光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

時雨と明暗

2007-10-17 07:30:55 | 散策
  朝の天気、小雨か、晴れか、よくわからないお天気。風は弱いが、方向は定まらないようである。室温17℃、これは普通。
  西の空は、真っ黒な雲が下のほうまで垂れ込めているが、少し手前のものには日が当たって、例えば、電線の鉄塔などに、それが、スクリーンに写る映像のように映える。 
  時雨というと、なんか風流で、しかも滑稽な感じもする。時雨も春雨も似たような気がするが、時雨は、冬の始まりと考えるべきで、きっとその寒い雨に打たれた人が、悩んで考えて、佃煮を思い出し、この言葉がなぜか、冬の小雨に合うとでも思ったのではないか。
  きのうの夕刻から宵の雨は、かなり局地的なもののようで、でも、その雨は、今もときどきパラパラ来る。雷もなって、この辺りでは、それを表わす言葉がちゃんとあるが、ただ、まだあの程度の雷では誰もその言葉を使っていないようである。

  午前は0時からスタートするが、ほどほどに自然現象で起きることがあって、窓を開ける。こうして星空が見えれば、なかなかいいものである。夕方から、宵、それにその日の午後の遅くというのも、星は見えているが、なぜか、ちょっと空気もにごっているし、自分の頭の中も雑音で反響している。これに比べて、一眠りした脳は少しは透明になり、星の美しさが、ストレートに、単純に伝わってくる気がする。
  今日の午前も、雲の合間から、お馴染みの星ぼしが見えているが、雨を降らす雲があって、今ひとつ、ピリッとした、針穴のような、それに、見えているのか、見えていないのか、そうゆう際どい明るさを持った、しかし面積は持たない、そうゆう星は、見えていないようである。
  また、星空も一旦その位置がわかると、この星は何座のα星であるか、もういいと思ってしまうが、ここでしばらく眠気と寒さを我慢すると流れ星の一つも見える可能性はある。人工衛星も見える時もある。流れ星に関していえば、特に、流星群というものが出現する時間帯ではなくても、それはそれで、見えるものであると私は思っている。これは経験からで、何々流星群が、その軌道と地球の軌道が交差しているはずの時に、その流星は見えなくて、という事はよくある。でも、冬で空が晴れる可能性の高い地域では、特に冬は流れ星が見えやすいと思う。
  この流れ星以外に、地球の周りには色々なものが、人工衛星と一緒に回っていることになっている。特にその正体を記すこともないと思う。これも、だんだんではあるが、地球を回る軌道からはずれていって、最後には大気圏に突入する。流星と同じ原理で、大気との摩擦で高温になり、燃えると同時に発光もして、目で見える。

  でも流れ星が見えないから、といって、嘆くこともないと思う。こうゆうものは、ほどほどに見えるからいいのであって、毎日、夜になればいつでも、そこら辺で、光が、真っ黒な天球を走るというのも不気味なもので、寝てもいられない。やっぱり、一月に一回、あるいは半年に一回、あるいは1年に一回見えるか見えないか、それくらいで、この星を眺めるのが、遭遇するのが一番と思われる。
  流れ星など、見たことがない、そうゆう方も多くおられると思われるが、それが普通であると考える。でも、まー、たまには星空を見て、真っ黒けの世界に、白いあるいは、青白い不気味な輝きを見るのも、これはまた結構なことである。

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