もう真っ黒な世界であるが、木々や建物の影より空ははるかに明るい。
お花やさんというと切花が売られているところを想像するが、滅多なことで、そこに行くこともない。切花が贈られることもあるが、この花は最後は土に返る。この様子を2、3日に1回くらい本の数秒眺める。それだけで十分で、また2、3日がたつ。見る。この繰り返しが、チョウ・スローモーションカメラに写る映像のように生き返ることが、この花をカメさんで撮っていると、可能になる。最後には、少しくたびれたしかしまだ輝きと新鮮な色を失わないものが、土と同じ色になる。姿、形も残らない。
この変化は、日々、私がものを食べてそれが消化されて、最後は排泄物だけになるのに似ている。花の形は、または葉っぱや茎は、消化酵素の変わりに微生物がそれに取り付いて、やがて分解される。花の持つ、構成成分である有機物のエネルギを微生物は摂取し、その結果花は、茎や葉は簡単な化合物になってそれは、もう形も色もない。それが水であったり、炭酸ガスであったり、窒素成分や硫黄成分であったりする。これらは、やがて、次の植物の栄養にもなる。太陽のエネルギを固定するということで、植物は形と色を持って、やがて花を咲かせる。再び、太陽のエネルギを固定して、植物は輝く。お米は人の口に入る。いくらかは、アルコールにもなり、人を酩酊させる。お酒の話しは、ストップしたほうがよさそう。
ここの近くにも園芸店がある。鉢に植わっている花や、潅木が多い。よくはわからないが、ときどきお店の前に派手な色、賑やかな色、好ましい色の木々、同じような形容が出来る花々も咲き乱れる。こうゆうものを、購入される人がおられてそれが庭先や、通り道の脇に出ていると、やがて花が咲き、また木々は赤い実も付け、それを見て美しく思い、ときに撮らせてもらう。黙っているときが多い。外側に出ているからで、道からも見えている。ときどき、おうちの方がおられる。そのときは、なるべく、きれいな花ですね、すいません撮らせてもらっていいでしょうか、そう聞く。大概の場合、OKになって、ありがたく思う。
きょうのその園芸店には、まずはハボタンがあった。これがかなり並んでいて、少し興味を引かれる。それ以外に、また多くの晩秋から冬の鉢の花やら木々があった。しかしきょうは、他にも用があってその花々を眺めることもなかった。なんだか、きのうも、そうだった気がする。いつのときからか、秋も遅くなって色々な花が出て来るので、よく知らない私は驚いたが、例えばシクラメンとかも今頃出て来るものではないか。間違っているかも知れないが。
シクラメンの花は、鉢でテーブルの上にずっとあった。かなり長くあって、あまり気にもしなかったが、秋から冬ころにあるいは時季に関係なく何度も花が咲くので、これはおかしくはないか、そう思ったことがある。水くらいは与えていたようだが、他はよくはわからないが、ずいぶんと長くこのシクラメンはあった。今はない。
他にも、いろいろな花が年末も年始にも出て来るようで、しかし越冬の作戦もこの地では必要である。多くは、暖かな室内に移されて見ることも減るが、たまに晴れ間もある。そうゆうときに午後に歩くと色鮮やかな鉢を見ることがある。
よく考えたら、これは真冬のこと。まだ真冬には程遠い。今からまだ秋の花々は咲く。と、思う。で、天気予報はTVで半分空耳で聴いていたが、明日の最高気温はきょうより10℃低いという。それがここのことか、他のところかはっきりしない。そうなったら、これまた大変。ほんまにそうなるんやろうか。
秋のセイタカアワダチソウ。これももう最後かな。
セイタカアワダチソウも、さほど高くなく、またその数は減ったと思う。
畑に咲く、白い菊がきれいだった。畑だから栄養も行き届いている。これが切花になって、室内で輝くようである。そうされている姿をすでに見ていた。だからその後のものである。
晴れで、菊は白い。この白を飛ばさないように、露光を短くする。
鉢で見る菊とはまた違う。切花専用の花?。
下の方にもたくさん花が、また蕾も多い。
お花やさんというと切花が売られているところを想像するが、滅多なことで、そこに行くこともない。切花が贈られることもあるが、この花は最後は土に返る。この様子を2、3日に1回くらい本の数秒眺める。それだけで十分で、また2、3日がたつ。見る。この繰り返しが、チョウ・スローモーションカメラに写る映像のように生き返ることが、この花をカメさんで撮っていると、可能になる。最後には、少しくたびれたしかしまだ輝きと新鮮な色を失わないものが、土と同じ色になる。姿、形も残らない。
