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ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

「未来をつくる権利ー社会問題を読み解く6つの講義」(荻上チキ著)

2024-12-29 18:29:02 | 読後感想など
荻上チキさんの単著を読むのは初めてのような気がする。

そもそも、権利を声高に主張することがなぜ疎ましがられたりするのか、全然わからん。チキさんがここでいくつもの権利を挙げているように色んな権利があって然るべきだと思う。
権利を主張することで儂らの社会は前に進む。そういうイメージを儂も持っている。他者の権利とバッティングして問題だというのならば、その時に考えれば良いのだ。それによってさらに前に進める、そういう事でしょう?新しい権利を認めることによって、既存の権利を侵害する、なんて主張はありがちだけれど、その理屈によって今まで阻害されていた権利を認めない事を正当化なんかできないでしょうが。その理屈がなかなか通じ難い現状が不思議でならない。
そんな言い訳は、儂らの社会がより良い未来を目指す事を阻害する事にしかならない。そんな例を儂らはもういくつも見ている。そうでしょ?

現在のあたりまえを理由にする人もいる。
でも儂らが志向したいのは未来のあたりまえ、なのだ。
常識だとかあたりまえだとか、そういう言葉で思考停止させられるけどさ、その常識やあたりまえだって時間の流れとともに変わっちゃうのが常識でありあたりまえだという前提をなんで無視しちゃうんだろうね。
意味がわからん。

「常識とか、まともだとか」が温度を奪っていくんだって、ワタナベフラワーのクマガイタツロウさんも歌ってるぜ。
https://youtu.be/E7NtyOCDAVg?si=ngQxuyxeSOfQn3u9
(うむ、久しぶりに聴いたわ)

チキさんはここで単に新しい権利の種類を列挙しているわけじゃないんだよね。
権利というのは同時に概念でもあると思う。そこではさらに同時に社会の概念の変革も伴っていたりする。儂の好きな言葉で言えばパラダイムシフトだ。

チキさんが、重要になると思う、と言ってあげているキーワードの一つが「なんとかなる社会」
なによりも嫌なのは、なんとも言えない閉塞感、焦燥感、そしていまだにあとを引いている感じのする自己責任論。
その中で、なんともならなくなるのではないか?と儂らは常にもがいている感じがする。そして余裕もなく日々を足掻く。
違う。儂らが期待する社会はこんな社会じゃない。じゃぁそれはどんな社会か?
どうあっても何があってもどんな人でも「なんとかなる社会」だ。
なんとも明快な。

ハッとさせられる権利の一つが「手を抜く権利」
儂らはいろんなものを押し付けられて汲々としている。
母親はこうでなくちゃいけない、男はこうでなくちゃいけない、学生はこうでなくちゃいけない、子どもはこうでなくちゃいけない、パートタイマーはこうでなくちゃいけない、社員はこうでなくちゃいけない。がんじがらめだ。
もちろん、規則やルールもあるけれど、思い込みや押しつけのなんと多いことか。それをまた誰かが作ったもしくは社会の空気が作り出す当たり前とか常識とか訳のわからない(わかるけど)理由をくっつけて無理強いする社会。
一体、誰得?
私等は手を抜く権利を持っている。別にいいんだよ、頑張りたい人は頑張れば。頑張れる時は頑張ればいい。でも頑張る必要がなければ頑張らなくていいし、頑張れない時は頑張れないんだから頑張っちゃいけないのだ。手を抜くって言うとネガティブに聞こえるかもしれないけれど、それが必要な時もあるし手を抜くことが有効な時もある。実のところ、そもそも手を抜いたってなんの問題もないことだらけだったりもする。
何よりも手を抜くかぬかないかだって個人の自由だ、他人にとやかく言われる謂れはない。

チキさんも子育ての話をしているけれど、ぶっちゃけ子育てを1人でするなんて不可能である。いっぺんやってみ。やったらわかる。こんなにわかりやすい無理ゲーも他にない。
核家族化が進み、日常的に子育てに目をかけられる人間が減っている昨今、その皺寄せの多くは母親に向かっている。その母親に向かって「手を抜くな」という輩がいるのなら、そいつが代わりに育児をしろって言ってやれ。話はそれからだね。

第5講ではスポーツ権。
チキさん、あなたもですか。。。(/ _ ; )
と嘆くなかれ、ちゃんとあります「スポーツをしない権利」(拍手喝采)。

チキさんと同様、スポーツ苦手な儂。当然乍らスポーツ系の部活にも入らなかったし運動会でもいつもどこか冷めた感じでいたしマラソン大会は常にビリだった(←それはちょっと違う)
そして大人になった今も、オリンピックで世間が盛り上がっていても我関せず、サッカーだ野球だと言ってもチンプンカンプン。こないだも大谷翔平って誰ですか?って聞いたところだ。そういった時の肩身の狭いこと狭いこと。
なぜ、みんな同様にスポーツで盛り上がらなくてはならないのか。儂にはちっとも理解できぬ。
それを強要するのならば、儂の好きな音楽で全国民が盛り上がる事を強要したっていいではないか。
そうはならない不思議。
「スカで踊らない権利」はわざわざ主張しなくてもいいけど、「スポーツをしない権利」は言わないと受け入れてもらえないのね。

また、チキさんは学校での部活動での意義にも触れる。
「学校秩序の醸成や非行防止、体力向上など」「そこには明確な目標設定がある」
ふむ。
部活とは何か?
楽しんだり、自分の関心ごとを突き詰めていったりするためにあると思っていたのだけれど、どうやら世間(学校)は違うようだ。
さらに、体罰のことにも触れたりもするが、規律や修練、忍耐とかそういうものを身につけさせたい、というような世間の意向もあって体育会系部活がもてはやされるという風潮自体がやっぱり問題だったって事はもっと大きな声で言ってもいいと思うんだな。

この講の最後の方にはイギリスの柔道連盟が出した児童保護プログラムというのが載っている。
これくらいのことは日本の子どもに関係する機関にとっての常識であってほしいと思う。
子どもが守られることが最優先である事、それは大人の責任である事。
それが自明のようで自明ではないのが日本だ。子どもが虐待されている事実が明るみに出て、なぜ虐待している大人を擁護する言葉を聞かなくてはいけないのか?それはそれで考えてもいい論点である事は否定しないけれど、その議論は少なくとも子どもたちが完全に安全な保護状態に落ち着いた頃にでも他でやってください、って話である。
特に最近は性的虐待のニュースを聞くことも多い。
居た堪れない。この問題をスルーしてはいけない。

最終講では「ツワネ原則」が紹介される。
ツワネ原則は「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」であり、特定秘密保護法についての件に出てきたもの。
ここで紹介されている「本原則が起草された背景と理論的根拠」の中にこういう一節がある。
「国家の行為を国民が監視することができる、情報にアクセスすることができるようになれば、公務員の職権乱用を防ぐだけでなく、人々が国の方針決定に関与できるようになる。つまり情報へのアクセスは、真の国家安全保障、民主的参加、健全な政策決定の極めて重要な構成要素」

民主主義の基本でしょう。
でもあらためてここを読んで泣きそうになる。
ちょうど儂は、住んでいる自治体が水道行政を包括的民間委託(国がすすめるウォーターPPPを導入)するって話になっているので、住民に十分な説明もなくそれを決定した市に対して疑問点や決定過程について説明してくれと申し入れをしたり請願したりしているところ。
国家の安全保障とはレベルが違う、と言われるかもしれないけれど、真の住民安全保障(水道なんて命に関わる最重要安全保障インフラですやん)市民の民主的参加、健全な市政決定の為に情報へのアクセスが必要な事は全く変わらないでしょう?

話は単純なのだ。
情報がきちんと公開されていない、不十分だからその情報をください。そう言っているだけ。そんなささやかな願いなのに、市にも議会にも拒絶されて、正直へこたれそうなところにこのツワネ原則を読む。なんと国際原則が儂の見方をしてくれている!

えと。。。泣いていいですよね?

チキさんも言う
「情報公開が適切に行われないと言うことは、知る権利が奪われるというだけではありません。不完全な情報の中であてずっぽうの政治参加しか認められないということです。それは大きく括れば『未来をつくる権利』が阻害されるということです」
そう。
儂らは「未来をつくる権利」という当たり前の権利を希求しているのだ。
情報を求めることを妨げることは未来を妨げることである、と言い切ってしまおう♪

一番最後に出てくる「見守られる権利」も面白い。
発想の仕方によって「国家が見守る」にもなれば「国家が見張る」にもなる。
マイナンバーなどわかりやすい。国は見守るために必要だと言いたいのかもしれないけれど、儂らは見張るための道具だと喝破する。そこには国というものと儂ら国民との間に横たわるわだかまりが大きく関わってくる。
そもそも国などというものを信じてはいけないと思っている儂ではあるけれど、信じるに足りる国になるかどうかもまた儂ら市民次第だということもまた理解はしている。

それもまた「未来をつくりたい」という儂らの意識と共にあるのだろう。



NHKブックス No.1216 未来をつくる権利 社会問題を読み解く6つの講義[著] 荻上チキ

「支配の構造 国家とメディアー世論はいかに操られるか」(堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎著)

2024-11-08 09:37:14 | 読後感想など
濃ゆいマジメな内容の本を、濃ゆい博学の4人(失礼!)が紹介して議論する。
情報量が多すぎてぱたくん大変ですよ、もう。

民主主義の事をずーっと考えている。
いや、ずーっとは言い過ぎ。でも結構考えてる(と思う)。
まぁ、少し考えればわかる事だけれど、今の情報社会大衆社会において、メディアの存在感は絶大で、当然民主主義と切っても切れない仲なわけだ。
なのに、メディアがどうこうとか、あんまりちゃんと考える機会ってのは儂の中ではなかなかないのよね。

最近で言えばせいぜい、大阪の民放テレビは維新を贔屓にしすぎじゃね?とか
Xでのイーロンマスクの振る舞いはヤバくね?とか
選挙前に選挙報道せな意味ないんちゃう?とか
新聞の購読率が50%だって、マジ?とか
断片的にそういうことには触れるけれど。
っていうか、それももちろんこの本の内容に繋がってくるわけだけど。

情報の海に溺れそうな儂らが、その情報の海を上手に泳ぐためにはそのリテラシーを身につけることが必須だと言うのは、30年も前に大学院の時に考えていた事じゃんね。もう、もう、もう!



順番に見てみる。
まず最初に堤未果さんがペンタゴンペーパーの話をする。
映画観たよー。

最近の話と繋がることで言えば内部告発者の話。
兵庫県や鹿児島県警の話は記憶に新しいところ。で、その話を聞いてた時に驚いたのは日本の公益通報者保護法では内部告発をした人が保護されるためには色々条件があると。。。
なんじゃそれは!?である。
勿論、いろいろ考えた末の法律であろうけれど、でも内部告発など働いている人にとってはいつ自分が当事者になってもおかしくない話だ。その時にハードルが高い制度にどれだけの意味があるのか?

まず、内部告発が社会に益をもたらす行為である以上は彼らのことは絶対に守らなくてはいけない、その空気を作れるか?と。
アメリカにはそれがあったよ、と。
むぅ、頭を抱えてしまう。。。

それを守るジャーナリストの価値基準に挙げられる3つの条件は「個々のジャーナスト」「それを支える社会」「社会を作る市民」だという。つか、それ3つって言っているけれど、最後の一つがなかったらその上も成立しないよね。
暗澹たる気持ちになる。

日本人を考える時に(実態のよくわからない)空気に囚われる、という特徴(?)にどうしても行き当たる気がする。でも、ここで描かれているのは内面への問いだ。自分の人生に責任を持つ、自身の保身や会社の利益ではなく自由や民主主義といった価値についての自意識か。
高橋源一郎さんが座談のページで言う
「『空気』や『忖度』というものがなくて、代わりに『個人』いるのがアメリカ」
まぁ、この「個人」にはそこに思想や責任や色んなものが付随しているのでそれを忘れちゃいけないと思うんだけど、まぁわかりやすい。そういう事なのだと思う。

そして、最後に堤未果さんがまとめる
「ここを乗り越えるには、やはり『教育』の立て直ししかない」
はぁ、やっぱりそこが結論になるのか。。。
(激しく同意であります。でも、その教育の現状はどうなのか?)

