
山口県宇部市床波にあるの長生炭鉱で、戦時中の昭和17年(1942年)2月3日今から83年前に起きた、戦時一色下で厳しい増産命令で起きた水没事故である。この炭鉱は海底炭鉱なのであるが、海底から坑道まで極めて薄く、また排気や炭鉱の構造も極めて簡易に作られ、安全性など度外視したといえる炭鉱であった。犠牲者は183人であるが、136人は朝鮮人労働者である。坑口は事故後封鎖された。残された唯一二本のビーヤ(排気口:上図)が炭鉱の存在を物語る。
戦時中であることもあって、事故直後に救出不可能と判断され、事故後に憲兵隊によって坑口は封鎖されている。救出者されたものもなく、183人の犠牲者の大事故でありながら情報統制され、忘れ去られたままであった。多くが朝鮮人であったことや、基準から外れた違法炭鉱であったことも大きき関係しているものと思われる。
事故から40年後の1982年4月17日に、地元の自治会長など地域の有力者により「長生炭鉱殉難者之碑」が建立された。
1991年1月、市民団体「長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会」が発足し、朝鮮人犠牲者の名簿も発見され、40年以上の月日を経て初めて朝鮮人遺族に訃報が届けられる事となった。
同会がクラウドファンディングで募った基金でようやく、昨年坑口が発見され海中の坑道の調査、遺骨の発掘を目指すようになった。
ここに至っても日本の厚生省は、遺骨が確認されていないとか安全性などを理由に、「国による実地調査や民間調査への協力は現時点では考えていない」 と福岡資麿厚生労働大臣はコメントするのがようやくである。
戦時中日本や占領地の鉱山で、朝鮮人や中国人は最も危険な場所で、最も過酷な労働を強制されていた。当然事故にも多く出くわしている。日本政府は、朝鮮人も日本人とする建前とは裏腹に、不都合なことは蓋を、多くの事実はするばかりで何ら戦後処理をしてこなかった。
ようやく見つけた坑道そして一部遺骨も見つかっている。遺族の高齢化もあって急がなくてはならない。三度目の潜水調査が今月行われた。遺骨収集に政府を動かすためにも、資金不足の刻む会である。
刻む会の井上洋子共同代表は、三度目の今回の調査が日韓共同でおこなわれる意義深さを強調し、韓国から韓日議員連盟会長、韓国国会副議長、駐広島大韓民国総領事などから慰霊と激励の花が届いていることを紹介し、「残念ながら日本政府は、国会の場では“哀悼の意を表す”といいながら一度も現場に来ていないし、お花すら来ていない」と厳しい指摘を国に対して行っている。
以下は「長生炭鉱の”水非常”を歴史に刻む会」(共同代表・井上洋子、佐々木明美)より転載したものです。
<この事故の史実を正しく歴史に刻んでいこうと1991年に「長生炭鉱の”水非常”を歴史に刻む会」を結成し、3つの目標を立てました。
①犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑の建立
②ピーヤの保存
③証言、資料の収集と編纂
また、1992年以来、毎年、事故の日に合わせて韓国から犠牲者の遺族を招いて追悼集会を開催しています。
2013年2月2日、念願の追悼碑を建立したことを契機に、更なる大きな課題である遺骨の収集という問題に立ち向かうべく、2014年に新しく「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」を発足しました。>>
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