荻上チキさんの単著を読むのは初めてのような気がする。
そもそも、権利を声高に主張することがなぜ疎ましがられたりするのか、全然わからん。チキさんがここでいくつもの権利を挙げているように色んな権利があって然るべきだと思う。
権利を主張することで儂らの社会は前に進む。そういうイメージを儂も持っている。他者の権利とバッティングして問題だというのならば、その時に考えれば良いのだ。それによってさらに前に進める、そういう事でしょう?新しい権利を認めることによって、既存の権利を侵害する、なんて主張はありがちだけれど、その理屈によって今まで阻害されていた権利を認めない事を正当化なんかできないでしょうが。その理屈がなかなか通じ難い現状が不思議でならない。
そんな言い訳は、儂らの社会がより良い未来を目指す事を阻害する事にしかならない。そんな例を儂らはもういくつも見ている。そうでしょ?
現在のあたりまえを理由にする人もいる。
でも儂らが志向したいのは未来のあたりまえ、なのだ。
常識だとかあたりまえだとか、そういう言葉で思考停止させられるけどさ、その常識やあたりまえだって時間の流れとともに変わっちゃうのが常識でありあたりまえだという前提をなんで無視しちゃうんだろうね。
意味がわからん。
「常識とか、まともだとか」が温度を奪っていくんだって、ワタナベフラワーのクマガイタツロウさんも歌ってるぜ。
https://youtu.be/E7NtyOCDAVg?si=ngQxuyxeSOfQn3u9
(うむ、久しぶりに聴いたわ)
チキさんはここで単に新しい権利の種類を列挙しているわけじゃないんだよね。
権利というのは同時に概念でもあると思う。そこではさらに同時に社会の概念の変革も伴っていたりする。儂の好きな言葉で言えばパラダイムシフトだ。
チキさんが、重要になると思う、と言ってあげているキーワードの一つが「なんとかなる社会」。
なによりも嫌なのは、なんとも言えない閉塞感、焦燥感、そしていまだにあとを引いている感じのする自己責任論。
その中で、なんともならなくなるのではないか?と儂らは常にもがいている感じがする。そして余裕もなく日々を足掻く。
違う。儂らが期待する社会はこんな社会じゃない。じゃぁそれはどんな社会か?
どうあっても何があってもどんな人でも「なんとかなる社会」だ。
なんとも明快な。
ハッとさせられる権利の一つが「手を抜く権利」。
儂らはいろんなものを押し付けられて汲々としている。
母親はこうでなくちゃいけない、男はこうでなくちゃいけない、学生はこうでなくちゃいけない、子どもはこうでなくちゃいけない、パートタイマーはこうでなくちゃいけない、社員はこうでなくちゃいけない。がんじがらめだ。
もちろん、規則やルールもあるけれど、思い込みや押しつけのなんと多いことか。それをまた誰かが作ったもしくは社会の空気が作り出す当たり前とか常識とか訳のわからない(わかるけど)理由をくっつけて無理強いする社会。
一体、誰得?
私等は手を抜く権利を持っている。別にいいんだよ、頑張りたい人は頑張れば。頑張れる時は頑張ればいい。でも頑張る必要がなければ頑張らなくていいし、頑張れない時は頑張れないんだから頑張っちゃいけないのだ。手を抜くって言うとネガティブに聞こえるかもしれないけれど、それが必要な時もあるし手を抜くことが有効な時もある。実のところ、そもそも手を抜いたってなんの問題もないことだらけだったりもする。
何よりも手を抜くかぬかないかだって個人の自由だ、他人にとやかく言われる謂れはない。
チキさんも子育ての話をしているけれど、ぶっちゃけ子育てを1人でするなんて不可能である。いっぺんやってみ。やったらわかる。こんなにわかりやすい無理ゲーも他にない。
核家族化が進み、日常的に子育てに目をかけられる人間が減っている昨今、その皺寄せの多くは母親に向かっている。その母親に向かって「手を抜くな」という輩がいるのなら、そいつが代わりに育児をしろって言ってやれ。話はそれからだね。
第5講ではスポーツ権。
チキさん、あなたもですか。。。(/ _ ; )
と嘆くなかれ、ちゃんとあります「スポーツをしない権利」(拍手喝采)。
チキさんと同様、スポーツ苦手な儂。当然乍らスポーツ系の部活にも入らなかったし運動会でもいつもどこか冷めた感じでいたしマラソン大会は常にビリだった(←それはちょっと違う)
そして大人になった今も、オリンピックで世間が盛り上がっていても我関せず、サッカーだ野球だと言ってもチンプンカンプン。こないだも大谷翔平って誰ですか?って聞いたところだ。そういった時の肩身の狭いこと狭いこと。
なぜ、みんな同様にスポーツで盛り上がらなくてはならないのか。儂にはちっとも理解できぬ。
それを強要するのならば、儂の好きな音楽で全国民が盛り上がる事を強要したっていいではないか。
そうはならない不思議。
「スカで踊らない権利」はわざわざ主張しなくてもいいけど、「スポーツをしない権利」は言わないと受け入れてもらえないのね。
また、チキさんは学校での部活動での意義にも触れる。
「学校秩序の醸成や非行防止、体力向上など」「そこには明確な目標設定がある」
ふむ。
部活とは何か?
