20160126 介助ありトランスは自分の間違った思い込みがあった

2016-01-29 11:39:11 | 通院リハビリ
血圧120台。今回のリハビリはいつもと違っていた。
                                 
自宅でトランスの練習に付き合ってくれている父を中里先生が今回呼んでくれたことだ。父は時々トランスを介助していてうまく行っていると感じ、私が全くそれを感じていない。その両者の感じ方の違いは、父が正常で、私は異常?だったわけである。

トランスの身体の動きは、車イスとベッド間などを瞬時に移動している。このときお尻はほんのわずかに浮き、移動先へ向かうためわずかに足は地面に着くことが同時に起こっている。
私はこの「同時に」動作する動きがわかっているようでそうじゃなかったみたいな。。。
よくわからない動きは、「お尻が浮く」「立つ」とバラしてイメージし、「飛び跳ねるようにお尻が浮く」「膝をまっすぐにして立つ」と事実とかけ離れたイメージをしていた。それに気づいて脳の間違ったイメージが描き換わって、急にトランスが楽になったのではないか。

リハビリ前日、トランスの練習の動画である。
このとき動画を観て、自分がイメージと全く違う動きをしていることに、私はがっかりした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

以前に書いた原稿

2016-01-24 13:00:51 | 日記
前回のリハビリを見学された池田先生について。
自分は本当に池田先生にリハビリを観察して頂いただけで、池田先生のお顔もお名前もはっきり覚えているなんておかしいと思った。

ところが、過去のメールボックスの中に、1通、2008年に池田先生に送ったメールが残っていた。
内容は、認知運動療法研究会(現在、認知神経リハビリテーション学会に改名)の会員に配布されるtemiという冊子の原稿だった。中里先生に原稿を書いてみてはどうか言われ、書いた原稿をメールで送っていたことを思い出した。 中里先生と池田先生の認知運動療法における仕事の関係はかなりあり、私が大久保病院で受けた認知運動療法の戦略(?)は、池田先生も一緒に考えてくれたのではと思われた。

添付されていた原稿である。

--------------------------------------------------------


これまで認知運動療法を約4年間続けている。 その間、様々な身体の変化が起きたが、特に印象的なものとして足の装具が不要になった体験と、徐々に我に返っていく経験について書きたいと思う。

私は勤務中に突然倒れ、失語症を伴う重度の右片マヒとなった。 倒れて約1ヵ月半で峠を越えたと家族から聞いているが、確か自分が枕もとにあるカレンダーを見て「まだ倒れて1ヶ月半しか経っていなくてよかった。」と思ったのを記憶している。 右半身が動かない状態になってしまっているのに、会社を休んでしまっている期間だけを気にしていて「よかった」と感じている時点で、そのとき自分の身体が片マヒであることは気にも止めていなかったと思っている。 片マヒになってしまったのだから、何でも片手で行う生活が始まったのだが、これからどう生活していくかなどを考えることもなかった。 今思うと、本人は能天気で、周囲の人間が苦労していたと思う。 ただこのときの私も不都合に感じていたことがあり、それは失語症で片言でしか言葉を話すことができないことであった。

退院後、認知運動療法開始前の生活

退院後は、病院では感じることがない不都合がいろいろあった。 私は250が120より大きいという違いはわかっていたが、それを足し合わせることができなかった。 一人で買い物するにも計算ができず、2,3百円台を超えない品物をいくつか選び、支払いはいつも1000円札で買い物をした。 一人の友人にメールを打つにも何時間も時間がかかり、そのメールの内容も何箇所も助詞が間違っているなど、いつも夫に内容を確認してもらってから送信していた。 本を読むにしても、せいぜい見開き1ページ読んだだけで頭が疲れ、読んだ内容もほとんど忘れていた。

洋服もおしゃれをするためではなく、転倒してしまうことを考えて常にジーパンを履いていたが、着替えた後に身なりを整えることはなく、人から言われるまでジーパンの裾がまくれているようなことには気づくことができなかった。

