■今年2016年は、パラグアイに最初の移民が入植して80周年の記念の年です。南米のパラグアイというと、ペルーやブラジルほどの印象はないかもしれませんが、かつて多くの日本人が移民として海を渡り、パラグアイの地を踏みました。その歴史については、現地のパラグアイ日本人連合会のホームページに記載されています。
http://rengoukai.org.py/ja/la-sociedad-nikkei/historia
↑プリンセサMAKOの来訪を報じる9月8日付現地「ラ・ナシオン」紙の社会面記事。↑
今回の取材期間中、9月9日にアスンシオンの空港近くにある南米サッカー協会コンベンションホールで、秋篠宮家の長女・眞子さまが出席して日本人パラグアイ移住80周年記念式典が開催される予定になっており、今日がその日です。
↑式典会場の南米サッカー協会のある施設。↑
もちろん我が取材班は招待されていませんので出席はできませんが、大勢の関係者が出席して盛大に執り行われるようです。
ちなみに眞子さまは、パラグアイ公式訪問のため、9月6日午前に日本を発ち、7日朝、パラグアイの首都アスンシオンに到着しました。空港では、歓迎の行事が行われ、両国の国歌演奏のあと、儀仗兵の栄誉礼を受けました。そして、日本語学校の生徒などから「ようこそパラグアイへ」と歓迎されると、手を振って応えていたそうです。次の記事を参照ください。
※出典:FB「パラグアイ日本人移住80周年」↓
https://www.facebook.com/jp80py
眞子さまは、同記念式典に出席後、各地の日本人移住地を訪れ、9月16日に帰国予定ということです。
↑パラグアイ日本人入植地の地図。↑
■末尾のパラグアイ日本人連合会の記事にもあるように、パラグアイでは日本人の果たした役割が顕著です。
現在パラグアイ日本人連合会長をしている前原弘道氏は、1938年広島生まれで1958年に父親の前原深氏ら家族7人でパラグアイに渡りました。病弱だった母親のために、当初の移住予定地を変更し、街の近くに農園をひらき、トマト栽培などで業績を伸ばしましたが、収益の変動が大きい投機的な作物栽培に不安を覚え、安定した農場経営を目指して養鶏業をはじめました。単に卵や鶏肉の生産をするだけではなく、前原農商株式会社を設立し、農場の敷地内に工場を設け、加工から出荷・販売、さらに飼料の手配や雛の飼育までを手掛けるようにしました。その結果、現在では卵の生産量ではパラグアイ国内の7割のシェアを持っています。Yemita(ジェミータ)と名付けられた卵はパラグアイの殆どのスーパーマーケットで扱われており、誰でもYemitaの名前を知っているそうです。
前原氏のもうひとつの有名な事業として、アスンシオンから南東に30kmほど離れたイタ市の郊外にある広い平原の岩山の上に、日本の伝統的な城を父親の深氏と一緒に作ったことです。石垣に三層四階の天守閣は正式名称「御影城(みかげじょう)」と言いますが、通称「前原城」と呼ばれているそうです。よ
前原氏は養鶏業のほかにもスーパーの経営などグループ5社を保有していますが、さらに積極的に事業を展開し、2003年からは牧畜業も始めました。パラグアイの西部地域チャコ地方にある未開の原野約950平方キロ(東京23区の1.4倍)の牧場で、肉牛3万6000頭を飼育しています。
パラグアイでは大規模な牧場は珍しくはありませんが、通常は単に肉牛を放牧して置き、ただ漫然と成長を待つだけの放任的な飼育方法をとっているのにくらべ、前原氏は牧場の管理に工夫を加え、生産性の向上に取り組んでいるそうです。
■この他に有名な事例としては、日本で使うシロゴマの栽培で成功した話があります。
我が国は世界有数のゴマ消費国ですが殆どが輸入で、年間の輸入総量は約16万トンです。輸入ゴマのうち特に食用の白ゴマ生産が盛んなのが中南米諸国で、日本は2009年の食用白ゴマ輸入の90パーセント以上をパラグアイ、グアテマラ、ボリビアの3ヵ国に頼り、そのうち70パーセント以上はパラグアイ産でした。
このゴマ・ビジネスのパイオニアが日系人の白沢寿一氏です。白沢氏は1958年に家族とともに北海道からパラグアイに移住し、1981年に白沢商工株式会社を設立して、農産物の輸出事業等を手がけました。
パラグアイでのゴマ栽培の歴史は1990年代初頭から始まりました。小規模農家の貴重な現金収入源であった綿花の栽培が、価格低下などの影響を受けて急激に減少したため、なんとかしたいという使命感から、綿花の代替作物として、ゴマ栽培を推進したのが、現在「パラグアイゴマ輸出協会」の会長を務める白沢寿一氏でした。
同氏は1980年代後半から40数品種の白ゴマ試験栽培を通じ、日本市場に合った味の良い品種の開発を進めていたところ、1990年代初頭に、特にサンペドロ県で小規模農家の貧困が社会的問題となっていたため、綿花に代わる換金作物として、小規模農家を対象に白ゴマの種子を配布し、栽培の技術指導を開始しました。需要に先駆けて品種の開発を進めていたことに加え、社会情勢の変化などの追い風を受けて、現在、「エスコバ種」が日本市場で高い評価を受けています。
2011年3月11日に起きた東日本大震災では、パラグアイの多くの日系人から義援金が届きました。白沢氏は、被災地の悲惨な状況を知るといち早く、同社の創立40周年パーティーを自粛し、そのために用意していた10万ドル(約1,000万円)を日本大使館経由で日本赤十字に寄付したそうです。
■パラグアイの日系社会は、ゴマ栽培だけではなく、今や世界第6位の生産量(年間約800万トン)を誇るほどに成長した大豆生産のパイオニアです。またとうもろこし、小麦、トマトの他、野菜栽培を始めたことで、パラグアイ人に野菜を食べる習慣が広がるなど、同国の農業技術の普及に大きく貢献してきました。
とくに大豆栽培は、1950年代に日系移民が初めて栽培を行ない、70年代からは輸出も開始され、現在では世界第4位の輸出量となっています。大豆の栽培が飛躍的に発展したのは、日系移民がイグアス移住地で始めた不耕起栽培に由来します。
この栽培方法は日本の支援で1970年代にブラジルで導入されましたが、パラグアイで最初にこの栽培が試験的に導入されたのは1983年のイグアス移住地でした。1982年にイグアス地域を襲った集中豪雨で多量の土壌が流出し、それまでにも豪雨のたびに土壌が流出していたため、このままでは移民して来た努力が無駄になってしまうと恐れた日系移民の一人、深見明伸氏が1984年に不耕起栽培を本格的に開始し、その前年には窪前勇氏が小麦でそれを試みていました。
イグアス地域では日系人で構成される農業協同組合が全面的に不耕起栽培方法を取り入れて普及させ収獲も増え、1990年にはこの栽培方法がパラグアイ全土で知られることになりました。1996年には不耕起栽培普及率は40%まで発展し、それとともに同国の大豆生産量も急増したのでした。
残念ながらパラグアイで生産している大豆はほとんどが米国モンサント社が開発した遺伝子組み換えの大豆です。日本の大豆の国内自給率は僅かに4%で、残りの96%は輸入に頼っていますが、現在、世界の大半の大豆は遺伝子組み換え大豆であり、日本モンサントの報告によれば、日本国内の大豆使用量の75%は遺伝子組み換え大豆と推定されています。
米国やブラジルと同様にパラグアイでも、雑草対策などで除草剤を撒いても大豆は枯れず生産効率が良くなる遺伝子組み換え大豆の栽培が主流になっており、港には除草剤がぎっしりつまったコンテナがたくさん見られます。
本来であれば、非遺伝子組み換え大豆は生体にとって不自然な食材ですが、どうしてもコスト面で防虫、除草面で手間が省ける遺伝子組み換え大豆のほうが割安となってしまいます。
しかしそれでも、イグアス農協では1万8000ヘクタールの土地を使って、技術協力で開発された非遺伝子組み換え品種「aurora」を日本の豆腐用として輸出しているそうです。商業ベースとしては非効率的ですが、タンパク質含有量が高く、非遺伝子組み換え大豆を求める日本の消費者の声に応えようとする日系人農家がそこにあります。
■パラグアイの日本人移住の歴史は、ほとんどが戦後に行われたことにより、現在もなお一世のかたがたがおられることから、日本の文化がそのまま息づいています。しかし、次第に二世、三世の時代となってきており、現在はいかに日本人として、また日本語を話すことに対するモチベーションを維持していくかが課題となっています。
その観点から、最近注目されているのは、日本との時差が真逆であることを利用して、日本の建築事務所が、客の要望に合わせた設計の修正をパラグアイに事務所を構えて、日本語のわかる日系人スタッフにより、日本では夜のうちに設計図を修正して、翌日には顧客に提案するというビジネスを導入する例があるそうです。
この場合、日本では残業代が不要となり、パラグアイでの人件費も安価であるうえに、顧客に対して迅速にサービスの対応が可能となる、という利点が着目されたケースです。
