かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

ギリシャ男の魂、「その男ゾルバ」

2011-09-02 02:54:42 | 映画:外国映画
 ギリシャへは行くつもりはなかったが、20代の時、一人初めての海外への旅にパリへ行った際、アテネに1日寄ったことがある。
 航空チケットを買いに日比谷にあった航空会社(スイス航空)に出向いたとき、係りの人が、どうせ旅費は同じだからと言って、旅の帰りにアテネへ途中寄航するよう手続きしてくれた。
 そういうことで、ジュネーブを経由してアテネに降りたったのだが、空港はなんだか空気も街も乾燥している印象だった。飛行場を出ても、市街に向かうバスがわからず、僕は面倒になって仕方なく街中までタクシーに乗った。
 タクシーの運転手は、野卑な笑いを浮かべながらしきりに僕に話しかけてきたが、ギリシャ語で何を言っているかわからないので、まともな返事はしなかった。窓の外は青空が広がり、空には雲が巻いていて、5月というのに夏のようだった。
 車が走っている間中、音楽がガンガンとなった。ギリシャの音楽は軽快で、南国や中東のそれに共通するものがあり、僕の好みだった。しかし、ヴォリュームを必要以上にあげているので、素敵な音楽だと感じる以上に喧騒感が募るのだった。それでも運転手はお構いなく、音楽に負けないようにか、高い声で話しかけるのをやめなかった。
 うるさいほどの音楽を聴きながら、僕は時折通った六本木にあるギリシャ料理店の「ダブルアックス」を思い浮かべた。この店では毎晩、食事の合間に現地(ギリシャ)人であろう店員が、ギリシャ音楽に合わせてダンスを踊るイベントがあった。
 店では、このダンスが行われる前に、客に白い皿が配られた。ダンスが佳境に入ったころ、掛け合いとともに店員が皿を床に放り投げるのだった。それを合図にか、客も持っていた皿を次々に投げるのだった。そのたびに、皿の割れる音が店内に響いた。
 皿の割れる音が響く中、ダンスは繰り広げられるのだった。

 夜、僕は夕食をとるためにアテネの街をぶらついた。通りから路地と相当歩いた後、1軒のタベルナのガラス窓から、ギリシャの民族弦楽器を奏でているのが目に入った。扉を開けると、ブズーキを含めた4人の演奏者たちが僕の方を見てにっこり笑いながらも、演奏は続けた。彼らは、ロックミュージシャンのような ラフな格好をしていた。
 僕は、あの軽快なギリシャ音楽を耳にしながら、食事と一緒にウゾを頼んだ。

 *

 原作:ニコス・カザンザキス 製作・脚本・監督:マイケル・カコヤニス 出演:アンソニー・クイン アラン・ベイツ イレーネ・パパネ リラ・ケロドヴァ 1964年米=ギリシャ

 映画「その男ゾルバ」は、若いときに観た。
 ギリシャ人のゾルバを演じたアンソニー・クインの印象が強烈だった。ゾルバは、酒と女を愛し、人生の哀歓を表すとき、全身で踊った。映画では、ギリシャの音楽が重なって流れた。
 今度、再び見たときは、若いときに気づかなかったであろう含蓄ある言葉が残った。

 父が持っている廃坑になった炭鉱を再興しようと、ギリシャのクレタ島に向かった若いイギリス人の作家バジル(アラン・ベイツ)は、偶然にその島に行くギリシャ男、ゾルバ(アンソニー・クイン)に会う。ゾルバは中年を超えた初老とも言えたが、人懐っこく、それでいて豪放磊落だった。
 バジルは、あくが強いが憎めない、この人間臭いゾルバを、なりゆきで現場監督に雇い、島で炭鉱採掘に乗り出すことにした。

 島には、黒い服を着た美しい女(イレーネ・パパネ)がいた。美しいけど、険しさがあった。
 その女に対して島の男たちは、遠くから憧れと、その反面排他的な態度をとっていた。その女は、島の言い寄る男たちを無視している、孤高の女のようであった。
 島のあらゆる男たちを無視しているこの女が、バジルには気があることを、2人が初めて会った日に、ゾルバは彼女の眼の表情から見抜いた。
 ゾルバはバジルに、「あの女の家に行ってやれよ、お前が来るのを待っている」と勧める。
 確かに、女はバジルが自分に近づいてくれるのを待っているようであった。しかし、生真面目なバジルは、ゾルバの勧めにも何の行動も起こさなかった。
 ゾルバはバジルに言う。
 「神は今日、天国からあんたに贈り物をくれた」
 尻込みするバジルに、ゾルバは付け加える。
 「神が人に手を与えたのは、掴むためだ」
 「面倒は嫌だ」と言うバジルに、ゾルバは言う。
 「人生は面倒なものだ。死ねばそれもない」

 「女に独り寝させるのは男の恥だ」
 「神は寛大だが、決して許さない罪がある。女が求めているのに男がそれを拒むことだ。……トルコ人の年寄りがそう言っていた」

 ゾルバは、波乱の人生を歩いてきたようだった。戦争に行き、国のためなら何でもやった、相手が敵国人だったからだと語る。人を殺し、村を焼き、女を犯した。本当にバカだったと述懐する。
 「今は、人を見て善人か悪人かしか考えない。国は関係ないんだ」
 「もっと年をとると、善人だろうが悪人だろうが、どっちでもよくなる。最後は皆同じ。蛆虫のエサだ」

 2人は、島で1軒しかない老いた女(リラ・ケロドヴァ)が営むホテルに住みこみ、鉱山の再興を試みる。
 そんな中、やっとバジルと島の孤高の美女は愛を確認したのだが、翌日、村人たちの手によって、女は残酷な死を遂げることになる。彼女を助けることができなかったゾルバとバジルは、悲嘆にくれる。
 「なぜ若者は死ぬ。なぜ人は死ぬんだ?」と言うゾルバに、バジルは「わからない」と答えるだけだった。
 夜、一人でよく本を読んでいるバジルを見ているゾルバは、こう言うのだった。
 「本は、何のためにある。これを教えずに、何を教える」
 「本は……それを答えられない人の苦悩を教えてくれるんだ」
 バジルのこの答えに、ゾルバは吐き捨てるように言う。
 「そんな苦悩、クソ食らえだ」

 2人で進めてきた炭鉱の再興計画は、結局失敗に帰してしまう。それで、2人は島を去ることにする。
 島に来るとき出会った2人だが、また元の人生に2人は戻ることになる。真面目で思慮深いバジルと豪放で女好きなゾルバの2人は、年齢も育った環境も性格も違うが、友情以上のものを感じていた。しかし、男と女ならずとも、誰でも別れの時はやってくる。
 おとなしいバジルだが、俺も踊りたいと言って、2人は海辺で踊り始める。まるで、別れを振り切るように、今ある人生を謳歌するかのように、2人は踊る。
 最後に、ゾルバがバジルに、「これだけは言っておきたい」と言う。
 「あなたには、一つだけ欠けている。それは、愚かさだ。愚かさがないと……」
 「愚かさがないと?」
 「愚かさがないと、人は自由になれない」

 この物語は、ゾルバという一人の男の骨太の人生観を根源として描いたものと言え、アンソニー・クインの存在感はまさにその男、ゾルバそのものであった。
 そのゾルバの若いボスというか相棒となっている、知的な雰囲気を持つイギリス人のアラン・ベイツがいい。彼はロンドンの王立演劇学校出身で、稀しくも、「トム・ジョーンズの華麗な冒険」のアルバート・フィニーや、「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールなど、端正で知的雰囲気を持つ男優がクラスメイトである。
 島の美女であるイレーネ・パパネは、目鼻立ちが整っていて、まるでギリシャ彫刻のようだ。村の男の視線を一身に背負って生きている姿は、イタリア・シチリア島を舞台にした「マレーナ」(2000年、伊)のモニカ・ベルッチを思わせた。
 この映画の方がずっと先の作品なので、「マレーナ」のモニカ・ベルッチは、「その男ゾルバ」のイレーネ・パパネを思わせる、と言わねばならないが。
コメント
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