この変化は、日々、私がものを食べてそれが消化されて、最後は排泄物だけになるのに似ている。花の形は、または葉っぱや茎は、消化酵素の変わりに微生物がそれに取り付いて、やがて分解される。花の持つ、構成成分である有機物のエネルギを微生物は摂取し、その結果花は、茎や葉は簡単な化合物になってそれは、もう形も色もない。それが水であったり、炭酸ガスであったり、窒素成分や硫黄成分であったりする。これらは、やがて、次の植物の栄養にもなる。太陽のエネルギを固定するということで、植物は形と色を持って、やがて花を咲かせる。再び、太陽のエネルギを固定して、植物は輝く。お米は人の口に入る。いくらかは、アルコールにもなり、人を酩酊させる。お酒の話しは、ストップしたほうがよさそう。
ここの近くにも園芸店がある。鉢に植わっている花や、潅木が多い。よくはわからないが、ときどきお店の前に派手な色、賑やかな色、好ましい色の木々、同じような形容が出来る花々も咲き乱れる。こうゆうものを、購入される人がおられてそれが庭先や、通り道の脇に出ていると、やがて花が咲き、また木々は赤い実も付け、それを見て美しく思い、ときに撮らせてもらう。黙っているときが多い。外側に出ているからで、道からも見えている。ときどき、おうちの方がおられる。そのときは、なるべく、きれいな花ですね、すいません撮らせてもらっていいでしょうか、そう聞く。大概の場合、OKになって、ありがたく思う。
きょうのその園芸店には、まずはハボタンがあった。これがかなり並んでいて、少し興味を引かれる。それ以外に、また多くの晩秋から冬の鉢の花やら木々があった。しかしきょうは、他にも用があってその花々を眺めることもなかった。なんだか、きのうも、そうだった気がする。いつのときからか、秋も遅くなって色々な花が出て来るので、よく知らない私は驚いたが、例えばシクラメンとかも今頃出て来るものではないか。間違っているかも知れないが。
シクラメンの花は、鉢でテーブルの上にずっとあった。かなり長くあって、あまり気にもしなかったが、秋から冬ころにあるいは時季に関係なく何度も花が咲くので、これはおかしくはないか、そう思ったことがある。水くらいは与えていたようだが、他はよくはわからないが、ずいぶんと長くこのシクラメンはあった。今はない。
他にも、いろいろな花が年末も年始にも出て来るようで、しかし越冬の作戦もこの地では必要である。多くは、暖かな室内に移されて見ることも減るが、たまに晴れ間もある。そうゆうときに午後に歩くと色鮮やかな鉢を見ることがある。
よく考えたら、これは真冬のこと。まだ真冬には程遠い。今からまだ秋の花々は咲く。と、思う。で、天気予報はTVで半分空耳で聴いていたが、明日の最高気温はきょうより10℃低いという。それがここのことか、他のところかはっきりしない。そうなったら、これまた大変。ほんまにそうなるんやろうか。
秋のセイタカアワダチソウ。これももう最後かな。
セイタカアワダチソウも、さほど高くなく、またその数は減ったと思う。
畑に咲く、白い菊がきれいだった。畑だから栄養も行き届いている。これが切花になって、室内で輝くようである。そうされている姿をすでに見ていた。だからその後のものである。
晴れで、菊は白い。この白を飛ばさないように、露光を短くする。
鉢で見る菊とはまた違う。切花専用の花?。
下の方にもたくさん花が、また蕾も多い。
早いもので、ハボタンの季節なんですね。
今日もちょっと暑いかなぁ。と思うような一日でした。
助かりますが、また大きな地震が来るのではないかと、心配です。
暖かい日が続いています。天気情報だと、何度か冷たい雨があっていいはずなのですが、それも少ないようで。
暖かいというか、早足で汗が出ます。冷や汗もありますが、で、その後そのままだと冷えてくるので、一度は着替えました。しかし暖かいのは、この点を除くと楽なことはたしかです。
地震は、これはもう日常的にあるようで、でも大きなのは、来ないとはいえませんから、これは怖いです。いつどこで起こるかそれはわからないと思います。わかっていても、怖いですが。
最近は、「人間だけ」が若返ってゆくというようなことを考えたりもします。回りのワンちゃん、ネコちゃんは歳をとるが、人は若くなる。科学やら、生活はどんどん進歩する。でも、人は若返って、やがて亡くなった人が登場する。おじいさん、おばあさんがよみがえる。自分はさらに若くなって、青年に戻り、最後は、子供になって、ついには消えてしまう。
なんだか人の時間軸が反転しても、大して変わらないかも知れませんね。