光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

行雲か閑雲か

2007-05-16 07:30:31 | 散策
  朝の天気、晴れ。ほぼ快晴。うす雲が少し、穏やか。室温17℃。
  日の当たっていないところに行く。少しひんやり、さらに、冷たいトマトなど食すると、これは野菜ではないことがわかる。冷たすぎる。さらに、味がない。端境期のしょうもなさ。それで、冷えてきてヒータを付ける。まだ、灯油ヒータを出している。これが必要なのである。
  まわりの木々の葉が、やけに大きく生長する。妙な表現だが、幹や枝も伸びて、さらに新芽が出る。ここには、常緑のモチノキがいやっというほどあって、これがやけに目立つ。カエデや、柿の木も、これももう古木といっていい、100年以上生きているに違いない、すでに、葉っぱは出揃った。虫がいれば、これはおいしそうですぐにも食べられてしまう、でも、まだそのような状態になっていない。この木を見ていると、これまであった、空間がなくなったようで、また雲の流れも見えなくなって、何とも複雑な気持ちになる。
  行雲野鶴、と言う言葉はなかった。行雲流水であった。さらに、それではと、野鶴を引くと、閑雲野鶴があった。行雲流水は、執着することがない、と言うこと。それに対して、閑雲野鶴は、何の束縛も受けない、と言うところが、注目するところかも知れない。似ているようで、かなり違う。なかなかそうゆう風に生きる事は出来ない、そう言う意味では、似ている。
  鶴は一応生き物で、これは意思をも持って行動する。自分の本能というものがある。子孫の繁栄のために、生きている。水は、これは、自然そのものに近い。あるいは自然そのものか、それだと執着なんてないだろう。ポテンシャルに逆らって、滝を逆行する水はありえない。しかし、水がなければ、まず生き物の存在は考えられない。こっちの方が、低次元、原始の存在。それに、執着云々の意味を持たせているのは、何かより深い意味があるのかも。
  天気がいいから、どうもおかしな事がよみがえった、そうゆう事です。

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