ほかにも、パラグアイに進出している日系企業としては、自動車用ワイヤーハーネスの製造メーカーである矢崎総業やフジクラ、住友電装がここ2~4年の間に相次いで工場を設立しています。これはブラジルの自動車産業向けの製品ですが、どうしても自動化が困難のため、手作業として手が器用で工賃の易いパラグアイ女性がうってつけなのだそうです。
パラグアイでは伝統的な刺繍が盛んですが、これには細かい手作業が必要とされており、このためワイヤーハーネスづくりに必要な資質を備えているというわけです。
■引き続き、パラグアイ情勢について取材を進めてまいります。
【ひらく会海外取材班・この項続く】
※参考情報1「日本人移住者の歴史と貢献」
パラグアイ日本人連合会HP記事などからあらましを引用します。
1.当初の日本人の海外移住
当初、日本人の海外移住先は1868年(明治元年)にハワイのカメハメハ5世の要請で、150名が渡航したのが最初でした。その後、1885年(明治18年)にハワイとの間で移民条約が結ばれ、1898年にハワイが米国の一部に組み込まれたあとは北米への移民が始まりました。当時は、移民の大半が農民で、出稼ぎ労働者としての渡航で、永住が主目的ではありませんでした。
しかし、北米における人種差別による日本人排斥の動きが激化したため、1900年に日本政府は米国への移民を制限しました。ハワイには1900年まで国や民間企業の斡旋で移民が行われ、その後1908年まで自由移民が認められましたが、米国本土への日本人の移住が増えるにつれて黄禍論による排日運動が次第に高まり、1924年に排日移民法が制定されてからは対米への移民はストップしました。
当時の我が国の状況としては、1904年の日露戦争で勝利をおさめたものの賠償金を得られず経済は困窮し、農村の貧しさが深刻になっていました。上述のとおり米国政府は日本人移民受入れ数の制限を強化し、移民受入れ先として有望視されていたオーストラリアやカナダも日本人移民を制限したことから、日本政府は新たに移民の受入れ先を模索することとなりました。
一方、奴隷解放後の南米では、ゴムやコーヒーなどの大規模プランテーションにおける労働力不足に直面していたため、代替労働者として日本人の集団移民がペルー(1898年~)やブラジル向け(1908年~)に行われるようになりました、
ところが移住先のブラジルの場合、その実態は、出稼ぎにやってきた日本人の移民に対して、現地の雇用主は奴隷の代わりを日本人に求めており、この違いから生じる紛争が絶えず、移民による脱走や排日の動きが顕在化しました。そのため日本の外務省・拓務省はブラジル以外の国への移住の可能性調査を始めました。
2.パラグアイへの日本人移住
在アルゼンチン特命全権公使は当時のパラグアイ政府(エウセビオ・アジャラ大統領)より日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、1930年には「パラグアイ拓殖計画」を提出しましたが、これに対する日本政府の反応は薄く、実現には至りませんでした。
その後、1934年に排日機運の高まりを受けてブラジル政府が「移民二分制限法」(定住した当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令しました。このため年間2万人の日本人入国の枠組みが、一挙に年間2500人まで制限されたことから、一気にパラグアイへの海外移住の準備が加速しました。
しかし1932年から1935年のチャコ戦争後武力革命により政権を握ったラファエル・フランコ大統領は「入国許可は前政権からの許可であり、現政権は認めない」としたため、一旦は移住準備も頓挫してしまいましたが、関係者による交渉により、1936年4月30日大統領令第1026号をもって日本人移民100家族を試験的に受け入れる許可が下りました。
そして、1936年8月日本から最初の移民が到着し、現在のラ・コルメナ地区に居を構えました。コルメナ移住地は準備期間が短かったこともあり、その後たびたびバッタの大群の来襲にも大打撃を受け、退耕者が相次ぐなど、苦難の歴史を刻みました。
3.戦後のパラグアイ移住
1941年に太平洋戦争が始まると、パラグアイは日独伊枢軸国に対して国交断絶を宣言したことにより、日本政府の援助も、後続移民も途絶え、さらに、日本人移住者は敵性外国人として日本語学校・青年団の解体などを強いられ、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となりました。
戦後、日本は敗戦によりアジア地域からの引揚げ者・復員軍人などの1,000万人以上の余剰人口を抱えてその人口対策として政策的に海外移住を進めました。1952年にラ・コルメナの創始者宮坂国人氏の名義で日本人農業者120家族の入国許可を取り付け、1955年にはチャベス移住地への入植が始まりました。
しかし、日本政府外務省の一部の反対により混乱を来たし、現地での受入準備や分譲地準備もままならないままに移住者を受け入れることとなり、完全な自給自足に近い生活の中、原生林を切り拓いていくことになりました。
現地での受入状態が整備される間もなく次々と移住者がやってきたため、同年6月の4次移住家族の時にはすでにチャベスには配耕地が不足する状態となり、日本海外振興株式会社によってフラム(現在のラ・パス)移住地があらたに設けられました。
日本からの海外移住者の送出は配耕地の造成や受入準備の速度を上回り、1955年中にはフジ地区、1960年にはラ・パスおよびサンタ・ローサ地区が満植となりました。この過程で、受入設備のない未造成地に移住者を送り込むことになってしまったため、移住者らは極度な困難の中におかれました。
アマンバイ地区への移住はパラグアイ移住史の中では特異なケースでした。1956年コーヒー農園への契約雇用農として入植が始まりました。ところが、この移住に先立っては住居も何も準備されず、コーヒー農園の奴隷に代る労働力として導入されたという背景もあり、その労働条件や待遇は非常に厳しいもので、退耕者はあとを絶ちませんでした。そして1958年にはその雇用主が倒産したため、宙に浮いた移住者らは土地を探し、自営入植を進めていきました。
一方、フラム移住地の満植に先立ち、日本海外移住振興会社(株)が開設したのがアルトパラナ(現在のピラポ移住地)です。この移住地は今までの苦労や困難の経験を生かし、入植前に道路造成や収容設備を整備し、1960年8月から入植を開始しました。しかし基盤の整備はされていたものの、主要都市からは 80kmほど離れていたこと、雨が降れば交通が遮断される原始林の中であることで、他の移住地同様の困難がありました。
翌年の1961年8月には、1959年に締結された日本パラグアイ移住協定に基づき、イグアス移住地が開設されました。イグアス移住地はアスンシオンからブラジルへ抜ける国際道路沿いということもあり、今までの移住地の経験を生かした移住地として作られ、フラム、チャベスの二男、三男がモデルとなって分家入植し、その後1963年、日本からの移住者を迎えるに至りましたが、おりしも日本では急速な経済成長期に入り、その後は日本からの移住者は減少し、現在に至っています。
4.日系移住者がパラグアイ社会にもたらしたインパクト
戦前、試験的という厳しい条件の中、日本人移住者達がラ・コルメナにおいて数々の困難に立ち向かい、原生林を切り拓いた実績は、パラグアイ国において勤勉な日本人という印象を与え、その後の日本人移住者に対する大きな信用を与えました。
特に農業分野での貢献は大きく、ほとんどパラグアイでは摂取されていなかった野菜を栽培し、パラグアイ人食生活の改善に大きく貢献しています。
現在のパラグアイにおける日本人移住者は約7,000人で、人口から見ると0.14%の少数民族であるものの、パラグアイの主要農産物の一つである大豆の全生産高の7%は日系農家で生産されており、今では同国の輸出総額の約40%を占め、世界でも第4位の輸出国となりました。特に日本人移住者によって取り入れられた「不耕起栽培」は、非常に高い生産性を誇っています。
また、それまでは輸入に頼っていた小麦も、現在はその29%が日系農家によって生産され、国内の自給だけでなく、輸出により外貨獲得にも貢献しています。
日本人移住者たちは原生林であった土地を切り拓き、生産性の高い耕地へと変え、高い農業技術を持ってパラグアイの農業経済を支えてきたといえます。現在は、農業のみならずあらゆる分野においても、日系人は勤勉で正直であるという高い評価を得ています。
また、日本からのパラグアイに対するODA(政府開発援助)の94年までの累積実績は、マルチ(多国間協力)を含めた全体の55%、バイ(2国間協力)では70%にもなっています。
5.パラグアイ日系社会の現状と将来
現在パラグアイ全土に在住する日本人移住者は約7,000名です。当初は農業開拓の為の移住でしたが、現在は移住地だけではなく、アスンシオンやエンカルナシオン、シウダー・デル・エステといった都市部を中心に、商業、工業、金融業など幅広い分野で活動しています。
移住当初の困難をくぐりぬけ、豊かな穀倉地帯を拓き、パラグアイの栄養事情をも改善させた日本人移住者は、現在は農業分野にとどまらず、これらの各分野においても「勤勉で誠実である」という高い評価を受け、ピラポやラ・パス移住地では、日系人が市長や市会議員に当選しています。
それぞれの移住地では、農協や日本人会が中心となって治安や道路整備や医療活動等の自治活動を活発に行うことで、それぞれの地域における行政の補完的な役割を果たし、移住地周辺住民全体の生活環境の改善に資しています。
しかしながら近年、パラグアイの経済状況の悪化に伴い、1980年代より日系人の日本への出稼ぎが急増したことで、移住地を中心に若い世代の空洞化が懸念されています。今までの世代が築き上げてきた社会を今後さらに、発展させていくためにも、世代交代を踏まえて今後の日系社会の後継者を育成することが求められています。
もう一つ注目すべきことは、パラグアイの日系社会の一世の努力により、南米の日系社会においても特異といえるほど高い日本語能力を維持してきたことです。このため、移住開始より60年以上経過した現在も、各地の日本語学校では日本の国語教科書を用いた国語教育を中心に行われています。
しかしながら、世代が進むにつれて日本語で会話をしない家庭も増加し、また地域の非日系人からも日本語教育のニーズが高まっており、従来の国語教育にあわせて「外国語としての日本語教育」の拡充が急務となっています。
日本語教育だけでなく、今後も日系人として高い評価を維持してパラグアイ社会に貢献していくためにも、パラグアイ社会に認められた高度な子弟教育は将来への大事な課題となっています。
※参考情報2「報道記事」
*********NHK NewsWEB 2016年9月10日 10時27分
眞子さま日本人移住記念式典に パラグアイ
南米のパラグアイを公式訪問している秋篠宮ご夫妻の長女の眞子さまは、日本人移住80周年の記念式典に出席し、日本との友好関係の進展を願うお言葉を述べられました。
眞子さまは現地時間の9日、パラグアイの首都アスンシオンのホテル(当会注:実際にはホテルではなく、南米サッカー協会のコンベンションホールが正しい)で開かれた現地の日本人会などが主催する記念式典に臨まれました。式典にはパラグアイの政府関係者のほか移住者や日系人の代表などが出席し、振り袖姿の眞子さまはパラグアイのカルテス大統領などとともにメインテーブルにつかれました。
はじめに両国の国歌が斉唱されたあと、眞子さまがあいさつし、「この記念すべき年を契機に先人の努力によって築かれてきた日本とパラグアイの幅広い相互理解と交流がより深まり、未来を担う世代にも引き継がれていきますことを期待しています」と述べられました。そして、「両国の友好関係の一層の進展を祈念します」と結ばれました。このあと、眞子さまがカルテス大統領と笑顔で握手を交わされると、会場からは大きな拍手が送られていました。
眞子さまは今後、日本人が最初に移住したラ・コルメナなど5か所の移住地を回って移住者や日系人と懇談するなどして、今月16日に帰国される予定です。
★移住した日本人「元気を頂いた」
80年前に、移住していたブラジルから両親とともにパラグアイに移り住んだという関ふみさん(90)は、「入植した当初は、雨ばかり降っていたので、原野をおこして米をまきました。ブラジルから持ってきた米が良く育ったので、日本から来た移住者に指導しました。80年、よく生きてきたなと思います」とこれまでの苦労を振り返りました。そして、眞子さまがご訪問されたことについては、「わざわざ来て頂いて、日本人として、これ以上うれしいことはありません。眞子さまのお言葉は移住地で、日本人として生きるために、必要なことを全部述べられたと思います」と言葉を詰まらせていました。
また、戦後の1955年に山形県から移住し、およそ60年間、農業に従事していたという佐藤隆一さん(82)は、「私たちより先に移住した方々は苦労された。今の日系人社会を築いた見本だと思う」と、感謝の気持ちを表していました。
そして、日本人がパラグアイに移住を始めた1936年に、1歳6か月で移り住んだという関淳子さん(81)は、「眞子さまのお言葉はすばらしかったです。日系人の苦労を思われてのもので、力を与えてもらい、元気を頂いたという感じを受けました。これからは若い世代に、いままで歩んできた歴史を伝えて、よりよい日系社会を作っていきたいと思います」と話していました。
**********AFPBB 2016年09月10日 11:18 発信地:アスンシオン/パラグアイ
眞子さま、パラグアイ日本人移住80周年式典に出席
↑南米パラグアイの首都アスンシオンの大統領府「ブルビチャロガ」にオラシオ・カルテス大統領(画面外)を表敬訪問された眞子さま(2016年9月8日撮影)。(c)AFP/NORBERTO DUARTE↑
↑南米パラグアイの首都アスンシオン郊外ルケで、オラシオ・カルテス大統領(左)と共にパラグアイ日本人移住80周年の記念式典に出席された眞子さま(2016年9月9日撮影)。(c)AFP/NORBERTO DUARTE ↑
↑南米パラグアイの首都アスンシオン郊外ルケの、パラグアイ日本人移住80周年の記念式典会場に到着された眞子さま(2016年9月9日撮影)。(c)AFP/NORBERTO DUARTE ↑
【9月10日 AFP】南米パラグアイを公式訪問中の秋篠宮(Prince Akishino)ご夫妻の長女眞子さま(Princess Mako)は8日、首都アスンシオン(Asuncion)の大統領府「ブルビチャロガ(Mburuvicha Roga)」で、オラシオ・カルテス(Horacio Cartes)大統領を振り袖姿で表敬訪問された。
翌9日には首都郊外ルケ(Luque)で、パラグアイ日本人移住80周年の記念式典に出席された。(c)AFP
************TBS News I 2016年9月10日12時39分更新
眞子さま、日本人移住80周年記念式典に出席
南米・パラグアイを訪問中の秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまが、日本人が移住して80周年を記念する式典に臨まれました。
「日本・パラグアイ両国の友好の懸け橋となってこられた移住者と子孫の皆様に心より敬意を表します」
現地時間の9日、眞子さまはパラグアイに日本人が移住して80周年を記念する式典に振り袖姿で出席されました。
式典で眞子さまは、両国の友好の発展に尽力してきた人々に感謝と敬意のお言葉を述べるともに、10年前には父の秋篠宮さまが公式訪問されたことに触れ、「特別な縁を感じております」と述べられました。(10日11:24)
**********FNN-News 2016年9月10日12:41
眞子さまパラグアイご訪問 日本人移住80周年式典に出席される
パラグアイを公式訪問中の秋篠宮家の長女・眞子さまは9日、日本人の移住80周年を記念する式典に出席された。
眞子さまは「長い旅を経て、日本から移住された方々が、数多くの困難を、勤勉に誠実に乗り越えてこられたことに、思いをはせております。ムーチャス・グラシアス アグイジェ(ありがとうございます)」と述べられた。
※当会注:ムーチャス・グラシアスはスペイン語で「ありがとう」に間違いないが、グアラニー語の「アグイジェ」の意味をパラグアイの人たちに確認すると「ようこそ」(Welcome)という。もしかしたら、眞子さまに誰か間違って教えた可能性がある。
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10 DE SETIEMBRE DE 2016
| SU ALTEZA IMPERIAL HABLÓ AYER ANTE 900 PERSONAS EN LA CONMEBOL
Princesa Mako del Japón destaca aporte de los inmigrantes al desarrollo del país
La princesa Mako, nieta del emperador del Japón Akihito, destacó ayer que los inmigrantes se ganaron la confianza de los paraguayos gracias a su trabajo y que aportaron al desarrollo de nuestro país. Fue durante el acto central del 80º aniversario de la inmigración japonesa en el país.
