光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

青空の柿

2007-11-07 18:51:07 | 散策
  朝起きて、少し明るく、それで、鉢に植えてある植物を見て、なにかぽつんと天上から降ってきたものがあったが、それは雨でないとしたら、何だろうか。セミのオシッコでもないし、鳥の落し物でもない。

  いいお天気になって、まー自分の体調のことはあまり気にしないほうがいい。早く忘れた方がいい場合もある。そんなこと気にしない、そうなれたら大したもんだ。特におかしくもない。何もなかったように振舞う。
  いいお天気だし、買い物のこともあるし、まずは歩かないといけないし、それにできたら書き込み用の、これは言い訳のような気もするが、写真も撮っておきたい。そう思う。
  一番いいカメラ、写真機は、自分の思うようなものをただ、ボタンを押すだけで撮ってくれるもので、それはしかし夢のような話し。それに近いものはないかというと、そうではなくてあるようにも思える。ピンホールカメラに近いもの。ただ、ボタンを押せばいい。
  使っているものに、マニュアルのモードがあって、レンズの合焦距離を固定できると、これは、ほとんどお任せカメラに近くなる。露光関係は、機械でやってくれるし、オートフォーカスの必要がないから、ジーという待ち時間、焦点を合わせる時間がないから、ほぼ、押せばすべての操作は終わりである。一々、液晶の画面を睨む必要もない。
  こうゆう便利というか、合理的なものは、さらに、無限遠にも合わせられれば、尚のことよい、多くのものに採用されていると考えていたが、どうもそうでもなさそうで、この辺は何とも不可解な感じもする。

  あまりまだ、なにかを睨みつける、そうゆうことはやらない方がいいようで、もっぱら、適宜、これはよさそう、そう思うものを、ポチポチ撮った。カチッで終わり。
  青空がある。頭の中も、ゴミくずみたいのはあっさりと捨てて、この青い空の記憶で満たしていたいと思う。気温が上がって汗をかき始める。まー、汗が出ないよりもよさそうである。それにしても、11月なのに、その押し迫る気配はない。もう今年も終わりですよという雰囲気はない。のほほんとしている。妙な葛藤だとは思うが、これまた事実。


  秩父の札所4番に金昌寺というお寺があって、昔、芦ヶ久保から丸山に登り、さらに歩いて、このお寺に着いた。このときの天気は非常によくて今でも思い出すことが出来る。ついでに書くと、西武秩父駅までも歩いた。このお寺に着いたときは、結構くたびれていたが、お寺の記憶はこれは薄れて、ここに青空に柿の木が聳え立っていて多くの方がこれをぱちぱちやっていたような気がする。青空に柿の風景を見ると、まず、最初にこの、金昌寺の青空の柿が、どうしてもよみがえる。

  スケールがぜんぜん違うが、ただカチッという感じで、近くの柿の木を撮る。



  今年は、まず柿の葉が多い。例年、ひどく虫に食われていた。今年は、なぜか葉っぱはあるし実も多い。これに青空が加わると、やはりいい眺めである。



  葉っぱがきれいに落ちて、実だけが残る、そうゆう柿もあってたぶんこれがそうだと思う。秩父の金昌寺で見た柿も、こうゆう感じであった。画面の端っこを切り取っているので、なんか歪みが出ているかも知れない。  

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