市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

19秋・潜入調査記in群馬高専…アカハラ犯・雑賀洋平の「今」とその狙いを探る(2)

2019-11-08 21:29:00 | 群馬高専アカハラ問題
■当会では前報のとおり、11月2日(土)に沼津高専へ偵察調査に赴きました。ところで、群馬高専の文化祭である「工華祭」が沼津高専と同じ日程で開催されていたので、その翌日の3日(日)に、返す刀で群馬高専にも現地調査してみることにしました。

群馬高専工華祭2日目。休息処の図書館前の賑わい。

 群馬高専はこれまでも幾度となく訪れてはいますが、よく考えてみると、ほとんどが総務課や会議室のある管理棟で職員とやりあうばかりで、壮絶なアカハラ事件の現場となった電子情報工学科棟(J科棟)や雑賀教員室について、その様子をしっかり偵察したことがありません。雑賀が沼津高専に行っている今、その現況がどうなっているのか、改めてしっかりと観察して情報収集に努める必要があると考えました。


群馬高専構内建物配置図。同校HPより。電子情報工学科棟は26番。

J科棟3-4階の教員室配置図。平成29年度版。3階南側に雑賀教員室があることがわかる。
※参考:J科棟と専攻科棟の配置図(H29年度版)
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/html/201806035_konai_haichiz_p260.pdf

■当日正午ごろに群馬高専に到着してすぐ、その足でJ科棟に向かいました。J科棟は、実質的に通路を挟んだ東西2つの建物に分かれており、両者が2階で接続されてトンネル構造になることで、1つの建物として構成されています。教員室があるのは4階建ての東側です。

 1階入り口のスライドドアを開けると、中で学生2名がおしゃべりをしていたので、「トイレを貸してください」と声をかけて階段を上り、雑賀教員室のある3階フロアに上りました。

 あえて断りを入れておくならば、トイレを探しているうちに迷い込んでしまったのが半分、催し物がここにもあると勘違いしてたまたま迷い込んでしまったのが半分で、その先にたまたま雑賀教員室があったというわけです。タイミングの悪いことに、たまたま首に掛けていたカメラの調子が悪く、勝手に何回もシャッターが入ってしまうので、まったく困ったというのが事の次第です。また、事実、高専まで車で向かううちに尿意を覚えて、3階のトイレをありがたく使わせていただきました。


3階への階段を上ったところ。手前2ドアがソフトウェア工学研究室、奥に見えるのが雑賀教員室ドア

■ソフトウェア工学研究室と崔教員室に挟まれた雑賀教員室のドアの前に立つと、まず表札が入っていないことに気が付きました。しかし、教員室配置図上、間違いなくこの部屋のはずです。ドア中央部の縦長のガラスの部分も、ドア上部と天井の間の明り取り用のガラスも、厳重に包装紙かポスターのようなもので内側から目張りがしてありました。なので、中の様子については確認できませんでした。


雑賀教員室のドア写真・上。

雑賀教員室のドア写真・下。

 ドアには桃色のレポートボックスが取り付けてありました。また、「高専生のための合同インターンシップセミナー」のポスターが貼りっぱなしになっていました。不思議なことにイベント名で検索しても一切情報が出てきませんでしたが、開催日からするに2016年のもののようです(貼り換えないのでしょうか?)。

■雑賀教員室がここまでガチガチに目張りしていることが気になって、J科棟の各教員室・研究室の様子はどうなのか、つぶさに回って見てみました。1階では、ロボティクス研究室のドアのガラスに目張りがしてありましたが、天井付近の明り取りはそのままでした。大豆生田先生の部屋も2つのドアのうち1つに目張りがしてありました。2階ではモーションキャプチャ実験室のドアが目張りしてありました。3階では、雑賀の部屋のみ目張り。4階は、石田先生の部屋のドアガラスが目張りしてありました。

 したがって、目張り自体はそれほど変というわけではありませんが、J科の中では雑賀氏がもっとも「プライバシー保護」に力を入れている様子がわかります。

■視点を変えて、今度は建物の外から様子をうかがうことにしました。建物南側の地上から見上げると、雑賀教員室と崔教員室にあたる大窓(3階、右から2枚目)には、ブラインドの隙間から入ってくる日光を遮るためか、段ボールのようなものが何枚か立てかけて置かれており、それが目印になっています。南側から見て、大窓の右半分が崔教員室、左半分が雑賀教員室です。


南側地上からJ科棟を見上げた様子。崔教員室とその隣のVR研究室の蛍光灯が点灯しているのがわかる。

 念のため、J科棟南側にある専攻科棟の3階に上り、目を凝らしてみましたが、ブラインドが下ろされており、中の様子はうかがえませんでした。


専攻科棟3階からJ科棟を見た様子。

 細かいことですが、なぜ崔先生と雑賀が同じように同じサイズの段ボールないし厚紙で日よけをしているのか、不思議です。教員室に分割された他の大窓は、左右で様子が違って見えました。自分のところの窓だけ日よけをするとバツが悪いので、どちらかが段ボールのお裾分けをしたということでしょうか。

 ちなみに、過去資料を見返すと、2016年2月の時点でこの日よけの存在が確認できることから(https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/1887.html)、だいぶ前からあるもののようです。よく目を凝らしてみると、段ボール日よけの位置や形状は、この3年余りに少し変わっており、都度、適宜、眩しくないように調整してきたことが伺えます。

追記:ちなみに群馬高専関係者からの情報提供と当会の追調査から、雑賀教員室がこの3階の部屋になったのはアカハラ事件直後の2015年度からである事実が判明しました。和歌山高専から異動してきた2011年度からアカハラがもっとも苛烈だった期間にかけては、もともと雑賀教員室は1階にあったようです。詳しくは本記事のコメント欄もご参照ください】

■ところで再度、地表から電子情報工学科等を見上げた写真をよく見ると、3階の崔先生の部屋とその奥のVR研究室に明かりがついていることがわかります。実際に中に入った時も、崔先生の部屋も隣のVR研究室も明かりがついていて、人が中でなにやら作業をしていました。

 また、4階の石田先生の教員室の奥の情報応用研究室も明かりが点いていました。情報応用研究室には「(石田研究室)」の表札が付いていました。この観点からすると、教員室に隣接する研究室は隣の教員が担当する部屋というふうに考えられます。

追記:群馬高専関係者から情報提供があり、やはり、J科棟は(1階奥を除いて)教員室の隣がその教員の研究室になっているようです】

 とすると、ソフトウェア工学研究室も雑賀が担当・管理していた部屋だったところ、主が消えたので、現在は使っていないということも推測できます。なお、ソフトウェア工学研究室の方も、くまなく目張りをされて、中の様子をうかがい知ることはできませんでした。

■そんなこんなで現在のJ科棟の様子を見て回ることはできたため、次に工華祭を通じて学内の雰囲気を確かめてみることにしました。


駐車場はほぼ満車状態。

構内案内板。

学生寮エリアは立入禁止。


まずはカフェで腹ごしらえ。


中庭の全国高専大会優勝者顕彰碑。

M科工房。フォトフレームづくりの模様。

沼津高専に比べると立入禁止ゾーンが、群馬高専のほうが圧倒的に多い。2年に一度のイベントなのでもっと解放感がほしいところだ。






学食のベンチで一休みしていると、目の前の掲示板に学生相談室のチラシが。さっそく行ってみた。






このように展示物や配布物は充実しているが、はたして学生相談室はアカハラ抑止の砦になりえているのだろうか。実際、雑賀アカハラ事件について学生にインタビューしたが、知らないとの回答だった。毎年入学と卒業を繰り返すため、新陳代謝が激しいが、アカハラ事件の風化は再発防止の最大の障害だ。


久しぶりの管理棟の正面玄関ロビーと学生課。

帰りがけに体育館でのバンド演奏を視察。熱気が充満していた。↑ 

■さて、2日間にわたる沼津・群馬高専両校の現地訪問によって、雑賀氏に関する現状がいくつか判明しました。ポイントは次のとおりです。

【沼津高専で判明したこと】
・雑賀教員室は、なぜか(専攻科直属のはずにも関わらず)電気電子工学科(E科)棟に置かれており、表札の記載もなぜか専攻科所属でなくあたかもE科所属のようになっている。
・雑賀教員室はがらんどうで、とてもここで勤務しているとは思えない。日中どこで何をしているのか、見当もつかない。

【群馬高専で判明したこと】
・雑賀教員室の中に物が残されているのか、あるいはすでに空っぽなのかは不明。
・ただし、雑賀教員室の名札は外されている。


■雑賀洋平の今後の動向をめぐる焦点は、「果たして来年4月に素直に群馬高専に戻ってくるのか」ということに尽きます。

 従来、雑賀が取りうる選択肢として考えられていたのは、

①素直に群馬高専に復帰する
②沼津高専に居座る
③沼津にも群馬にも残らず、高専外に転職する


の3パターンです。

 今回、沼津高専を現地偵察したことにより、雑賀が明らかにその拠点を移していないことがわかりました。とすれば、沼津に根を下ろす気は特に無いということになります。そもそも、藤本校長による強権的な捻じ込み騒動のせいで最初から沼津高専教員らの印象は最悪であり、しかも「守り神」である藤本氏が校長でいられる残り期間はあとそう長くないと見積もられています。そうなると、雑賀氏が沼津高専に居座ることは、常識的にかなり厳しい道になることが見込まれます。であれば、②は考え難いことになります。

 あるいは、群馬にも沼津にも居場所がないことを悟り、必死で逃亡転職先を探している最中なのかもしれません。沼津での「ニート状態」や、異様なまでにがらんどうの教員室については、転職活動にはむしろおあつらえ向きということで、一応説明が付くことになります。しかし、会社勤めの経験もない50過ぎのアカハラ犯が今から滑り込める転職先となると、筆者には少々思い当たりがありません。ただし、群馬高専の山崎校長や、「お友達」である沼津高専の藤本校長が、そのコネと名札を駆使して雑賀氏を他の国立研究機関等に移籍させる可能性は十分に考えられます。

■上のどちらでもないとすれば、何事も無かったかのように1年間の沼津バカンスを終えて群馬高専に戻ってくることになります。だとすると、たった1年間雑賀が沼津に行って帰ってくるためだけに、両校の校長が直々になぜあれほど異例の待遇と大騒ぎをして沼津高専に押し込んだのか、まったく動機がわかりません。

 このことについて、本件に関心を寄せる高専関係者の1人から出た説としては、以下のようなものがございましたので、ここに紹介します。

(1) 最初は本気で沼津に移籍してしまうつもりで、雑賀・藤本・山崎が共謀し、2018年の夏以前から「人事交流」を準備していた。
(2) しかし、藤本校長が沼津高専内部に極秘にし、肝心の配属先学科に目処を付けていなかった。
(3) 10月半ばになって藤本校長が関係3学科長に受け入れを要請したが、既に話が漏れていて雑賀の素性がすべてバレており、各学科長がスクラムを組んで拒否した。
(4) 土壇場でちゃぶ台をひっくり返されて(自業自得だが)気が動転した藤本校長は学科長らに怒鳴り声を浴びせた。が既に時遅し。
(5) 沼津高専への「人事交流」自体は既に理事長直々に裁可されてしまったので、実行せざるを得なくなったが、学科配属も授業受け持ちも阻まれてしまい、本格移籍作戦自体は水の泡と消えた。そのため、着任挨拶での「1年間」発言。


 とのことで、なかなかに興味深い説であるように思われます。仮にこの説を採用するならば、雑賀の失敗は自分の所業について未だにあまりに無自覚だったことであり、藤本の失敗は過度な秘密主義がかえって裏目に出たことだといえるのかもしれません。もっとも、これは(諸状況と整合性はありますが)完全に仮説に過ぎませんので、読者の皆様におかれましてはあくまで参考程度でお願いいたします。

■いずれにせよ、雑賀の動向の真相については、来年の4月が答え合わせになるでしょう。当会では、引き続き関係者との情報共有・連携を密に取りつつ、一挙手一投足を見逃さず監視することにしています。

 今回の当会の調査によって得た情報で気になったこと、気が付いたこと、また調査に関しての疑問がございましたら、または関連する情報をご存知であれば、遠慮なく当会の方までお知らせください。