次に中島岳志さんがトクヴィルを取り上げる。
そういえば中島さんの話を聞いていたらトクヴィルの名前が何度か出てくる。けれどその著書の事はやっぱりよく知らない儂。
民主主義というと、間違いなくこう、みたいな単純化されたしっかりしたものがあるかのように思いがちな儂だけど(お前か!?)、当然ながらそうそう単純なものではないわけで。問題なのはその背景であるとか成立要件というのがあって、それを抜きには語れないということなのだな、と思う。

「中間共同体」の必要性というのを特に打ち出すわけだけど、ここには強く頷く。
「中間共同体」を「国家と個人の間にある、地域に根付いた自治的な共同体。教会がその代表格」と説明する。そこに層の厚い中産階級がフラットな関係で存在する事の必要性を指摘。
まぁ、教会という宗教的な場所が中核であるというのは日本に援用できないにしても、儂の理解ではそれは直接地域という地続きの人と人が接点を持って話をできる場の存在だと思うわけさ。
儂が強く関心を持つPTAや町内会の話も、単に問題があるから要らないとか要るとか単純な話ではなく、それが中間共同体としての役割を果たしうるある意味「エエ感じのポジション」に存在するものでありながら、活かせていない現状に対してなんとかしたいと思っているのだ(これがなかなかわかってもらいにくいわけだけど)。

そして何より問題は「メディアのマス化」なわけだ。
マス化すればマス化するほど、人々は中間共同体から遠ざかる。
ネット化SNS化の現状にその意味するところを見る気がする。

大澤真幸さんはナショナリズムの話を。

そもそも「ネーション」とは何か?
の項からいきなり驚く。
ネーションの国民は互いに「知らないもの同士」。それなのにネーションと括ることで「非常に強い同胞意識や運命共同体的な感覚を持」ち、「場合によってはその共同体のためなら自分は死んでも良いとする」。おおなんという飛躍、なんと突拍子もない!
一方でネーションが出てくる前の共同体というのは「メンバーが互いをよく知っていて親密であり、信頼しあっているがゆえに」強い結束力を持ってまとまる。
ふわぁー、確かにそうだ。
そう、共同体というのはそもそも「想像」の産物なのだ。その中でもネーションだけは「想像」だけが根拠なのだと。
ふわぁー、そうなのかぁー。
そして、ネーションは古いと思いたがる。
ふわぁー、そうでございますにゃぁ。

「想像」の共同体である国を成立させているのがやはりまたメディアである、という話なわけで、でも今儂らはだからと言ってメディアをなくすわけにもいかない。堤未果さんが最後に日本は「想像」の共同体というより「情緒」の共同体という側面があると指摘しているけれど、それにしたってマスメディアがその場合のイメージを作り上げることに大いに加担しているわけで、その危険性は同じなのだよね。儂らに求められているのはそれを見抜くメディアリテラシーなのだと思う。
もちろん、訴えかける部分が違う部分もあり、その影響と創り上げるもの(また「空気」の問題だ)も違うので、日本でのその暴走によって煽られる危険性について指摘するところもわからないではない。いや、逆にだからこそ日本は一段と危ういのだ、というのは間違っていないのだろうな。
メディアの役割と言うけれど、メディアに期待できるのか?という疑問からすれば、本当はメディアをチェックする儂らの役割をこそ考えなくてはいけないのではないかな。

高橋源一郎さんが紹介する「華氏451度」。高橋さんの昔のラジオ「すっぴん!」の中で高橋ヨシキさんとのコーナーで取り上げてたと思う。だいたいのディストピアものはあのラジオで名前とストーリーくらいは知っている気がする(笑)。
ディストピアものは、まぁだいたい怖いんだけれど何が怖いってさ、隔絶されたパラレルワールドではなく自分達の今生きているこの社会と地続きだと感じる部分が見て取れるところなのだ。

華氏451度の本を焼く世界も、何が怖いってその世界を儂らが自ら選んだのだと言っているところ。
政府がそうしたのではない「大衆が望んでいる事を、メディアが先回りして、忖度して与えている」それによって、みんな昼も夜も幸せに暮らしているじゃないか、と。
本を焼いているのは儂ら。儂らが進んで焼いているのだ!と。そして、それは現にみんながそれを幸せに感じているではないか、と。
こえーよー!

堤未果さんが読書とスマホの違いは、「そこから得た情報が肉体化されるかどうか」だ、と指摘する。
んー、わかるけれど、その感覚が多くの人に果たして通じるのだろうか?懐疑的になってしまう。

大澤真幸さんはすでにこの小説以上のことが起きているのではないか、事実上本は燃やされているのではないか?
と言う。
儂もそんな気がする。背筋が寒い。

現に儂もここ数年、年間10冊と本を読んでいない。
読みたい本は積んである。まだ燃やしていない。それだけが救いか。

終章では忖度の話などをしている。
早い話、メディアには力がある。その力は儂らの民主主義(?)のために使ってほしいのだ。
なのにどうにもメディアは国や権力に、そして社会の空気に忖度しているように見える。
公共放送にはどうあってほしいのか?NHKとBBCはなぜこうも違うのか?
メディアは社会的共通資本でなくては困る。
儂らはメディアと敵対したいわけではなく、メディアには儂らの味方でいてほしいのに。

そのために考えなくてはいけないことは。。。
あまりに複雑で深くて。
儂は途方に暮れそうでござるよ。(弱気)

「独裁体制から民主主義へ - 権力に対抗するための教科書」(ジーンシャープ著)

2024-08-13 09:28:41 | 読後感想など
タイトルに怯む。

この本が現実的に独裁体制を崩壊させた実例やそれに抵抗する運動を研究した上で書かれた実践的な書という体裁だからだと思うのだ。そこには、儂の「いやいやいや、日本はボンクラでも一応民主主義やし、独裁体制はさすがに言いすぎやし」という甘っちょろい意識による抵抗感があると思うのだな。

1人ボケツッコミの感があるけれど、そう思い込みたい潜在的な希望的観測に対し、悲観的なもう一方の儂はそれに賛同してはくれない。定義的にまだ独裁ではないというのは認めるにしても、独裁体制を許しかねない萌芽はボコボコ産まれていると感じるし、ボンクラな日本の民主主義で大丈夫と言える呑気な人は流石に多くはいないだろう。まだ完全な独裁体制じゃない今だからこそ考えられる事もある。
そういう意味でこの本はとても意味のあるものなんじゃないのかな。

日本は独裁体制じゃないし関係ない、は残念乍ら通用しない。
と、ここでは言い切ってしまおう
「独裁体制によくあるのは、権威者や統治者に無条件に服従するよう、人々が長年調教されてきたこと」
あら、これ、日本の事じゃんね。

著者は
「原理は簡単だ」
と言う。
独裁者が独裁者たりうる為には統治する民衆の支えが必要なのだ、と。
つまり、独裁者に支配されたくなければ、民衆が独裁者を支える事をやめれば良い。

なーんだ、簡単な事じゃん。。。。

ん!?

愕然とするよね。
儂ら日本人にできるのか?そんな事が。

独裁体制に抵抗する手段について論じる中身からして簡単な内容ではないけれど、儂的に結論を簡単にいうと(こらこら)結局非暴力的闘争(政治的闘争)しか勝たん、という事かと。
もちろんそれだけで済む話じゃない。長期スパンでの周到な計画性と意識。
そして勝ち取った民主主義をさらに守るための布石。
儂らに本当に必要なのは忍耐力と知性か。

いや、それって政治体制に対して以外のことにも敷衍できる考え方なんじゃない?
問題解決のために行き当たりばったりじゃなかなかうまいかないよって話。
っつーか、もっと簡単に行っちゃえば目的意識を持って計画的に、だ。

あ、それって、夏休みの度に言われてきた事じゃんね。
ええ、もちろん儂は8月30日になってやっと慌てる人でしたけどね!

平和ボケしている儂らの中には「非暴力」って言っているのに「闘争」とついたら過激な印象を受ける人もけっこういるんじゃないかな。
でも、これをちゃんと言い換えると、(一応民主主義国家である日本では)日常的政治的に認められた民主的な権利があるんだからそれをもっと行使しようぜ、っていう話でもあると思うのだ。

世界の現実を見れば非暴力的闘争でさえ命懸けの国もある。
幸い日本ではまだ儂らのすぐ隣にある。
それを行使しない罪深さに気づくべきだと思う。



https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480094766/

「PTAでもPTAでなくてもいいんだけど、保護者と学校がこれから何をしたらいいか考えた」(大塚玲子著)

2024-08-04 13:08:17 | 読後感想など


タイトルからして儂の期待値、アガるアガる♪

儂自身、PTAの事を云々かんぬん色々言ってきて、さぞかしPTAに固執してるんじゃろね?みたいに思われているんだろうけれど、実際PTAなんてどうでもいい。
語弊があるかもしれんけれど、ほんまにPTAなんかどうでもいいと思っている。

その真意は、本当に子どもたちや、その教育環境、保護者の儂らにとってもいい形になるのなら、そこにPTAがいてもいいしいなくてもいい。まさに、本のタイトルの通りであって、それ以上でもそれ以下でもない。

今の儂は
学校・教育の現場が良いものになって欲しい、と思った時に巨大なPTAとかいうジャマっけなもんが目の前にあったから、だからせめてジャマしないものになってくださいよ、という感覚である。
その暁に、ジャマじゃないPTAが有用な形であれば乗っかるし、そうじゃなければ好きにすれば(もしくはやめたら?)という立場。

まぁ、本来のあるべきPTAの姿ってのは有用な形なのだと思うので、建前的にはPTAが適正化されることを望んでいるのだけれど、ぶっちゃけそれはハードルの高いことなんだろうな、というのが正直なところ。

で、この本。

めっちゃ付箋つけた!
儂的に今欲しいPTA改革のその先。
その先が垣間見えた感じ!

そうそう。
しつこいけれどさらに補足すると、
儂が欲しているのは、PTA改革のその先なのだ。うん。

儂の中でずーっと気になって考えていた、
PTAと民主主義とか、
学校と保護者の関係とか、
そもそも保護者の役割って何や?とか、
CSとか、
地域学校協働活動どう考えたらええ?とか、
諸々のモヤモヤに少しずつ説明をしてもらえた感じ。
その一々に納得しちゃう、みたいな。

誤解を恐れずに言えば、PTAに反対する人も擁護する人も「PTA」とか「学校」とかいう言葉のイメージにやっぱりまだまだとらわれてる感じがするのだ。その足枷、ホンマに邪魔やと思う。

そういう意味でもこのタイトルはわかりやすくて良い。本当の問題はPTAじゃないねん。
もちろん、現状、多くの学校ではPTAという困りモノが跋扈していて、苦しめられてる人も多いのでその障壁を取り除く事は急務なんだけど、儂ら保護者が考えたい事はその先にあるし、もっと根源的な所でもある。

以下、対談相手ごとに思った事いくつか。

大空小学校初代校長の木村泰子さん。

大空小学校の映画、「みんなの学校」は、直接ではないにしろ儂がPTA役員をやってみてもいいかなと思うきっかけになった映画でもある。
そこで描かれるのは、学校(子どもたち)のことを学校の先生だけでうまくやるなんて無理という開き直り、、、、というか考えてみれば当たり前の姿だった。話せば長くなるので詳しくは割愛。

大空小学校にはPTAがない。開校してしばらくしたらある保護者が来て、木村さんに「こういう事したいんやけどいいですか?」と聞く。木村さんは答える「なんでそんな事聞くの?保護者が子どものために何かしたい、っていうのに校長の許可なんて必要ない。自分たちの責任でしたらええ」
もう、これだけで、PTAの理念を丸々言い当てていると思うのだ。
単純明快。保護者(や関係者)が、学校の子どもたちのために何かしたいからと自発的に始める。それだけがPTAの唯一の根拠となる。
「PTAは必要か不要か」なんて議論がもうナンセンスなのだ。順番が違う。

