う~ん、原因は「老い」?

2021-03-12 23:26:19 | 考える
約10年療養生活を続けて、ここ2~3年に床ずれや誤嚥性肺炎が起きています。
療養生活始めてずっとなかったのになぜ今なの?、ちょっと不思議な部分は少しあったんです。

鏡で自分の顔を見てシワ増えたなと顔の皮膚を引っ張ったとき、数年前にはできたのに今はできないことは50歳近くで寝たきりの自分なら当然だったのか、と今更ながら気づいたんです。
今までなかったシワは今ある。

考えないと崩れていく自分がいると思いました。

今までなかった誤嚥性肺炎が起きた原因は「老い」で、へんな飲食の格好の負担が表面化した結果ではないかと思っています。
食のリハビリを実践しなかったら、徐々に嚙んだり飲みこむなどを制限して、胃ろうが必要です。
誤嚥性肺炎をしょっちゅう起こして抗生物質の点滴にお世話にはなれず、そんなことがいいはずがない。

誤嚥性肺炎の原因はおかしな飲食方法だと思っていて、口に入れたら口を閉じることができれば解決するのではないかと思っています。
飲みこむまで顔を天井に向けてしまうのは、口の中のものをこぼさないようにするためだからです。
上を向いて飲みこむからむせが起こり、「老い」のせいか、食事が増え飲みこんだものは今まで気管に行かなかったのに、最近飲みこみミスが発生しているのではないか。



こんなこと考えてもよい解決方法が見つかりません。
はやく見つけないと食べることができなく可能性があります。。。

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認知神経リハビリテーション

2020-05-04 11:32:15 | 考える
新型コロナウイルスの影響で、先週からリハビリはお休みである。
リハビリ療法士さんからリハビリお休み中の宿題をいただいたり、訪問看護師さんに時間があるときは足を動かしていただいている。

でも・・・
不真面目だなと思うが、真剣に宿題に取り組んでいない。。。

自分が受けている認知神経リハビリテーションは、偶然1回目脳出血後2年過ぎたあたりに受けた。
この療法は、リハビリ療法士の学校で学べないので、国家試験でも出題されないという。
この療法で患者を診ることができるリハビリ療法士さんは、リハビリ療法士の資格取得後に独学されている。
認知神経リハビリテーションは、発展途上にあって、いろんな可能性を秘めている、と私は思う。
だから、寝たきりなのに立ちたいというリハビリ目標でお願いしてしまっている。


ふと、このリハビリがお休みになって、今までこの新奇なリハビリを受けて身体はどう変わったと感じたとか、リハビリで受けてきたこととかを書きたくなった。
それを書くことによって、自分は今何をしているのか知ることができたらいいのだが。
自分はこれをやっておけば安心、と思えることが少ない。。。
心配性なんだろうけど。あれこれ考えていると少し落ち着く感じ。


以前、このリハビリを受けて身体はどう変わったと感じたか、認知神経リハビリテーションの講習で体験談を話したことがあった。そのときの原稿である。(2005年3月)

※ 2010年、認知神経リハビリテーションは、認知運動療法から改名されている。
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以前感じたストレス

2020-04-28 15:49:01 | 考える
2回目の脳出血後になった寝たきりでほ、ほとんど外出しない生活をかれこれ9年過ごしてしまった。外出とは透析のための通院と、たまに連れていってもらうお買い物。

1回目の脳出血で片麻痺のときはひとりで外出は可能で、2回目の脳出血後に寝たきりですごい身体の動きに不自由を感じたと普通思うが、自分の身体がどうなっているかわかっていなかった。
ある意味ショックもなく幸せと言えそうだが、それは長くは続かず、自分の身体?何もできないと気づいたのはリハビリで入院中。退院したら、あれこれと考えできそうなことを想像していた。

この時の自分は、動けないけど、退院したら楽しみが待っていると信じてた。
が・・・

「これ以上介護を増やさないで」

自分がやりたいことは、介護者が必要で簡単ではないことに気づいた。

「あ゛ー、つまらない・・・」
入院中と退院後、大して変わりないのではと思ってしまった。

料理に挑戦しても介護者がほとんどやっているようで、私は力がなく何もできない。辛うじて使える左手ですりおろしたりまぜたりは、右腕が緊張してしまい、いいはずがない。
まさにふて寝状態であった。

入院中より退院後の方がぼんやり考えることが増えた。
自分がやりたかったものは何だったのだろう。
自分だけ面白いなんて面白くない。
何もないところから喜びを発見するのが私の生活に変わったのでは。
喜びに大きい小さいもなくて、喜びさえあればうれしい。
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私が成人したのはいつ?

