光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

本屋さん、待望論

2008-10-10 18:40:09 | 散策
  辛気くさいことばかり書いていて、これではいけない。まーそうゆうことばかりがあって、しょうがないが、無いものについてどうのこうのいう方がよさそうな気がする。そうゆうこともやっていると思うが、なかなかその方向へ自分をもっていくのも少し、しんどい。

  ラジオで、辛辣な批判を聴くことはあまりないが、公共交通機関が少ないとか、あるいは、本屋さんがなくて、困るとか、あるいは何とかという、コンビニエンスストアを誘致して欲しいなど、これはなかなか勇気ある発言だなと思うことがある。そうゆうことをいう方がいて、思わずその通りだと内心拍手する。大体がその程度で終わってしまう。寂しい。
  本屋さんが、あるところでは昔からないが、まー最近は街の真ん中から消えてゆく本屋さんがある。最近ではなくて、かなり昔、20世紀に老舗の本屋さんが店を閉じた。そうゆうこともあった。何とも、昔からその本屋さんは知っていて、またその当時もその本屋さんに何度も行っていたから、そのことを知ったときは驚いた。また逆な言い方になるが、それだけ本屋さんを取り巻く環境というものも厳しいものがあったのだろう。今は、みな郊外に本屋さんは出来る。集客能力とかいうことを第一に考えるのであろう。本屋さんの匂いというか、香りも、その店の味もすべて消えうせる感じが、昔も今もある。

  それで、郊外というのも妙だが、ある程度駐車場も確保できて、それで交通の要所というところには新しい本屋さんは今も出来ているようで、スーパみたいな感じもする。実際、スーパの隣が本屋さんというのがあっておかしくはない。これも、構造的な問題かな。「てくてく」歩いて、本屋さんにゆくというスタイルがなくなった。学校だと、まだ生協で、本を扱っているのだろう。それはあるが、今は街の中心の本屋さんというと、一軒しか思い浮かばず、それでも、まだそこに本屋さんがあるありがたみがある。

  何か催しをやる。それが今はライブだったり、それから、オーケストラの公演だったり、劇であったり、ちょっと本とは違うが、似ているものにも思える。そうゆうことが出来るというところも、増えたり減ったりで大変なようだ。それでも、そうゆう公共性のある建物がまだ出来ているし、それから、その活動も盛んであって、これが減るようなことは今のところないような気がする。最近だと、お隣の金沢までいかないと見ることの出来なかった、ライブやらコンサートが「この地でも観賞できるようになりました」、そうゆうニュースがラジオをで流れる。
  大いに、早くチケットを「ゲットゥオー」して欲しいなど、滅多に使わないカタカナも登場する。これをそのまま本屋さんに当てはめることは出来ないけれど、本の愛好家の方は多い、と思う。ちゃんとラジオで、それが一番望むことですという意見が出る。こうゆうものはなかなか浸透しないかな。

  駅の本屋さんを利用するときがある。これくらいしか、今は本屋さんにゆかない。病院とかのそばにあれば、とも思うが、これは無理みたいだ。それでも、昔みたいに、街の真ん中に何軒もの本屋さんがあった時代を思い出すと少しわくわくする。辛気くさいものも吹っ飛ぶような気もしないではない。そのものをもっと詳しく調べてみたりもするかも知れない。本屋さんはあるところでは増えているようであって、しかし自分の近くにはない。ずっと待望していても、本屋さんは出来ないが、本屋さんを待望している気持ちに変化はない。


  派手目の色の花。似たものどうし。




  ちょい派手な、青空にスイフヨウ。




  執拗に、スイフヨウ。まだ蕾がたくさんあるからね。最初から、もう赤目のスイフヨウも見つけた。




  もう最後らしい、サルスベリ。ものすごく小さなサルだと、この木にも登れそう。えらく縦長になってしまって、すいません。




  サルスベリの縮図かな。  

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