市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

5月2日深夜のオサマ・ビンラディン殺害で、ますます目が離せなくなった中東情勢

2011-05-03 21:52:00 | 国内外からのトピックス
■オサマ・ビンラディンが殺害されたというニュースが昨日の午後、世界中を駆け回りました。

 アメリカのオバマ大統領が、米国東海岸の現地時間5月1日(日)午後11時35分ごろ(日本時間5月2日(月)午後0時35分ごろ)ホワイトハウスで緊急の声明を発表し、アメリカが主導する作戦で、同時多発テロ事件の首謀者で国際テロ組織アルカイダを率いるオサマ・ビンラディンを殺害し、遺体を収容したと発表したのです。

 実際には、この発表の7時間前に、ヘリコプター4機に分乗した米海軍特殊部隊(SEALS)の隊員25名により、オサマ・ビンラディンが潜伏していたパキスタンの首都イスラマバードから北東に約50キロ程離れた人口約10万人のアボトバードで、攻撃作戦が行われました。最初に、このヘリコプターが家の近くにやってきて、上空でホバリング(空中静止)をはじめた様子に驚いた地元住民がツイッターに生投稿しましたが、最初のメッセージは「Helicopter hovering above Abbottabad at 1AM (is a rare event).」」というものでした。

 ちょうど5月2日の深夜1時にヘリコプターが襲来したことから、パキスタンと日本の時差が4時間であるため、攻撃開始は日本時間の5月2日午前5時だったことになります。攻撃はきっかり40分で完了されたといいます。ということは、ビンラディンの殺害は日本時間の午前5時40分ごろと見られます。

 ビンラディンが射殺される際に、盾とされた女性が夫人だったとか、いや、夫人ではなかったなどと、細かい情報が二転三転していますが、米国の発表ですから、いろいろと情報操作がされていると見たほうがよいでしょう。ですが、DNAで本人であることを確認したというので、殺害自体は事実と思われます。今後、この事件に関するさらにいろいろな情報や分析、評論がなされるものと見られます。

■当会の事務局長が1998年8月にサウジアラビアに赴任した際、現地でオサマ・ビンラディンのことを初めて知りました。最初は「オーサマ・ビンラーディン」と発音されて聞こえたので、すぐに「王様」と語呂合わせで覚えました。また、オサマ・ビンラディンがサウジアラビア最大のゼネコン会社であるサウジ・ビン・ラディン・グループhttp://www.sbg.com.sa/を経営する一族の構成員であることも現地人に教えてもらいました。

 サウジ・ビン・ラディン・グループは、1931年にオサマの父である故モハメッド・ビン・ラディンにより創設され、サウジアラビア王国の発展につれて成長しました。ちなみに、オサマ・ビンラディンは、故モハメッド・ビン・ラディンの52子のうちの17番目の子で、1956年3月10日生まれだと言われています。正式な名前はオサマ・ビン・モハメッド・ビン・アバド・ビン・ラディン(ビンというのは~の息子という意味)と発音されます。

■一族は、かつてサウジアラビアに移住したイエメン農民一家の出身でした。起業後、石油ブームとともに、同国の建物や道路など建設工事を請け負って成長しました。やがて二大聖地のメッカ及びメディナのモスク修理を任されるほど、サウド家の王室のもとで高い地位を得ました。

 同グループは現在、米国、アジア及び欧州に多数の支部及び60社以上の子会社を有しており、石油及び化学プロジェクト、遠距離通信及び衛星通信に従事しています。サウジでプラント工事等を請け負う日本の企業も、パートナーとして同グループを起用することがよくあります。

 驚くべきことに、同グループの事業活動において、大勢のアメリカ人ビジネスマンが参加していることです。オサマ・ビンラディンは米国民の究極の「仇」なのに、テロの資金源を供給しているビンラディン一族の事業に積極的に関与しているからです。

■このようびビン・ラディン一族は、サウジで最も裕福で、サウド王室に近い一家の1つです。一族は、50億ドル以上の資本を所有しているとされ、オサマの取り分はそのうち約3億ドルといわれていました。

 さらにオサマは同グループの建設事業から利子を得ており、スーダンの建設会社「アル・ヒジュラ」、イスラム銀行「アシュ・シャマリ」の株や投資財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、ケニアに一連の貿易会社、イエメンに器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を含む企業グループを監督しているとされています。

 もともと、オサマ・ビンラディンは、旧ソ連軍が進攻したアフガンで1980年ごろイスラムを守る戦いに参加したのが、その活動の初めでした。当時、オサマのこの参加の決断は、一族から熱烈な祝福を受けました。当時は冷戦時代だったため、アフガンでオサマを支えたのは米国の武器とサウジアラビアからの資金でした。

■ところが1991年の湾岸戦争で転機が訪れました。オサマの母国のサウジアラビアが危機感のあまり米国に援軍を求めたのです。サウジアラビアにやってきた大勢の米兵の振る舞いは、敬虔なイスラム教を国是とするサウジアラビアの一般国民にとって非常なショックだったからです。とくに米兵として先遣隊で派遣された女性兵士の姿や奔放な素行に、年配者は眉をひそめ、若者は度肝を抜かれたのでした。

 米軍の駐留を認めた母国サウド王室に幻滅したオサマは王室批判を強め、その後、サウジはオサマの国籍を剥奪しました。

 スーダンに移ったオサマは、イスラエルによるパレスチナ支配を非難し、イスラエルと米国を標的に活動する過激派としての側面を強め、1996年にはアフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバンに賓客として招かれました。

 オサマの名が一躍有名になったのは1998年にケニア、タンザニアで発生した米大使館同時爆破事件でした。オサマは世界中にアルカイダ(アラビア語で「基地」の意味)のネットワークを拡大しました。3億ドルともいわれる資産は、アフガンの麻薬取引などでさらに膨らんだと見られています。

 そのほか、1993年の米国ニューヨークの世界貿易センター爆破事件、1996年のサウジアラビア国ダーランの米軍施設爆発事件、2000年のイエメン国での米駆逐艦爆破事件など多くのテロへの関与も疑われていました。

■こうしてみると米国は、対ソ戦略で、オサマ・ビンラディンを協力者として利用し育てたことが分かります。その後、湾岸戦争で、サウジアラビアに駐留した米軍が持ち込んだ「退廃的」な素行や文化に接し、堕落した母国に愛想を尽かして、今度は米国を敵視し始めたとされていますが、どうもすんなり理解できません。なにか、裏があるように感じます。

 9.11同時多発テロの真相については、いまだに謀略説が根強く残っています。米国は9.11を契機に、イスラム過激派に対する反米テロ戦争をスローガンに軍産複合体が台頭しました。事実、9.11以降、対テロ戦争という名目は米国の軍事費を前年に比べ326億ドル増額させることに成功し、国防総省の総予算は3750億ドルにまでなりました。冷戦後のあらたな軍産複合体の振興策として、米国が自作自演をしたとしたら、いつも犠牲になるのは一般市民です。

 対テロ戦争の実際の軍事行動は、敵対勢力への積極的な海外派兵によって行なわれ、兵器の使用に伴って大きな軍需物資の需要が生み出されています。特にアフガニスタンとイラクでは、主戦闘以外のあらゆる侵攻作戦上の業務を米国の民間会社へと委託する方式(民間軍事会社)が流行り、従来のように遠く離れた母国から武器などの物の販売によって利益を得るのではなく、戦争や紛争が起きている現場での労働力提供による利益追求といった、戦争請負業ともいえる新産業が確立しました。

■オサマ・ビンラディン殺害発表で、オバマ大統領は「ビンラディン容疑者は死亡したが、テロとの戦いは終わったわけではない。アルカイダの米国に対する攻撃は続くだろう」と警告しています。うがった見方をすれば、オサマ殺害で対テロ戦争が終結してしまうと困る人たちが米国にいるということも言えるからです。

 一方、世界で最も厳格なイスラム教を標榜するサウジアラビアの実態も、表と裏があり、また時代の流れで次第に変化しているのも事実です。次に挙げるのは昨年12月9日に報じられてニュースです。

**********
禁制の酒に麻薬、売春婦も出入り サウジ王族ら「秘密の宴」米公電で暴露
 イスラム教の中でも戒律が極めて厳しいワッハーブ派が国教の石油大国サウジアラビアで、王族も含めた一部の裕福な若者が、禁制の酒や麻薬が出る「秘密パーティー」を開いている実態が判明した。12月8日までに内部告発ウェブサイト「ウィキリークス」が暴露した米外交公電から浮上した。
 公電は「ジッダの地下パーティー」と題され、サウジ西部ジッダの米総領事館が昨年11月に作成。米外交官が招待を受けジッダのある邸宅を訪問したところ、禁制の酒が振る舞われ、男女がダンスに興ずる「ナイトクラブ」のような風景が広がっていた。
 参加者は20~30代のサウジ人の若者150人以上。こうしたパーティーは王族の自宅で開かれたり、王族自身が参加したりするため、宗教警察の摘発を受けにくいという。
 また、麻薬が使われたり、売春婦が出入りしたりするパーティーもあり、密輸入の外国製ウオツカは1本1500サウジ・リヤル(約3万4000円)で取引されているという。
 公電は最後に「閉ざされた場所に限るが、サウジの裕福な若者は比較的、自由を楽しんでいる」とコメントしている。(共同)
**********

■かつてサウジアラビアとクウェートとの中立地帯でアラビア石油という日本資本の石油会社が操業していました。同社は、サウジ、クウェート両国との利権協定のもとに、1960年1月、大規模油田であるカフジ油田を、1963年11月にはフート油田をそれぞれ発見し、1961年のカフジ油田生産開始以来、半世紀近くにわたり石油操業を継続し、この間、原油累計生産量が約39億バレルに達し、その内、約28億バレルを日本向けに供給してきました。

 2000年2月にサウジアラビアと2003年1月にはクウェートとの協定がそれぞれ終了したため、同地域での事業から撤退し、現在は、AOCエネルギー開発として、エジプトやノルウェーで石油開発に従事しています。

 1990年代に、このアラビア石油には時々、サウド王室の王子が視察に訪れていました。サウド王室といっても、オサマ・ビンラディンに51人の兄弟がいるように、王子たちも沢山おります。これらの王子はいずれもロイヤルファミリーを標榜しており、当会の事務局長がサウジアラビアに滞在していた1998年から2000年当時、ロイヤルファミリーの数は6千人と言われていました。現在では1万人くらいいると思われます。

 だから、サウジアラビアでのビジネスには、王子だと名乗る御仁がしょっちゅう暗躍します。当会の事務局長いわく、王室の関係者かどうか証明する手段がないので、こういう連中の対応には苦労させられる、ということです。

■さて、星の数ほどいる王子の中でも、アラビア石油を視察しに来た王子は相当高位にランクされる人物でしたが、訪問前に王子から必ず電話が、受け入れ側のアラビア石油の社長秘書室に入るのだそうです。

 その内容は「すまんが、いつものように、宿泊所のベッドの脇にナイトキャップ(寝酒用カクテル)を用意しておいてくれないか」というお願いなのだとか。ナイトキャップといっても、ベースは普通の銘柄ではなく、フランスから直輸入の超高級ブランデーが王子のお気に入りだそうです。当会の事務局長によれば、このエピソードは知る人ぞ知る有名な話だとか。

 また、湾岸戦争のときは、逸早く国外脱出したクウェートとサウジの王室メンバーや富裕層の人たちは、逸早く国外脱出し、シンガポールやバンコクの高級ホテルでイラク軍のクウェート侵攻の模様をテレビ中継で見ながら、酒をあおっていたというエピソードもあります。

■実際、毎年12月初めにジッダの日本総領事館で開催されるナショナルデーの晩さん会(本来は天皇誕生日なのですが、クリスマスとかち合うため、現在は12月上旬に実施する在外公館が多い)では、広大な日本領事館の芝生の庭に、近くの米国系有名ホテルに手配させた幾つもの屋台がならび、日本食、洋食、中華、ケバブ料理のほかに、日本酒や洋酒コーナーも設けられます。

 この晩さん会には、現地で働く法人関係者のほかに、各国の外交官やその家族はもとより、サウジアラビア王室、実業家、マスコミなどの関係者も多数招かれます。

 晩さん会が始まって目にする光景には驚かされます。両方に大きなグラスをもったサウジの人たち(ただし参加者は男性のみ)が、ワインやウイスキー、日本酒や焼酎の屋台の前に列をなすのです。いわゆるオバQスタイルと言われる格好です。「トーブ」と呼ばれる真っ白な、かかとまで隠れるワンピースのガウンを着て、頭には「グトラ」「クーフィヤ」「シマッグ」などと呼ばれる、赤白のチェックもしくは白色の布をかぶり、その布を頭に固定するために「イガール」と呼ばれる太い布の紐を頭に二重に巻いています。

■総じて、サウジ人はメタボですが、このオバQの格好をしていると体型が目立ちません。しかし体格が大きいので飲酒の量も半端ではありません。リッチな人たちは海外渡航も自由にできるため、外国で酒の味を覚えています。こうした各国のナショナルデーでは、治外法権の領事館や大使館で開催されるため、おおっぴらに各国の酒が味わえると機会というわけです。

 宴のあと、総領事館の外には、高級車の列ができます。グデングデンによっぱらったサウジ人が運転手に抱えられて車に乗り込みます。周辺は警官が見張っており、こうした実態が、一般国民の目に触れることはありません。

 おそらく、オサマ・ビンラディンはこうしたサウジの実態を知っていたことでしょう。サウジでは中産階級から下には敬虔なイスラム教徒が沢山います。そうした市民は、イスラムの戒律を厳守し、禁欲的な生活を毎日心がけています。

■ところが、王室や上流階級など富豪の間では、飲酒やブルーフィルム鑑賞など、裏ではなんでもありの状況であることが、前述のウィキリークスの暴露ニュースでも明らかです。

 米国によってテロリストの資質を与えられ、磨かれ、そして、米国によって葬られたオサマ・ビンラディンは、最後の時をどのような想いで迎えたのか、今となっては聞くことができませんが、おそらく母国の将来も脳裏をよぎっていたに違いないでしょう。

 おそらくこのニュースは、東日本大震災に次ぐ今年の歴史的な出来事として位置づけられる可能性があります。

【ひらく会情報部】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする