フランソワ・トリュフォー原案 クロード・シャブロル監修 ラウル・クタール撮影 ジャン・リュック・ゴダール脚本・監督 ジャン・ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ、ダニエル・ブーランジェ 1959年仏
人は、自分の人生を小説や映画に照らし合わせる。若いときは、なおさらだ。
僕は、いつも小説や映画を自分に映しだそうとしていた。つまり、それらに無用心に影響を受け続けてきたということだ。きっとそれらは、各々細切れとなって、僕の体内の血管に入り込んでいるだろう。
ジャン・リュック・ゴダールは、映画「気狂いピエロ」(1965年)で、フェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)とマリアンヌ(アンナ・カリーナ)に、車の中でこう言わせている。
「人生と小説は、しょせん別物さ。同じであってほしいとは思うよ……が、そうじゃないんだ」
「いいえ、人生と小説は同じだわ。みんなが思っているよりずっと」
ゴダールは、このように、いつも僕らを取り巻く拮抗や対立を、映像の中に機関銃のように乱射してきた。僕たちが悩みながらも見送ってきた「男と女」、「恋と戯れ」、「行動と思考」、「現在と過去」、「夢と破滅」エトセトラ、エトセトラ。
彼は、自分の人生を自分の映画のように生きようとしてきたに違いない。
「勝手にしやがれ」は、それまで、「いとこ同士」(1959年)のクロード・シャブロルや、「大人は判ってくれない」(1959年)のフランソワ・トリュフォーなどの「カイエ・デュ・シネマ」系の批評家から出てきた揺籃期のヌーヴェルバーグに、決定打を放った記念すべき映画である。
このときから、新たな波(NOUVELLE VAGUE)は、全世界を席巻した。
この映画は、ヌーヴェルバーグの旗手としてのゴダールの初めての長編映画であるだけでなく、それまで目立った俳優ではなかった主演のベルモンドを、アラン・ドロンと比肩させるほどのスターに押し出した映画でもある。
映画や小説は、観たり読んだりしたそのときの年齢で、受ける印象が違うものだ。この「勝手にしやがれ」も、今度観たときは、若いときとは違ったところに目がいく。何気ない台詞にも気が向く。
マルセイユに現れた一人の男ミッシェルは、車を盗んで、付きあい始めたばかりの若い女パトリシアのいるパリに車を走らせる。
途中、白バイに追いかけられ、はずみでその警官を殺してしまい、警察に追われる身となる。
太陽の下の港が映しだされると、南仏のマルセイユと分かるし、車が川の向こうの大きな寺院を映しだすと、エッフェル塔を映しださなくとも、セーヌ・シテ島のノートルダム寺院なので、パリに着いたのだと分かる。
シャンゼリゼ通りで新聞を売っていたのは、ミッシェルがぞっこんのパトリシアだ。新聞は、ニューヨーク・ヘラルド・トレビューン。パトリシアはアメリカ人で、パリに留学しているジャーナリスト(あるいは作家)志望の女の子なのだ。
2人は南仏で知りあって、既に何回かベッドを共にいている。しかし、まだ恋人と言える間柄ではなく、曖昧な関係なのだ。
ミッシェルは、パトリシアのアパートに忍び込み、ベッドに潜り込む。
ミッシェルはパトリシアに手を延ばし愛を語り、パトリシアはまだ自分の心は分からないとかわすのだった。
「君なしではいられない」
「いられるわ」
「いたくない」
ベルモンドの贅肉のない引き締まった体とストレートな感情表現が、彼を憎めないと同時に悪い予感を感じさせる。
パトリシアであるジーン・セバーグの、少年のような短い髪がとても彼女に似合っている。うなじの少し内にカールした細く光る髪が、ボーイッシュなのにセクシーだ。セシルカットと言ったっけ。
この時、ジーン・セバーグも、「悲しみよこんにちは」(1957年)でデビューしたての若手スターだった。
「私が何かに恐れていると言ったわね」
「それは本当よ」
「あなたに愛してほしい」
「それと同時に、もう愛してほしくないの」
「縛られたくなくて」
このベッドの会話で、最初若いとき観たときから印象に残っていた場面がある。
ミッシェルがパトリシアに「ニューヨークでは、何人の男と寝た?」と訊く。
パトリシアは、少し考えて、片方の指を広げ、もう片方の指を2本立てる。つまり、7人ということだ。
「あなたは?」と問われたミッシェルは、寝そべったまま、握った片方の手を広げて、また閉じて広げてを繰り返したのだった。そして、「多くはないな」と呟く。(場面写真/「フランス映画の歴史3」)
ミッシェルはことあるごとにパトリシアに言う。
「もうすぐ金が入る。そしたら一緒にイタリアへ行こう。ミラノ、ジェノバ、ローマ…」
パトリシアは、「ウイ」と返事をしない。まだ曖昧だ。
いや、いつまでも曖昧だ。
「あなたと寝たのは、本当に愛しているか確かめたかったの」
そして、パトリシアは、自分がミッシェルを愛していないということを確かめるために、ミッシェルの居場所を警察に密告してしまう。
ミッシェルに密告したことを告げて、「早くここから逃げて。10分もすると警官が来るわ」と言うパトリシア。
ミッシェルは怒りながらも、それでも慌てて逃げようとしない。
「もう終りだ。刑務所も悪くない」
金を持ってきたミッシェルの仲間も、警官を見つけて、早く逃げろと忠告する。
「しゃくだが、あの娘が頭から離れない」と言い残して、ミッシェルは金の詰まった鞄を持って走り出す。その背中に、警官がピストルを向ける。
*
「勝手にしやがれ」は、この映画のあと、セックスピストルズや沢田研二の歌(作詞:阿久悠)のタイトルに使われてきた。
セックスピストルズの原題は「Never mind the bollocks」。bollocksは、睾丸のほかに、くだらない、バカなという卑俗語だから、あながち勝手な意訳とも言えないだろう。
しかし、この映画の原題は「A BOUT DE SOUFFLE」で、意味は息の限界、つまり息切れ、である。
「勝手にしやがれ」は、映画の全体の印象から付けた題名であろうが、日本独自のものである。若いときは、原題を調べて、日本映画界も勝手な題をつけるなあと思った。
映画の最後で、ミッシェルは追ってきた警官にピストルで撃たれ、パリの街をよろめきながら逃げ歩き、やがて倒れる。最後は、あらゆる意味で息切れるので、原題は合っている。
しかし、ずっと以前から、「勝手にしやがれ」という言葉が気になっていた。
実際、この映画で使われているのだろうか、そして、最後の息切れる前のミッシェルの台詞「最低」が、「勝手にしやがれ」の意味あいを持っているのだろうかと。
冒頭のシーン。
マルセイユで車を盗んで、愛する女の子がいるパリへ向かうミッシェルは、田舎道を車を走らせながら、「田舎はいいね」と言いながら、ご機嫌だ。
「Si vous n'aimez pas la mer..., si vous n'aimez pas la montagne..., si vous n'aimez pas la ville..., allez vous faire foutre!」
日本語字幕では、「海が嫌いなら 山が嫌いなら 都会が嫌いなら 勝手にしやがれ!」
「allez vous faire foutre!」が、「勝手にしやがれ」として出てくるのだ。
「foutre」を辞書で引くと、卑俗語で「ひでぇ、こんちくしょう」など、驚き、感嘆、怒り、強調を表現する言葉とある。意味からして、勝手にしやがれである。
しかし、この「allez vous faire foutre!」がタイトルではない。映画担当者(題名決定権を持つ者)が、この和訳を見て、「勝手にしやがれ」という言い回しが気に入ったのかもしれない。
最後のシーン。
ピストルで撃たれ、倒れたミシェルがパトリシアと警官に向かって、呟く
「…vraiment degueulasse!」(まったく最低だ)
パトリシアは警官に「何て言ったの?」と訊く。
警官は言う。
「彼は、あなたが本当にune degueulasse(最低)だと言った」
パトリシアは言う。
「Qu'est-ce que c'est degueulasse?」(degueulasse(最低)って何のこと)
この言葉で、映画は終わる。
「degueulasse」は、辞書によると、汚いやつ、下司の意味だ。
つまり、「最低」。
最低とは、誰のことか?
本当に、パトリシアのことを言ったのか?
あるいは、ミッシェルは自分のことを言ったのではなかろうか?
こんな結末に終わったことに対して。
人は、自分の人生を小説や映画に照らし合わせる。若いときは、なおさらだ。
僕は、いつも小説や映画を自分に映しだそうとしていた。つまり、それらに無用心に影響を受け続けてきたということだ。きっとそれらは、各々細切れとなって、僕の体内の血管に入り込んでいるだろう。
ジャン・リュック・ゴダールは、映画「気狂いピエロ」(1965年)で、フェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)とマリアンヌ(アンナ・カリーナ)に、車の中でこう言わせている。
「人生と小説は、しょせん別物さ。同じであってほしいとは思うよ……が、そうじゃないんだ」
「いいえ、人生と小説は同じだわ。みんなが思っているよりずっと」
ゴダールは、このように、いつも僕らを取り巻く拮抗や対立を、映像の中に機関銃のように乱射してきた。僕たちが悩みながらも見送ってきた「男と女」、「恋と戯れ」、「行動と思考」、「現在と過去」、「夢と破滅」エトセトラ、エトセトラ。
彼は、自分の人生を自分の映画のように生きようとしてきたに違いない。
「勝手にしやがれ」は、それまで、「いとこ同士」(1959年)のクロード・シャブロルや、「大人は判ってくれない」(1959年)のフランソワ・トリュフォーなどの「カイエ・デュ・シネマ」系の批評家から出てきた揺籃期のヌーヴェルバーグに、決定打を放った記念すべき映画である。
このときから、新たな波(NOUVELLE VAGUE)は、全世界を席巻した。
この映画は、ヌーヴェルバーグの旗手としてのゴダールの初めての長編映画であるだけでなく、それまで目立った俳優ではなかった主演のベルモンドを、アラン・ドロンと比肩させるほどのスターに押し出した映画でもある。
映画や小説は、観たり読んだりしたそのときの年齢で、受ける印象が違うものだ。この「勝手にしやがれ」も、今度観たときは、若いときとは違ったところに目がいく。何気ない台詞にも気が向く。
マルセイユに現れた一人の男ミッシェルは、車を盗んで、付きあい始めたばかりの若い女パトリシアのいるパリに車を走らせる。
途中、白バイに追いかけられ、はずみでその警官を殺してしまい、警察に追われる身となる。
太陽の下の港が映しだされると、南仏のマルセイユと分かるし、車が川の向こうの大きな寺院を映しだすと、エッフェル塔を映しださなくとも、セーヌ・シテ島のノートルダム寺院なので、パリに着いたのだと分かる。
シャンゼリゼ通りで新聞を売っていたのは、ミッシェルがぞっこんのパトリシアだ。新聞は、ニューヨーク・ヘラルド・トレビューン。パトリシアはアメリカ人で、パリに留学しているジャーナリスト(あるいは作家)志望の女の子なのだ。
2人は南仏で知りあって、既に何回かベッドを共にいている。しかし、まだ恋人と言える間柄ではなく、曖昧な関係なのだ。
ミッシェルは、パトリシアのアパートに忍び込み、ベッドに潜り込む。
ミッシェルはパトリシアに手を延ばし愛を語り、パトリシアはまだ自分の心は分からないとかわすのだった。
「君なしではいられない」
「いられるわ」
「いたくない」
ベルモンドの贅肉のない引き締まった体とストレートな感情表現が、彼を憎めないと同時に悪い予感を感じさせる。
パトリシアであるジーン・セバーグの、少年のような短い髪がとても彼女に似合っている。うなじの少し内にカールした細く光る髪が、ボーイッシュなのにセクシーだ。セシルカットと言ったっけ。
この時、ジーン・セバーグも、「悲しみよこんにちは」(1957年)でデビューしたての若手スターだった。
「私が何かに恐れていると言ったわね」
「それは本当よ」
「あなたに愛してほしい」
「それと同時に、もう愛してほしくないの」
「縛られたくなくて」
このベッドの会話で、最初若いとき観たときから印象に残っていた場面がある。
ミッシェルがパトリシアに「ニューヨークでは、何人の男と寝た?」と訊く。
パトリシアは、少し考えて、片方の指を広げ、もう片方の指を2本立てる。つまり、7人ということだ。
「あなたは?」と問われたミッシェルは、寝そべったまま、握った片方の手を広げて、また閉じて広げてを繰り返したのだった。そして、「多くはないな」と呟く。(場面写真/「フランス映画の歴史3」)
ミッシェルはことあるごとにパトリシアに言う。
「もうすぐ金が入る。そしたら一緒にイタリアへ行こう。ミラノ、ジェノバ、ローマ…」
パトリシアは、「ウイ」と返事をしない。まだ曖昧だ。
いや、いつまでも曖昧だ。
「あなたと寝たのは、本当に愛しているか確かめたかったの」
そして、パトリシアは、自分がミッシェルを愛していないということを確かめるために、ミッシェルの居場所を警察に密告してしまう。
ミッシェルに密告したことを告げて、「早くここから逃げて。10分もすると警官が来るわ」と言うパトリシア。
ミッシェルは怒りながらも、それでも慌てて逃げようとしない。
「もう終りだ。刑務所も悪くない」
金を持ってきたミッシェルの仲間も、警官を見つけて、早く逃げろと忠告する。
「しゃくだが、あの娘が頭から離れない」と言い残して、ミッシェルは金の詰まった鞄を持って走り出す。その背中に、警官がピストルを向ける。
*
「勝手にしやがれ」は、この映画のあと、セックスピストルズや沢田研二の歌(作詞:阿久悠)のタイトルに使われてきた。
セックスピストルズの原題は「Never mind the bollocks」。bollocksは、睾丸のほかに、くだらない、バカなという卑俗語だから、あながち勝手な意訳とも言えないだろう。
しかし、この映画の原題は「A BOUT DE SOUFFLE」で、意味は息の限界、つまり息切れ、である。
「勝手にしやがれ」は、映画の全体の印象から付けた題名であろうが、日本独自のものである。若いときは、原題を調べて、日本映画界も勝手な題をつけるなあと思った。
映画の最後で、ミッシェルは追ってきた警官にピストルで撃たれ、パリの街をよろめきながら逃げ歩き、やがて倒れる。最後は、あらゆる意味で息切れるので、原題は合っている。
しかし、ずっと以前から、「勝手にしやがれ」という言葉が気になっていた。
実際、この映画で使われているのだろうか、そして、最後の息切れる前のミッシェルの台詞「最低」が、「勝手にしやがれ」の意味あいを持っているのだろうかと。
冒頭のシーン。
マルセイユで車を盗んで、愛する女の子がいるパリへ向かうミッシェルは、田舎道を車を走らせながら、「田舎はいいね」と言いながら、ご機嫌だ。
「Si vous n'aimez pas la mer..., si vous n'aimez pas la montagne..., si vous n'aimez pas la ville..., allez vous faire foutre!」
日本語字幕では、「海が嫌いなら 山が嫌いなら 都会が嫌いなら 勝手にしやがれ!」
「allez vous faire foutre!」が、「勝手にしやがれ」として出てくるのだ。
「foutre」を辞書で引くと、卑俗語で「ひでぇ、こんちくしょう」など、驚き、感嘆、怒り、強調を表現する言葉とある。意味からして、勝手にしやがれである。
しかし、この「allez vous faire foutre!」がタイトルではない。映画担当者(題名決定権を持つ者)が、この和訳を見て、「勝手にしやがれ」という言い回しが気に入ったのかもしれない。
最後のシーン。
ピストルで撃たれ、倒れたミシェルがパトリシアと警官に向かって、呟く
「…vraiment degueulasse!」(まったく最低だ)
パトリシアは警官に「何て言ったの?」と訊く。
警官は言う。
「彼は、あなたが本当にune degueulasse(最低)だと言った」
パトリシアは言う。
「Qu'est-ce que c'est degueulasse?」(degueulasse(最低)って何のこと)
この言葉で、映画は終わる。
「degueulasse」は、辞書によると、汚いやつ、下司の意味だ。
つまり、「最低」。
最低とは、誰のことか?
本当に、パトリシアのことを言ったのか?
あるいは、ミッシェルは自分のことを言ったのではなかろうか?
こんな結末に終わったことに対して。
『つまり 俺はアホだ』
『結局は そうさ アホでなきゃ』
と言う字幕で、映画は始まる.
盗んだ車にピストルがあった.
「バン、バン」
ピストルを撃つ真似をして、はしゃぎながら車を運転していたら、警官がバイクで追ってきた.
で、なんの躊躇いもなく、男は追ってきた警官を撃ち殺してしまった.
女から警察に密告したことを聞かされて、男は逃げ切れないと悟り、警察に捕まることにしたのだった.
けれども、仲間が警官と戦えと言ってピストルを投げてよこした.いらないと言ったのに、仲間はピストルを投げてよこしたので、男はついつい投げられたピストルを拾い上げてしまった.
警官を撃ち殺したこの男、ピストルを手にしたとたんに、当然のように撃ち殺されることになった.
自動車泥棒なら捕まったって刑は知れてる.務所暮らしは数年で済むはずだけど、けれどもピストルを持つと、こんなことになってしまう.
いくらアホでも、ピストルだけは持つな.....
アメリカと、ブラジルと、フランスは銃社会です.
私はあんまり良い作品に思えませんが、でも少し視点を変えれば.....
『お巡りさんは良い人で、泥棒は悪い奴』、このような映画は、泥棒は観ません.
つまりアホに観て欲しいなら、そのように.....つまりアホが面白がって観るような映画でなければいけない、と言う考え方もあるわけです.