまくすればほしい情報が手に入る。もどかしさの一端が開ける。
これは一つの突破口になる気がする。

(まぁ、情報公開請求しても更なるモヤモヤが待ち構えている可能性が大である事は読めばわかるわけだが(苦笑))
でも、間違いなく前には進めると思うのだな。

政府をはじめ、行政は基本的に本当の目的を隠す。
ここはもう断言してもいいのだろう。
今儂は市の水道施策(計画)についてちょっと勉強しているところだけれど、市の側から出てくる説明がなんともおかしい。あぁ、これは何か隠しているなと感じざるを得ない。
昨日、たまたまある市議さんと話す機会があったのだが、数年前にあった市の文化施設を民間に売却してしまった件について、市は最後まで本当の理由を誤魔化し続けた、という話をしていた。でも本音は透けてみえる。透けてみえていても言葉上は上手に誤魔化してくる。情報公開請求は言質を取るための一つの武器にはなるだろう。

アベちゃんが「この道しかない」と言っていたのが今だに印象に残っているが、政治家や行政は一つの道しか儂等に示さない。選択肢を並べて、さぁどれにしますか?などとは聞いてくれない。複数のことを検討して、一つの道筋を示すことが政治家の務めだ、などと考えている向きもあるのかもしれないし、それが政治のレゾンデートルなのかもしれないが、数の力で常に多数政党の意見だけが通ってしまう今のダメダメ民主主義の世界では、本来の「議論をする」という民主主義的過程が活かされない。表面的に民主主義だと思わされ、出てきたたった一つの道筋を民主主義の結果だと思い込む。民主主義とは多様の上にあるのではないか?一つしか選択肢を示せないことのどこが民主主義か。

複数の選択肢がある、というところから始めないと民主主義は機能しない。
情報公開をすれば、実は複数あったその選択肢を可視化できる。
なるほど。

別に政治家を責めるわけじゃない。
その部分に自覚的で実践すべきは儂ら市民であって、その市民があっての政治家なのだ。
情報公開請求というのはその儂等市民が民主主義の力を発揮するための強力な武器ではないか!

そもそも、、、

「行政が間違うわけがない」「国の言っている事に従っていれば大丈夫」「お上のおっしゃる通り」だなどと、
いまだにそんな意識でいる人も結構いるように思うけれど、いったいどんなおとぎの国の話なのだろう。
実際には行政も政治家も間違いまくるし、びっくりするくらい適当な事言ってくるし、平気で嘘をつくのだ。そんなもの日々のニュースを見ていれば常識だし、歴史を見たって何度も繰り返されていることでもある。

行政を信じたいというメンタリティ(ひとまず行政に従うという話とは別)は、結局、自分で責任を負う事を回避するための言い訳なんじゃないのかな。
日本人は戦争中から何も変わっとらん。

結局民主主義の話なのだ。

おまかせ民主主義から脱皮して民主主義をきちんと自分達のものにする。
宮台真司的に言うと、任せてブーたれるのではなく、引き受けて考える。
具体的には自分達一人一人が主体的にできることをちゃんとやれるようにしましょう、という話になるのだと思う。

だからね、
みんなも情報公開請求しよう。
マジみんなしよう。
っつーか、せなアカン。(と思いはじめてる)


「いまどきPTA 嫌われ組織からの脱却」(石原慎子著)

2024-02-04 18:19:20 | 読後感想など
儂もPTAの事いろいろ考えて、会長までやって(で、校長と喧嘩して辞めて(^^))。。。
PTAの本も何冊か読んだけど、この本で一つの答えに到達した感がある。

著者の石原慎子さん(猫紫紺さん@nekoshikon )は、PTA問題の先達。
2021年に他界されていて、残念乍ら接する機会はなかったけれど、儂がPTAの事考え始める前からこの問題に取り組んでいてくれたのだ。石原さんをはじめ、この本に寄稿されている方や他のPTA問題にかかわったたくさんの人の尽力があってここまできたのだと実感する。

