光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

晴れていたが、ポカポカではない散歩道

2008-12-16 18:27:30 | 散策
  なるべくなら、毎日ある程度の距離を歩きたい。これが一番安上がりだし、気分転換にもいいようだと思っている。早足で、歩きたいときもあれば、そうゆうことは考えず、時計の針のように音をたてず、歩きたいとも思う。気が焦るときがある。天候の急変や、予定の時間に間に合わない、遅刻だ、財布忘れた、そうゆうことは散歩ではないけれど、天候はたしかに、一番重要で、今はもう冬だから、雪も降れば雷も鳴る。
  それが当たり前。だから、バッグに傘を入れ、さらには、いざというときのために、合羽も小銭入れも入れる。それが当たり前だ。と、思っているが、そうでもない日がある。この辺りが、感覚を麻痺させるものであって、ときに痛い目に会う。

  なかなか思うように、ある距離を歩くのも結構にむつかしい。そのときに応じて、適度に策を練らないといけない。ない知恵を絞っても何も出て来ないが、きょうなどは、好天である。のんびりと歩きたいが、そうはいかない。まーそれなりの理由というか、要因はあって、なによりも散歩を優先させることも出来ず、出来る中から、これしかないようなものを見つける。もう少し体力があれば、もっとこれらのことは簡単だろうけど、それがない。かぼそいくらいに、体力もなく、それでも少しは運動をと思っている。
  大体、なぜか太ってしまった。これにも理由みたいのがあるが、それだからそれが許されるかというと、自分でもこれはよくない、という思いがある。むつかしい。何とか、まずは歩くことを続けないと、って、最近同じようなことを繰り返し書いているようで、自分でも少しおかしいと思う。

  道の選択というと、サイコロでも振ってみたいが、スゴロクでもないので、一歩下がってということも出来ない。一時、逆に、つまり前を向いて後に歩くというようなこともやっていた、というのはたぶんTVだろうが、これも最近はブームでもないらしい。危ないし、もともとそうゆうように人は出来てはいない。蜂でも、トンボでも、またチョウでもなく、人だから、前を向いて前を歩くのに限る。
  道か、なんだか選択の余地がなくなってきている気もする。もう少し何とか出来ないか、考えるが簡単にどこかにポーンといけるわけでもないし。バス停には、じっとバスを待つ方がいる。この方の姿を見ると、こうゆうことは自分には出来ない、と思ってしまう。今は特に冬だし、無論夏は暑い。ただ、バス停の印のみある、バス停。幸いか、そのそばに、建物があって、うまくゆけば風くらいは、しのげる。そのくらいだな、雪が降れば、それが溶けて水浸し、車は走ってゆくし、ようやくバスが来たというときは、くたびれきっている。

  それで、晴れだと日向では、多少はポカポカもしたが、外はこれは予想外に寒い。寒いといってよかった。だから、真冬と同じ格好でちょうどよく、それでどうにか早足の必要はなかった。で、久しぶりに、持つものも持ったが、見るからに空は青い。それだけで、あとはなんにもない。そうゆう時間と場所を現わすにはもう少し修行が必要なようだ。
  少し書いたが、寒ズズメが大群でいた。今年は、この寒スズメは多そうである。どこに普段いるのかこれが不明で、今ごろになると、電線なり、あるいは葉を落とした木々の枝に、かなりに密集する。その鳴き声も結構大きい。また、その大群が翅をバタつかせて、飛び立つときは、新しい風が吹く感じもある。どんなものを食べているのか、一番興味のあるところだが、これがまったくわからない。田んぼのそばに多いのは事実だが、そこに食べ物があるのか、不思議である。

  木々というと、新しい芽を完成させている。快晴の空に、ハクモクレンがきょうは暖かいといっているような気がした。それで、すでに出来上がっているかの、その薄い草色の、新芽を見て、しかしこれから来る、冬の間にこの芽はどうしているのか、ふとまた不思議の「ふ」の字が、頭の中で浮かび上がる。


  今年の6月のファイルから。




  ヤマアジサイか、ガクアジサイかというもの。毎年出る。




  この花も、面白いというか、公園で咲いているのを見る場合が多い。これは畑。




  用水に水が入る。この水面の太陽光の反射光を撮ると、面白いものが結果として残るが、ここは、原色の葉っぱ、と、それと重油のような水面の感じが面白く思える。『恐怖の報酬』という映画が思い出される。




  6月の初めだと、イネも緑がようやく成長し始めるころ。これが、9月の半ばには収穫される。

  これとは関係がないが、今年の新米、といってももう見当外れかも知れないが、やけに水っぽい感じがするのが、これまた不思議。 

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