
プーチンが国連憲章が禁じる武力による威嚇、解決の手段前に外交的努力をしたのか、その努力があったのか、その破たんの結果としてかくも巨大な、”特別軍事行動”が突如行われなかればならなかったのか。そもそも、ロシア側には情報開示がほとんどない。
先ごろ、テレビ番組に関する気になる二つの報道があった。一つは、あるある大辞典とやらのことである。こんな田舎でも、納豆が店頭から消えてしまうほどの影響力がある番組を、残念ながらほとんど私は見たことがない。もともと信用していないからである。類似の番組も、所詮テレビでしかないからと思っている。
この国の人間は、こんなにも簡単に番組を信用する軽薄さを垣間見た気がするが、納豆関連の株が急上昇するのまで見ると驚きを隠せない。
競争相手の他の局は、これ幸いと一斉砲火の感がある。それでは、フジテレビのほかの番組は、雪印や不二家が他の商品まで影響を受けたことを考えると、この局の体質まで問われないのは不思議な感じがする。攻撃する他局はどうなのだろう。
いまひとつは、NHKの従軍慰安婦問題を扱った番組の改編問題である。番組は元慰安婦の証言や天皇に関する部分を、圧力で変えたということを東京高裁が「編集権限の乱用・逸脱」を認めたことである。編集者は罰せられたが、同じく圧力をかけた安倍晋三や中川昭一たちの圧力は認めなかった、片手落ちの判決でもある。
安倍晋三たちは慰安婦も金をもらっていたのだから、国内の慰安婦と変わりない。韓国や満州に日本は道路や鉄道や工場などを作ってやったのだから、礼を言われてしかるべきだなどと発言を繰り返していた。占領下で収奪するためのインフラ整備を感謝する民族などいない。
公共放送のNHKが国民ではなく、政府や権力者におもねるようでは、大本営発表と同類に堕してしまう。
テレビ番組製作者は、自らの持つ影響力の大きさを認識していないのではないか。それとも、自らも所詮テレビ程度のことだからと思っているにであれば、その影響力を
それにしても、最近は類似の事件が多すぎないだろうか。「ほら、例の幼児を××した事件だけど」と切り出しても、よくわからない。複数の事件が重なってしまう。内容的に類似のことが多い。事件は時代が作るものかもしれないが、妙だと思うには時代錯誤か?
報道する方も、事件には賞味期限があるらしく、どこか共通点があるような次の事件にすぐ変わってしまう。そうした事件が、時を移さず起きるのも困ったことである。警察にしても、次の事件が起きてから、そういえば前の事件も怪しいなどとあわてて捜査するレベルである。殺人事件など起こしても、しばらくじっとしていれば捕まることなどないのでないか。犯罪者が事件性とされずに、のうのうと生きているような気がする。かつての、検挙率世界一の日本警察はどこに行ったのであろう。
幼児の虐待や、若い女性を軟禁したり連れ歩くなど、かつてはなかったような気がする。ましてや、親が子どもを閉塞した空間で、虐めぬくことなど考えられなかった。核家族が進行して、若い夫婦が経験もなく理性も持たず家族の決定者となるのは無理があるのであろう。祖父母や地域が伝えた知恵を受け継ぐ機会も場所もない。こうしたことへの回答は、健全な農村の家族の中にある。拙書「そりゃないよ獣医さん」新風舎刊参照http://www.creatorsworld.net/okai/
聞くところによると6月頃から、北海道でも札幌周辺で地デジが始まったそうである。当方のような僻地では、通常の電波もロクロク届かない。新聞の番組欄でも、見れない番組がいっぱいある。ラジオもNHK第二は夜にならないと聞けない。英会話の勉強もできない。ラジオは外を走る車なら、よく聞けるが一般の住宅では室内ではなかなか聞くことができない。これで、NHK料金が全国同じなのは納得しかねる。
古い話になってしまうが、BS始まった頃には、僻地との格差がこれでなくなり全てはやがて衛星放送になると触れ込んでいたのは何処の方たちだろう。新聞報道の遅れも地方は厳しいものがる。北海道ではようやく、北海道新聞が前日のプロ野球結果を、報道できる程度であるが全国紙は翌日になっていしまう。携帯が何とか使える程度になったが、地デジとやらはこのような心配を解消してくれのであろうか。同じことの繰り返しで、田舎かが疲弊するばかりである。
田舎には、都会の人々の税金がこんなに投入されていると、正体不明の公共施設を背景に、若いレポーターが報告していた。建物の如何はともかくとして、田舎は人口が少ないために、都会の税金が投入されて当然である。世界中が都会になるとどのようなことになるか考えてみると良い。空気や水など、無料と思われるものすべては田舎、僻地が生産している。その見返りに、原発や産業廃棄施設などで、田舎がゴミ箱になっている。田舎、僻地、小農はこの国の邪魔者でしかないのだろうか。拙書「そりゃないよ獣医さん」新風舎刊参照http://www.creatorsworld.net/okai/
先日放送されたNHKの番組は衝撃的だった。チョコレートバナナにコーラの朝食、野菜を食べない子供らに迎合す親たち。「好きなものだけを食べる」この思想は、「好きなことをして何が悪い、他人に迷惑をかけなければ良い」とどこか符丁が合う。戦後この国が指標をなくし、それぞれが自らの保全に走った結果でないだろうか。われわれ戦後教育で育った世代は、実存主義を信奉するものが増えてきた。実存主義は、神への対抗軸として人間の存在を定義するなど、本来はかなり深遠な内容を持つ思想であるが、「あなたと私は違う」「価値観の相違」などと、ある意味論争すらしなくなる風潮の基礎を作ったように思えてならない。その結果が「好きなものだけを食べる」となり、自らの将来も社会のありようも無関心な人種を作ってきた。
これは「好きな人としか付き合わない」などとなって、社会構造などとは無縁の存在となる。しかし、彼らの好きなものは実は、様々な形でコントロールされていることすら気がつかないでいる。好きな食べ物は、甘く口当たりがよく簡便に作れるように作られ、繰り返しコマーシャルされる。それを受けて好きなものになっているに過ぎない。利潤追求の企業思想の傘下にあるだけである。好きな人も、マスコミが作り上げた虚構を追っているに過ぎない。タレントたちが声を高めて、他人を見下す番組が多すぎる。それも、読書すらしない「好きな番組だけを見る」人種には理解できないことかもしれない。