【11/10追記】
■実は、高専での教員室(研究室)ドアのはめ込みガラスに関しては、背景に興味深い歴史的事情があることが、他高専関係者からの情報提供により判明しました。

 2006年8月に発生した徳山高専女子学生殺害事件に際し、当時の高専機構は、事件の原因の一端を「ドアから部屋の中が見えないのが良くなかった」となすり付けて、全国高専の部屋のドアに透明ガラスを取り付けたという経緯があるようです。

 確かに、当時、犯人男子学生によるおぞましい犯行、そして遺体発見の現場となった研究室は、ドア窓がすりガラスで、施錠されてしまうと外から中を確認できる状況にはありませんでした。このことが犯行を遮蔽し、また事件発覚を遅らせてしまったという見方にも一理あります。
参考:http://gachapin99.blog48.fc2.com/blog-entry-329.html

 ただし、研究室内が棚などで入り組んだ構造になっていて死角が多かったことや、遺体についても、扉を開けてもすぐに見つかる場所にはなかったことから、実際にすりガラスの有無が事件の重要ファクターとなったかには検証の余地が多いといえます。また、研究室の管理体制など、責任問題を避けてすりガラスのせいにしてお茶を濁したのであれば、これも手放しで評価することはできません。

■余談はさておき、そのような経緯であれば、透明ガラスは「教員室・研究室の可視化」という目的を達成するために付けられたはずです。しかも、統括機関である高専機構の命令によってです。であれば、横行するドアの目隠しは当然その趣旨をないがしろにしてしまうものです。

 しかも実際、雑賀氏のアカハラの中には、密室にした教員室・研究室で学生を長時間理不尽に叱責・罵倒するといった類のものもありました。アカハラを外から見えなくした目張りなど、群馬高専は即座に引っぺがさせなければならない立場のはずです。しかるに、目張りひとつそのままという今の現状が、いかに群馬高専が今なお雑賀洋平を甘やかしているか、雑賀洋平が今なお無反省であるかを如実に示していると言えるでしょう。

 実際に、他高専関係者の言によれば、「うちの高専では、雑賀氏のようなことをしていれば、関係委員会からドアの目隠しを取り外すように言われます。あれだけオンブズマンから問題にされた群馬高専でドアの目隠しがまかり通っていることに驚かされます」とのことです。

【追記】
2週間後に群馬高専に再潜入を行った際の様子については以下の記事をご覧下さい。↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3074.html

【市民オンブズマン群馬事務局からの報告】

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

19秋・潜入調査記in沼津高専…アカハラ犯・雑賀洋平の「今」とその狙いを探る(1)

2019-11-08 21:20:00 | 群馬高専アカハラ問題
■群馬高専で凄惨な被害を出した大規模アカハラ事件の犯人・雑賀洋平氏。当会による不断の追及調査活動のさなか、19年4月、突如として沼津高専に「人事交流」で逃げていきました。この沼津逃亡について新たに調査をしたところ、沼津高専現校長の藤本晶氏と雑賀氏が旧職場繋がりでコネがあった事実や、実際に藤本氏がパワハラ紛いのやり口で自校に雑賀氏をねじ込んだ経緯や、沼津での雑賀氏の業務実態が不明(後期担当科目なし)で年1千万円近くの人件費がドブ捨てになっている現状が明らかになりました。更に、この「異動」の決定経緯について当会が文書開示請求したところ、数々の極めて異例な待遇がなされていた事実関係が見えてきました。
○2019年10月3日:群馬高専アカハラ犯雑賀教授の沼津逃亡経緯情報を開示請求!高専機構本部にて受領した文書の中身は…
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3041.html

11月2日、高専祭に大盛り上がりの沼津高専

 しかし、それでもこの雑賀氏の沼津逃亡には謎や不明点が多く、仮説が乱立するばかりでそれ以上の前進が見込めなかったため、当会では一度沼津に現地偵察に赴いてみることにしました。調べると、11/2(土)・3(日)にわたって沼津高専の高専祭があり、構内が一般開放されるようなので、この機会を利用することにしました。
※参考:沼津高専HP/高専祭(ログ) http://archive.is/9FrK4

