10月19日、朝、杭州国際青年旅舎で目を覚ました。
ここ旅舎の近くは近代的な建物が並び、この街が2千数百年も長い間息づいている街だと想像するのは難しい。しかし、メインロードを外れて歩いていくと、そこかしこにいにしえの香りを感じる。
それは、杭州だけのものではない。中国に流れる、長いそして重い歴史の香りであり、僕たちの知らない遠くから来る風である。
「杭州」は、歴史的にも紀元前の春秋時代(BC8~5世紀)の呉・越国の争い事に登場する古い街である。
同じく、杭州の北にある蘇州は呉の都で、越の都は会稽(紹興)だった。紹興は、杭州のすぐ南にあり紹興酒で有名なところである。
ちなみに「呉越同舟」の故事は、この呉と越の敵・味方に由来する。
その頃、日本はまだ縄文時代である。クニもなく、卑弥呼すら登場していない。何と中国は早熟だったことか。
杭州は、春秋・戦国、秦、魏晋南北朝時代を経て、隋(6後~7世紀初)の時代にこの名の杭州に改名される。そして、この時代に、現在の北京近くのタク郡から杭州へ大運河が造られる。
中国は昔から「南船北馬」と言われてきたように、江南地方は水路は発達していたが、北の方は馬が頼りだった。その華北に南からの水路を繋げ、黄河と揚子江を結んだのである。全長約1800キロで、おおよそ青森から福岡までの距離だ。今から1400年も前のことだから、万里の長城にも匹敵する歴史的大事業である。
これにより、杭州はその後、江南の交通、交易の拠点となる。清代のアヘン戦争(1840~1842年)以後、上海が繁栄を遂げるまでは。
*
杭州が中国六大古都とあるので、他の5都市はどこかと見たら、北京、西安、洛陽、開封、南京である。
どこも、かつて社会科の教科書に出てきた都市である。
本棚の奥から「世界史地図」(吉川弘文館)「世界史図説」(東京書籍)を引っぱり出して、ながめてみた。高校の副教本だ。灰色の受験生時代が、少しだけいとおしい。あの頃、どうして熱心に受験勉強しなかったのかという後悔は、今すべきではない。
中国の歴史を紐解けば、紀元前1600年頃、殷の王朝が成立する。考古学的に実在が確認されている最初の王朝である。また、殷を商と称する説もある。
紀元前1100年頃、殷を滅ぼした周が華北を統一し、都を鎬京(コウケイ)に置いた。さらに時代は過ぎて紀元前770年頃、都を洛陽に移した。そして、この頃、春秋時代が始まり、戦国時代となる。
周を中心にしながらも、各地に諸侯が勢力を張ったのである。その諸侯が都とした街が発展し、それが今にまで息づいているのである。
中国の王朝は時代とともに変遷をとげながら、20世紀の清まで続いた。
中国人も、特に小学生は、この王朝を覚えるのは大変らしく、中国の小学校の社会科の教科書「中国の歴史」に、「中国歴史王朝序歌」なるものを紹介している。メロディーをつけて、歌うように覚えるのだろう。
ちなみに、中国の教科書では、最初の王朝とされる殷は商となっていて、その前の紀元前2000年頃より夏の王朝を記録している。
殷(商)の後の周は、西周と、春秋・戦国時代は東周とに区別している。
<中国歴史王朝序歌>
夏商と西周
東周は二期に分かれ
春秋と戦国
一統して秦両漢
三分して魏蜀呉
両晋は前後に伸びて
南北朝並立す
隋唐五代と伝わり
宋元明清の後
王朝はここに至って終わる
*
「北京」は、現在の中華人民共和国の首都で、新しい都市だと思っていたら、意外に古い。いや、本当に古くて新しい都市なのだった。
紀元前の春秋時代の燕の都、薊(ケイ)であった。燕は当時の中国の最北の国で、歴史地図を見ると、北方民族の攻撃を防ぐために、北方の東西に「燕の長城」が築かれている。これは、秦の万里の長城の礎と思われる。
秦、漢時代は、右北平と称し、宋(北宋11世紀)の時代には、北京大名府の名が記されている。
その後、モンゴルによる元の時代(13~14世紀)には都となり、大都と称した。
その後、明の時代の中期に南京からの遷都で都になり(1421年)、それから清の時代(17~20世紀初)を経て、現在の中華人民共和国の今日まで、北京は中国の都である。
清のラストエンペラーである溥儀は、清の滅亡(1921年)後も1924年まで北京の紫禁城にいた。
その後、愛新覚羅溥儀は天津に逃れた後、日本政府が建国した満州国の初代皇帝として、首都新京(長春)に住むことになり、数奇な人生を送る。
*
「西安」は、黄河の上流、中国の中心部にある。
わが国でも遣唐使で有名な唐の都・長安は、実は西安だった。
社会科の時間に、長安の都と聞いただけで、雅やかな寺社や街並みが、まるで遣唐使が目を丸くして目を見はったように、九州の片田舎の中学生にも浮かんできたものだ。
日本の飛鳥時代、動力機械もない帆船でやっと中国にたどり着いたと思ったら、その海岸からかなり奥まったところに長安の都はあったのだ。そして、長安の都、西安は、今でも遠い。
唐の都であった頃の長安は、当時は朝鮮、日本、それに西の方の吐蕃(チベット)などの国から多くの留学生が来ていて、国際都市であった。西域とのシルクロードの交流も活発であった。
長安の歴史は、唐以前に遡る。
紀元前12世紀、殷を滅ぼした周の都、鎬京も、実は西安だった。春秋・戦国時代の鎬京から、秦の時代は咸陽と称し、漢の時代より長安となった。唐のあとも、長安は支配王朝によって名を様々に変えるが、明以降は今の西安である。
僕が仲良しになった上海の場末の西安食堂の一家は、いにしえの長安から来たのだ。
*
「洛陽」は、古代中国の都の代名詞と言っていい。
長安が日本では有名だが、春秋時代の中頃より、洛陽の都も長い。洛陽と長安(西安)は、古代中国の都の双璧、東西の横綱と言ってよい。
洛陽は、長安(西安)と同じく黄河の上流に位置するが、長安よりやや東で海岸側に近い。歴史地図を見ると、春秋・戦国時代の中国のほぼ中心に位置する。
紀元前8世紀、東周の時に鎬京(西安)より、洛邑と称したこの地に都が移された。その後、後漢、西晋、隋、後唐など各王朝の都となった。長安(西安)が、都になったときも副都となっている。
芥川龍之介の「杜子春」は、中国の故事に倣った小説だ。その冒頭に、次のように書いてある。
「或春の日暮です、唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。」
芥川も、唐の都を洛陽としている。正確には長安である。中国の都と言えば、かくも洛陽か長安かで混同しやすい証左であろうが、芥川が間違うとは。中学生の時、「杜子春」は教科書で出てきた気がするが、どうだったか。
現在はあまり使われなくなったが、「洛陽の紙価を高らしむ」という故事がある。このことは、西晋の文人である左思が書いた本が大いに売れて、晋の都洛陽の紙の値段が高騰したことを言う。つまり、大ベストセラーの時に使ったのである。
う~ん、「かりそめの旅」の本が大いに売れて、東京の紙の値段が高騰したという話は、邯鄲の夢にもならないなぁ。失礼。
*
「開封」もまた古い都である。
洛陽より黄河に沿って少し東、海岸側に位置する。
春秋時代は、鄭の都で啓封と言った。戦国時代は、魏の都、大梁と称した。その後、北周の時代はベン(シ偏に下)州となり、宋(10~12世紀)の時代に東京開封府となった。
宋は、東京開封府を中心に、北京大名府、南京応天府、西京河南府を置いている。
やっと、東京が出てきた。東京という地名は、中国でもしばしば出現しているのだ。
前漢の長安から、後漢になって洛陽に遷都されたとき、長安の東に当たるため洛陽は東京もしくは東都と呼ばれた。隋、唐の時代も、長安の都より東にあるため、洛陽は東京とも呼ばれた。
また、宋の東京開封府は、開封となった現在でも雅号として東京と呼ぶ場合もあるそうだ。
ちなみに、ベトナムの現在のハノイは、かつて東京(トンキン)と呼ばれていた。ベトナムも、漢字文化圏である。
開封が正式に東京(トンキン)と称したら、日本の東京はあり得なかったに違いない。
*
「南京」は、揚子江の河口寄り、杭州の北西に位置する。
南京は、アヘン戦争後の南京条約、辛亥革命時の臨時政府、第二次世界大戦時の南京大虐殺など、近代において歴史の表舞台に登場するが、紀元前の春秋時代に遡る古い都市である。
戦国時代に呉を征服した楚が、この地を金陵とした。三国時代は、呉の健業となった。
その後、様々に名を変えるが、明(14世紀)の時代に応天府と改め都になる。ところが、永楽帝の時順天府(北京)に遷都され、このとき南京と名を変えた。そして、現在に至っている。
落花生、ピーナツを南京豆というのも面白い。南京が原産地というのではなく、中国から渡来したものの頭に日本で勝手に南京とつけたのと思われる。そのような意味では、南京袋や南京虫も同じだろう。
岡晴夫が歌う「南京の花売り娘」という歌があった。1940(昭和15)年発売というから日中戦争中の歌だが、「純な瞳よ、南京娘…」と、内容は可愛い歌である。中国は魅力的なところですよという、意識高揚の国策意図があったのだろうか。
地図を見るのは楽しいし、思わぬ発見がある。
とりわけ、歴史地図を見ると、その町(都市)が時代によって名を変えるのを見るにつれ、町が時代に翻弄されたのが分かる。あるときは浮かれ、あるときは血塗られた、いにしえの消え去った物語の雫が地図の奥に滲んでいるようだ。
支配王朝によって変わる街の名であるが、住んでいた人々はどんな思いだったのだろうか。
長安や洛陽の門の下、晴れた夜の空には月が輝いていたことだろう。
淡雲に流るる月にあくがれる
唐人(からびと)もまた仰ぎ見しかな
(12月2日、望月の夜に)
ここ旅舎の近くは近代的な建物が並び、この街が2千数百年も長い間息づいている街だと想像するのは難しい。しかし、メインロードを外れて歩いていくと、そこかしこにいにしえの香りを感じる。
それは、杭州だけのものではない。中国に流れる、長いそして重い歴史の香りであり、僕たちの知らない遠くから来る風である。
「杭州」は、歴史的にも紀元前の春秋時代(BC8~5世紀)の呉・越国の争い事に登場する古い街である。
同じく、杭州の北にある蘇州は呉の都で、越の都は会稽(紹興)だった。紹興は、杭州のすぐ南にあり紹興酒で有名なところである。
ちなみに「呉越同舟」の故事は、この呉と越の敵・味方に由来する。
その頃、日本はまだ縄文時代である。クニもなく、卑弥呼すら登場していない。何と中国は早熟だったことか。
杭州は、春秋・戦国、秦、魏晋南北朝時代を経て、隋(6後~7世紀初)の時代にこの名の杭州に改名される。そして、この時代に、現在の北京近くのタク郡から杭州へ大運河が造られる。
中国は昔から「南船北馬」と言われてきたように、江南地方は水路は発達していたが、北の方は馬が頼りだった。その華北に南からの水路を繋げ、黄河と揚子江を結んだのである。全長約1800キロで、おおよそ青森から福岡までの距離だ。今から1400年も前のことだから、万里の長城にも匹敵する歴史的大事業である。
これにより、杭州はその後、江南の交通、交易の拠点となる。清代のアヘン戦争(1840~1842年)以後、上海が繁栄を遂げるまでは。
*
杭州が中国六大古都とあるので、他の5都市はどこかと見たら、北京、西安、洛陽、開封、南京である。
どこも、かつて社会科の教科書に出てきた都市である。
本棚の奥から「世界史地図」(吉川弘文館)「世界史図説」(東京書籍)を引っぱり出して、ながめてみた。高校の副教本だ。灰色の受験生時代が、少しだけいとおしい。あの頃、どうして熱心に受験勉強しなかったのかという後悔は、今すべきではない。
中国の歴史を紐解けば、紀元前1600年頃、殷の王朝が成立する。考古学的に実在が確認されている最初の王朝である。また、殷を商と称する説もある。
紀元前1100年頃、殷を滅ぼした周が華北を統一し、都を鎬京(コウケイ)に置いた。さらに時代は過ぎて紀元前770年頃、都を洛陽に移した。そして、この頃、春秋時代が始まり、戦国時代となる。
周を中心にしながらも、各地に諸侯が勢力を張ったのである。その諸侯が都とした街が発展し、それが今にまで息づいているのである。
中国の王朝は時代とともに変遷をとげながら、20世紀の清まで続いた。
中国人も、特に小学生は、この王朝を覚えるのは大変らしく、中国の小学校の社会科の教科書「中国の歴史」に、「中国歴史王朝序歌」なるものを紹介している。メロディーをつけて、歌うように覚えるのだろう。
ちなみに、中国の教科書では、最初の王朝とされる殷は商となっていて、その前の紀元前2000年頃より夏の王朝を記録している。
殷(商)の後の周は、西周と、春秋・戦国時代は東周とに区別している。
<中国歴史王朝序歌>
夏商と西周
東周は二期に分かれ
春秋と戦国
一統して秦両漢
三分して魏蜀呉
両晋は前後に伸びて
南北朝並立す
隋唐五代と伝わり
宋元明清の後
王朝はここに至って終わる
*
「北京」は、現在の中華人民共和国の首都で、新しい都市だと思っていたら、意外に古い。いや、本当に古くて新しい都市なのだった。
紀元前の春秋時代の燕の都、薊(ケイ)であった。燕は当時の中国の最北の国で、歴史地図を見ると、北方民族の攻撃を防ぐために、北方の東西に「燕の長城」が築かれている。これは、秦の万里の長城の礎と思われる。
秦、漢時代は、右北平と称し、宋(北宋11世紀)の時代には、北京大名府の名が記されている。
その後、モンゴルによる元の時代(13~14世紀)には都となり、大都と称した。
その後、明の時代の中期に南京からの遷都で都になり(1421年)、それから清の時代(17~20世紀初)を経て、現在の中華人民共和国の今日まで、北京は中国の都である。
清のラストエンペラーである溥儀は、清の滅亡(1921年)後も1924年まで北京の紫禁城にいた。
その後、愛新覚羅溥儀は天津に逃れた後、日本政府が建国した満州国の初代皇帝として、首都新京(長春)に住むことになり、数奇な人生を送る。
*
「西安」は、黄河の上流、中国の中心部にある。
わが国でも遣唐使で有名な唐の都・長安は、実は西安だった。
社会科の時間に、長安の都と聞いただけで、雅やかな寺社や街並みが、まるで遣唐使が目を丸くして目を見はったように、九州の片田舎の中学生にも浮かんできたものだ。
日本の飛鳥時代、動力機械もない帆船でやっと中国にたどり着いたと思ったら、その海岸からかなり奥まったところに長安の都はあったのだ。そして、長安の都、西安は、今でも遠い。
唐の都であった頃の長安は、当時は朝鮮、日本、それに西の方の吐蕃(チベット)などの国から多くの留学生が来ていて、国際都市であった。西域とのシルクロードの交流も活発であった。
長安の歴史は、唐以前に遡る。
紀元前12世紀、殷を滅ぼした周の都、鎬京も、実は西安だった。春秋・戦国時代の鎬京から、秦の時代は咸陽と称し、漢の時代より長安となった。唐のあとも、長安は支配王朝によって名を様々に変えるが、明以降は今の西安である。
僕が仲良しになった上海の場末の西安食堂の一家は、いにしえの長安から来たのだ。
*
「洛陽」は、古代中国の都の代名詞と言っていい。
長安が日本では有名だが、春秋時代の中頃より、洛陽の都も長い。洛陽と長安(西安)は、古代中国の都の双璧、東西の横綱と言ってよい。
洛陽は、長安(西安)と同じく黄河の上流に位置するが、長安よりやや東で海岸側に近い。歴史地図を見ると、春秋・戦国時代の中国のほぼ中心に位置する。
紀元前8世紀、東周の時に鎬京(西安)より、洛邑と称したこの地に都が移された。その後、後漢、西晋、隋、後唐など各王朝の都となった。長安(西安)が、都になったときも副都となっている。
芥川龍之介の「杜子春」は、中国の故事に倣った小説だ。その冒頭に、次のように書いてある。
「或春の日暮です、唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。」
芥川も、唐の都を洛陽としている。正確には長安である。中国の都と言えば、かくも洛陽か長安かで混同しやすい証左であろうが、芥川が間違うとは。中学生の時、「杜子春」は教科書で出てきた気がするが、どうだったか。
現在はあまり使われなくなったが、「洛陽の紙価を高らしむ」という故事がある。このことは、西晋の文人である左思が書いた本が大いに売れて、晋の都洛陽の紙の値段が高騰したことを言う。つまり、大ベストセラーの時に使ったのである。
う~ん、「かりそめの旅」の本が大いに売れて、東京の紙の値段が高騰したという話は、邯鄲の夢にもならないなぁ。失礼。
*
「開封」もまた古い都である。
洛陽より黄河に沿って少し東、海岸側に位置する。
春秋時代は、鄭の都で啓封と言った。戦国時代は、魏の都、大梁と称した。その後、北周の時代はベン(シ偏に下)州となり、宋(10~12世紀)の時代に東京開封府となった。
宋は、東京開封府を中心に、北京大名府、南京応天府、西京河南府を置いている。
やっと、東京が出てきた。東京という地名は、中国でもしばしば出現しているのだ。
前漢の長安から、後漢になって洛陽に遷都されたとき、長安の東に当たるため洛陽は東京もしくは東都と呼ばれた。隋、唐の時代も、長安の都より東にあるため、洛陽は東京とも呼ばれた。
また、宋の東京開封府は、開封となった現在でも雅号として東京と呼ぶ場合もあるそうだ。
ちなみに、ベトナムの現在のハノイは、かつて東京(トンキン)と呼ばれていた。ベトナムも、漢字文化圏である。
開封が正式に東京(トンキン)と称したら、日本の東京はあり得なかったに違いない。
*
「南京」は、揚子江の河口寄り、杭州の北西に位置する。
南京は、アヘン戦争後の南京条約、辛亥革命時の臨時政府、第二次世界大戦時の南京大虐殺など、近代において歴史の表舞台に登場するが、紀元前の春秋時代に遡る古い都市である。
戦国時代に呉を征服した楚が、この地を金陵とした。三国時代は、呉の健業となった。
その後、様々に名を変えるが、明(14世紀)の時代に応天府と改め都になる。ところが、永楽帝の時順天府(北京)に遷都され、このとき南京と名を変えた。そして、現在に至っている。
落花生、ピーナツを南京豆というのも面白い。南京が原産地というのではなく、中国から渡来したものの頭に日本で勝手に南京とつけたのと思われる。そのような意味では、南京袋や南京虫も同じだろう。
岡晴夫が歌う「南京の花売り娘」という歌があった。1940(昭和15)年発売というから日中戦争中の歌だが、「純な瞳よ、南京娘…」と、内容は可愛い歌である。中国は魅力的なところですよという、意識高揚の国策意図があったのだろうか。
地図を見るのは楽しいし、思わぬ発見がある。
とりわけ、歴史地図を見ると、その町(都市)が時代によって名を変えるのを見るにつれ、町が時代に翻弄されたのが分かる。あるときは浮かれ、あるときは血塗られた、いにしえの消え去った物語の雫が地図の奥に滲んでいるようだ。
支配王朝によって変わる街の名であるが、住んでいた人々はどんな思いだったのだろうか。
長安や洛陽の門の下、晴れた夜の空には月が輝いていたことだろう。
淡雲に流るる月にあくがれる
唐人(からびと)もまた仰ぎ見しかな
(12月2日、望月の夜に)