かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

恋と革命と死、「青春の墓標」

2015-08-08 17:31:07 | 本/小説:日本
 「人生には無数の夜がある。だが、甘美な夕方は一度しかない」
         ――奥浩平「青春の墓標」

 まだ僕が若いとき、そして恋をし、恋を失ったとき、僕はたびたび奥浩平の「青春の墓標」を手に取り、彼の言葉を反芻した。
 「青春の墓標」は、当時横浜市大生だった奥浩平による、中原素子への書簡を中心とした遺稿集である。
 1960年代、政治の季節。大学では集会やデモがしばしば行われていた。若者の誰もが何かを求め、燃焼しながらも揺れ、もがいていた。
 甘美な夢と痛みを伴う現実の蹉跌は、いつも同時にやって来た。

 誰もが青春の一冊という本があるだろう。
 九州の片田舎から東京に出てきた甘いセンチメンタリストだった僕に、恋と死といえば、それまで僕を甘く包んでいた若きウェルテルの死だったが、この「青春の墓標」は、現実の甘くも重く息苦しいまでの恋と死に向きあわせた。それにもまして、この本が僕を長く魅了したのは、随所に見出すことができる、感性の瑞々しさと文章の美しさだった。
 そして、いつまでも深層に残る若き日の一冊になる。

 先月の7月の初め、朝日新聞の第一面の書籍広告に、奥浩平の「青春の墓標」(社会評論社)が載った。どうして今頃と、唐突のことのように思えた。
 それを目にしたとき、青春の傷あとをちくりと触れたかのような、苦い甘酸っぱさが走った。文芸春秋社による文庫本はとうに絶版になっているのだろう。

 これより先に、「本の窓」(小学館のPR誌)に、亀和田武が連載中の「60年代ポップ少年」なる自伝風エッセイにて、この「青春の墓標」を取りあげている。
 亀和田も代々木ゼミに通う浪人時代からデモに参加していて、この7月号では「反戦高協の少女が浮かべた笑顔と、誰もが読んだ奥浩平の遺稿集」、翌8月号では「党派を超えた愛に、反戦高協の少女は何を想ったか?」と題して、彼自身と17歳の高校生の活動家とのほのかな愛を綴っている。
 そして亀和田はこう書いている。
 「愛と革命に生き、そして死んだ学生活動家がいたことは、私を驚かせた。いや、私だけではない。1968年にまだ十代だった少年少女たちは、奥浩平の遺稿集を読んで、ほぼ例外なく強い衝撃を受けた」
 「青春の墓標」は、どこかで誰かに読み継がれて、心の澱を残していたのだ。

 *

 奥浩平は都立青山高校時代から社会問題に強い関心を寄せていて、1浪後の大学入学後、学生運動に身を置く。 一方、同じ高校に在籍していた中原素子(仮名)とデイトや、「青春の墓標」の主内容になる、手紙のやり取りをするようになる。
 中原素子は奥より一足早く現役で早稲田大に入学していて、「今度の日曜デイトしないか」で始まる、浪人決定時頃の奥の彼女への冒頭の手紙からは、受験の失敗の重荷も感じさせず、恋心の予感と若々しさが溢れている。
 当時、原潜寄港、日韓条約締結に反対などの政治闘争の最中、奥は大学入学後、学生運動の活動家としての道を歩く。しかし、当時学生運動は組織が細かく枝分かれしていたし、各大学によって組織の勢力図も大きく違っていた。
 そんな中、二人の愛は育まれていく。本書に散りばめられた文面からは、 政治青年というよりは文学青年の一面も強く漂っていて、いつの時代でも繰り返される、いかに生きるかという自らへの現実への問いかけが投げかけられている。

 「昨日、中原さんの手を握ってはじめて散歩した。だがそれが一体なんだろう。ぼくの顔はほてり、彼女の顔も紅潮していた。おれには二〇.二九闘争がある。このギラギラ輝く太陽の下で、ぼくは生きていかなければならないのだ。なんということだろう、なんということだろう!」
  ――(ノート、1964年5月17日)

 しかし大学入学後は、奥はマル学同中核派に、中原は革マル派にという対立する活動組織にいて、二人の間には次第に溝ができていった。
 恋と闘争と……奥は語り続ける。彼女に、そして自分自身に。
 ついには、愛するあまり、彼は拒絶する彼女の頬を殴ってしまうということも起こしてしまう。

 「ごつごつとぶつかり合うような感情の交錯ではなしに、私たちは、もっと静かに愛し合うべきなのだ。私はふたたび女性を見出すだろう。だが、私には最後まで彼女の心の裡がつかめないのだ。一・一八闘争で彼女はずっと僕を見つめていた。私は、ついに耐ええずに彼女の視線に捉えられた。ああ、なんの問題もありはしないではないか、あの優しく美しい瞳に捉えられて、私は心がうずいた。これほどまでに愛し合い、許しあっているものがこの世界のどこにいるのだろう、私はそう思った。錯覚なのだろうか? 幻をみているのだろうか? それとも真実なのか?」
  ――(ノート1965年1月21日)

 1965年2月17日、椎名訪韓阻止羽田闘争で、機動隊により鼻硬骨を砕かれて入院。
 入院中に、中原素子は友人と一緒にケーキを持って見舞いに来ている。
 退院後10日目の3月6日、奥浩平、自宅にて服毒自殺。21歳と6か月の短い生涯だった。

 奥浩平の死から50年。
 時代は変わりながらも、今、国会周辺のデモが大学生さらには高校生の間にも広まりつつあるという。
 この夏は熱い。

 (写真は佐賀の田舎の夕景)

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