↑La princesa Mako saluda a la inmigrante Yoko Hirai, quien emocionada se postró varias veces ante su Alteza Imperial. Fue durante un encuentro con la comunidad nikkei. / ABC ColorAMPLIAR ↑
Ante unos 900 invitados especiales que coparon el Centro de Convenciones de la Conmebol, en Luque, la princesa del Japón Mako presidió ayer el acto central conmemorativo del 80º aniversario de la inmigración japonesa a nuestro país iniciada en 1936. El presidente de la República, Horacio Cartes, asistió al evento.
Su Alteza Imperial agradeció en su discurso la hospitalidad y generosidad de los paraguayos con los inmigrantes japoneses que llegaron para trabajar por el desarrollo del Paraguay.
Deseó prosperidad para nuestro país y abogó porque las relaciones amistosas y de entendimiento mutuo entre los dos países se afiancen mucho más. “Muchas personas me han contado que la comunidad japonesa ha ganado aquí gran confianza por su desarrollo y han realizado mutuas actividades”, manifestó la Princesa al expresar su agradecimiento al pueblo paraguayo.
Por su parte, el embajador del Japón en Asunción, Yoshihisa Ueda, rememoró que la inmigración comenzó en 1936 en La Colmena, y fue interrumpida durante la Segunda Guerra Mundial, pero se reinició en la posguerra con la llegada de más inmigrantes a distintas zonas del país, como Amambay, Itapúa y Alto Paraná.
El presidente de la comisión organizadora de los festejos del 80º aniversario de la inmigración japonesa, Hiromichi Maehara, destacó el trabajo de los colonos japoneses que se dedicaron principalmente al cultivo de soja, maíz, arroz y trigo. Los inmigrantes también introdujeron la famosa carne wagyu, originaria de la ganadería japonesa.
De acuerdo a datos oficiales, aproximadamente 10.000 japoneses están asentados actualmente en el país, entre originarios, descendientes con raíces en el Japón que hoy llegan a la quinta generación.
※参考情報3「現地紙ABC社報道記事」
○2016年9月7日10:00:Princesa Mako arriba al Paraguay (眞子さまパラグアイ到着)
http://www.abc.com.py/nacionales/princesa-mako-arribo-al-paraguay-1516293.html
○2016年9月7日13:00:Princesa de Japón llegó a Paraguay(日本の内親王がパラグアイ到着)
http://www.abc.com.py/abc-tv/locales/princesa-de-japon-llego-a-paraguay-1516360.html
○2016年9月8日01;00:Artículos por Etiquetas “Princesa Mako”(工芸品を高く評価)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/aprecio-la-artesania-1516568.html
○2016年9月8日01:00:Princesa, con Cartes y Mario(内親王がカルテス大統領とマリオ市長に面談)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/princesa-con-cartes-y-mario-1516569.html
○2016年9月8日06:00:Princesa Mako oguahê kuehe ñane retãme(グアラニー語の記事)
http://www.abc.com.py/especiales/remiandu/princesa-mako-oguah-kuehe-nane-retme-1516624.html
○2016年9月9日01:00:“Aguyje”, agradeció Mako a nuestro país(“ようこそ”とプリンセサMAKOが我が国に感謝
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/aguyje-agradecio-mako-a-nuestro-pais-1516941.html
○2016年9月9日01:00:Alteza Imperial admiró el arte del Museo del Barro(皇室妃殿下がムセオ・デル・バロの芸術を称賛)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/alteza-imperial-admiro-el-arte-del-museo-del-barro-1516943.html
○2016年9月9日01:00:Princesa Mako dialogó con el presidente Horacio Cartes(プリンセサMAKOがオラシオ・カルテス大統領と対話)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/princesa-mako-dialogo-con-el-presidente-horacio-cartes-1516938.html
○2016年9月9日01:00:Hoy en Luque, y mañana en las colonias(本日はリケで明日は入植地へ)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/hoy-en-luque-y-manana-en-las-colonias-1516946.html
○2016年9月9日11:00:Celebran el 80º aniversario de inmigración japonesa(日本人移住80周年祝賀)
http://www.abc.com.py/nacionales/celebran-el-80-aniversario-de-inmigracion-japonesa-1517040.html
○2016年9月9日12:00:Cartes: "Paraguay sigue siendo fraternalmente cercano a Japón"(カルテス大統領曰く「パラグアイは日本と兄弟のように近しい」)
http://www.abc.com.py/730am/periodisticamente/cartes-paraguay-sigue-siendo-fraternalmente-cercano-a-japon-1517069.html
○2016年9月9日12:00:Princesa Mako destaca inmigración japonesa como un vínculo fuerte con Paraguay(プリンセスMAKOが日本人移民はパラグアイとの強力な絆であると強調)
http://www.abc.com.py/730am/periodisticamente/princesa-mako-destaca-inmigracion-japonesa-como-un-vinculo-fuerte-con-paraguay-1517073.html
○2016年9月9日14:17:Princesa Mako agradece hospitalidad paraguaya
(プリンセサMAKOがパラグアイの歓待に感謝)
http://www.abc.com.py/abc-tv/locales/princesa-mako-agradece-hospitalidad-paraguaya-1517090.html
○2016年9月10日01:00:Visita que nos honra, dice Cartes(カルテス大統領曰く訪問は私たちの名誉)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/visita-que-nos-honra-dice-cartes-1517294.html
○2016年9月10日01:00:La primera colonia japonesa floreciente recibe a la princesa(日本人最初の繁栄入植地がプリンセサを迎える)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/la-primera-colonia-japonesa-floreciente-recibe-a-la-princesa-1517288.html
○2016年9月10日01:00:Princesa Mako del Japón destaca aporte de los inmigrantes al desarrollo del país(日本のプリンセスMAKOがパラグアイの発展への移民の貢献を強調)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/princesa-mako-del-japon-destaca-aporte-de-los-inmigrantes-al-desarrollo-del-pais-1517292.html
○2016年9月10日19:13:Princesa Mako visitó primera colonia japonesa(プリンセサMAKOが日本の最初の入植地を訪問)
http://www.abc.com.py/nacionales/princesa-maco-visito-primera-colonia-japonesa-1517440.html
○2016年9月11日01:00:Mako rinde homenaje a los pioneros de la inmigración japonesa en La Colmena(MAKOがコルメナの日本人移民の先駆者らに敬意を表した)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/mako-rinde-homenaje-a-los-pioneros-de-la-inmigracion-japonesa-en-la-colmena-1517520.html
Alteza Imperial visitará mañana Trinidad y Pirapó
○2016年9月11日01:00:Alteza Imperial visitará mañana Trinidad y Pirapó(内親王が明日トリニダードとピラポを訪問予定)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/alteza-imperial-visitara-manana-trinidad-y-pirapo-1517521.html
○2016年9月11日:Visita de Princesa a Itapúa genera gran expectativa(イタプアへのプリンセサ訪問が大きな期待を生む)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/visita-de-princesa-a-itapua-genera-gran-expectativa-1517499.html
http://rengoukai.org.py/ja/la-sociedad-nikkei/historia
↑プリンセサMAKOの来訪を報じる9月8日付現地「ラ・ナシオン」紙の社会面記事。↑
今回の取材期間中、9月9日にアスンシオンの空港近くにある南米サッカー協会コンベンションホールで、秋篠宮家の長女・眞子さまが出席して日本人パラグアイ移住80周年記念式典が開催される予定になっており、今日がその日です。
↑式典会場の南米サッカー協会のある施設。↑
もちろん我が取材班は招待されていませんので出席はできませんが、大勢の関係者が出席して盛大に執り行われるようです。
ちなみに眞子さまは、パラグアイ公式訪問のため、9月6日午前に日本を発ち、7日朝、パラグアイの首都アスンシオンに到着しました。空港では、歓迎の行事が行われ、両国の国歌演奏のあと、儀仗兵の栄誉礼を受けました。そして、日本語学校の生徒などから「ようこそパラグアイへ」と歓迎されると、手を振って応えていたそうです。次の記事を参照ください。
※出典:FB「パラグアイ日本人移住80周年」↓
https://www.facebook.com/jp80py
眞子さまは、同記念式典に出席後、各地の日本人移住地を訪れ、9月16日に帰国予定ということです。
↑パラグアイ日本人入植地の地図。↑
■末尾のパラグアイ日本人連合会の記事にもあるように、パラグアイでは日本人の果たした役割が顕著です。
現在パラグアイ日本人連合会長をしている前原弘道氏は、1938年広島生まれで1958年に父親の前原深氏ら家族7人でパラグアイに渡りました。病弱だった母親のために、当初の移住予定地を変更し、街の近くに農園をひらき、トマト栽培などで業績を伸ばしましたが、収益の変動が大きい投機的な作物栽培に不安を覚え、安定した農場経営を目指して養鶏業をはじめました。単に卵や鶏肉の生産をするだけではなく、前原農商株式会社を設立し、農場の敷地内に工場を設け、加工から出荷・販売、さらに飼料の手配や雛の飼育までを手掛けるようにしました。その結果、現在では卵の生産量ではパラグアイ国内の7割のシェアを持っています。Yemita(ジェミータ)と名付けられた卵はパラグアイの殆どのスーパーマーケットで扱われており、誰でもYemitaの名前を知っているそうです。
前原氏のもうひとつの有名な事業として、アスンシオンから南東に30kmほど離れたイタ市の郊外にある広い平原の岩山の上に、日本の伝統的な城を父親の深氏と一緒に作ったことです。石垣に三層四階の天守閣は正式名称「御影城(みかげじょう)」と言いますが、通称「前原城」と呼ばれているそうです。よ
前原氏は養鶏業のほかにもスーパーの経営などグループ5社を保有していますが、さらに積極的に事業を展開し、2003年からは牧畜業も始めました。パラグアイの西部地域チャコ地方にある未開の原野約950平方キロ(東京23区の1.4倍)の牧場で、肉牛3万6000頭を飼育しています。
パラグアイでは大規模な牧場は珍しくはありませんが、通常は単に肉牛を放牧して置き、ただ漫然と成長を待つだけの放任的な飼育方法をとっているのにくらべ、前原氏は牧場の管理に工夫を加え、生産性の向上に取り組んでいるそうです。
■この他に有名な事例としては、日本で使うシロゴマの栽培で成功した話があります。
我が国は世界有数のゴマ消費国ですが殆どが輸入で、年間の輸入総量は約16万トンです。輸入ゴマのうち特に食用の白ゴマ生産が盛んなのが中南米諸国で、日本は2009年の食用白ゴマ輸入の90パーセント以上をパラグアイ、グアテマラ、ボリビアの3ヵ国に頼り、そのうち70パーセント以上はパラグアイ産でした。
このゴマ・ビジネスのパイオニアが日系人の白沢寿一氏です。白沢氏は1958年に家族とともに北海道からパラグアイに移住し、1981年に白沢商工株式会社を設立して、農産物の輸出事業等を手がけました。
パラグアイでのゴマ栽培の歴史は1990年代初頭から始まりました。小規模農家の貴重な現金収入源であった綿花の栽培が、価格低下などの影響を受けて急激に減少したため、なんとかしたいという使命感から、綿花の代替作物として、ゴマ栽培を推進したのが、現在「パラグアイゴマ輸出協会」の会長を務める白沢寿一氏でした。
同氏は1980年代後半から40数品種の白ゴマ試験栽培を通じ、日本市場に合った味の良い品種の開発を進めていたところ、1990年代初頭に、特にサンペドロ県で小規模農家の貧困が社会的問題となっていたため、綿花に代わる換金作物として、小規模農家を対象に白ゴマの種子を配布し、栽培の技術指導を開始しました。需要に先駆けて品種の開発を進めていたことに加え、社会情勢の変化などの追い風を受けて、現在、「エスコバ種」が日本市場で高い評価を受けています。
2011年3月11日に起きた東日本大震災では、パラグアイの多くの日系人から義援金が届きました。白沢氏は、被災地の悲惨な状況を知るといち早く、同社の創立40周年パーティーを自粛し、そのために用意していた10万ドル(約1,000万円)を日本大使館経由で日本赤十字に寄付したそうです。
■パラグアイの日系社会は、ゴマ栽培だけではなく、今や世界第6位の生産量(年間約800万トン)を誇るほどに成長した大豆生産のパイオニアです。またとうもろこし、小麦、トマトの他、野菜栽培を始めたことで、パラグアイ人に野菜を食べる習慣が広がるなど、同国の農業技術の普及に大きく貢献してきました。
とくに大豆栽培は、1950年代に日系移民が初めて栽培を行ない、70年代からは輸出も開始され、現在では世界第4位の輸出量となっています。大豆の栽培が飛躍的に発展したのは、日系移民がイグアス移住地で始めた不耕起栽培に由来します。
この栽培方法は日本の支援で1970年代にブラジルで導入されましたが、パラグアイで最初にこの栽培が試験的に導入されたのは1983年のイグアス移住地でした。1982年にイグアス地域を襲った集中豪雨で多量の土壌が流出し、それまでにも豪雨のたびに土壌が流出していたため、このままでは移民して来た努力が無駄になってしまうと恐れた日系移民の一人、深見明伸氏が1984年に不耕起栽培を本格的に開始し、その前年には窪前勇氏が小麦でそれを試みていました。
イグアス地域では日系人で構成される農業協同組合が全面的に不耕起栽培方法を取り入れて普及させ収獲も増え、1990年にはこの栽培方法がパラグアイ全土で知られることになりました。1996年には不耕起栽培普及率は40%まで発展し、それとともに同国の大豆生産量も急増したのでした。
残念ながらパラグアイで生産している大豆はほとんどが米国モンサント社が開発した遺伝子組み換えの大豆です。日本の大豆の国内自給率は僅かに4%で、残りの96%は輸入に頼っていますが、現在、世界の大半の大豆は遺伝子組み換え大豆であり、日本モンサントの報告によれば、日本国内の大豆使用量の75%は遺伝子組み換え大豆と推定されています。
米国やブラジルと同様にパラグアイでも、雑草対策などで除草剤を撒いても大豆は枯れず生産効率が良くなる遺伝子組み換え大豆の栽培が主流になっており、港には除草剤がぎっしりつまったコンテナがたくさん見られます。
本来であれば、非遺伝子組み換え大豆は生体にとって不自然な食材ですが、どうしてもコスト面で防虫、除草面で手間が省ける遺伝子組み換え大豆のほうが割安となってしまいます。
しかしそれでも、イグアス農協では1万8000ヘクタールの土地を使って、技術協力で開発された非遺伝子組み換え品種「aurora」を日本の豆腐用として輸出しているそうです。商業ベースとしては非効率的ですが、タンパク質含有量が高く、非遺伝子組み換え大豆を求める日本の消費者の声に応えようとする日系人農家がそこにあります。
■パラグアイの日本人移住の歴史は、ほとんどが戦後に行われたことにより、現在もなお一世のかたがたがおられることから、日本の文化がそのまま息づいています。しかし、次第に二世、三世の時代となってきており、現在はいかに日本人として、また日本語を話すことに対するモチベーションを維持していくかが課題となっています。
その観点から、最近注目されているのは、日本との時差が真逆であることを利用して、日本の建築事務所が、客の要望に合わせた設計の修正をパラグアイに事務所を構えて、日本語のわかる日系人スタッフにより、日本では夜のうちに設計図を修正して、翌日には顧客に提案するというビジネスを導入する例があるそうです。
この場合、日本では残業代が不要となり、パラグアイでの人件費も安価であるうえに、顧客に対して迅速にサービスの対応が可能となる、という利点が着目されたケースです。
ほかにも、パラグアイに進出している日系企業としては、自動車用ワイヤーハーネスの製造メーカーである矢崎総業やフジクラ、住友電装がここ2~4年の間に相次いで工場を設立しています。これはブラジルの自動車産業向けの製品ですが、どうしても自動化が困難のため、手作業として手が器用で工賃の易いパラグアイ女性がうってつけなのだそうです。
パラグアイでは伝統的な刺繍が盛んですが、これには細かい手作業が必要とされており、このためワイヤーハーネスづくりに必要な資質を備えているというわけです。
■引き続き、パラグアイ情勢について取材を進めてまいります。
【ひらく会海外取材班・この項続く】
※参考情報1「日本人移住者の歴史と貢献」
パラグアイ日本人連合会HP記事などからあらましを引用します。
1.当初の日本人の海外移住
当初、日本人の海外移住先は1868年(明治元年)にハワイのカメハメハ5世の要請で、150名が渡航したのが最初でした。その後、1885年(明治18年)にハワイとの間で移民条約が結ばれ、1898年にハワイが米国の一部に組み込まれたあとは北米への移民が始まりました。当時は、移民の大半が農民で、出稼ぎ労働者としての渡航で、永住が主目的ではありませんでした。
しかし、北米における人種差別による日本人排斥の動きが激化したため、1900年に日本政府は米国への移民を制限しました。ハワイには1900年まで国や民間企業の斡旋で移民が行われ、その後1908年まで自由移民が認められましたが、米国本土への日本人の移住が増えるにつれて黄禍論による排日運動が次第に高まり、1924年に排日移民法が制定されてからは対米への移民はストップしました。
当時の我が国の状況としては、1904年の日露戦争で勝利をおさめたものの賠償金を得られず経済は困窮し、農村の貧しさが深刻になっていました。上述のとおり米国政府は日本人移民受入れ数の制限を強化し、移民受入れ先として有望視されていたオーストラリアやカナダも日本人移民を制限したことから、日本政府は新たに移民の受入れ先を模索することとなりました。
一方、奴隷解放後の南米では、ゴムやコーヒーなどの大規模プランテーションにおける労働力不足に直面していたため、代替労働者として日本人の集団移民がペルー(1898年~)やブラジル向け(1908年~)に行われるようになりました、
ところが移住先のブラジルの場合、その実態は、出稼ぎにやってきた日本人の移民に対して、現地の雇用主は奴隷の代わりを日本人に求めており、この違いから生じる紛争が絶えず、移民による脱走や排日の動きが顕在化しました。そのため日本の外務省・拓務省はブラジル以外の国への移住の可能性調査を始めました。
2.パラグアイへの日本人移住
在アルゼンチン特命全権公使は当時のパラグアイ政府(エウセビオ・アジャラ大統領)より日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、1930年には「パラグアイ拓殖計画」を提出しましたが、これに対する日本政府の反応は薄く、実現には至りませんでした。
その後、1934年に排日機運の高まりを受けてブラジル政府が「移民二分制限法」(定住した当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令しました。このため年間2万人の日本人入国の枠組みが、一挙に年間2500人まで制限されたことから、一気にパラグアイへの海外移住の準備が加速しました。
しかし1932年から1935年のチャコ戦争後武力革命により政権を握ったラファエル・フランコ大統領は「入国許可は前政権からの許可であり、現政権は認めない」としたため、一旦は移住準備も頓挫してしまいましたが、関係者による交渉により、1936年4月30日大統領令第1026号をもって日本人移民100家族を試験的に受け入れる許可が下りました。
そして、1936年8月日本から最初の移民が到着し、現在のラ・コルメナ地区に居を構えました。コルメナ移住地は準備期間が短かったこともあり、その後たびたびバッタの大群の来襲にも大打撃を受け、退耕者が相次ぐなど、苦難の歴史を刻みました。
3.戦後のパラグアイ移住
1941年に太平洋戦争が始まると、パラグアイは日独伊枢軸国に対して国交断絶を宣言したことにより、日本政府の援助も、後続移民も途絶え、さらに、日本人移住者は敵性外国人として日本語学校・青年団の解体などを強いられ、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となりました。
戦後、日本は敗戦によりアジア地域からの引揚げ者・復員軍人などの1,000万人以上の余剰人口を抱えてその人口対策として政策的に海外移住を進めました。1952年にラ・コルメナの創始者宮坂国人氏の名義で日本人農業者120家族の入国許可を取り付け、1955年にはチャベス移住地への入植が始まりました。
しかし、日本政府外務省の一部の反対により混乱を来たし、現地での受入準備や分譲地準備もままならないままに移住者を受け入れることとなり、完全な自給自足に近い生活の中、原生林を切り拓いていくことになりました。
現地での受入状態が整備される間もなく次々と移住者がやってきたため、同年6月の4次移住家族の時にはすでにチャベスには配耕地が不足する状態となり、日本海外振興株式会社によってフラム(現在のラ・パス)移住地があらたに設けられました。
日本からの海外移住者の送出は配耕地の造成や受入準備の速度を上回り、1955年中にはフジ地区、1960年にはラ・パスおよびサンタ・ローサ地区が満植となりました。この過程で、受入設備のない未造成地に移住者を送り込むことになってしまったため、移住者らは極度な困難の中におかれました。
アマンバイ地区への移住はパラグアイ移住史の中では特異なケースでした。1956年コーヒー農園への契約雇用農として入植が始まりました。ところが、この移住に先立っては住居も何も準備されず、コーヒー農園の奴隷に代る労働力として導入されたという背景もあり、その労働条件や待遇は非常に厳しいもので、退耕者はあとを絶ちませんでした。そして1958年にはその雇用主が倒産したため、宙に浮いた移住者らは土地を探し、自営入植を進めていきました。
一方、フラム移住地の満植に先立ち、日本海外移住振興会社(株)が開設したのがアルトパラナ(現在のピラポ移住地)です。この移住地は今までの苦労や困難の経験を生かし、入植前に道路造成や収容設備を整備し、1960年8月から入植を開始しました。しかし基盤の整備はされていたものの、主要都市からは 80kmほど離れていたこと、雨が降れば交通が遮断される原始林の中であることで、他の移住地同様の困難がありました。
翌年の1961年8月には、1959年に締結された日本パラグアイ移住協定に基づき、イグアス移住地が開設されました。イグアス移住地はアスンシオンからブラジルへ抜ける国際道路沿いということもあり、今までの移住地の経験を生かした移住地として作られ、フラム、チャベスの二男、三男がモデルとなって分家入植し、その後1963年、日本からの移住者を迎えるに至りましたが、おりしも日本では急速な経済成長期に入り、その後は日本からの移住者は減少し、現在に至っています。
4.日系移住者がパラグアイ社会にもたらしたインパクト
戦前、試験的という厳しい条件の中、日本人移住者達がラ・コルメナにおいて数々の困難に立ち向かい、原生林を切り拓いた実績は、パラグアイ国において勤勉な日本人という印象を与え、その後の日本人移住者に対する大きな信用を与えました。
特に農業分野での貢献は大きく、ほとんどパラグアイでは摂取されていなかった野菜を栽培し、パラグアイ人食生活の改善に大きく貢献しています。
現在のパラグアイにおける日本人移住者は約7,000人で、人口から見ると0.14%の少数民族であるものの、パラグアイの主要農産物の一つである大豆の全生産高の7%は日系農家で生産されており、今では同国の輸出総額の約40%を占め、世界でも第4位の輸出国となりました。特に日本人移住者によって取り入れられた「不耕起栽培」は、非常に高い生産性を誇っています。
また、それまでは輸入に頼っていた小麦も、現在はその29%が日系農家によって生産され、国内の自給だけでなく、輸出により外貨獲得にも貢献しています。
日本人移住者たちは原生林であった土地を切り拓き、生産性の高い耕地へと変え、高い農業技術を持ってパラグアイの農業経済を支えてきたといえます。現在は、農業のみならずあらゆる分野においても、日系人は勤勉で正直であるという高い評価を得ています。
また、日本からのパラグアイに対するODA(政府開発援助)の94年までの累積実績は、マルチ(多国間協力)を含めた全体の55%、バイ(2国間協力)では70%にもなっています。
5.パラグアイ日系社会の現状と将来
現在パラグアイ全土に在住する日本人移住者は約7,000名です。当初は農業開拓の為の移住でしたが、現在は移住地だけではなく、アスンシオンやエンカルナシオン、シウダー・デル・エステといった都市部を中心に、商業、工業、金融業など幅広い分野で活動しています。
移住当初の困難をくぐりぬけ、豊かな穀倉地帯を拓き、パラグアイの栄養事情をも改善させた日本人移住者は、現在は農業分野にとどまらず、これらの各分野においても「勤勉で誠実である」という高い評価を受け、ピラポやラ・パス移住地では、日系人が市長や市会議員に当選しています。
それぞれの移住地では、農協や日本人会が中心となって治安や道路整備や医療活動等の自治活動を活発に行うことで、それぞれの地域における行政の補完的な役割を果たし、移住地周辺住民全体の生活環境の改善に資しています。
しかしながら近年、パラグアイの経済状況の悪化に伴い、1980年代より日系人の日本への出稼ぎが急増したことで、移住地を中心に若い世代の空洞化が懸念されています。今までの世代が築き上げてきた社会を今後さらに、発展させていくためにも、世代交代を踏まえて今後の日系社会の後継者を育成することが求められています。
もう一つ注目すべきことは、パラグアイの日系社会の一世の努力により、南米の日系社会においても特異といえるほど高い日本語能力を維持してきたことです。このため、移住開始より60年以上経過した現在も、各地の日本語学校では日本の国語教科書を用いた国語教育を中心に行われています。
しかしながら、世代が進むにつれて日本語で会話をしない家庭も増加し、また地域の非日系人からも日本語教育のニーズが高まっており、従来の国語教育にあわせて「外国語としての日本語教育」の拡充が急務となっています。
日本語教育だけでなく、今後も日系人として高い評価を維持してパラグアイ社会に貢献していくためにも、パラグアイ社会に認められた高度な子弟教育は将来への大事な課題となっています。
※参考情報2「報道記事」
*********NHK NewsWEB 2016年9月10日 10時27分
眞子さま日本人移住記念式典に パラグアイ
南米のパラグアイを公式訪問している秋篠宮ご夫妻の長女の眞子さまは、日本人移住80周年の記念式典に出席し、日本との友好関係の進展を願うお言葉を述べられました。
眞子さまは現地時間の9日、パラグアイの首都アスンシオンのホテル(当会注:実際にはホテルではなく、南米サッカー協会のコンベンションホールが正しい)で開かれた現地の日本人会などが主催する記念式典に臨まれました。式典にはパラグアイの政府関係者のほか移住者や日系人の代表などが出席し、振り袖姿の眞子さまはパラグアイのカルテス大統領などとともにメインテーブルにつかれました。
はじめに両国の国歌が斉唱されたあと、眞子さまがあいさつし、「この記念すべき年を契機に先人の努力によって築かれてきた日本とパラグアイの幅広い相互理解と交流がより深まり、未来を担う世代にも引き継がれていきますことを期待しています」と述べられました。そして、「両国の友好関係の一層の進展を祈念します」と結ばれました。このあと、眞子さまがカルテス大統領と笑顔で握手を交わされると、会場からは大きな拍手が送られていました。
眞子さまは今後、日本人が最初に移住したラ・コルメナなど5か所の移住地を回って移住者や日系人と懇談するなどして、今月16日に帰国される予定です。
★移住した日本人「元気を頂いた」
80年前に、移住していたブラジルから両親とともにパラグアイに移り住んだという関ふみさん(90)は、「入植した当初は、雨ばかり降っていたので、原野をおこして米をまきました。ブラジルから持ってきた米が良く育ったので、日本から来た移住者に指導しました。80年、よく生きてきたなと思います」とこれまでの苦労を振り返りました。そして、眞子さまがご訪問されたことについては、「わざわざ来て頂いて、日本人として、これ以上うれしいことはありません。眞子さまのお言葉は移住地で、日本人として生きるために、必要なことを全部述べられたと思います」と言葉を詰まらせていました。
また、戦後の1955年に山形県から移住し、およそ60年間、農業に従事していたという佐藤隆一さん(82)は、「私たちより先に移住した方々は苦労された。今の日系人社会を築いた見本だと思う」と、感謝の気持ちを表していました。
そして、日本人がパラグアイに移住を始めた1936年に、1歳6か月で移り住んだという関淳子さん(81)は、「眞子さまのお言葉はすばらしかったです。日系人の苦労を思われてのもので、力を与えてもらい、元気を頂いたという感じを受けました。これからは若い世代に、いままで歩んできた歴史を伝えて、よりよい日系社会を作っていきたいと思います」と話していました。
**********AFPBB 2016年09月10日 11:18 発信地:アスンシオン/パラグアイ
眞子さま、パラグアイ日本人移住80周年式典に出席
↑南米パラグアイの首都アスンシオンの大統領府「ブルビチャロガ」にオラシオ・カルテス大統領(画面外)を表敬訪問された眞子さま(2016年9月8日撮影)。(c)AFP/NORBERTO DUARTE↑
↑南米パラグアイの首都アスンシオン郊外ルケで、オラシオ・カルテス大統領(左)と共にパラグアイ日本人移住80周年の記念式典に出席された眞子さま(2016年9月9日撮影)。(c)AFP/NORBERTO DUARTE ↑
↑南米パラグアイの首都アスンシオン郊外ルケの、パラグアイ日本人移住80周年の記念式典会場に到着された眞子さま(2016年9月9日撮影)。(c)AFP/NORBERTO DUARTE ↑
【9月10日 AFP】南米パラグアイを公式訪問中の秋篠宮(Prince Akishino)ご夫妻の長女眞子さま(Princess Mako)は8日、首都アスンシオン(Asuncion)の大統領府「ブルビチャロガ(Mburuvicha Roga)」で、オラシオ・カルテス(Horacio Cartes)大統領を振り袖姿で表敬訪問された。
翌9日には首都郊外ルケ(Luque)で、パラグアイ日本人移住80周年の記念式典に出席された。(c)AFP
************TBS News I 2016年9月10日12時39分更新
眞子さま、日本人移住80周年記念式典に出席
南米・パラグアイを訪問中の秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまが、日本人が移住して80周年を記念する式典に臨まれました。
「日本・パラグアイ両国の友好の懸け橋となってこられた移住者と子孫の皆様に心より敬意を表します」
現地時間の9日、眞子さまはパラグアイに日本人が移住して80周年を記念する式典に振り袖姿で出席されました。
式典で眞子さまは、両国の友好の発展に尽力してきた人々に感謝と敬意のお言葉を述べるともに、10年前には父の秋篠宮さまが公式訪問されたことに触れ、「特別な縁を感じております」と述べられました。(10日11:24)
**********FNN-News 2016年9月10日12:41
眞子さまパラグアイご訪問 日本人移住80周年式典に出席される
パラグアイを公式訪問中の秋篠宮家の長女・眞子さまは9日、日本人の移住80周年を記念する式典に出席された。
眞子さまは「長い旅を経て、日本から移住された方々が、数多くの困難を、勤勉に誠実に乗り越えてこられたことに、思いをはせております。ムーチャス・グラシアス アグイジェ(ありがとうございます)」と述べられた。
※当会注:ムーチャス・グラシアスはスペイン語で「ありがとう」に間違いないが、グアラニー語の「アグイジェ」の意味をパラグアイの人たちに確認すると「ようこそ」(Welcome)という。もしかしたら、眞子さまに誰か間違って教えた可能性がある。
**********
10 DE SETIEMBRE DE 2016
| SU ALTEZA IMPERIAL HABLÓ AYER ANTE 900 PERSONAS EN LA CONMEBOL
Princesa Mako del Japón destaca aporte de los inmigrantes al desarrollo del país
La princesa Mako, nieta del emperador del Japón Akihito, destacó ayer que los inmigrantes se ganaron la confianza de los paraguayos gracias a su trabajo y que aportaron al desarrollo de nuestro país. Fue durante el acto central del 80º aniversario de la inmigración japonesa en el país.
↑La princesa Mako saluda a la inmigrante Yoko Hirai, quien emocionada se postró varias veces ante su Alteza Imperial. Fue durante un encuentro con la comunidad nikkei. / ABC ColorAMPLIAR ↑
Ante unos 900 invitados especiales que coparon el Centro de Convenciones de la Conmebol, en Luque, la princesa del Japón Mako presidió ayer el acto central conmemorativo del 80º aniversario de la inmigración japonesa a nuestro país iniciada en 1936. El presidente de la República, Horacio Cartes, asistió al evento.
Su Alteza Imperial agradeció en su discurso la hospitalidad y generosidad de los paraguayos con los inmigrantes japoneses que llegaron para trabajar por el desarrollo del Paraguay.
Deseó prosperidad para nuestro país y abogó porque las relaciones amistosas y de entendimiento mutuo entre los dos países se afiancen mucho más. “Muchas personas me han contado que la comunidad japonesa ha ganado aquí gran confianza por su desarrollo y han realizado mutuas actividades”, manifestó la Princesa al expresar su agradecimiento al pueblo paraguayo.
Por su parte, el embajador del Japón en Asunción, Yoshihisa Ueda, rememoró que la inmigración comenzó en 1936 en La Colmena, y fue interrumpida durante la Segunda Guerra Mundial, pero se reinició en la posguerra con la llegada de más inmigrantes a distintas zonas del país, como Amambay, Itapúa y Alto Paraná.
El presidente de la comisión organizadora de los festejos del 80º aniversario de la inmigración japonesa, Hiromichi Maehara, destacó el trabajo de los colonos japoneses que se dedicaron principalmente al cultivo de soja, maíz, arroz y trigo. Los inmigrantes también introdujeron la famosa carne wagyu, originaria de la ganadería japonesa.
De acuerdo a datos oficiales, aproximadamente 10.000 japoneses están asentados actualmente en el país, entre originarios, descendientes con raíces en el Japón que hoy llegan a la quinta generación.
※参考情報3「現地紙ABC社報道記事」
○2016年9月7日10:00:Princesa Mako arriba al Paraguay (眞子さまパラグアイ到着)
http://www.abc.com.py/nacionales/princesa-mako-arribo-al-paraguay-1516293.html
○2016年9月7日13:00:Princesa de Japón llegó a Paraguay(日本の内親王がパラグアイ到着)
http://www.abc.com.py/abc-tv/locales/princesa-de-japon-llego-a-paraguay-1516360.html
○2016年9月8日01;00:Artículos por Etiquetas “Princesa Mako”(工芸品を高く評価)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/aprecio-la-artesania-1516568.html
○2016年9月8日01:00:Princesa, con Cartes y Mario(内親王がカルテス大統領とマリオ市長に面談)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/princesa-con-cartes-y-mario-1516569.html
○2016年9月8日06:00:Princesa Mako oguahê kuehe ñane retãme(グアラニー語の記事)
http://www.abc.com.py/especiales/remiandu/princesa-mako-oguah-kuehe-nane-retme-1516624.html
○2016年9月9日01:00:“Aguyje”, agradeció Mako a nuestro país(“ようこそ”とプリンセサMAKOが我が国に感謝
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/aguyje-agradecio-mako-a-nuestro-pais-1516941.html
○2016年9月9日01:00:Alteza Imperial admiró el arte del Museo del Barro(皇室妃殿下がムセオ・デル・バロの芸術を称賛)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/alteza-imperial-admiro-el-arte-del-museo-del-barro-1516943.html
○2016年9月9日01:00:Princesa Mako dialogó con el presidente Horacio Cartes(プリンセサMAKOがオラシオ・カルテス大統領と対話)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/princesa-mako-dialogo-con-el-presidente-horacio-cartes-1516938.html
○2016年9月9日01:00:Hoy en Luque, y mañana en las colonias(本日はリケで明日は入植地へ)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/hoy-en-luque-y-manana-en-las-colonias-1516946.html
○2016年9月9日11:00:Celebran el 80º aniversario de inmigración japonesa(日本人移住80周年祝賀)
http://www.abc.com.py/nacionales/celebran-el-80-aniversario-de-inmigracion-japonesa-1517040.html
○2016年9月9日12:00:Cartes: "Paraguay sigue siendo fraternalmente cercano a Japón"(カルテス大統領曰く「パラグアイは日本と兄弟のように近しい」)
http://www.abc.com.py/730am/periodisticamente/cartes-paraguay-sigue-siendo-fraternalmente-cercano-a-japon-1517069.html
○2016年9月9日12:00:Princesa Mako destaca inmigración japonesa como un vínculo fuerte con Paraguay(プリンセスMAKOが日本人移民はパラグアイとの強力な絆であると強調)
http://www.abc.com.py/730am/periodisticamente/princesa-mako-destaca-inmigracion-japonesa-como-un-vinculo-fuerte-con-paraguay-1517073.html
○2016年9月9日14:17:Princesa Mako agradece hospitalidad paraguaya
(プリンセサMAKOがパラグアイの歓待に感謝)
http://www.abc.com.py/abc-tv/locales/princesa-mako-agradece-hospitalidad-paraguaya-1517090.html
○2016年9月10日01:00:Visita que nos honra, dice Cartes(カルテス大統領曰く訪問は私たちの名誉)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/visita-que-nos-honra-dice-cartes-1517294.html
○2016年9月10日01:00:La primera colonia japonesa floreciente recibe a la princesa(日本人最初の繁栄入植地がプリンセサを迎える)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/la-primera-colonia-japonesa-floreciente-recibe-a-la-princesa-1517288.html
○2016年9月10日01:00:Princesa Mako del Japón destaca aporte de los inmigrantes al desarrollo del país(日本のプリンセスMAKOがパラグアイの発展への移民の貢献を強調)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/princesa-mako-del-japon-destaca-aporte-de-los-inmigrantes-al-desarrollo-del-pais-1517292.html
○2016年9月10日19:13:Princesa Mako visitó primera colonia japonesa(プリンセサMAKOが日本の最初の入植地を訪問)
http://www.abc.com.py/nacionales/princesa-maco-visito-primera-colonia-japonesa-1517440.html
○2016年9月11日01:00:Mako rinde homenaje a los pioneros de la inmigración japonesa en La Colmena(MAKOがコルメナの日本人移民の先駆者らに敬意を表した)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/mako-rinde-homenaje-a-los-pioneros-de-la-inmigracion-japonesa-en-la-colmena-1517520.html
Alteza Imperial visitará mañana Trinidad y Pirapó
○2016年9月11日01:00:Alteza Imperial visitará mañana Trinidad y Pirapó(内親王が明日トリニダードとピラポを訪問予定)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/alteza-imperial-visitara-manana-trinidad-y-pirapo-1517521.html
○2016年9月11日:Visita de Princesa a Itapúa genera gran expectativa(イタプアへのプリンセサ訪問が大きな期待を生む)
http://www.abc.com.py/edicion-impresa/politica/visita-de-princesa-a-itapua-genera-gran-expectativa-1517499.html
この情報は、現地でお世話になった日系二世の通訳のかたからお聞きしました。きわめて合理的なビジネスプランに関心させられました。社業のご発展をご祈念もうしあげます。
なお、次回パラグアイ取材は、まだ確定しておりませんが、今年の6月から7月にかけて、機会に恵まれたら10日間ほど現地訪問したいと考えております。
ひらく会事務局より