かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ だいじなことはみんなアメリカの小学校に教わった

2006-11-15 13:24:08 | 本/小説:日本
 中島京子著 主婦の友社刊

 僕は、まだ読んでいないでいる、気になっている小説のことを思った。読もうと思いながら、夏が過ぎて、すでに秋も通り過ぎようとしている。それなのに、その小説はまだ閉じたままである。
 その小説とは、『イトウの恋』であり、『ツアー1989』である。
 それが、図書館で、ふとしたことからこの本を手にしてしまった。この本は、その著者が小説を書く前に書いた本である。だから、小説家になる前の助走期間の著作といえる。

 この本を読むと、いかにして著者が小説家になったかというのがわかる。多くの小説家志望がこのような時期を通り過ぎて、あるものは小説家や著述業になり、あるものはならないで他の生き方をしてきたのだと思う。
 人の歩いてきた道筋を見てみると、小説家にかかわらず、どのような職業であれ、才能のほかに運や人生の機微といったものが大きく左右しているように思う。
 人生は、ふとしたことで変わるものである。

 著者は、大学を卒業して出版社で編集者をやっていた。その出版社をやめて、アメリカにインターンシップの見習い教師として、約1年近く現地に赴くことを決心する。そのとき、彼女は32歳。微妙な年齢ではあるが、キャリアも積んだ人生との再出発には遅すぎる年でもない。
 本書は、そのときのアメリカでの子どもたちとのやりとりを中心にした、体験談である。
 確かにいくつか面白い経験談が散りばめられているが、とりわけ新鮮でも感動的な話でもない。アメリカに日本語教師としていく人には参考になるであろう、海外生活体験を綴った本だ。
 僕が興味を持って読んだのは、いかにして現在の彼女、つまり作家としての彼女が誕生したかが、散りばめられて書かれていたからである。

 人間、誰でもが途中で立ち止まり、それまでの人生を方向修正しようと思うときがある。修正どころかリセットする人もいよう。その転機は、突然やってくるものだ。いや、自分でそう思うときがくるものだ。
 彼女はアメリカの行く先々で、「どうしてアメリカに来たの?」と訊かれる。その質問には、若い留学生ではなくて、その年齢でという意味も含まれている。
 彼女は、その理由を説明するのに、「スタグネーション」という言葉を覚える。よどみや停滞という意味で、バブルがはじけた後の90年代には、日本でもしばしば経済用語で使用された。
 「なかなかできることじゃないよ」と、親しく話すようになった現地の牧師さんは言う。
 日本の友人や知人からも、せっかく雑誌の編集者になったのに辞めるのは惜しいよといった話も彼女の耳に届く。
 著者は、雑誌の編集者として10年、多忙な生活を送る。取材をして原稿も書くし、作家や著名人に会ったり話したりすることもあるだろう。雑誌編集者にとっては、原稿を印刷所に入れる入校の日は徹夜作業であり、毎月自転車操業の日が続くが、それはそれで充実はしている。
 しかし、僕も経験しているので言えるが、必ず「スタグネーション」はやってくる。だからといって、そうしたキャリアや経済的な現状を捨ててしまうことに躊躇いがあり、誰もがそうそう踏み出せない。
 
 僕は鬱積していた編集者時代の20代の後半、何とかしようと28歳の時パリへ行った。会社も辞めずに、わずか3週間の滞在であった。しかし、その後の流れは変わった。
 あのとき会社を辞めて、1年ぐらい行っていたらどうなったであろうかと、時々考える。少しの流れでなく、僕の人生は大きく変わったことであろう。
 著者の彼女は、それをやった。今どき、海外留学(遊学も多い)やホームステイなど珍しくもないし、嫌な仕事だったら、さっさと辞めればいいと言える。しかし、満足している仕事を投げうってまでというと、先の牧師のように「なかなかできることじゃないよ」と言わざるを得ない。
 しかし、人生は短いのだ。しかも、一度きりだ。「なかなかできることじゃないが、やった方がいいよ」と言いたい。

 「The enemy of the best is the better.」という言葉がある。
 人生を振り返るとき、この言葉が頭をかすめる。夢や理想を追い求めるには、ほどほどのことをやってはいけないということだと解釈している。
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□ まほろ駅前多田便利軒

2006-11-10 18:44:40 | 本/小説:日本
 三浦しをん著 文藝春秋刊

 「あんたはきっと、来年は忙しくなる」
 年の瀬も押し迫ったある晴れた日の夕方、曽根田のばあちゃんはそう言った。
 
 こんな出だしで、この小説は始まる。主人公の多田は、入院しているおばあさんを見舞いに来たのだ。そのおばあさんは、次に主人公に言う。
 「とにかくあんたは忙しくなって、もう私のところへはあまり来てくれなくなるだろうねえ」
 「そんなことはないよ、母さん」
 主人公は、あとの言葉に詰まる。なぜなら、「母さん」と言ったが、彼は息子ではないからだ。
 帰るときに「じゃあね、母さん。よいお年を」
 「うん」と、ばあちゃんは小声で答えた。
 別れ際はいつも、ばあちゃんは無口になってしまうのだ。多田は足早に廊下へ出た。出たところで病室を振り返ると、ばあちゃんは大福と化したまま、ベッドでじっとうつむいていた。
 本当にいい息子なら、年老いた母親を病院に放り込んだまま正月を迎えたりしないし、赤の他人に、代理で母親の見舞いをさせたりしない。そう思うが、しかし自分が赤の他人だからこそ、のんきに綺麗事を言えるのだということも、多田にはわかっていた。
 
 僕は、この出だしの文を読んで、母を思った。一人九州の田舎に残し、つい最近東京に戻ったばかりだからだ。
 母は、今頃どうしているだろう。居間で大福のように丸くなっていないだろうか。そう思うと、胸が痛くなった。

 「まほろ駅前多田便利軒」は、多田という男が主人公の便利屋の物語である。
 つまり、冒頭のおばあさんとのやりとりは、自分の代わり息子になりすまして、おそらく認知症で入院している母を定期的に見舞ってほしいという依頼の仕事を遂行しているのである。
 しかし、この本は別に家族の愛情への尊さや介護への問題提起をしているのではない。便利屋を営む男の仕事を通して、かつての同級生との関係を絡めた様々な人間模様を描いたものである。
 まほろ駅前で、便利屋を営む多田のもとへはいろいろな仕事が舞い込む。ペットの世話・塾の送り迎え代行・納屋の整理・恋人のふり、等々。

 男性が描くハードボイルドなら探偵だろうが、女性が描くには便利屋は、それこそ物語を作るのに便利だ。事件が次々と、向こうからやってくるのだから、設定にあれこれ工夫をこらすことなく、新しい話を展開できる。
 便利屋といえば、70年代に若者に人気だった中村雅俊主演のテレビドラマ「俺たちの旅」がはしりではなろうか。その後、90年代には、バブルがはじけた世相の反映もあって、やはり同じ中村雅俊主演で、便利屋の延長線とも言うべき、「夜逃げ屋本舗」シリーズに引き継がれていく。
 
 今年の上半期の直木賞を受賞した気鋭の作家の作品が、もう滅多に耳にしなくなった、この便利屋を手段に使っていることに少し落胆した。
 しかし、古典的とも言える小説構成と趣旨を感じさせる、直木賞同時受賞の森絵都の『風に舞い上がるビニールシート』に比較すると、彼女の文からは何より書くことを楽しんでいるのが伝わってくる。
 
 この主人公の便利屋のところに、彼の高校時代の同級生であった世を捨てたと思える男が転がり込んでくる。
 この男は高校のとき、小指を切断したのだが、その事故が主人公の多田には、自分の責任だと思って、負い目を感じている。この二人の絡み合いで、便利屋の仕事とも事件ともいえる出来事が展開していく。
 タイトルにもある「まほろ市」を、東京都なのだが神奈川県と間違われるなどの例を出し、電車や道路などの交通機関、街の特徴などを微にいり細にいり説明して、東京都町田市だとわからせるところが、その街を知っている人間にとっては面白い。

 最後は、主人公の多田は、問題を起こした友人を追い出しはしたが、その行方が気になっていた。そして、再び友人を見つけ出し、街に連れ戻す。そのとき、まほろの街の明かりを見て、主人公は思う。
 砂漠を行く隊商が中継地に着いたときも、こんな気持ちなのかもしれないと。
 生い茂る緑の木々、オアシスの上空にだけ舞う鳥の影、水辺に憩う人のざわめき。
 もう終わりにしたいと願ってたどりついたのに、そこにはいつも、新しい旅の始まりが準備されているのだ。
 今度こそ多田は、はっきりと言うことができる。
 幸福は再生する、と。
 形を変え、さまざまな姿で、それを求めるひとたちのところへ何度でも、そっと訪れてくるのだ。

 やっと、作者は最後に言いたいことを、本の紙面にインクをこぼしたように滲ませているが、最後までドタバタ調の劇画的である。
 それに、作者が言う幸福の再生は、この本からはどこにも垣間見えてこない。いや、見えてこないのが現代といえるのではないだろうか。
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唐津くんち

2006-11-07 16:24:24 | * 九州の祭りを追って
 *

 いよいよ、くんちの掉尾を飾る唐津くんちである。
 唐津くんちの最大の見ものは、曳山(やま)である。曳山とは、祭りの日に氏子が街中を引いて練り歩く、各町が作った大きな漆張りの飾り(山車)のことである。曳山は、獅子や兜や鯛など14台あり、そのどれもがきらびやかで、その姿はすぐに祭りを想起するものばかりだ。
 なかでも、金色に縁取られた赤い鯛は、最も唐津のくんちを象徴するものであり、その大きな鯛が街を練り歩く様は想像するだに楽しいものだ。また、亀に乗った浦島太郎が登場するのも珍しいだろう。
  
 唐津くんちは、唐津神社の秋祭りとして16世紀末ごろ始まり、元来は旧暦9月29日に行われていた。それが後に、月遅れの10月29日になり、現在は11月3日を中心とした日程になっている。
 11月2日は、宵ヤマと言って、夜に提灯をつけた曳山が街を歩き、唐津神社に集合する。
 11月3日は、祭りの山場で、朝、神輿を中心に曳山が街を巡幸し、西の浜の御旅所(おたびしょ)と呼ぶところに集合する(曳込)。そして、夕刻、御旅所を曳山が順番に出発して(曳出)、街中を通って各町へたどり着く。
 11月4日は、曳山が街中を巡幸し、最後は曳山展示場に格納されて祭りを終える。

 曳山の進む順番は決まっていて、作られた年代順という。一番は刀町の「赤獅子」で、文政2年(1819年)で、最も新しい江川町14番の「七宝丸」が明治9年(1876年)である。
 曳山の誕生は、刀町の山本嘉兵衛が文政年間、伊勢参りの帰途、京都に寄ったときに見た祇園山笠をヒントに、仲間たちと「赤獅子」を作り奉納したことによる。
 ちなみに、14町の曳山は以下の通りである。
 1番 刀町の赤獅子(製作 1819年・文政2年)
 2番 中町の青獅子(1824年・文政7年)
 3番 材木町の亀と浦島太郎(1841年・天保12年)
 4番 呉服町の九郎判官源義経の兜(1844年・天保15年)
 5番 魚屋町の鯛(1845年・弘化2年)
 6番 大石町の鳳凰丸(1846年・弘化3年)
 7番 新町の飛龍(1846年・弘化3年)
 8番 本町の金獅子(1847年・弘化4年)
 9番 木綿町(きわたまち)の武田信玄の兜(1864年・元治元年)
 10番 平野町の上杉謙信の兜(1869年・明治2年)
 11番 米屋町の酒呑童子と源頼光の兜(1869年・明治2年)
 12番 京町の珠取獅子(1875年・明治8年)
 13番 水主町(かこまち)の鯱(1876年・明治9年)
 14番 江川町の七宝丸(1876年・明治9年)
 消滅 紺屋町の黒獅子

 **

 祭りの季節も終わりに近づいた。僕も、そろそろ東京に戻らないといけない。
 10月9日の長崎くんちに始まり、佐賀白石の稲佐神社、妻山神社のくんち、伊万里のトンテントン祭り(この喧嘩祭りも元はくんちである)を見て、ついに念願の唐津くんちである。
 日本3大くんち祭りは、この長崎・諏訪神社と唐津・唐津神社のくんちに加えて、福岡・櫛田神社の博多くんちとなっている。博多くんちは見逃したが、次回の楽しみにとっておくとしよう。

 祭りの山場である11月3日の昼ごろ、唐津に行った。
 唐津には、佐世保線の久保田で唐津線に乗り換えて行くことになる。佐世保線の在来線の各駅停車は、この時間はいつもガラガラなのだが、今まで経験したことがない混雑ぶりだ。普通はゆうに座席に座れるのに、それどころかラッシュアワー並みだ。
 そうなのだ。この季節、11月1日から5日まで、佐賀市の郊外佐賀平野で、国際バルーン・フェスティバルが行われているのだ。そのため、この期間だけ、佐世保線の久保田駅と隣の鍋島駅の間に、「バルーンさが駅」が登場するのだ。それもあって、車内では珍しい混雑ぶりも見られるのだ。
 ゴールデン・ウイークの有田陶器市のときでも、これほどの混雑はないだろう。
 いつの間にか九州の盟主の地位を獲得してしまった、商人の町博多・福岡と、異国情緒を看板に観光に並はずれた力を発揮するが、その実多くの離島で成り立っている観光立県・長崎に挟まれて、地味な存在に追いやられた肥前佐賀にあっては、珍しく活発な動きを見せるこの季節である。

 唐津駅を降りたら、日ごろの静かな佇まいとは変わって、駅前から祭りムードいっぱいである。魚の日干しやイカシュウマイなどの港町特有の土産物屋が並ぶ。さらに、祭りの定番である屋台が続く。
 これから曳山が順に繰り出すという、西の浜の御旅所に行った。駅を出たメイン通りには、すでに延々と見物人が並んでいる。曳山が来るのを待って、もう道の端に座っている人もいる。
 御旅所では、14台の曳山が待機していた。沿道はもう見物人でいっぱいで、立ち見である。
 午後3時、まず神輿が御旅所を厳かに出発した。
 そして、笛と太鼓に煽られて、第1番の赤獅子の曳山が動き出した。2本の太くて長い綱を、子どもたちを先頭に何人もの曳子が引いて動かすのだ。しかし、下は砂なので、車が砂にめり込んで、2トンを超える曳山はなかなか動かない。この砂地から、一般道にまで引っ張る「曳出」は、この祭りの見せ場でもある。
 曳子の掛け声とともに何度も綱を引き、そのうち力尽きて綱を置き、次には曳山の背に乗った男が塩をふりまきながら煽る、これらの行為を繰り返し、少しずつ曳山は進む。
 砂地から、やっと曳山が出ると、観客から拍手が起こる。あとは、曳山はスムーズに動き出し、そのうち勢いあまって走り出す。

 長崎くんちの目玉が蛇踊りで、今年は蛇踊りの代わりに鯨の潮吹きであった。しかし、唐津の14台は、そのどれもが鯨の潮吹きを凌駕するものであった。
 しかし、長崎くんちのいいところは、山車が路地に入り、1軒1軒、申し出のあった、つまり御花・御祝儀を渡した、店や家の前を回る「庭先回り」があるということだろう。この儀式が、街に参加意識をもたらしていると言える。

 ***

 曳山が街を巡って各町へ消えゆき、その日の祭りは終わった。
 人でごった返す唐津神社に参拝して、街で一杯飲みながら食事をして帰ろうと思って、駅前の繁華街を回ってみた。そこでは、今日の役目を終わった、鯛や兜が各町の通りに鎮座していて、その前で記念写真を撮っている人がいた。
 さてと、料理屋や食堂のめぼしいところを回ったら、ほとんどの店が明かりはつけているが営業をしていなかった。
 唐津には「三月倒れ」という言葉がある。このくんちのときは、近所の人や親しい知人を呼んで、豪勢にご馳走を振る舞うしきたりなのだ。3月分ぐらいの収入をつぎ込むので、この言葉ができたらしい。
 であるから、この日は仲間うちで宴会なのだ。ついさっきまで祭りに参加していたと思われる法被を着た人たちが、三々五々に、家の中に入っていく。あちこちで、そのような光景が見られる。窓からのぞき見える光景では、もう宴会が始まっているところもある。とても、一見の客が入る余地などなさそうだ。ここが、長崎と違うところだと感じた。

 唐津線で、佐賀市に出ることにした。九州といえども、6時になると日が暮れている。
 久保田駅の次で電車が止まった。臨時の駅の「佐賀バルーン駅」であった。ここは、見渡すかぎり田んぼの中なのだが、嘉瀬川の河川に沿ってずらりと屋台のテントが張り巡らされていて、何台もの車が止まっていた。まだ多くの人だかりがしている。
 国際バルーン競技の会場で、夜もやっているのだ。ただ、今はバルーンは飛んでいない。飛ぶ時間は決まっているらしいが、気候、風の具合で変更はよくあることらしい。
 
 バルーンを見ることはせず、まっすぐ佐賀市に行って、飲むことにした。
 佐賀市の駅からのメイン通りは、イルミネーションが輝いていた。バルーン・フェスタに合わせて、このまま年末までずっと続けて灯をともすらしい。柄にもなくというと言い過ぎだが、佐賀も観光に力を入れようとしている努力の欠片が見え隠れした。
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