寄稿者のみなさんの猫さんとの関わりを思えば、その人たちの猫さんへの敬意に比べると安っぽくかんじられちゃうかもしれないけれど、やっぱり儂も猫さんに(そして、この本を届ける為に尽力された皆さんに)ありがとうを何百回も言いたい気分。



最後の大塚玲子さんの言葉を借りるなら、儂もPTAに希望を持っている。
正確に言うと、現在みんながイメージするブラックPTAではなく、戦後民主主義の実践場としての理念を持ったPTAにだ。
その理念は、決して古い時代遅れのものではなく、今こそ必要なものだと思うからこそ、儂もPTAの事を未だにあれこれ考えているのだ。その為にどうするべきか、ちゃんとここには書かれていて、ある意味PTAについて一つの答えに到達したと言える気がする、というのはそういうこと。

PTAの問題、と一括りに言ってしまうけれど、何が問題なのか?そして、どうすれば問題でなくなるのか?という論点。PTAはどうあるべきなのか?という論点。さらにPTA自体が必要なのか必要でないのか?という議論。
それぞれは別の話なのに、どうも一緒くたにして語られがちなのは、多くの人の中でまだそう言った事が整理されていないからなのだと思うのだ。
もちろん、儂も。
それがわかりやすく整理された形で書かれているのはとてもありがたい。ようやく建設的な議論ができる。

とくに吹上小の下方丈司さんのまとめ。
・社会の3つの変化
・これから必要な3つのアップデート
・アップデートのための3つの課題
・課題のための3つのポイント
わかりやすい。うん、めっちゃわかる。

まぁ、それも含めてそもそもの考え方のパラダイム転換が実は必要で、実はその壁を越える事が大前提なのだ。
多分、この本がすんなり入ってくるのは、執筆されているみなさんが、すでにPTA問題に長く取り組んでいる中でそれをすでに共通認識として持っているから、とは言えるのかもしれない。逆に、まださしてPTAの何が問題かわからないというような人(古いパラダイムのままの人)にはこの本でもやっぱりわかってもらえないのかもしれない。

例えば、社会にはいろんな状況の人がいて何か活動をするにしても同じスタンスではできないし、そもそもできる人とできない人がいるし、もっと元から言えば興味がある人もいれば全くない人もいる。前提が多様であるという当たり前すぎるくらい当たり前である事が、強制PTAを容認する人たちにはその部分を共通認識として話をする事ができない。
PTAは入退会自由の任意団体、という大前提も、その揺るがし難い位置付け以前に意識の部分で話が食い違うのだ。

あと、理念に伴う具体的な形だよね。
松戸の竹内幸枝さんが実現した「チーム栗っ子」の概要みたいなものを根っこにきちんと置くと引き継いでいく方もわかりやすいし、ベースにそういうのがあるとそれが原則になって活動できるから、単なる前年踏襲にはならない。めっちゃ共感する。

次はそれをちゃんと現実のPTAに反映していけるのかどうか。
まぁ、それがまた大変なんだけど、そんな事言っていたら猫紫紺さんにきっと怒られてしまう。

今さらですが、あらためて石原慎子さんのご冥福を。
そして感謝と猫さんの想いを(勝手に)継いでいく決意を。

「ぼくらの戦争なんだぜ」(高橋源一郎著)

2023-12-24 18:38:26 | 読後感想など
多分、源一郎さん、タイトル考えるの面倒になってるんじゃないかな(苦笑)
ま、それは置いといて。

やっぱり今読んどいた方がいいのかもしれない、と思って積読の山から抜き出したわけだけど、あらためて気付かされること色々。

たとえば、
そもそも戦争がどんなものなのか?
という問いに対して。大きく答えることはそりゃできる。けれど、個々の物語にそれを求めようとすれば、戦争の話というのはこういうものだ、などと杓子定規に一括りでは語れるものではない事はわかる。人それぞれ見ている景色も違うし立場によって大きく異なるし語る時に思惑も入り込む。ほぼ同じ場所の同じ立場でも文字通りたった一歩違っただけで全く違う景色になる。いや、本当は当たり前すぎるほど当たり前なのだが。