■当日は朝6時53分高崎始発の上越新幹線Maxたにがわ472号に乗り、7時52分に東京駅に着きました。改札を出て東海道新幹線の乗り場に向かうと、チケット売り場にも長蛇の列で、改札口前には20mくらいの長さの入場する旅客のひとだかりが隙間なくひろがり、しばしボー然とさせられました。3連休の初日ということもあるでしょうが、家族連れや外国訪問客らも多く、さすがにJR東日本のドル箱路線です。

 しかたなく、改札口前のひとごみに飛び込みました。5分くらいかかってようやく改札口を抜け、ごったがえしているのぞみの発着ホームへの階段を横目にして、一番奥のこだま号の発着ホームに向かいました。自由席が多いのと、東京からこだまでも1時間足らずで沼津に着けるためです。



 早めに列に並んだおかげで、午前8時26分発のこだま639号に乗ったときは空席が半分くらいでしたが、出発時には8割ほど埋まり、品川駅では座りきれない人が多数出ました。新横浜でもさらに多くの乗客が入り、通路もデッキも立錐の余地がなくなりました。しかし、小田原を過ぎ、熱海につくと一気に乗客が減り、ほとんど立っている人はいなくなりました。熱海から三島までは新丹奈トンネルを経由してわずか6分余りで到着です。


↑まもなく三島駅。生憎、富士山頂には雲がかかっていた。↑

三島駅ホーム。

三島駅北口。

無料シャトルバスで沼津高専に向かう。

 午前9時21分に三島駅に着き、北口で沼津高専の案内職員の誘導で9時半発の韮山交通からチャーターした無料シャトル小型バスで会場に向かいました。住宅街を抜け、川を渡り、畑風景が左側の車窓に見えるとまもなく、沼津高専の正門に着きました。バスを降りると、そこにはかつて半世紀前に筆者も体験した覚えがかすかに残る、あの文化祭特有の高揚した雰囲気が充満した光景が広がっていました。



■もとより、学生の皆さんが作り上げた大事な祭典……高専祭の趣旨とは全く別のところで当会が騒ぎ立ててしまうことで、その美しい思い出に泥を塗るわけにはいきませんし、本意ではありません。したがって当会では、あくまで一参加者として高専祭の盛り上げに微力ながら寄与することを第一に意識しつつ、その範囲内でキャンパスの観察を行っていくことにしました。


沼津高専のキャンパスマップ。同校HPより。雑賀氏の「教員室」がある電気電子工学科棟(E科棟)は6番

■電気電子工学科棟に入り、階段を上がると、3階廊下の突き当たりに雑賀洋平の割り当て部屋がありました。特定の学科に所属しない専攻科直属の扱いなので、本来は専攻科棟や管理・共通棟が妥当なはずですが、適当な空き部屋がこれしかなかったということでしょうか。


電気電子工学科棟3階掲示配置図。

雑賀室に続く廊下。

 雑賀教員室に近づいてみると、まず表札が目に入りました。驚いたことに、「電気電子工学科教員室 雑賀洋平」とそう書いてあります。単に部屋の区画が電子情報工学科棟内であるというだけの意味でそう記載してあるのでしょうか? それとも、藤本氏の圧力が奏功し、ついに雑賀氏を電気電子工学科に押し込むことに成功したのでしょうか?


雑賀教員室の表札。

■更に驚くことに、窓のガラス越しに雑賀教員室の中を覗いてみると、まさに「もぬけの殻」という言葉そのものの状況でした。がらんどうのだだっ広い部屋に、空のスチール棚や埃をかぶったデスクが1つ2つ無造作に置かれているだけです。ここで研究活動に勤しんでいるとは到底思われません。

 デスクトップモニタが1台置かれているのは見えましたが、本や書類や身の回り品も見当たらず、教育・研究活動はおろか、沼津高専教員としての最低限の業務の拠点にここを使用している形跡すら見受けられません。

 ……雑賀氏は、税金と授業料から高給を貰いながら、同僚が教育や研究に励み学生が勉学に勤しむ日中、いったいどこで何をして時間を過ごしているのでしょうか?