そして常に気になっていたことは、自分は目が覚めていない感覚であったことだ。 起床後に突然計算したり本を読むなど普通はしないと思われるが、私の場合ちょうどそのような“寝起き状態”であるような、頭がぼーっとする感覚が1日中続いていたのである。 頭がすっきりしないので何度も目をこすってはみたが、一向に頭の中が目覚めては来なかった。 私はこの眠気が取れれば、今の身の回りに起こっている不都合は解消されるのではないだろうか・・と感じていた。

認知運動療法を開始

大久保病院で約3ヶ月のリハビリ入院を終え、約2年はPTを受けるため月2回程度通院していた。 その間の病院におけるリハビリ目標は、今行っている認知運動療法に比べてみると非常に低かったと思う。 診察でも、リハビリ状況については歩行距離が伸びたかどうかを尋ねられるだけであった。 また私の場合、普段よりも長い距離を歩いたりすると足を痛めており、そのときリハビリに通院する目的は、その足を楽にしてもらうことであった。

ある時から中里先生が異動で来られ、大久保病院で認知運動療法が始められたとお聞きしている。 だがいつも頭が“寝起き状態”であった私は、従来の療法から認知運動療法に切り替わったという記憶はない。 ある日リハビリ途中に、「この最近始められたリハビリは面白いですね。」などと先生に話した記憶がある。 すると当時のPTのセラピストは、「え?もう半年位前から行っているのよ。」とおっしゃった。 この時期から“寝起き状態”から徐々に覚めはじめ、自分の記憶が定着してきたのではないかと思っている。

退院後はPTのみリハビリを受けていたが、徐々に歩行時にはマヒ手が肩辺りまで持ち上がるようになった。 そこで私を見てくださっていたPTのセラピストは、OTの指導が必要ではと依頼したことがきっかけで、中里先生にOTを指導して頂くことになった。

中里先生は、リハビリを終えた後に、リハビリ途中に感じていて話すことができなかったことをレポートに書いてください、とおっしゃった。 失語症は口から思うように言葉を発することができないだけではなく、頭の中で言いたいことを文章化することがうまくできない。 当時話したくても言葉にできずにいた私にとっては、リハビリを終えた後にその日行った内容を回想しながら、そのとき自分が感じて言いたかったことは何であったかを、時間をかけて言葉に変換するよいトレーニングになったと感じている。 

それだけでなく、レポートを書いている最中に、マヒ側の腕で何かが動いている感覚がしたり、リハビリを終えた後に外出すると歩き方がよくなったりすることがあった。

そしてある日気がつくと、自分の頭はすっきりと目覚めていた。

痛みで足の装具が履けなくなる

PTのセラピストから、日頃装具を取れるといいですね、という話をしていた。 でも私の気持ちの中では、2年以上装具をしている骨のないような感覚の少ない貧弱なマヒ足を思うと、装具を外した生活はやはり考え難いと感じていた。 だが、家族以上に親身になって指導して下さるセラピストを思うと、私でも何かできることをやらなければいけないのではないか・・・と常に感じていた。

ある晴れた日に、時間はいっぱいあり、いくら貧弱な足でも一歩ずつ、歩みを進めることができないわけでもないのだから、試しに時間をかけて近くのお店まで歩いて買い物に行こうという気になった。 慎重に慎重を重ね、何とか自宅とお店を往復した。 装具をつけずに杖だけで外出してしまったことについて、達成感を味わうことができた。

しかし翌日には、昨日のような装具をはずそうという意気込みは感じられず、いつものように装具をつけて外出した。 するとしばらく普通に歩行していたが、次第にマヒ足の足の裏側がちくちくと痛み出し、最後はガラスの破片を踏んでいるのではと感じる痛みになった。 何か異物が靴の中にあるのかもしれない、と靴も装具も脱いで確認したが何も入ってはいない。 その後は装具をつけずに歩くと痛みは全くなく、装具をつけると再び激痛が走るというように、頻繁に装具をつけたり外したりして歩いた。

セラピストにこの事を話すと、突然マヒ足が装具を拒絶することは理論的にはあり得ることで、今は過渡期にあると考えなければならないのかもしれないとおっしゃった。

装具を履けば痛みを我慢して歩かなければならず、装具を外せば慎重に慎重を重ねて超スローペースで歩かなければならない生活となったわけで、試しに装具をはずそうというきっかけが、結果的に歩きづらい生活に変えてしまったのか・・・と一時期落ち込みはした。 しかし後者の痛みがなく装具をつけない歩行の方がよいことは明らかだったので、元のスピードの歩行には2,3ヶ月を要したが、このことで装具をつける生活から開放された。