でも戦争の語りとはこういうもの、というような思い込みはやっぱりあるのであって、それに合致しないものをどうしても儂らは排除しがちとかね。
そういえば、向田邦子さんの「父の詫び状」の話があったが、やはり東京大空襲を経験した儂の母親もその時のことを笑い話のように語っていたのを思い出した。

結局、多くの物語に触れ続けることでしか本当のところには近づけないということになるのだろう。
となれば、読む経験を重ねることでつく読み解く力を磨かなくてはいけないということか。凡庸に言ってしまうと。

もう一つ。
戦時下にはおそらく正しい判断(そもそも正しさとは何なのか、とか言い始めたらまた長いのでそれも置いといて)などできないのだろうな、という事。戦時下ではいろんなものがカオスだ。思想も言論も感情も。その中で発せられるものは沈思黙考して得られるようなものであるはずはない。
(っていうか、そもそも平時だって言っても儂らに正しい判断ができているのか?と聞かれれば答えは否でしょうが、ねぇ)
。。。ならば、なおのこと、、、
そんな中でも自分の言葉を見失わずに、残した先人には敬意を持ってしまう。
もちろん、時局や空気に流されてあるいは権力におもねりあるいは本心を隠して国威発揚やプロパガンダにのっかた作家たちもたくさんいたわけで、でもその人たちを果たして責められるのかな?とも思う。正直言って、儂だってそんなにしっかりした意志を持っている人間だと言い切る自信はない。だからと言って、その人たちを不問にするのもまた違う気はする。せめて教訓にはできるか。

教訓といえば、歴史教科書の問題だ。
わかっていたとはいえ、日本の歴史教科書のあり方よ。
だからと言って、今のおかしな政権下で教科書を見直せと言った時に果たして期待するようなものを作ってもらえるのか?(反語)
改定の度に問題になる教科書検定制度っていう、いまだに嫌な感じの臭気を吐き続けているヤツもいるし。

この本で源一郎さんは作家である自分の立場を明確にして書く。
だから、言葉とか表現とかにすごく注視していて、そこは儂のような素人では気付きにくいところだなと思う。
言葉にこだわる。母語の話も出てきたけれど、それはまた文化でもあるし、ルーツでもあると思うのだ。儂は作家ではないし、賢くもないけれど、気になった言葉についてはこだわっていきたいし、それがまた戦争に争うことに多少なりとも繋がっていくんじゃないのかな。

そんな馬鹿な、って思う人もいるだろうけれど、儂ら庶民の多くがそんな小さな営みを大切にするのなら、それは戦争への道などという冷静に考えればアホな選択を回避できる方法の一つなのかもしれない。

決して大袈裟な話ではないと思うんだけどな。



https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23702

「学校で教えてくれない音楽」(大友良英著)

2023-08-15 12:22:57 | 読後感想など
今年の目標の一つは「毎月一冊は本を読む」。
今年三冊目の本を読み終えました♪
(えっと、今何月でしたっけ?(^^))

大丈夫。
まだ4ヶ月ある(違)。

大友良英さんはギタリスト、ターンテーブル奏者、ノイズの人。
でも儂にとっては2011年の東電の事故以降、いろんな気づきを与えてくれた人でもある。

とは言い乍ら、この本は軽い気持ちで手に取った。
「学校で教えてくれない音楽なんて楽しい音楽に決まっているじゃん」みたいな浅いノリである。
学校の堅苦しい音楽じゃなく、もっと雑多でラフな軽い音楽論?みたいなね。
まぁ、それで間違い無いんだけど。。。とんでもなく深かった!

