光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

穏やかで温かみのある、絵画的な日の出、雪なくなりそう

2015-01-27 14:03:01 | 散策
  雨。気温は下がっている。


  きのう、筑摩書房のPR誌、ちくま2015年2月号が来た。第三種郵便ではなくなった。

  封筒からその文字を消してあって、消せないところでもないが、右上に宛名の紙が張ってある。

  岩波の図書は、まだ来ない。30日ごろだと思う。『図書』には、すでに第三種郵便の文字はない。

  いつなくなったのか気が付かないまま。多分むかしは、第三種郵便。


  これを昔、私も会社にいたとき扱ったことがある。



  画像はやけに穏やかな、25日の朝の日の出、とその後の景色だが、これと関係なく、思い出すことを

  書くしかない。何か書くに、あまりにも何にも印象に残らないものを書いてもという気もする。

  争いごとを望まない私、にとって、戦争とかの文字は書きたくもないものだが、仮想敵国あるがごとく

  過激の文字が頻繁に使われる、最近の国際情勢で、実際のところ、それだけかというと違うだろう。



  私の母は、と何度も書いているが、すでにもう亡くなっているし、最後はちょっと大変だったので、あのままさらに

  長生きしていたらどうなったか、というようなことも思う。

  でももうそれはない。

 
  母は、富山というか越中に縁がないことはない。もともと、母の父は今は高岡市になっているが、中田という

  ところの出で、どうゆう理由か知らないが、長男だったが、家を継がず、都に出た。最初はうまくいったらしいが

  戦争もあったからか、最後は、どうも芳しくなかったようである。私の小さいころ、多分小学4年生かのときに

  亡くなっている。そのときは母は、当然葬儀に出かけて、しかし子供二人は邪魔で、近くにいた
 

  仲のよくなった方の家に預けられた。特に悪いものではなく、他所様の家で、食事をし、小学校に行くのは

  楽しかった。だから私は母方の祖父のことをおそらくまったく知らない。


 
  で、東京の大森という、その当時は結構鄙というか田舎で母は生まれているが、当然戦争のときは

  いつごろからかは知らないが、疎開、でも昭和19年か20年近くだったかも知れない。

  富山の大空襲のとき、母は、不二越という会社に勤めていた。疎開先で勤めもしていたわけである。


  空襲のそのときまで、工場にいたらしく、もちろん中田から通っていたことは考えられない?。どこかに

  寄宿していたのだろう。

  その当時、今私がここにいる場所でもあるが、富山の北側は焼けることはなく、つまり爆撃機も飛んで

  来なかった。で、これも2度ほど書いているかも知れないが、ここにいた、その当時は母と関係のない、

  父の母と、妹はこの場所にいた。年齢は後から知ったが、少し離れているので、まだ若いというところ。

  で、これは実際に聞いたことだが、街が焼けるのを見ていた!!というのである。



  父は、もちろん軍隊にいて、千葉は館山にいたらしい。父の父、つまり私の父方の祖父ももちろん戦争に

  いっていて、これは本人からは聞いていないが、父の話だと、海軍にいて、駆逐艦に乗っていた。

  が、多分米軍のだろう、魚雷かで、その駆逐艦は爆破されて、沈没したが、板切れ一枚で、海の上を

  漂っていて助かったという。これは初めて書くこと。

  でも、これは本当かどうか、なんともいいようがない。でも海軍にいっていたのは事実で、軍人恩給なるものを

  
  いつからかわからないが、戦後もらっていた。これは、私もその源泉徴収、最後のを見た。



  富山の大空襲は何度も語られて、新聞に載るし、またTVでも、語り部となった方はその悲惨さを話す。

  母は、神通川に逃げず、その反対の田んぼのほうへと逃げた。

  それで助かったということで、で年齢も若いので、どうゆう風にして帰ったのか語ることもなかったが

  中田まで歩いたという。たしかに、空襲のあとどこかに行くところがなければこれまた命に保証なく

  どうにか長い距離を歩くだけの体力はあったようだ。


  神通川の悲劇は、これもよく語られるが、そこに逃げた人は亡くなられた方が多い。運命の分かれ道だった。

  これは、過去の話でもあって、でもほぼ真実で、その後どうゆうわけか、母は父と一緒になるのだが、

  なかなか大変だったと思う。


  これ母もよくわかっていることだと思うが、戦後とはいえ、結構父の母も厳しく、また小姑だった叔母なども

  私の母に、結構、こうしろ、あーしろといったらしい。

  特に気の強い、今まだ仙台で生きている叔母は、母のことはあまり好きではなかったらしいが、

  その後、父が東京で勤めているときに、父を頼り、母に頼って、東京まで出てきているのである。


  いずれにしろ、生命力の強さというのを感じるが、いかなる理由があれ、戦争をすることは無慈悲で

  これくらいに哀れでおろかなことはないのである。

  戦後という言葉が、二度と「戦前」にならないように、肝に銘じないといけないが、果たしてこうゆうことが

  当然の認識として通用するか、そこまで決定的でない「雲行き」はある。

  多くの人がこれを危惧している。


  画像。




  その一。1月25日、そのときはわからなかったが、いかにも穏やかである。




  その二。心和む風景画のようで、これが続く世でないと。




  その三。




  その四。




  その五。1月25日は、その後は青空が出ている。




  その六。




  その七。




  その八。このぼんやり感も、ありがたいものの一つ。




  その十。南側の残る雪、これはもうない。でも他に日の当たらないところはあって、そこの雪はまだ

  融けそうにない。


  狂信的ともいえる国粋化、でいいことは一つもない。



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