認知運動療法の治療は、無視してきた自分のマヒの半身の存在を気付かせてくれたこと、それと失語症の回復であると思っている。 失語症は、他人の話している言葉は聞こえているが、その内容を理解できないことがある。 また自分の話したいこともうまく伝えることができない。 他人の話もあまり理解できず、自分の気持ちも伝えることができないため、私は水面下でただ周りを見ているだけのような気がしていた。 認知運動療法でセラピストに誘導されながら「自分の感覚を問う」ことを続けることで、ゆっくりと周囲の話がわかり自分の考えも伝えられる生活の場まで引き上げられて頂いた気がしている。 また「自分を問う」ことで、自分の不自然な行動や言動などに気付かされた。 バランスが悪い不自然な歩き方などの気付きはそうでもなかったが、特につじつまの合わないことを平気で話していたというような失語症に関すると思われる気付きは、穴があったら入りたくなるような恥ずかしさがあった。 でもその恥ずかしいと思うことを今、食い止めることができたのだと開き直ることにしてきた。

 今も過去の記憶で戻っていない部分や、倒れる前より頭の回転が遅いなど、脳の中の障害はたくさん残っている。 しかし目標あるリハビリを今後も続けたいと思っている。 障害のない人から見たらそれは些細な目標かもしれないが、片マヒでほぼ回復不可能と思われ諦めていた自分の身体が、実際はそうではなく少しずつ変化している自分の身体を考えれば、少しでも着実な目標を持つことは有意義に思えてくる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20160119 体調はいまひとつ・・・見学して頂いたのに・・・

2016-01-20 12:28:05 | 通院リハビリ
<本日の体調>
血圧は120台。今朝は98、リハビリ後自宅での血圧は150台。昨年暮れからの風邪がまだ治らないらしい。。。ドライウェイトも少しずつシャントが止まらないように下げていただいているが、食事をとっているわりに風邪の治る気配があるかないかわからない。

先週はお腹の風邪であることは下痢を起こしていることから明らかだったので、リハビリはお休みした。今回は午前中に訪問看護師さんに右足が冷たいとはじめて言われたが、本調子じゃないがリハビリに出掛けた。

先週と今回リハビリ前日、自宅で父と行なったリハビリについて夜にブログに書いていたものの眠たくなり、リハビリ前に読んでいただきたかったので、翌朝に続きを書きアップした。

<リハビリは惨憺たる結果に>
リハビリでは自宅と全く同じ設定は難しいため、車イスからつかまって立ち上がる部分は、リハビリ室にあったはしごのようにたくさん手すりがついたもの(名前がわからない・・)と車イスを使った。

地面についた足裏の感覚はあっても非常に弱かった。立ち上がろうとすると、手すりをつかむ手が滑っていた。足だけではなく身体全部が移乗を行なうことに対して協調性が感じられず力も出せなかった。


昨日自宅では「立つ事はできない」と感じたのは、足に力がなさすぎるためだった。父に肩を支えられたが、自分の右足は崩れ落ち、膝は完全に曲がっていた。先生の足の支えが少なかった場合、この日も同じことが起きたはずだと思う。


「あ~あ。」という感じである。リハビリを行なう上では集中力を欠いていたり力を思い通りに出せないときには、寝込む程ではなく本調子でないだけでリハビリを休んでしまうともったいない気がしまい、リハビリをお願いしてしまった。

<リハビリを見学された方とは>
今日は池田さんがリハビリを見学されてくださった。中里先生に「この方を知っている?」と聞かれた。

10年以上前に、1度目の脳出血でリハビリと透析で、最初に倒れ搬送された駿河台日大病院から(都立)大久保病院に転院した。リハビリテーションの部屋は広くきれいで真面目な第一印象が残っている。