なんだろうな、儂がなんで音楽が好きなのかなぁ?なんて考えた事もなかったけれど(別に考える必要も無いんだけれど(笑))、あぁそういう事かと色々腑に落ちる感じ。

タイトルが暗示する(大友さんにその意図はない気がするけれど)のは、アンチ学校的な教育のあり方だな、とも思う。
例えば、自由って何か?
子どもたちに「自由」である事を求めるのはいい事、みたいなのが自明であるかのように思われるけれど、そもそも大人がそんなこと言わんでも自由なのが子どもでしょう?子どもたちに自由にさせないのは大人であるのに、その大人が子どもに自由にして良いよと言う事で子どもの自由に理解があるつもりでいる傲慢さの中にある無自覚な強制性。ここまでは容易に想像がついたのだけど、むしろ子どもたちは「社会の中で自分がどう位置づけられているか」を求めているのじゃないか?という指摘に驚く。社会というのはある意味自由と対極にあるわけで、学校がまさに社会化の機能であるのと同時に子どもたちも社会の中で社会に認めてもらう事を求めている(つまり社会化される事を求めてる?)という視点は、至極当然なのだけど、あまり考えたことのないところでもある。またそれは、誤解を恐れずに言えば自由な存在であるからこそ、逆に「押し付けられること」を求めるという事でもあると言えるかもしれん。エーリッヒフロムか!?
これ、考えたら怖いよね。
従順な子供を求めてみたり、管理教育と言ってみたり、ブラック校則でがんじがらめにしてみたり。まぁ色々あってそれは大人が責めを受ける問題なのは間違いないにしても、子どもたちも進んでそれに従うような資質を持っているという事を理解しないと、とんでもなく見当違いな話になりそうだ。
学校の中にいる以上、そんな疑問を持つことはない。
いや、学校の外に居たって学校化社会の中にいるのだ儂らは。そっから脱することは難しい。イワンイリイチか!?

西成の子どもオーケストラや音遊びの会が「居場所」になるというのも今の儂にはよくわかる。
儂が久しぶりに市民バンドに参加して楽器を吹く事にしたのは、はっきり言って居場所を求めての事だし、今年中学生になったウチの子が吹奏楽部に入ってそれが楽しみで学校に行っている様子を見ると音楽を楽しむ場が「居場所」になるというのは普通の事だな、と思う。
でもさ、多くの人にとって学校の音楽の授業は。。。居場所にならないじゃない(笑)。

PTAの事とか考えていても儂が行き着いたのは儂らには「居場所」が必要だという結論だった。儂らの多くは「居場所」欠乏症に苦しんでいて、それが社会の息苦しさにもつながっている。
いや、別にさ、その居場所は音楽を媒介にしなくったって全く構わないんだけれど、音楽という装置が居場所に理由を与える事もあるという話だ。

大友さんは、音楽に「意義」とか「目的」とかなくて良い、と言う。
そうなんだよ。居場所に本当は意義も目的も必要ないねん。そう思う。
だけど、なんだか意義も目的もない場所というのはなかなか許容されない、というか、「意義も目的もない」のだから必要じゃないと思われがちなのだろうな。
そうするとさ、音楽というのを言い訳にして居場所を作るというのはありだよね。
もちろんその言い訳はなんだって構わない。集まりやすければ本当になんだっていい。
「無目的」という「目的」を許容できるほどに儂らの社会はまだ成熟しているとは言えないと思っている。

厳密に言えばさ、顕在的な(強要され正しいとされる)「意義」とか「目的」は必要ではないんだけれど、潜在的な(表立って意図を明言はしないけれど醸成される)「意義」とか「目的」がそこにはあって、それは本当に本当に必要なのだと思うんだな。その為の居場所が圧倒的に少ないのだ。

驚いたのは大友さんが最後に、田中克彦さんの「ことばと国家」という本について「自分の考え方、音楽を考えるときの思想のようなものの基礎になった」と言っている事。
「ことばと国家」は儂もちょっと前に読んだばかり。あれ?もしかして大友さんの話を聞いて「ことばと国家」も買ったんだったかな?記憶にないけど。
難しかったんだけど、もう一回読み返してみる?

「音痴はない」と簡単に言い切ってしまうさやさん、すごいな。
完全に儂の根底から揺さぶられた感。
その感覚が共有されるだけで、儂らはもっと楽に生きられるんじゃないのかな。