かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ ココ・シャネル

2010-06-09 04:15:46 | 映画:フランス映画
 クリスチャン・デュゲイ監督 シャーリー・マクレーン バルボラ・ボブローヴァ ヴァレンチナ・ロドヴィーニ サガモア・スチヴナン オリヴィエ・シュトリュック マルコム・マクダウェル 仏伊米 2009年

 最近東京では、若い女の子、特に女子高生でクラウン(山部)が平たく、水平の丸いブリム(つば)のある麦わら帽子を被っているのをよく目にする。少し小さ目のを、ちょこんと頭にのせて留めている子もいる。
 いわゆる麦わらカンカン帽で、カノチエである。
 ヴェネツィアのゴンドラの舟漕ぎが被っているのを思い浮かべればいい。

 このカノチエである。
 若きガブリエル・シャネルは貧しいお針子(洋服の縫子)のとき、金持ちの将校のエチエンヌ・バルサンと知りあい、やがて同棲することになる。かといって、結婚するという二人の約束があったのではない。将校のエチエンヌは、彼女が好きであったが身分が違うと思っていたのだ。
 彼女、シャネルは、エチエンヌと田舎に行く。そこで、二人は乗馬を楽しむ。それに、エチエンヌは競走馬を持っていた。競馬場から競馬場へと行くのが、シャネルにとってエチエンヌと暮らすことでもあった。
 南仏の競馬場は、金持ちの上流階級の暇つぶしに格好の楽しみなのだ。かといって、観覧席では上流階級の夫人たちが来ているので、彼女のような囲いの女は、草野で見ていたのである。
 当時の上流階級の女性の服装は、フリルやボウで飾ったブラウスにジャケット、コルセットで締め上げたたっぷりとドレープのあるスカートを着、羽飾りの着いたつばの広い帽子を斜めに被っていた。
 シャネルの服装はといえば、目立たないように、エチエンヌの白いシャツにタイをして、男物の外套を覆っているというシンプルな格好である。そして頭には、自分で作ったカノチエ帽子を被った。(写真「シャネルの生涯とその時代」(鎌倉書房刊))
 それは、質素な格好であったが、着飾った女より、おそらくセンスよく映った。というのも、より自然だったからである。
 これこそ、のちにファッション界に旋風を巻き起こす、シャネルの第一歩だったのだ。
 シャネルが作った帽子を、かつてエチエンヌの愛人であったエミリエンヌ・ダランソンが目をつけ、私にも作ってと言う。
 エミリエンヌという妖しい女は、女優にして詩人で、当時最も人気のある高級娼婦であった。その彼女の口コミによってシャネルの帽子は評判を呼ぶ。
 彼女に、作る喜びと同時に自立への思いが頭をもたげてきて、のちにパリに自分の帽子店を開く糸口となる。
 やがて、エチエンヌの援助でパリのアパートに移り住むが、ほどなく、近くに住んでいたエチエンヌの友人アーサー・カペルと付きあうようになる。
 カペルはイギリス人で、実業家でもあった。エチエンヌと違って、彼女の自立心に賛同するカペルの援助で、彼女は自分の店を開くことになる。
 1910年、秋。パリ、カンボン通り21。シャネルの帽子店がオープンする。
 門には「Chanel modesシャネル・モード」と、掲げられた。
 シャネル・ブランドの第一歩である。

 その後、シャネルはブティックを開き、帽子だけでなく衣服も作るようになり、クチュリエール・シャネルと言われるようになる。
 シャネルの作る服は、今までの女性の着飾った重い服からの解放とも言えた。
 例えば、胴の長い、スカート丈の短い男っぽい服のギャルソンヌ・ルック。
 身も軽くなる着やすいスポーツ・ウエア。
 それまで女性服に使われることのなかったジャージー素材のウエア。
 それに、マリリン・モンローが「何を着て寝ているか?」との質問に「シャネルの5番」と言って有名になった、香水の販売でも評判になる。

 *

 「ココ・シャネル」の映画は、第2次世界大戦中におけるドイツ協力者としての非難により、戦後亡命していたシャネルがスイスからパリに帰国し、15年ぶりにコレクションを開くところから始まる。
 1954年、そのときシャネル、既に70才。
 このコレクションは、散々な評判(不評)で終わる。もはや、シャネルの時代は終わったのだと、誰もが思った。
 しかし、シャネルは呟く。私は、何度も失敗してきて、何度も立ち上がってきたと。
 映画は、彼女の貧しい孤児院の時代の回想へと戻る。そして、今日のシャネルができあがるまでの恋と仕事の物語が、彼女の回想として繰り広げられる。

 復帰コレクションの失敗により、引退を勧める周囲を押し切って、翌年、復帰2度目のコレクションを彼女は強行実施する。そして、今度は成功し、特にアメリカで彼女の服は大人気となり、シャネルは本格的に復活する。
 そして、有名なシャネル・スーツを生み出す。
 ジョン・F・ケネディー、アメリカ大統領がダラスにて銃で撃たれたとき、横にいたジャクリーヌが着ていた(少し血に染まった)服がそうである。
 ファッション界に完全復帰したシャネルは、パリのリッツ・ホテルで、87才で死ぬまで、現役で通した。

 日本の服飾界でも、シャネルは特別な存在だった。
 戦後は、ディオールが次々と新しいラインを発表して時代をリードしていたし、女性のクチュリエでは戦前からランヴァン、スキャパレリなどがファッション界の中心にいたが、シャネルは、愛称のココ・シャネルと呼ばれるように、15年の空白をものともせずに、半世紀以上にわたり、シャネルとして存在した。
 そして、今でもシャネルは存在し続けている(カール・ラガーフェルドによって)。いや、ココ・シャネルがいなくても、ブランドとしてシャネルは存在し続けるだろう。

 ココ・シャネルを特別にしているのは、デザイナーである以上に、そのドラマチックな人生に見る人間くささである。
 シャネルは言っている。
 「女は女たちのために着飾る。競争心のためだ。その通り。しかし、男が存在しないのなら、女は着飾らない」
 「モードは二つの目的を持っている。心地よさと愛である。この二つが達成されたとき、美が生まれる」
 「モードは毛虫であり、蝶である。昼は毛虫に、夜は蝶になること。毛虫でいることほど心地のいいものはないし、蝶ほど愛にぴったりしたものはない。這いまわる服と浮かれ飛ぶ服が必要なのだ。蝶は市場に行かないし、毛虫は舞踏会へは行かない」

 映画は、シャネルの恋と成功の物語である。
 貧困から出発し、数々の恋をし(映画では2人の男性だが)、その世界で頂点をなした女性と言えば、シャンソン界の大御所の生涯を描いた映画「エディット・ピアフ愛の讃歌」を想起させる。
 シャネルの映画は、同年製作の「ココ・アヴァン・シャネル」ほか、いくつか作られている。
 この映画で晩年のシャネルを演じるシャーリー・マクレーンは、もう少し人間くささを出してよかった。
 若き日のシャネル役のバルボラ・ボブローヴァ、そして生涯彼女の片腕となるアドリエンヌ役のヴァレンチナ・ロドヴィーニ、詩人で高級娼婦のエミリエンヌ・ダランソン役(誰だか名前は知らない)など、美人で個性的な女優が並んだ。
 しかし、この映画はフランスが共同製作になっているのに、フランス語でなく英語であったのは解せない。アメリカ市場が大きいとしてもである。
 やはり、ココ・シャネルはフランス語で喋らないといけない。
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