重度の右片麻痺で、退院後は足のリハビリを診てもらっていた。徐々に右手の緊張が強まり、普段右手は肩まで持ち上げて歩くようになってしまった。

そこで手のリハビリを診て頂けることになった。このときから中里先生による指導を受けはじめ、右手はまっすぐ下におろせるようになり、亜脱臼を起こしていた肩関節も回復した。2度目の脳出血で右手の緊張はまた起きているが、亜脱臼は治ったままである。
リハビリ回数は、PTとOTを週に1回ずつ受けていた。PTでも認知運動療法だった。

(都立)大久保病院で、私は池田さんにお会いした記憶があるが、お話をした記憶がなく、人の名前を覚えるのが苦手なのになぜ思い出せたのか不思議だった。病院では池田さんはリハビリを観察されているようにみえたので、認知運動療法について研究されている方だと思っていた。池田さんは、ネットで見ると首都大学東京の教員紹介ページにお名前があり、「さん」ではなく「先生」という立場だった。。。


先生につかまりマットからマットへ3m程歩いた。歩き終わる瞬間、右足の膝に軽くひねった感じがしてちょっと痛かったので先生に伝えた。右足はひねっていたのではなく、放散反応を起こしそうになっていた右足を食い止めてくれたそうだった。恐らく右足の膝が強く曲がりそうだったのを止めてくれていたと思う。
歩くような動作をしたときに右足に放散反応があったのは、今まであったのだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自宅でやってみたトランス

2016-01-18 23:43:22 | 日記
透析後はいつも父が介護に来てくれている。最近は風邪で体調がすっきりしないが、こういうリハビリはできないか、書いたものを父に見てもらった。透析後のちょっと疲れがあるときにリハビリをすれば、疲れが全くないときには身体は動きやすいのか・・よくわからないがそんな気はしている。。。
ーーーーー

介助なしでトランスが行なうことができないとき、それができるようになるまでやってみる
 自宅でのトランスの練習

<設定>
ベッドの頭側にサイドレールを設置、サイドレールのない足側に車イスの左側がベッドに接するよう横付けする。横付けする位置は、車イスに座った状態でサイドレールにつかまることができるようにする。ベッド側のアームレストとフットレストははずすなどする。


<実際の訓練法>
患者はサイドレールに左手でつかみ、左足1本で立ち上がる。介護者はこのとき倒れないよう患者を支える。
立ち上がった足の向きは、ベッドに座るために方向転換する必要があるが、立ち上がってすぐベッドに座ろうと腰をひねるなどして、サイドレールにしっかりつかまりベッドに座れるようにする。

この反対の動作は、まずサイドレールにつかまり立ち上がる、足の方向転換を行ない、すぐさま座れるよう車イスを介護者により近づけてもらう。

これが問題なくできれば、透析開始前の移乗は楽にならないだろうか?現在移乗時には抱き抱えられて透析スタッフの方にお願いしている。
ーーーーー

これくらいのことは以前からできたような樹もするが、考え付かなかったというのはたぶん怖くてできなかったからだと思う。先週は少しできたが、今日は血圧が高めで疲労もありさっぱりできなかった。予想通りに身体が動きそうだと思えたからリハビリをやってみたくなった気はする。日常でまずなかったつかまって立ち上がる動作は、先月入院中のリハビリで何度も経験し、自分で動かせる可能性があるものに思えていたこともある。

現在は左足は滑って安定しない。
左足がしっかり立つにはどうすればいいのだろう。
まだあまりやっていないが、以下のような足裏が平面に安定させるような感覚の慣れはできないものだろうか。
ーーーーー

小さい車イスではフットレストを使わず、台を起き。その上に両足をのせてデスクトップパソコンを使ってみる
足裏を平らなものにつける習慣

かねてから、先生から足を地面につけるよう言われていたが、日常生活ではそれを行なっていなかった・・・ フットレスト上の右足は内旋しており、ここで足裏を地面の方向につけるのは難しいそうだが、両足をフットレストよりも若干前方に出すと、右足の内旋はゆるみ、そこに足をのせる台を置く。両足の足裏に台に接していることを習慣づけることはできないか。
ーーーー

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20160105 口腔ケアスポンジによる刺激の成果

2016-01-06 11:26:35 | 通院リハビリ
2016年最初のリハビリの血圧は150以上あった。次に測ると139、その次は145。その日の朝は98だった。血圧がどうも変動するようだ。


口の中を刺激する変化

先生に、口を中を刺激しても最近あまり痛くならないことを報告した。
先生は手袋をはめ、口を刺激してもやっぱり痛くはなかった。よかった。毎日夜の歯磨き後に口腔ケアスポンジで刺激をして、痛みが弱まり出したのは1週間過ぎた頃だった。ただ治ってもたぶんこの刺激は、うまくしゃべったり食べたりできないうちはずっと続けるべきだろう。

■口を大きく開けて使う
私はキャップを手ではずせないとき歯を使うときがあるが、直径が10cmもあるようなキャップだと、口も大きく開けて、涙がでそうな痛みを感じていたが、その痛みがなくなっていると知った時、口の筋肉はやわらかくなっていると実感できた。

■咀嚼
無意識に奥歯での咀嚼が少しだがみられ、これができると咀嚼後すぐに食道に運ばれている感覚があった。

■ストローをくわえる
これも時々ほんのわずかしか感じられていないが、ストローを口に近付けると、唇がストローの形状に合わせる動きが出て、すぐ吸うことができた。
 

トランス

■斜面に両足裏をつけ、両足をサポートされながら、同方向/互い違いに動かす
サポートされている足だったが、自分で動かせるのではと思えるほど自分で足を動かしている気分だった。でも右足は連続の動きがしたいのだが、休み休みの動きしかできなかった。

■座るとき、膝が曲がる右足
右足はよく曲がり足裏は地面に着かない。
でも足裏は地面に着き、右足全体が静止するときがある。
このとき最も痛みを感じるのは、硬い股関節?坐骨? 
ひどく痛く、この場所に体重が乗っているきはする。そうだとすれば、右足は静止できているわけだし、見たところおかしなところは見当たらない。おかしいのは、理由がない痛みしか考えられなくなってくる。先生はこの右足の形は、トランスに必須アイテムかもしれない、とおっしゃった。

今回はトランスで、自分の身体を自分で移動させた感覚がうすかった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年最初の排便は自分で摘便だった・・・

2016-01-04 21:15:05 | 日記
元旦に頭痛になりおせち料理も食べられず、2016年のはじまりはついてなかった。
年末年始は訪問看護師さんはお休みで、家族で排便を行う。いつも家族による浣腸は母がやってくれて、問題はなかった。しかし今回の浣腸は逆流してしまい半分も入らなかったというのだ。

実は同じことは過去に起きていて、原因は硬めの便が肛門出口を栓するような状態。この場合、看護師さんが摘便を行い「栓」を取り除く。でも今日は摘便を自分でやると言うと、母は無理だと言った。
でも強い便意が起きており、肛門にある便を出さなければ便意は消えない。

入院中に1度摘便をやらせてもらったことがある。実際便を取り出すことはできず、便に触れることしかできなかったが。


手袋をはめ、指にプロペトをつけた。便にはすぐ触れたが、指はすべってしまい、便は肛門出口まで持ってくることすらできなかった。もう1度浣腸したが、やっぱり逆流する。

今度はプロペトをつけずにやってみた。今度は便を崩して肛門出口まで移動させ、爪側の指でピンッと飛ばすようにして「栓」を取り除くことができた。

この後は腸内に動きがではじめたようで、ピンポンボール大の便が自然排便された。開通できたときは本当にほっとした。

便がカチコチに硬かったら便は崩せたのだろうかと思った。看護師さんは指だけでできてしまうのはすごいと思う。


2016年初のブログに、このような内容にしたくはなかった。。。


摘便で思ったのは、マヒで鈍い左手は、集中して便を出そうとしているときには感覚がわかりにくいとは全く感じなかった。
手の甲側など手のいろいろな感覚を摘便では利用できていたようだ。


<追記>
プロペト(白ワセリン)について、訪問看護師さんより伺った。
摘便で指にプロペトを塗るのは、体液が少ない肛門内の摘便で潤滑剤の役割をしている。(保湿効果も)
プロペトを塗りすぎると、やりづらく感じるかもしれない。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする