かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 夏の嵐

2006-11-28 01:12:34 | 映画:外国映画
 ルキノ・ヴィスコンティ監督 アリダ・ヴァリ ファーリー・グレンジャー 1954年伊

 19世紀、オーストリア支配下の北イタリア。
 ヴェルディーのオペラ「イル・トロヴァドール」の観劇シーンで、この映画は始まる。物語も、まるでオペラのように、愛、嫉妬、復讐、別れが嵐のように展開される。イタリアの伯爵夫人とオーストリアの青年将校との愛と残酷な別れが、ヴェネチィアを舞台に、血なまぐさいまでの濃密さで描かれている。

 美しい伯爵夫人が、魔がさしたように恋に陥ったのは、敵の若い将校だった。しかし、彼女を恋の盲目にしたその若い将校は、目的も志もないただの色男だった。その男は、伯爵夫人の情熱的な恋心を利用して、金で軍役を離れることすらする。しかも、彼女の出した金で、女に不自由しない生活を送るだらしなさだった。しかし、何もかも彼女の知ることとなり、悲劇を迎える。
 
 何で、あの人があんな男にという恋は、よく見かけることだ。いつの時代でも、恋は公式通りにいかないもの。
 いい女がダメ男に首ったけという図は、周りから見ればじれったくもあり、早く目を覚まして別れればと思うが、周りの反対や障害が強ければ強いほど、当人たちは深みに入っていくというのが恋愛の構造だ。
 
 この映画は、伯爵夫人を演じたアリダ・ヴァリの映画だといっていい。あの射るような鋭い瞳と全身で男にぶつかっていく姿を見るにつけ、立場も命も顧みないひたむきな情熱を演じられるのは彼女しかいないと思わせるものがある。
 僕が最初にアリダ・ヴァリの映画を見たのは、『第三の男』(キャロル・リード監督、グレアム・グリーン原作・脚本)ではなく、『かくも長き不在』(アンリ・コルピ監督、M・デュラス脚本)だった。
 パリ郊外でカフェを営む女のところへ浮浪者がやってくる。その男は、もう何年も前に戦争で行方不明になった夫によく似ていた。しかし、その男は記憶を喪失していた、という話である。この映画で、男の記憶を回復させようとする女のひたむきさを、ヴァリは怖いぐらいの迫真の演技で演じた。
 この時から僕の中には、ヴァリは愛の女というより怖い女というイメージがある。この『夏の嵐』も、夫がありながら自堕落な色男に狂い、裏切られた女の話である。

 愛は、何もかもを捨てさせるというが、イタリア人が演じると怖いぐらい全身全霊となる。
 イタリア男は女を甘く誘うのに長けているが、誘われるイタリア女の方は人一倍情熱的である。それは、『ブーベの恋人』のクラウディア・カルディナーレや、『マレーナ』のモニカ・ベルッチを見ても、よく分かる。

 しかし、何といってもこの映画で素晴らしいのは、19世紀のヴェネチィアの貴族社会が、リアルに再現されていることである。
 特に、女性の服装は、ウエストをコルセットで締めつけ、スカートの裾はペチコートを重ねることで大きく広げる、いわゆるロマン・スタイルを再現させている。この優雅な服装が、ヴァリの理知的な容貌によく溶け合っているのである。
 ルキノ・ヴィスコンティの完璧主義を見た思いだ。
コメント (1)
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