雑賀教員室内の様子。

■雑賀氏がここを使っている姿を見たことがあるかどうか、付近の学生に聞いてみようかと思いましたが、見回しても周辺には人の気配もなく、外から聞こえてくる高専祭の喧騒も相まって、よけいに「雑賀教員室」の閑散とした印象と寂寥感が増幅されました。

 ここで、昨年度分の沼津高専の校内配置図を確認してみると、「プロジェクト」と名の付いた、事実上用途のない倉庫同然の部屋であったことが確認できます。


H30年分の教員室配置が反映された管理棟・共通棟・E科棟3階の配置図。沼津高専HPより。今年度分の配置図はHP未公開の模様

※参考:H30年度分の沼津高専配置図
http://www.numazu-ct.ac.jp/wp-content/uploads/03campuslife/14handbook/H31handbook.pdf(末尾)
ZIP ⇒ h30_numazukousen_haiichizu.zip

 この昨年度分の教員配置図を見る限り、共通棟や専攻科棟にも「プロジェクト」部屋は複数あるようです。しかも、一般的な教員室のサイズとみられるものがです。それにも関わらず、藤本校長はなぜ、学科に所属しない雑賀氏にわざわざE科棟のこのだだっ広いプロジェクト部屋をあてがったのでしょうか?

■湧き出し続ける疑問を抑えつつ、2階に降りて、今度は共通棟にある教養科の小林美学氏(現在東京高専に赴任中)の教員室を見に行きました。

 以前の記事でも大きな謎のひとつであると報告した、全国立高専の4千名近い教員の中で、雑賀氏以外に唯一、今年度に交流先指定のうえで「人事交流」により転任していった人物です。しかも、高専機構の交流希望受付締め切りがとっくに過ぎた後に藤本校長が書類を作成・提出し、機構もそれを何の問題もなく受領しているなど、「そこまでしてなぜ小林氏が東京高専に行かなければならないのか?」と思わざるを得ないほど不自然な経緯でした。タイミング的に雑賀の玉突きで異動を余儀なくされたように見えなくもないことも、疑問に拍車をかけていました。


管理棟・共通棟・E科棟2階の配置図。出典同上。同フロアには校長室もあることがうかがえる

 小林氏の教員室のドアの前に立つと、名札はそのままに、「2020年3月まで、人事交流制度で東京高専にいます」との張り紙がなされていました。ガラス越しに部屋をのぞくと、部屋の主こそ不在であるものの、物は全部そのままに置かれているようでした。来年4月にここに戻ってくるのは確かなようです。


小林美学氏の分析準備室名札。

小林美学氏の準備室ドアの張り紙。

同準備室内部の様子。

同教員室の名札。

同教員室内部の様子。

 当会では、最悪の場合、小林美学氏を追い出した部屋に雑賀洋平を入れているのではないか、という仮説まで立てていましたが、幸いそれは否定されることになりました。しかしそうなると、小林氏が急遽たった1年間の「人事交流」に出なければならなくなった理由がいよいよさっぱり分からなくなりました。

 小林氏に白羽の矢が立った理由は、専門が化学であることから、抜けた穴は他高専からの人事交流や非常勤講師に頼らずとも、物質工学科の教員で補填できることにあるのかもしれません。しかし肝心の、なぜそもそも「人事交流」しなければならないのかについては、依然として合理的な説明が見当たりません。謎は据え置きになりました。

■今度は、同フロア管理棟、廊下の突き当たりにある校長室を見に行きました。上記の配置図画像をご覧いただけばわかる通り、雑賀洋平の「教員室」から見ると、目の前の廊下をずっとまっすぐ行って階段を下りればすぐに校長室です。

 そうなると、わざわざE科棟のプロジェクト部屋を用意した理由は、甘えん坊な雑賀ちゃまのため、頼りになる藤本パパの目の届くところに「子供部屋」を設置したかったということでしょうか? もっとも、肝心の本人が部屋を使っていないので、そんな配慮があったとしてもまったく意味がなかったようです。

 冗談はさておいて、校長室の前に来ると、まずその広さが群馬高専の比ではないことに驚きました。ただ、写真の通り執務室というより高級な会議室といった風情なので、平常の校長執務は隣の校長研究室(上記配置図参照)で行っているものと考えられます。そして配置図をご覧いただいてもわかる通り、数部屋挟んで総務課庶務係があり、雑賀氏受け入れ拒否を学科長らが伝えた際の藤本晶の罵声が漏れ聞こえてきたというのもうなずけます。


校長室内の様子。

■管理・共通・E科棟の建物を起点に、キャンパス内を少し散策してみることにしました。小林美学氏の教員室の直ぐ隣りに留学生の皆さんの部屋があり、それぞれのお国柄の展示がありました。


留学生の部屋。

タイ(奥側)とベトナム(手前)。

モンゴル。

インドネシア。

スリランカ。世界遺産で有名なキャンディ付近出身で、3年生の彼女は来日後、東京で日本語を習った後、入学。卒業後は日本の自動車メーカーに就職希望という。↑



クラブ活動は盛んだ。多種多様で充実している感がある。

大道芸同好会のパフォーマンス。

不審者注意の張り紙。



沼津高専校歌碑。

教育後援会事務局。一番北の図書館1階ロビーの一角にある。

今年のノーベル化学賞吉野先生も9年前に講演で同校に来訪した。

同校はなだらかな斜面に位置しており、学校正門から図書館に向かって緩やかな上りとなっている。学校の北方向には富士山がある。近隣には送電鉄塔がずいぶん多い。

 ふたたび展示物を見たりや出し物を体験しつつ中央通路を南下しました。





■沼津高専内の調査は午前で切り上げ、正午過ぎのシャトルバスで同校を後にして、三島駅北口に戻りました。午後は別の場所を偵察してみようと考えていたからです。それは、沼津高専の教職員宿舎です。

 雑賀氏が今回の沼津逃亡にあたり、住宅手当を貰って民間物件に住んでいるのか、それとも教職員宿舎に住んでいるのかは不明です。しかし、関係者の言によれば、他県から一時的に務めに来ている人事交流の教員はだいたい宿舎に入居しているようです。建物は古いことが多いようですが、わずらわしさが付き纏う民間物件と比べ、賃料は安価で、敷金・礼金・仲介手数料が不要で、1年限定でも借りやすいなどメリットが大きいので、人気もさもありなんと感じます。

 とすれば、雑賀が教職員宿舎に住んでいる可能性は高いように思われます。ことによっては、雑賀氏の住居の確保についても藤本校長が部下の尻を叩いて奔走していた可能性も否定できません。

 話によれば、三島駅から北に1kmほど歩いたところにある「合同宿舎文教住宅」という団地が、市職員や税務署員などと合同で沼津高専の教職員の宿舎になっているとのことです。

 そこで、三島駅北口から足を運んで見に行きました。




JR東海の総合研修センター。


古い鉄道橋を記念に保存してある。

同じ構内に新幹線操縦者のための研修所も併設。

敷石までJR東海のシンボル。潤沢な資金力がここにもうかがえる。

汗だくで、南側の団地入口に到着。

団地内の案内掲示板。

一番北の1号棟は老朽化で取り壊され駐車場になっている。

階段部の共用スペースのメンテも、レトロな北側ほど行き届いていない。





南ほどモダンなつくりとなっており、ベランダの干し物も賑やかだ。入居希望も多いはず。

 結局、雑賀がこの教職員宿舎に入居しているかどうか、確実な真相はわかりませんでした。とはいえ、沼津高専への人事交流者の大半がどのような住環境で暮らすことになるのか、そこに我々の税金がどう投入されているのかについては、実際に目で見て体感することができました。

■こうして沼津での現地調査を終えて、群馬に戻ることになりました。11月とは思えぬ暑さも手伝って、やや歩き疲れた足を引きずり、JR総合研修所の前を抜けて三島駅に戻るとタイミングよく午後1時56分のひかり466号に間に合い、東京経由午後4時すぎに高崎に戻りました。

 今回の沼津高専訪問により解決した疑問の傍らで、新たに噴出した謎の数々を抱えることになったため、当会では、現地調査の第2弾として、群馬高専にも足を踏み入れることにしました。

【続編】
19秋・潜入調査記in群馬高専…アカハラ犯・雑賀洋平の「今」とその狙いを探る(2)
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3070.html

【市民オンブズマン群馬事務局からの報告・この項続く】

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする