田舎にいてもっとも厄介なのが、あいつは共産党だというレッテルである。古くはアカとも呼ばれていた。何をやっても、共産党だというのである。環境問題に取り組んでいると、共産党だ。労働組合活動をやっていると、共産党だ。九条の会会をやっていると、共産党だ。海兵隊反対を言うと、共産党だというのである。要するにその内容を確認することもなく、キョーサントー(共産党)だという全否定語を使うのである。
これは田舎だけのことかと思っていたら、百田尚樹という極右翼の作家であるが、中身も何もなく立憲民主党が共産党だというのである。だから何だとか、共産党だからどうだとかもなく、単なる否定語として、共産党と言う言葉を使っているのである。
私は、自民党をこのブログでボロクソに書いている。ボロクソに書くのは、それなりの理由をちゃんと並べて、自民党を否定したり安倍晋三に対して否定的発言をしているのである。多くの人たちは否定する理由を必ず書くものである。肯定する場合も同じである。
ところがこの国では、何の説明もなくキョーサントーだという否定語、しかも全否定語を用いるのか不思議でならない。その理由など述べることのない、キョーサントーと呼び捨てる。百田のように。
私は共産党が特段好きでもなければ嫌いでもない。むしろ好感を持っているが、その最大の理由は憲法20条三項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と以上分に基づいて、政治団体に政党助成金は憲法違反であるとして、受け取っていないことである。これはかなりきついと思われるが、共産党は頑張っている。このことに関しては、賛同する友党も存在しないので、将来とも廃止されることはないだろう。この矜持は高く評価したい。
そのために、縛られる団体などもない状況であるといえる。
日本共産党は過去には、暴力革命を目指したり、憲法9条を否定したり、中国やソ連の核兵器に賛同した時期もあった。日本共産党だけではなく、世界中の共産党は大きく変貌している。社会主義国家がなくなったが(中国は社会主義国家と自国を表現している)、名称だけは残しているという感じである。どの国の共産党も、中身は殆どつながりのないものとなっている。思想的にも共産主義と程遠い政党が多い。
財界や業界などの縛りのない発言は的を得ていることが多い。実現がほど遠いことも多くあろうが、ある意味それこそが政治であるともいえる。目先の利害関係だけで動く業界団体を、現実的いうのもおかしなことである。本来のある姿を失ってしまう。原発がいい例である。原発は不用のものと、ゼロをまず宣言することは評価するべきである。いずれ失くするのはその先の工程、手法の問題である。
憲法九条の戦争放棄も同じである。戦争をしないという事こそが大前提なのである。そこで何ができるかを考えていくべきなのである。その論議こそが大切なのである。ところが、世間はいきなりキョーサントーと言う全否定語を持ち込むのである。日本と言う狭量な世界である。