大空小学校の話を聞いていて思うのは、すでに保護者、、、というか地域の人たちも含めた多くのサポーターの意識がもう変化しているんだろうな、ということ。地域の大人たちがサポーターとして地域の子どもたちを自分たちの責任でみる、という意識がちゃんと浸透しているということ。
でも、既存のPTAがないところから立ち上げたこともあって、これは自分たちでやるんや、という意識が生まれたんだろうな、とは思う。レディメイドなPTAという存在自体が足を引っ張っちゃうというのも容易に頷ける。

すごく、プリンシプルな話なのだ。
保護者も地域の人もここは自分たちの学校なのだ、という意識を持てるなら、あっという間に変革は生まれるのじゃなかろうか。「みんなの学校」というのは名前からして本質的なものなのだ。

次は校長の立場から住田昌治さん。

大事なのは主体性だという話だと思う。校長という立場で押し付ける事なく、保護者から出てくる自発性をサポートできる。そんな校長、儂はまだお目にかかったことがないが。。。(苦笑)

「真面目な話を気軽に話せる場所」
それそれそれそれ!
喉から手が出るほど欲しいわ!

次の校長は新保元康さん。

学校ガイド!
超絶わかりやすい!欲しい!
まぁ、PTAの事も同じで、まず何してて何ができて何しなくちゃいけないのか全くわからない得体の知れない存在のくせに強制してくるからみんな嫌なんよ。
わかりやすさ大事。

あと、関係性だよね。
なんでも言える関係性、話し合いができる関係性、風通しの良い関係性。
まぁ、すでに嫌われ者になってしまったPTAにそれをいきなり求めるのはちと難しい話なわけですが。

儂の考えと重なるのが学校が中心となってつなぎ役になるという話。

儂は学校が地域のハブになるのがいいと思っている。
でもそのためには全ての人の意識変革が必要なんだよなぁ。

次は地域学校協働活動の話。井出隆安さん。

ぶっちゃけ、儂も結構最近まで地域学校協働活動とコミュニティスクールを混同していた。というか、区別されないものだと思っていた。

井出さんの話でよくわかるのは(というか、元々わかりきっていた事なのだけれど)PTAにしろ学校にしろ自分たちで考えて決めたらエエ、って話。
井出さんの「私は別に歓迎されにきたわけじゃない」って言葉は笑えるけれど笑えない。儂も以前校長(喧嘩しなかった方(^○^))と入学式の来賓要らないですよね、などと言っていたけれど、結局実現しないんだ。ウチの教育委員長が井出さんだったら良かったのに(笑)。

PTAも学校も(本当はありもしない)空気を読んで既成事実化し、勝手に忖度し「実は誰も望んでいない」ものになっている。
言葉を選ばないで言っちゃうと、、、バカだよね。

続いて四柳千夏子さん。
CS(コミュニティースクール)について。
CSですよ、CS。
儂はね、結局PTAがしたいというよりはCSがしたいって事なんじゃね?
とまで思っちゃうわけですよ。

まぁ、PTA改革の話をする中でも(すぐにわかってくれる人はあまりいないので)前面に出すことはそんなにないのだけれど、適正化されたPTAの1番の存在意義は学校という教育現場に保護者という教育のもう一つの当事者が入ることだと考えている。
コレ、言葉を変えれば儂が求めていたのは保護者が学校運営に参加する、って事だったんだと気付かされる。

CSの役割の中でも1番画期的だと思うのは教職員の任用について意見が言えるところ。
これはすごいよ。
次の岸裕司さんが指摘しているけれど。

保護者は学校の先生について意見など言えない、そんなの畏れおおいと思い込んでる。PTAも何故だか言えないという事になっていると思い込んでいる。
担任ガチャだ校長ガチャだと言って諦めているけれど、CSという制度ではちゃんと意見が言えるのだ。
儂が会長を辞めたのは、校長&教頭の理不尽ないいがかりのせいだけれど(意見には個人差があります)、それ以前から、この人たちは教育者として信用に足らないとは思っていた(そう思っていたから喧嘩したんじゃねーの?、って思ったアナタ!思うだけにしておいてください、プリーズ)。いや、でも客観的に考えても、児童に対して平気で暴言を吐く教務主任を放置してるとか有り得ない対応してたし、普通に(そこにいない)保護者をディスるし、儂以外のの保護者でも「あの校長(教頭)きらいや」と言う人もいたし、実は以前いた学校で問題があったのだと教えてくれた教育関係者もいたし。そういう教員が自分の子どもの学校に来ること(いること)について、ちゃんと意見を言えないってのはなかなかに不健全なことなわけで、CSってのはそこに風穴を空ける制度なわけですよ。

ところが四柳さんも指摘するように、CSのメンバーってのはだいたいにして校長が任命するわけで、当然校長に食ってかかるような儂のような危険人物は任命されない(爆)。まぁ、最初から敵対するような人間は困るわけで、「校長の辛口の友人」ってな感じが妥当であるにせよ、そこはちゃんと意見の言える環境が必要だし、意見を言いたい人が意見を言える民主的な仕組みが絶対に必要なところだと思うわけですわ。
日本中で半分以上がCS導入済みなんていうけれど、どうせイエスマンばかりで固めて形骸化なんていうのがオチでしょう?わかるよ、日本だもの。
でも、それで終わらせるには勿体なさすぎる。一般公募にすべきだよね。
儂をCSに入れろー!(笑)

冗談はさておき(いや、本気だけど:-p)、PTAを考える時の儂のテーマ一つは民主主義だ。
岸さんが言う「学校教育制度が始まって以来132年目にして初めて、一般市民である保護者や地域住民が、法的に権限と責任を与えられた」。
うぉー、コレを画期的と言わずしてなんと言うべきか!

でも、大塚さんの懸念もわかる。
PTAだって元々は民主主義を日本に根付かせるのが目的だったのに実現しなかった。それをさておいてCSなら実現できるという根拠はどこにあるのか?

国が制度として用意したという意味でCSにアドバンテージはありそうだけれど、結局そこにたずさわる儂らの意識次第、というのが厳しい現実の結論なのかもしれない。

リヒテルズ直子さんのオランダの話もまたそこに通ずる。

オランダの法律で義務付けられている「学校経営参加協議会(保護者が半数、高校では生徒も参加)」には学校の情報公開の義務と「同意権」と「勧告権」があると。同意権って言ってるけれど、当然同意できないければ拒否する権利でもあるわけだし、職員の採用罷免について意見する勧告権が法的に守られていると。
あーん、日本のCSもがんばらねば。
(頑張ることなのか?)

そして大塚さん同様、儂も目からウロコだったのが
「保護者が保護するのは子どもたちの権利」
うぎゃー、パワーワード、キター!!!

これこれこれこれ!
いくつかのモヤモヤが晴れていく。
どうかすると儂ら保護者は自分の子どもを保護しているつもりなのだ。違う?
だから一方では子どもに過干渉になったりもするし、各家庭毎にクローズドな空気を作り出すし、何故かPTA会員の親と会員じゃない子どもを混同するし。
特に「子どもたちの権利」という言い方。つまり、自分の子どもだけじゃないってところがミソですよ。権利を守る、と考えた時に、自分の子どもだけの権利を守るという事のナンセンスさ。ウチの子は守るけれど他の子の権利は守らなくていい、なんて言えるだろうか?(いや、言えない←反語)
PTAを考える時にいつも何か足りないものを感じていたのだけれど、その一つは多分この感覚。

そして儂がいま1番授業を受けてみたい人、苫野一徳さん

苫野さんといえば哲学対話なのだけれど、やっぱりここでも対話をする事の重要性。
とにかく話す、で本質は何かって考えるって事になるのだと思う。
「民主主義の根幹は対話を通した合意形成」
いや、ごもっとも。
つーか、ひょっとすると「そんな事わかってらい!」って言いそうなんだけれど、儂らは本当にわかっているのか?わかっていたとしても、それが出来ているのか?って事だと思う。
わかった上で、本当にそれをするという覚悟だよね、必要なのは。大袈裟だけど、それぐらいの意気込みが必要なのが現実じゃない?

儂が強制PTAがアカンと思う理由の一つは、対話する事に遠慮が生まれるって事があるところだ。

役員になった。
なったは良いが、他の役員はくじ引きで、はたまた投票でイヤイヤなった人たちだったりすればもうそこに対話する事に遠慮が生まれる。いや、もっとわかりやすく言えば、対話するステージに乗る事を最初から拒否していたりする。
「みんなで考える」なんて事は端っから難しい。

会議の簡略化、総会の書面化。
コロナ禍があった事もあるし、無駄を省いた意義もあるけれど、同時に対話の機会はますます減った。それによって対話の重要性に気づく機会も減ったし対話の煩わしさを回避できた事をむしろ良しとする空気も感じる。
対話をしなければ「自分のたちの学校」には出来ないのに、どうも最初から「いっしょに自分たちの学校を作る」などという感覚にさえ想像が及ばないでいるような気がするのだ。

遠藤洋路さんは校則の見直しに保護者を巻き込んでいく話をしてくれている。

遠藤さんは熊本市の教育長。
つまり、教育委員会として「保護者も学校の一員」と言っているのだ。
悔しいけれどやっぱり上の組織の意識が違うと話は早い。

校則見直し、というのはだいぶ前から色々問題視されているけれど、いまだに旧態依然とした学校だって多い。もういい加減、学校側が勝手に押し付けるなどという人権侵害を脱しても良さそうなものを。
そんな中、熊本では「保護者も学校の一員だから一緒に考える」と至極当たり前な(でも、他所から見たらそうとう先に進んだ)意識でいるというのがなんとも羨ましい。
校則見直しの過程(問題提起の部分から含めて)が民主主義であり、政治であり、リーダーシップ、と。そういう事が授業の中ではなく、学校生活の中で学べるというのが、それこそ学校のレゾンデートルだと思うよね。

齋藤いづみさんと福嶋尚子さんの話に出てきたのは「場」だ。
「保護者同士のおしゃべりの場をもつ ー 本当はそれだけでもいい気がする」
そうそう。
別にPTAが色々やりたきゃやっても良いんだけど、何か一つだけってなったらもうそれだけでいい。気兼ねなく無目的にだらだら喋るだけの場で構わない。

えっ、そんなんでいいの?
と思うだろうけれど、そんな事でさえ出来ていないのが、今のPTAじゃないですか!

話すだけ。
それだけで助かる人は多いし、色々な可能性も広がる。
苫野さんのように「対話」などと言うとかしこまってしまうけれど、人と人が話すことの本質に対して違いはないと思う。

必要はそこから生まれる。最初から用意されてる必要なんてマヌケ以外のなにものでもない。

そして、最後に岡田憲治さん。

「元からある既存の組織に自分は包まれているという日本人の所属意識からはじまるからなんのための組織か考えるのが苦手」
あー、わかるー。
自発的にそれを考える事もなく、自明と一体化しその組織を問い直すどころか護る側に立つことを疑わないよね。

「民主主義や自治という言葉は神棚にある」
笑うわ。民主主義や自治を言った瞬間に心の扉が閉まる、とか(爆)。
政治的なものへの距離感よね。
本当は超絶身近なのに。
公民の授業みんな嫌いだもんね。
社会科教育の敗北か?

「PTAっていうのは、民主主義を考えるスイッチがいっぱい隠れている」
にも大きく頷く。
儂にとっても「民主主義」は大きなテーマで、たまたまPTAにクビ突っ込んだら、うわこれって民主主義の話じゃん!と気がついた感じだ。

「学校的なるもの」が自治の足を引っ張るものという指摘も重要。
「学校」というものを儂らは何故特別視してしまうのか?
いや、儂らが特別視してしまうのは、、、実は学校以外にもいくつもあると思うのだな。そこにあるのはなんだろう?共通するもの。

儂らの市民としての無責任さ、か?

最後にもう一つ、ここだけは引用しておきたいな。
後書きに書かれていた、大塚さんが不登校について聞いた時の木村泰子さんの言葉。
「学校が嫌がるから(親が学校に行くのを)やめるなんて、親の主体性として間違ってる。(略)こどもは主体的に『行かない選択』をしているのに、親が学校に気に入られたいために何も言わないなんて、親の方が失格や」
辛辣。
だけど、その通り。
PTAの問題に向き合わずにウダウダ唯々諾々と学校やPTAに従うような儂らは親として失格なのだ。
リヒテルズ直子さんが言っていたように「保護者が保護するのは子どもたちの権利」だと考えたら、「だって学校が、先生が、PTAが」なんていう言い訳する保護者は全員失格やと思う。

「子どもたちのため」という言葉はいつでも偽善じみていて、どうしても穿った目で見てしまうけれど、
「子どもたちの権利を守るため」と意識することができるのなら、まだ素直になれる気がする。

前に読んだ、猫紫紺 @nekoshikon さんの「いまどきPTA 嫌われ組織からの脱却」を読んで頷いた人には続けてぜひ読んでいただきたい。
根源的な部分での共通認識広めたい。
熊本市教委の遠藤さんが言うように殆どの人が無関心という逆境の中だけど少しでも関心を広めるためにも。

教育開発研究所 / PTAでもPTAでなくてもいいんだけど、保護者と学校がこれから何をしたらいいか考えた

「学校で育むアナキズム」(池田賢一著)

2024-05-04 00:52:11 | 読後感想など
儂はもう、アナキズムという言葉に抵抗なくなっちゃったけれど、多分世間一般的にはちょっとヤバいヤツ、みたいな感じよね、きっと。

でもなんかやっぱり儂の考えていることに馴染む、アナキズム。
やっぱり儂、アナキストで大丈夫(笑)。

確かに、他の人とちょっと違うかもしれない儂の考え方は、側から見たらちょっとヤバいヤツの時もあるかもしれんけど、それは儂がヤバいのではなくて、ヤバいというレッテルを貼ってしまう社会の方がヤバいのだと思うな。

そのヤバいアナキズムで学校教育を考えようというのだからヤバい事この上ない(^○^)。

などと、ちょっとフザケ気味で話しても構わないのだけれど、やっぱりここは真面目に行こうかね。


基本的にアナキズムというのは「無政府主義」というよりは「反権威主義」と言った方がいいと理解している。

どストレートに言うと、公教育でいうところの学校という場所は権威的なものの下に従順な人間になるよう子どもたちを教育する場所であるわけだから(あぁ、もうここで引いちゃう人いるだろうなー(^_^;))、アナキズムというのはその今の教育を真っ向否定するものであると言ってもいい。

著者も言っている
「支配関係を否定する点がアナキズムのポイント」である。学校はそれと正反対で「支配関係の構築に躍起になり、そのためにかなり無理を重ねている」と。
「実は、アナーキーであることによって、子どもも教員も安心して過ごせる学びの環境が作れるのではないか」ということを確認するのが「本書のねらいである」と。
(「はじめに」より)

目から鱗ボロボロ落ちる。
いったい儂の目にはどんだけ鱗あんねん!?

小手先の話ではない。
もう教育の根本理念の話なのだ。

理想的な教育のあり方、のようなものが儂なりにあったりする。
でも一方で、実現させるのは難しいんだろうな、と思ってしまったりもする。
いやさ、実はそこがちゃうねんなー。
今の学校の枠組みの中で考えようとするから難しいと考えてしまうだけの話やねん。
根本的に、その今の学校の有り様そのものが間違っていると。話はそこからなのだ、と。アナキズムを通して考えてみれば、それがとてもよくわかるのだ。

例えば、儂が常々考えている事の一つは、学校の中でどうしたら先生も子どもたちも親も楽になれるのか、という事だったりする。
先生なんか顕著だけれど、過労死ラインを超えて疲弊しているし、子ども達もギスギスした環境に置かれているし、親も視界の効かない学校という現場に対してのフラストレーションを抱えている。
どうしたらいい?と考えた時に仕事量を減らすだの人を増やすだの。儂もPTA役員をやっている時にはPTAとして学校に関わる事でそういった労力やストレスを減らす事に繋げられないか、と考えていた。
でも、それって一方で学校そのものの今の在り方を肯定しているわけで、今の枠内で考えているから、現状で学校が抱えている大変さ(無理している部分)を温存しがちなのだ。つまりそこには限界があるし、根本的な解決にはならない。

大阪の大空小学校の話を初めて聴いた時に一番驚いたのは、先生はみんな定時で帰りますよ、というところだった。
そんなバカな!ただでさえ大変な教育現場。通常の学校よりも多くの困難を抱えた子どもたちがいるという学校なのに、他にも手の掛かりそうな話を色々しているのに、残業しないなんて!
何故?
映画を観て本を読んで、そこにアナキズムという言葉は出てこないけれど、子ども達に任せるという姿勢とかね、教員の側もまた子どもと一緒に間違うしちゃんとその時は謝るしで支配非支配の関係ではないとかね。感じるわけさ、アナキズム的感覚を。
あぁこれは、何故?じゃない。故に、と言うべきであると。

勿論、社会全体に対して問題提起をしようとすれば、お金がないとか、人手が足りないとか、そもそもその理念が理解されにくいとか。
実現の難しさを云々するのはしたい人はすればいい。だけど、それ以前の話として教育の理念についてもっと議論されるべきだと思うね。
社会的にどう実現させるのかは政治家や官僚のお仕事であって、儂等市井が責任持つ必要なんてこれっぽっちもないのだから。

っつーか、実践だってできるところでは実践すれば良い。
実際にやっている現場はいくつもあるんだし、法律的、制度的には実現可能なのだから。
1番のネックは。。。思い込みかな。

競争的価値観に儂らは囚われていて、それをほとんどの人は疑いはしない。
けどもう、ちょっと考えれば気付くはずだ。
一部の勝者しか獲得を許されない栄光を求める競争的価値観というパラダイムに従い続ける以上、多くの敗者に安息はないし、勝者でさえ追い落とされる不安から逃れることはできない。そんな余裕のない社会が寛容になれる筈もない。
受験という手段を目的にしてしまった日本の学校社会は、成績表だの評価だの競争的価値観で埋め尽くされているわけで、そこから突き崩さなければ意味がない。

極論を言ってしまえば成績などつけるな、という事になる。

いや、でも待て、それは本当に極論なのか?
成績を上げる事など本来は教育の目的でもなんでもない。
学力をつけることは手段ではあっても、それで日常的に評価される事など手段でもなければ必要でもない。
実際に通知表をなくした学校だってある。

でも儂らの多くは現状の支配的価値観から降りる事はできない。
できないと(これもまた)思い込んでいる。

曰く、
「学歴社会なのだから仕方がない」
だと?
だから、それがおかしいのだ。
いい学歴を持たなければ将来の生活保障が得られない?
ほう?日本国憲法の生存権は何処に行った?
エラそうに言うけど、儂は大学院卒だけど今の仕事はパートの主夫だ。

学歴を否定するわけではないしパート仕事を卑下しているわけでもない。
言いたいのは学歴は将来いい生活をする為のパスポートではないし、どんな境遇であろうと生活する事についてこの国は不安があってはいけない、と憲法が宣言しているという事だ。

そもそも学歴のための勉強だと?
想像するだけでクソつまらんそんなものを学びだと呼ぶこと自体違和感しかない。
「個別最適化」の話(個別化することで逆に画一的になるというパラドックス!)でも思ったけれど、そもそも勉強(というか学習というか)の定義からして狭い定義の中に押し込められたパッケージから抜け出せないでいるのだ。
あぁ、くだらんくだらん。

支配的な思考から自由にならない理由の合理性は思い込みに支えられている。

そして、ひょっとすると最大の思い込みは
「学校は社会に出るための訓練をする場所」
ということかもしれない。

子どもたちは皆学校に行くことになっている。いや、正確に言えば、親には子どもたちに教育を受けさせる義務があるから、当然のように子どもたちは学校に行かなくちゃいけないと思っている、ということだ。
だから、子どもたちにとっての日中の居場所は学校しかない、と思われている、というのが正しい言い方だろう。

でも、著者は看破する
「学校は、むしろ一般社会から隔絶された時空間である」
と。

こうも言う
「教員の『社会に出てから困るぞ』という決まり文句」で教員自体が「学校は『社会』ではないと認めている」
と。
確かに(笑)。

子どもたちは学校に行く以前に家族という社会、場合によっては地域という社会や、塾やクラブチーム、趣味サークルのような社会とも繋がっていたりする。もちろん、個人差があることについてこの社会はめくじらを立てるのだろうけれど、その規範が問題であることは本書全体で書かれているとおり。
学校以前にすでに社会的に生きている子どもたちを社会から隔絶して、社会はこうだと社会とは違うルールを教え込む場所学校(苦笑)。
そんな学校からはみ出てしまった子は学校に行かない代わりにまた別の社会と繋がるチャンスがあるわけだから、逆に社会を学ぶ機会を増やす事になってしまうという逆説(冷笑)。
もう学校いらないよね(爆笑)。

子どもたちが「安定」している方がいい、などともいう。
荒れる学校、的な物言いの対局として言われる言い方と了解されていると思うのだけれど、はたしてどうか?
「波風を立ててくれるな」というメッセージは儂がPTA役員をやっている時に校長教頭から受け取った強いメッセージでもある。高校の時に授業中の態度を咎められて反論した時の教師のとにかくそれをするな、という理屈に合わない物言いへの不信感は、この「安定」を求める学校の態度と思えば合点がいく。子どもというのはそもそもはみ出す存在であり、また学ぶとか考えるという動きは動的なものだ。「波風を立てる」は確かに問題を起こすというニュアンスがあるので適当ではないかもしれないけれど、それぞれの子が自分で学ぶ考えるという時に想定を外れた動きが出るのは当然であり、それはむしろ「安定」からは程遠いことだろう。

例えば、インクルーシブなんて言うけれど、本当のインクルーシブ教育を実現したいのならアナキズム的思考は必然だと思う。いや、控え目に言ったとしてもアナキズム的に考える事は少なくとも実現への近道である、とは言えるんじゃないだろうか。
障害を持っているなど多様な子どもたちを単に同じ教室に入れればそれがインクルーシブ教育になるなどと呑気に思っている人は流石にもういないとは思うけれど、ならば、何が必要か?
制度やら設備やらハード面についてはみんなよく考えるのだろうけれど、実は必要なのは人々の中にある「無意識の良心」というべきか。少なくとも上から権威的に押し付けられる通達や方針などでない事は確かだろう。儂ら一人一人のアナキズム的な相互扶助や寛容が教育現場にもたらされたときに実現されるものなのではないだろうか。

ぶっちゃけ、儂は焦っている。
何故なら、今子どもたちが学校に殺されているからだ。
わざとラジカルな物言いをしているけれど、決して大袈裟な話ではない。
著者も最後の最後にこう書く。
「(学校で構築される権力)関係の中で子どもたちが『死んでいる』」「体罰によって、あるいは指導と称して、これまでいったい何人の子どもたちが死に追い込まれてきたのか」
他にもイジメを苦に、学校からはみ出してしまった果てに自死した子もいる。学校内での性被害など悍ましすぎて正視に堪えない。

学校は子どもにとって他のどんな場所よりも安心安全な場所であって欲しい、というのが儂の1番の願いだ。そう、家庭よりも安心安全な場所でなくてはならないと思っている。なのにその場所が子どもを殺している、など到底許せないのだ。

著者は上記の記述がある最後のチャプターに「アナキズムの魅力」という優しい見出しをつけている。魅力。。。うん、かなり強力に魅力的だ。

でも、儂はこう言いたい気分なのだ。
「子どもたちの命を守るために、今すぐにでも学校にアナキズムを」
と。

あらためて言うと、
アナキズムは決してアブナイ思想なんかではない。
むしろ、人間の気持ちに根差した相互扶助に信頼する優しい社会の思想だ。

儂は修羅の価値観より温かい規範の世の中で生きていきたいのだ。