2020-01-13 23:01:27 | 考える
成人式できれいな人を見るとやっぱりいいなと思う。
今日は透析を終え、送迎車の窓から眺めていた。

私が2浪してしまい、20歳になる年のお正月は、今度失敗したら3浪なんて1度も考えていなかったけど、自分を祝う気分になれず成人式には出ていない。
出ていないから、成人式の格好をすればよかったと思うし、自分の過去には成人した節目がないと思う。

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自由な身体

2019-11-23 00:39:43 | 考える
脳出血後、自分はとかくmustな思考だったと思う。
片麻痺であれば、移動するには念頭にあるのは転ばないようにしなければならない、現在であれば、話せないからこれから会う人に話すはずのことは予め文字にして置かなければならないなど。
この思考に感じるのは、どことなく規則にはまった融通性のなさではないかと思う。

脳出血後で残った障害がある身体での生活では、できることは制限されて、自分の思考も制約されていないか。

考えたり想像することは、そう言えば自由である。

現在のリハビリで、考え方を変えたら身体は軽くなったりしている。
リハビリの進展を左右するのは、ひょっとすると考え方の柔軟性もある気がしている。
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PAPER BLOGから自分の異常性を感じた

2019-10-14 11:09:18 | 考える
最近さぼってきたヘルパーさんに読んでいただくPAPER BLOGを書き、自分はオタクかもしれないと思った。
親から日頃しつこいと言われていた・・・人はそんなこと気にしないのに、私は気になる。
PAPER BLOGを書き、自分の文から数時間かかって間違いを探していたことを後から読み返すと、やりすぎじゃないか、時間がもったいないと思った。



元々の性格だったのだろうか、脳出血により発現した執着心みたいなものか。
考えてもわかりそうにないが、ちょっと異常っぽい雰囲気を感じる。

自分の行動を俯瞰して見ることができれば、安心できそうなのになあ。

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記憶の不思議?

2019-10-02 23:23:23 | 考える
前回のブログの最後を読んでくださった方は、私は英語が好きだと考えるのではと思った。

学生のときの英語は嫌いでも好きでもなかった。

英語を話すことができた時期はなく、学生のとき読むことはあっても、その後読む機会がなくなると、記憶した単語の意味はボロボロと頭から落ちる。
四則演算もままならない時期があった1回目の脳出血では、かなりの脳の壊れ方をしていると思っていて、英単語の記憶は少ない。

でも前回のブログで書いた英単語comfortableは、意味もわからず頭に浮かんだ。 おそらく英単語の記憶が今よりあったとき意味もわかっていた単語を思い出したんじゃないかと思っている。 妙に書いているブログとしっくりくる気がして意味を調べたら、自分が思う以上にぴったりな意味だったのでブログに載せた。


英単語は使わないと、その意味は記憶法にもよると思うが、わりと消えやすいと思う。
だが見た記憶はあるのに意味を忘れている英単語は、英単語のもつニュアンスみたいな「しっくりくる感じ」は、感覚のように消え難い記憶として頭に残っていて想起されたものだったのだろうか。



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未熟な自分・・・

2019-10-02 11:09:58 | 考える
前回のブログは、二人の方からコメントをいただきヘルパーさんは読んでくださったらどうお感じになるのか知りたくなくなった。

前回のブログでは、車イスで話せない自分は、傍から見ればベビーカーで笑っている赤ちゃんに近いと感じていた。

ヘルパーさんは、うまく表現できないが今日は嬉しいとおっしゃった。
子供の笑顔を見てこちらの表情がほころぶことは私も感じる。
声を聴かず話したことがない大人?の笑顔でも、ヘルパーさんには嬉しいという感情があると知り私も嬉しくなった。


他人の笑顔を見るだけで感じる感情とはなんだろうか。
視覚だけで起こる感情で、見る側の安堵感とか好みでるものだろうか。


自分の経験では、声を聴いたこともなく話したこともないのに人を好きになった中学生のときのことは理由がわからない。その人の笑顔が自分の感情を動かしていた。


ヘルパーさんの表現しにくい感覚や自分の思春期のときの説明できない感覚。
人がどう自分を感じるか気がかりだが、その仕組みは複雑そうだ。


誰から見ても自分は重度の障害者だが、自分がどう見える存在なのかやはり気になる。

comfortable
なんでいきなり英語?という感じだが、自分が思う最終的に身体から醸し出したい雰囲気ってこんな感じがする。
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見られる自分、それに納得してない自分

2019-09-30 17:01:28 | 考える
いつも思うことがある。
車イスを押してもらい、ご近所の方にお会いする。
ご近所の方と、車イスを押してくれる人とで、会話がはじまる。

私は話せないから笑っている。
そのとき自分は傍からどう見えているのか。
話すことができない、ベビーカーにいるニコニコした赤ちゃん?

自分を知っている方ならそういう捉え方はされなくても、初対面であれば、自分は何に似ているかで、自分の人物像を想像する気がする。

親と筆談で喧嘩するときがある。
明らかに喧嘩しているなら、書かれたものを見なければ不快にならずに済むのに、なんか見てしまう。
先日、「あー、あー、えー、えー、で、何を言ってるかさっぱりわからない」と言われたが、自分の発する言葉が、自分のイメージからかけ離れているとはびっくりであった。


こうありたい欲求。
最近、話せるようになる思いが小さかった。
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車イスの上で考えた・・・

2019-07-30 23:07:09 | 考える
上半身が左右自由に体重移動させて向きを変えることができたら、それまで会っていた人とサヨナラをするとき挨拶ができる。
車イスで移動してもらっている関係上、話せないこともあるが、せめて会釈でもサヨナラの挨拶をすべき人が後方にいるのに、上半身は向きを変えられず首もまわらないから、それができないことが多い。



上半身は何となく左右に体重移動しているようでも、移動した重みはどうやって足に伝えるのか。
フットレスト上の足に重さが伝わり、足の重さが上半身の向きを変える支えにならないか。

でも足に体重移動をさせたくても、念力でやろうとしているようでさっぱりできない。
アームレストなどにつかまらずに前屈みができたら、足への体重移動は楽そうな気がする。

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