楽しんだり、自分の関心ごとを突き詰めていったりするためにあると思っていたのだけれど、どうやら世間(学校)は違うようだ。
さらに、体罰のことにも触れたりもするが、規律や修練、忍耐とかそういうものを身につけさせたい、というような世間の意向もあって体育会系部活がもてはやされるという風潮自体がやっぱり問題だったって事はもっと大きな声で言ってもいいと思うんだな。
この講の最後の方にはイギリスの柔道連盟が出した児童保護プログラムというのが載っている。
これくらいのことは日本の子どもに関係する機関にとっての常識であってほしいと思う。
子どもが守られることが最優先である事、それは大人の責任である事。
それが自明のようで自明ではないのが日本だ。子どもが虐待されている事実が明るみに出て、なぜ虐待している大人を擁護する言葉を聞かなくてはいけないのか?それはそれで考えてもいい論点である事は否定しないけれど、その議論は少なくとも子どもたちが完全に安全な保護状態に落ち着いた頃にでも他でやってください、って話である。
特に最近は性的虐待のニュースを聞くことも多い。
居た堪れない。この問題をスルーしてはいけない。
最終講では「ツワネ原則」が紹介される。
ツワネ原則は「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」であり、特定秘密保護法についての件に出てきたもの。
ここで紹介されている「本原則が起草された背景と理論的根拠」の中にこういう一節がある。
「国家の行為を国民が監視することができる、情報にアクセスすることができるようになれば、公務員の職権乱用を防ぐだけでなく、人々が国の方針決定に関与できるようになる。つまり情報へのアクセスは、真の国家安全保障、民主的参加、健全な政策決定の極めて重要な構成要素」
民主主義の基本でしょう。
でもあらためてここを読んで泣きそうになる。
ちょうど儂は、住んでいる自治体が水道行政を包括的民間委託(国がすすめるウォーターPPPを導入)するって話になっているので、住民に十分な説明もなくそれを決定した市に対して疑問点や決定過程について説明してくれと申し入れをしたり請願したりしているところ。
国家の安全保障とはレベルが違う、と言われるかもしれないけれど、真の住民安全保障(水道なんて命に関わる最重要安全保障インフラですやん)市民の民主的参加、健全な市政決定の為に情報へのアクセスが必要な事は全く変わらないでしょう?
話は単純なのだ。
情報がきちんと公開されていない、不十分だからその情報をください。そう言っているだけ。そんなささやかな願いなのに、市にも議会にも拒絶されて、正直へこたれそうなところにこのツワネ原則を読む。なんと国際原則が儂の見方をしてくれている!
えと。。。泣いていいですよね?
チキさんも言う
「情報公開が適切に行われないと言うことは、知る権利が奪われるというだけではありません。不完全な情報の中であてずっぽうの政治参加しか認められないということです。それは大きく括れば『未来をつくる権利』が阻害されるということです」
そう。
儂らは「未来をつくる権利」という当たり前の権利を希求しているのだ。
情報を求めることを妨げることは未来を妨げることである、と言い切ってしまおう♪
一番最後に出てくる「見守られる権利」も面白い。
発想の仕方によって「国家が見守る」にもなれば「国家が見張る」にもなる。
マイナンバーなどわかりやすい。国は見守るために必要だと言いたいのかもしれないけれど、儂らは見張るための道具だと喝破する。そこには国というものと儂ら国民との間に横たわるわだかまりが大きく関わってくる。
そもそも国などというものを信じてはいけないと思っている儂ではあるけれど、信じるに足りる国になるかどうかもまた儂ら市民次第だということもまた理解はしている。
それもまた「未来をつくりたい」という儂らの意識と共にあるのだろう。

NHKブックス No.1216 未来をつくる権利 社会問題を読み解く6つの講義[著] 荻上チキ
そもそも、権利を声高に主張することがなぜ疎ましがられたりするのか、全然わからん。チキさんがここでいくつもの権利を挙げているように色んな権利があって然るべきだと思う。
権利を主張することで儂らの社会は前に進む。そういうイメージを儂も持っている。他者の権利とバッティングして問題だというのならば、その時に考えれば良いのだ。それによってさらに前に進める、そういう事でしょう?新しい権利を認めることによって、既存の権利を侵害する、なんて主張はありがちだけれど、その理屈によって今まで阻害されていた権利を認めない事を正当化なんかできないでしょうが。その理屈がなかなか通じ難い現状が不思議でならない。
そんな言い訳は、儂らの社会がより良い未来を目指す事を阻害する事にしかならない。そんな例を儂らはもういくつも見ている。そうでしょ?
現在のあたりまえを理由にする人もいる。
でも儂らが志向したいのは未来のあたりまえ、なのだ。
常識だとかあたりまえだとか、そういう言葉で思考停止させられるけどさ、その常識やあたりまえだって時間の流れとともに変わっちゃうのが常識でありあたりまえだという前提をなんで無視しちゃうんだろうね。
意味がわからん。
「常識とか、まともだとか」が温度を奪っていくんだって、ワタナベフラワーのクマガイタツロウさんも歌ってるぜ。
https://youtu.be/E7NtyOCDAVg?si=ngQxuyxeSOfQn3u9
(うむ、久しぶりに聴いたわ)
チキさんはここで単に新しい権利の種類を列挙しているわけじゃないんだよね。
権利というのは同時に概念でもあると思う。そこではさらに同時に社会の概念の変革も伴っていたりする。儂の好きな言葉で言えばパラダイムシフトだ。
チキさんが、重要になると思う、と言ってあげているキーワードの一つが「なんとかなる社会」。
なによりも嫌なのは、なんとも言えない閉塞感、焦燥感、そしていまだにあとを引いている感じのする自己責任論。
その中で、なんともならなくなるのではないか?と儂らは常にもがいている感じがする。そして余裕もなく日々を足掻く。
違う。儂らが期待する社会はこんな社会じゃない。じゃぁそれはどんな社会か?
どうあっても何があってもどんな人でも「なんとかなる社会」だ。
なんとも明快な。
ハッとさせられる権利の一つが「手を抜く権利」。
儂らはいろんなものを押し付けられて汲々としている。
母親はこうでなくちゃいけない、男はこうでなくちゃいけない、学生はこうでなくちゃいけない、子どもはこうでなくちゃいけない、パートタイマーはこうでなくちゃいけない、社員はこうでなくちゃいけない。がんじがらめだ。
もちろん、規則やルールもあるけれど、思い込みや押しつけのなんと多いことか。それをまた誰かが作ったもしくは社会の空気が作り出す当たり前とか常識とか訳のわからない(わかるけど)理由をくっつけて無理強いする社会。
一体、誰得?
私等は手を抜く権利を持っている。別にいいんだよ、頑張りたい人は頑張れば。頑張れる時は頑張ればいい。でも頑張る必要がなければ頑張らなくていいし、頑張れない時は頑張れないんだから頑張っちゃいけないのだ。手を抜くって言うとネガティブに聞こえるかもしれないけれど、それが必要な時もあるし手を抜くことが有効な時もある。実のところ、そもそも手を抜いたってなんの問題もないことだらけだったりもする。
何よりも手を抜くかぬかないかだって個人の自由だ、他人にとやかく言われる謂れはない。
チキさんも子育ての話をしているけれど、ぶっちゃけ子育てを1人でするなんて不可能である。いっぺんやってみ。やったらわかる。こんなにわかりやすい無理ゲーも他にない。
核家族化が進み、日常的に子育てに目をかけられる人間が減っている昨今、その皺寄せの多くは母親に向かっている。その母親に向かって「手を抜くな」という輩がいるのなら、そいつが代わりに育児をしろって言ってやれ。話はそれからだね。
第5講ではスポーツ権。
チキさん、あなたもですか。。。(/ _ ; )
と嘆くなかれ、ちゃんとあります「スポーツをしない権利」(拍手喝采)。
チキさんと同様、スポーツ苦手な儂。当然乍らスポーツ系の部活にも入らなかったし運動会でもいつもどこか冷めた感じでいたしマラソン大会は常にビリだった(←それはちょっと違う)
そして大人になった今も、オリンピックで世間が盛り上がっていても我関せず、サッカーだ野球だと言ってもチンプンカンプン。こないだも大谷翔平って誰ですか?って聞いたところだ。そういった時の肩身の狭いこと狭いこと。
なぜ、みんな同様にスポーツで盛り上がらなくてはならないのか。儂にはちっとも理解できぬ。
それを強要するのならば、儂の好きな音楽で全国民が盛り上がる事を強要したっていいではないか。
そうはならない不思議。
「スカで踊らない権利」はわざわざ主張しなくてもいいけど、「スポーツをしない権利」は言わないと受け入れてもらえないのね。
また、チキさんは学校での部活動での意義にも触れる。
「学校秩序の醸成や非行防止、体力向上など」「そこには明確な目標設定がある」
ふむ。
部活とは何か?
楽しんだり、自分の関心ごとを突き詰めていったりするためにあると思っていたのだけれど、どうやら世間(学校)は違うようだ。
さらに、体罰のことにも触れたりもするが、規律や修練、忍耐とかそういうものを身につけさせたい、というような世間の意向もあって体育会系部活がもてはやされるという風潮自体がやっぱり問題だったって事はもっと大きな声で言ってもいいと思うんだな。
この講の最後の方にはイギリスの柔道連盟が出した児童保護プログラムというのが載っている。
これくらいのことは日本の子どもに関係する機関にとっての常識であってほしいと思う。
子どもが守られることが最優先である事、それは大人の責任である事。
それが自明のようで自明ではないのが日本だ。子どもが虐待されている事実が明るみに出て、なぜ虐待している大人を擁護する言葉を聞かなくてはいけないのか?それはそれで考えてもいい論点である事は否定しないけれど、その議論は少なくとも子どもたちが完全に安全な保護状態に落ち着いた頃にでも他でやってください、って話である。
特に最近は性的虐待のニュースを聞くことも多い。
居た堪れない。この問題をスルーしてはいけない。
最終講では「ツワネ原則」が紹介される。
ツワネ原則は「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」であり、特定秘密保護法についての件に出てきたもの。
ここで紹介されている「本原則が起草された背景と理論的根拠」の中にこういう一節がある。
「国家の行為を国民が監視することができる、情報にアクセスすることができるようになれば、公務員の職権乱用を防ぐだけでなく、人々が国の方針決定に関与できるようになる。つまり情報へのアクセスは、真の国家安全保障、民主的参加、健全な政策決定の極めて重要な構成要素」
民主主義の基本でしょう。
でもあらためてここを読んで泣きそうになる。
ちょうど儂は、住んでいる自治体が水道行政を包括的民間委託(国がすすめるウォーターPPPを導入)するって話になっているので、住民に十分な説明もなくそれを決定した市に対して疑問点や決定過程について説明してくれと申し入れをしたり請願したりしているところ。
国家の安全保障とはレベルが違う、と言われるかもしれないけれど、真の住民安全保障(水道なんて命に関わる最重要安全保障インフラですやん)市民の民主的参加、健全な市政決定の為に情報へのアクセスが必要な事は全く変わらないでしょう?
話は単純なのだ。
情報がきちんと公開されていない、不十分だからその情報をください。そう言っているだけ。そんなささやかな願いなのに、市にも議会にも拒絶されて、正直へこたれそうなところにこのツワネ原則を読む。なんと国際原則が儂の見方をしてくれている!
えと。。。泣いていいですよね?
チキさんも言う
「情報公開が適切に行われないと言うことは、知る権利が奪われるというだけではありません。不完全な情報の中であてずっぽうの政治参加しか認められないということです。それは大きく括れば『未来をつくる権利』が阻害されるということです」
そう。
儂らは「未来をつくる権利」という当たり前の権利を希求しているのだ。
情報を求めることを妨げることは未来を妨げることである、と言い切ってしまおう♪
一番最後に出てくる「見守られる権利」も面白い。
発想の仕方によって「国家が見守る」にもなれば「国家が見張る」にもなる。
マイナンバーなどわかりやすい。国は見守るために必要だと言いたいのかもしれないけれど、儂らは見張るための道具だと喝破する。そこには国というものと儂ら国民との間に横たわるわだかまりが大きく関わってくる。
そもそも国などというものを信じてはいけないと思っている儂ではあるけれど、信じるに足りる国になるかどうかもまた儂ら市民次第だということもまた理解はしている。
それもまた「未来をつくりたい」という儂らの意識と共にあるのだろう。

NHKブックス No.1216 未来をつくる権利 社会問題を読み解く6つの講義[著] 荻上チキ