光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

カエデのまだ散らない葉の赤み、ネズミモチの真っ黒な実、遠くのイチョウの黄色

2014-11-22 13:48:51 | 植物・花(秋)
  気温、気象台の外の気温も、いえの中にある温度計も20℃。


  窓を開けている。北風である。

  北の窓を開けて、その方角を見ると、そこにカエデの大きな木があるが、下からだと

  あまり赤味はわからないが、ほぼ同じ高さの窓から眺めると、かなり赤いことがわかる。

  このカエデの木は、ここのいえのもので、左側にある。お隣さんのものは右。

 
  よく右と左を間違える。タクシーに乗るとき、あるいは運転は確かだと思って、3度くらい姪っ子

  の車に乗せてもらった。で、何度も右と左をよく間違える。

  前、後ろ、これはあまり出て来ない。でも、左右上下は結構頻繁である。


  この北側の窓から、カエデは見えるが色は赤い。でほかにも、それほど大きくはないが、

  やはり色の濃い木はあって、ここからだと、あるお寺のイチョウが黄色い。

  そこでよく写真を撮った。そのお寺、もちろん古くからある。付き合いもあって

  祖母のほうは、そこでお葬式をやった。


  もちろんよく通る道に面しているが、遠くからといっていいここのいえから眺めると

  あの方角にあるのか!。というのもなかなか、ピンと来ないので。

  おそらく、こちらからはそのイチョウであそこにお寺、というのはわかるが、お寺からだと

  ここのいえは見えないし、目立つものもないので、方角を指してもかなりずれるだろう。

  
  道で説明するのも、今はうまくいうことが出来るか、心配になってくる。

  なかなかそのぴったりな言葉が出てこない。右左もある。目立つものもない。

  何か商店とかあれば、それは目印になるが。

 

  この辺りもそうだが、ある程度の古い時間を持っている、歴史といっていいかも知れない、そうゆう地域は

  どうゆうわけか、道は細いし、くねくねと曲がっている。いえも隣とくっ付くようにも

  存在していて、きっと、初めてそこの担当になった、たとえば郵便配達の仕事をされる人は

  大いに困るだろう。富山で生まれて言葉は富山弁だが、さて場所はというと皆目わからない。

  言葉だって、恐らくかなり違うものもあっておかしくはない。

 
  少し昔の?、昭和も50年ころだと、一応ちゃんとした電化された鉄道があって、そこの駅が一つの基点に

  なっていた。そう思う。

  ここのいえは、たとえば一つの駅から恐らく歩いて10分くらいで着く。

  そのお隣の駅というのは、ここは終着駅のあるところではない、二つあることになる。

  一つは少し遠すぎて、もう一つは、わずかに遠いか、あるいはいつも使うところと同じ距離。


  それでも、その違う駅に向かう道は、歩き慣れていないものだから、なんだか緊張もした。昔でもね。

  その後、私がここに住まないといけなくなって、でも結局歩くところ、行くところは決まっていて

  なかなかそのお隣の地域まで足を伸ばすこともなかった。

  いかない方がよかったかどうか。何しろ、ここの地域そのものも、今はもはっきりと

  どこに何があるかどうゆう道があるかわからない。一つは道も大きくなり、また新しい道も

  出来たからだが。


  そのここよりも迷いやすい地域というのは、今はどうにか道はわかるが、

  そこよりさらに遠いところ、というのも結局、昔の線路に沿ってになるが

  二つの地域があって、一つは海に近く、そこもこれくらいわからない町はないなー

  というくらいの、ぐにゃぐにゃ町。でも、そこのほうが有名で、ちゃんと銀行もある。

  郵便局だって、民間に委託されているものではない。


  で、ここからだと、海は北側だが、反対の南側というのは、こことの間に大きな田園地帯がある。

  一種異様な空間だが、ここに今はバイパスが走り、またその様相も違ってしまった。

  のどかな田園風景というものは、こうして失われる。


  父の時代などだと、その丘陵にも近いところは、公園でもあって、遠足にいったそうな。

  もちろん、実際のところは、そんなには離れていないが、歩きなれない今の時代、

  はるかに遠く思われて、でも実際は近いという、不思議な感情がわくことはある。

  もちろん、そのところは私も道しか知らないが、墓地などもあるところで

  それこそ、10kmくらい走ることが出来る人は、朝飯前のトレーニングにちょうどいい

  距離のようである。


  単純計算だと、3、4kmあるのかな。これも、かなりあやふやである。

  ここのいえの周りの木の高さも、年々高くなる。で、視界もなくなるわけだが

  ただ夜は、空は明らかに「アカルイ」というのだけはわかる。

  
  いまどき、本当に田舎というのは、この辺りだとクマが出そうなところまでゆかないと

  いけなくなった気はする。もちろん、そこにも人は住んでいて、最後には廃村とかに

  なっているようである。これがなくなってゆくのは、実に悲しいしまたもったいない話。

  どこにいっても同じだべ、は面白くない。

  

  ネズミモチの実、だんだんと干からびてゆくようである。朝撮ったもの。

  カエデ、これも。



  その一。ヒョウタンに近い形と思っていたが、そうでもなくなった。




  その二。真っ黒で薬みたいでもある。




  その三。ヒサカキの実のほうがツヤツヤしている。




  その四。カエデ。朝早くだと、光が強すぎて感覚がよくわからない。




  その五。ネズミモチで、残っているものは、背の高い木。それには実はたくさん。





  その六。もう一度カエデに戻って。




  その七。




  その八。きれいな色というのはなかなか出ないな。お寺にあるカエデのあるものは、いい色が出る
  のはわかっているが。



  

  その九。ネバっとしたというか、もやっとした感じ。




  その十。もう一度、ネズミモチ。


  うまくいい条件のときに、もう少し歩くことができたらなと思うが、そうゆうときに限って

  身体が動かなかったりで、

  結局、だんだんと行動範囲は狭まる。

  頭の中は、何にも障害はないのだが・・・。



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