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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「薩長土肥」の「肥」の象徴、鍋島直正

2018-04-30 04:22:36 | 本/小説:日本
 * 肥前の七賢人

 僕は佐賀の田舎の町の小学校に通った。
 学校の大きな講堂には、天井高く顔写真が並んで飾られていて、「佐賀の七賢人」とあった。
 その7人とは、幕末・維新期の偉人である鍋島直正、大隈重信、江藤新平、副島種臣、佐野常民、島義勇、大木喬任である。
 僕らは、彼らがどのような人物だったのかは知らずとも、顔だけは脳裏に焼きついて育った。のちに「薩長土肥」の一角として、明治維新を推進した人物たちだと知る。
 日本人の判官びいきもあってか、鹿児島で大久保利通より西郷隆盛が人気があるように、佐賀では佐賀の乱で斬首された江藤新平の方が大隈重信より人気があった(今はどうかわからないが)。

 あるとき、「薩長土肥」の「肥」は、熊本で肥後かと思っていたけど、肥前の佐賀だったの?と、相当教養あると思っている人から言われて、肥前の知名度もその程度かとがっかりしたことがある。

 * 佐賀の産業革命

 2015年に、「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録された。そのなかに、萩(山口県)と韮山(静岡県)の「反射炉」が入っているが、日本で最初に作成され、実践可能な鉄製大砲の製造に成功した佐賀の反射炉は入っていない。
 なぜかというと、残っていないからである。
 江戸幕末期、鉄の鋳造、大砲の製造、蒸気船の建造といった西洋技術を習得して、わが国で最も進んだ科学・軍事力を持っていたのは佐賀藩であった。しかし、その痕跡はほとんど佐賀に残っていない。
 かろうじて、国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造した、筑後川の支流である早津江川河口に位置する「三重津海軍所跡」が、世界遺産に向けて近年掘り起こされたぐらいである。

 佐賀藩は福岡藩と1年交代で長崎御番(ごばん)(警備)を受け持ち、長崎近海に出没する外国船に対する警備に当たっていた。
 そのこともあり、佐賀藩は長崎に駐留するオランダからの知識で、外国に対抗するためには今の日本の軍事力では到底太刀打ちできないことは知っていた。それゆえ、軍事力をはじめとする技術革新が最重要だとの認識は、藩主鍋島直正は早くから持っていた。
 そのころ、中国の清がアヘン戦争でイギリスに大敗して、領土の割譲や不平等条約を強いられたことを知り、さらに早急に対応しなければならないと自覚させられる。そのため、長崎のオランダ人を通して、その技術を取り入れることに力を入れる。それを推進したのが鍋島直正であった。
 軍事、造船、化学力の開発のために佐賀藩が独自に藩内に造った「火術方(かじゅつかた)」、「精煉方(せいれんかた)」は、ハイテク日本の先駆けとなる当時の最先端の研究機関であった。
 もしこの「火術方」、「精煉方」が残っていれば、鹿児島の集成館をはるかに凌ぐ産業遺産・資料となっていただろう。

 また、佐賀には福岡、長崎に比肩する石炭産出の炭鉱も、唐津、多久、大町などにあった。長崎、福岡にはその産業遺産ともいうべき施設や坑道跡地などが残っていて見学もできるが、佐賀では取り壊されてほとんど残っていない。ボタ山とて面影もないと言っていい。
 佐賀には、なぜ遺産・遺跡が残っていないのか? 
 過ぎ去ったものには意味や価値を置かない性質なのか。あるいは、物や過去への執着心が希薄なのだろうか。廃墟や廃坑が好きな僕としては、残念な思いが強い。
 佐賀人は、なぜか跡を残さない性質のようである。こういうところが、佐賀人が通ったあとは草も生えないと言われるゆえんかもしれない。
 僕はかつてから、福岡と長崎に挟まれた佐賀は地味で、観光にも他県ほど力を入れているようには見えないが、もっと見直されていいと思っていた。しかし、見直すには痕跡、記録、再生が必要だ。
 
 * 鍋島直正を主人公にした「かちがらす」

 県民性かも知れないが、佐賀県人にはとりたてて目立った行動を良しとしないところがあるように思う。それはどこから来ているのだろうかと思っていたとき、鍋島直正を主人公にした歴史小説「かちがらす 幕末を読みきった男」(植松三十里著、小学館)を読んだ。

 「かちがらす」の本名は「カササギ」で、かつては佐賀で最も有名な鳥だったといえる。
 黒に白が混じったカラスに似た鳥で、今は滅多に見られなくなったが、僕の子どもの頃は県内のどこにでもいた、佐賀の県鳥でもある。
 豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に持ち帰って、佐賀をはじめとした北九州に頒布したといわれている。

 鍋島直正(号は閑叟(かんそう))は肥前佐賀藩37万石の10代目藩主で、幕末、明治維新期の「佐賀の七賢人」の中心人物ともいえる。
 鍋島直正は、島津斉彬とは母方の従兄弟、井伊直弼は父方の再従兄弟(はとこ)で、幕末期には雄藩とかなり複雑な血族関係があったということである。

 本書では、鍋島直正の心情が事細かく綴られている。
 江戸幕末期、佐賀藩は長崎警備という役目があるため、自力で最新鋭の大砲を造ったということが知れ渡るようになり、注目される藩となる。そして、その軍事力を期待して、鍋島直正には幕府から将軍相談役の声がかかる。
 直正をめぐっては、当時、朝廷、幕府の両方が引っ張り合いを繰り広げていた。

 長崎にいるオランダの軍医のボードウィンは直正に、当時日本に来ていた海外の黒船の国の考えていることを、暗に教える。
 イギリスやフランス、アメリカなどは、対立する両陣営、薩長、幕府などを煽って余った武器を売り、さらに内戦で国土が疲弊したあと、インドのムガール帝国のように侵略する魂胆であると。
 ちなみに、ボードウィンについては、長崎で彼の教え子の武士たちと一緒に撮った写真が残っている。
 直正は、日本がインドやアヘン戦争後の中国の清のようになることを最も恐れていた。それゆえ、最新鋭の大砲を、幕府のためにも、薩長のためにも、使うことを拒み続けたのだった。
 直正は、軍事力を高めているのは、外国への対抗のためであって、佐幕であれ倒幕であれ、日本人に向けるものではない、内戦だけは避けたいという気持ちであった。直正の体調が悪いことも重なって、幕府にもなかなかちゃんとした返答を出さない状況を続けた。

 あるいは鍋島直正の幕府、朝廷への対応は、巷間言われているように、両方の様子を見ていて判断が遅くなり、薩長に乗り遅れたのかもしれない。
 イギリスの通訳官アーネスト・サトウは、鍋島直正の印象を、「……彼は日和見主義者で大の陰謀家だと言う評判だったが、はたして……その去就が誰にもわからなかったのである」と記している。
 鍋島直正は、15代将軍・徳川慶喜、勝海舟とも会っている。
 本書のなかで、佐賀藩は日本を守るため、日和見という汚名を歴史に刻んでもよい、と直正は慶喜に言う。

 * 「反射炉」の構造の謎

 本書で、僕が今まで疑問に思っていたことの発見があった。
 一つは、なぜ「反射炉」でなければならなかったのか、ということである。
 日本でも、刀鍛冶を見ても分かるように、鉄はすでに作成されている。しかし、もっと強度の高い鉄で、なおかつ大砲のような大きな器にするためには「反射炉」が必要という知識はすでに得ていた。
 そして、あの「反射炉」の構造が熱を上げるためとは知っていたが、どうして設計図通り造っても失敗を繰り返すほど、鉄の作成が難しいかがわからなかった。
 それが必要温度はもとより、鉄と炭火、つまり炭素の取り込みの関係が重要ということを知った。確かに、化学が導入されていない江戸という時期には難しい論理ではある。

 * 佐賀城

 佐賀城は、石垣と鯱の門が残っているだけである。この門には佐賀の乱のときに受けた弾痕が生々しく残っている。(写真)
 僕が子どもの頃は、この城内に小学校があった。
 2004(平成16)年に、天保年間完成の本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館ができ、様々な催しものを開催している。
 この佐賀城鯱の門の広場に、去年(2017年)、第2次世界大戦時の金属供出に伴って撤去されたという、鍋島直正の銅像が生誕200年を記念して再建された。
 今度佐賀に帰ったときには見てこようと思っている。

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なかにし礼の満州の残照、「夜の歌」

2017-10-29 02:14:44 | 本/小説:日本
 涙と雨にぬれて
 泣いて別れた二人……

 それまでシャンソンの訳詞をしていたなかにし礼の、歌謡界でのデビュー曲「涙と雨にぬれて」の歌の出だしである。曲も自分で作り、作詞・作曲のデビューだった。
 1966年のことで、歌ったのは石原裕次郎のプロデュースによってデビューしていた裕圭子とロス・インディオス(ポリドール)、およびシャンソン喫茶「銀巴里」時代の友人の田代美代子とマヒナ・スターズ(ビクター)の競作だった。
 僕は、このセンチメンタルな歌が好きだった。まだ学生で、本当の恋なんて知らなかった頃だ。
 なかにし礼の歌謡曲の実質的処女作であるこの歌には、瑞々しさが滴っている。
 この曲がヒットした頃、なかにしは最初の妻と別居している。

 ハレルヤ 花が散っても
 ハレルヤ 風のせいじゃない……

 翌1967年、デビューしてもヒット曲がなかった渡辺順子が黛ジュンと改名して再デビューした曲「恋のハレルヤ」(作曲:鈴木邦彦)の大ヒットで、なかにし礼はヒットメーカーの名を得た作詞家となる。
 続いてなかにしと鈴木のコンビによる黛ジュンによる歌は、この年「霧のかなたに」、翌1968年には「乙女の祈り」とヒットを続け、「天使の誘惑」でその年の第10回日本レコード大賞を受賞する。
 しかし「恋のハレルヤ」の、いきなり「ハレルヤ~」という出だしは何と言っていいだろう。この言葉は聖書の祈りの言葉で、日本人には馴染みのある言葉ではない。
 ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の「ハレルヤコーラス」を思い出すぐらいで、いいも悪いも判断の下しようがない。ゴスペルソングでもないのに、よく若い女の子の歌謡曲で、この突拍子もない投げかけの歌詞を持ってきたものだ、と思わずにはいられなかった。
 ところが、のちになかにし礼によると、これは彼の満州での体験を想って書いた歌だというのを知って、僕は二度驚いた。
 満州国、それは今はなき幻の国である。「恋のハレルヤ」と満州国……

 *

 あの日からハルピンは消えた
 あの日から満州も消えた……
 
 僕は、ずっとなかにし礼を見つめていた。
 「天使の誘惑」がヒットした年、大学を卒業し出版社の編集者として勤め始めた僕は、その雑誌「ドレスメーキング」に、新進気鋭の作詞家なかにし礼とやはり新進若手デザイナーであった鳥居ユキの対談が掲載されたのを嬉しく何度も読み返した。
 作家では五木寛之、作詞家ではなかにし礼を、僕は秘かに憧れと羨望を持って見ていた。
 二人の共通点は、外地引揚者という点である。第二次世界大戦(太平洋戦争)における日本の敗戦により、五木は朝鮮から、なかにしは満州から子どものころ帰国している。
 この二人を好きなのは、強く意識していたわけではないが、僕のなかにも満州という幻の祖国がワインの底の澱のように静かに沈殿しているからかもしれない。

 「恋のハレルヤ」への思いをなかにし礼はこう語る。
 満州の牡丹江(中国黒龍江省)に住んでいたなかにし礼は、1945年の日本の敗戦のあと、死ぬような体験を経て、1年2か月後にかろうじて引揚げ船を出航する港にたどり着く。
 途中、なかにしの父をはじめ、多くの人が亡くなった。なかにしがまだ7歳のときである。
 日本への引き揚げ船が出航する場所は、遼東湾に面する葫蘆島。
 そこには、満州の各地からやっとの思いでたどり着いた、日本に帰る人たちが集まっていた。葫蘆島の駅に着き列車を降りて、その先にある海と青い空を見て、やっと日本に帰れるとなかにしは思った。
 1946年10月のことだった。
 この歌は、その港にたどり着いたとき見た景色と想いであるところの、滅びゆく日本、沈みゆく満州、その国を愛した国民の感情を恋心に託して作った、となかにしは後で述べている。
 幻のごとくに消えていった満州国への未練と諦めを散りゆく花に託し、その想いを込めた叫びが「ハレルヤ~」だった。

 1946年10月、僕はまだ1歳にもなっていなかったが、ちょうどその頃、その地、葫蘆島に母と一緒にいたはずだ。「大地の子」にもならず、かろうじて生きてその地にたどり着いた。
 記憶にはないが、僕はおそらく最後の世代の満州からの引揚げ体験者だ。満州と聞いただけで、胸の奥に言葉にできない哀歓が滲むのだ。

 *

 なかにし礼は、その後ヒット曲を連発し人気の作詞家になったころの1971年、「哀愁のパリ」の翻訳書を角川文庫から出す。
 原作はフランスの作家、アルフォンス・ドーデで、原題は「サフォー」(Sapho)。
 「哀愁のパリ」は、1968年公開の「個人教授」(La leçon particulière)で、アイドル並みのスターになったルノー・ベルレーと、「彼女について私が知っている二三の事柄」(監督:J・R・ゴダール)のマリナ・ヴラディの共演の映画である。
 当時、僕はパリに酔いはじめた頃なので、映画はもちろん観たが、すぐに本を買った。そして、彼の文才の幅に改めて感心したのだった。「哀愁のパリ」は、今でも僕の本棚の片隅に、青春時代を偲ぶように人知れず並べられている。
 同じ頃、なかにし礼は女性週刊誌に様々な花に託した恋物語を連載していた。なかにしの初めての小説は短編小説集の「花物語」(新書館)だが、僕の記憶が正しければ女性週刊誌に連載されたものをまとめたものだろう。
 このころから、小説を書く萌芽はあったし、彼のなかでもいつかは確たる小説を書こうと思っていたと思う。

 1977年、なかにし礼が作詞・作曲し自身で歌った曲のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)を出した。これは、僕が最も好きなアルバムだ。
 自身で歌った「時には娼婦のように」は、もちろん黒沢年男よりずっと情感がある。それよりも特筆すべきは、このアルバムの最後で歌われている「ハルピン1945年」である。ここで歌われているのは、何と彼の満州体験の甘酸っぱい面影である。
 前の項で、ハルピンに託した失われた満州への哀惜を歌った歌詞の冒頭をあげたが、戦後、満州をこんな甘く切なく歌った歌はないだろう。

 さらに翌1978年には、映画「時には娼婦のように」」(小沼勝監督、日活)にて、原作・脚本・音楽・主演を果たしている。相手役は鹿沼えり。
 内容も哀切な情感が滲む感性溢れるカミソリのような映画で、彼の演技も余技ではなく本物の役者と見まがうものであった。
 この頃のなかにし礼は多才という平凡な表現を通り越して、持て余すかのような才能のエネルギーがあちこちで溢れ出ていた。

 僕がなかにし礼に会ったのは、ずっと後の1991年、婦人雑誌でモーツァルト没後200年「モーツァルトの快楽」という企画をたて、モーツァルトについてのインタビューであった。
 彼はすでにミュージカルやクラシック音楽への仕事も着手していたし、クラシック音楽に造詣が深いことは「音楽への恋文」(共同通信社)のエッセイで知っていた。
 赤坂プリンスホテル旧館のバーでのインタビューでは、「善もあれば悪もあり、涙もあれば微笑みもある。モーツァルトは、僕の帰りつくところ」と語った。
 彼は、人懐こい予想通りの「本音の人」であった。

 *

 2016年12月に出版された「夜の歌」(毎日新聞出版)は、癌との闘病中の最中に書かれたなかにし礼の最も新しい自伝的小説である。
 生きている間にこれだけは書いておきたいという思いで書かれたもので、その切実な思いが伝わってくる。
 なかにし礼の人生を語るに、大きくは以下の3つに分けられよう。
 彼に最も大きな影響を与えた、少年時代の戦争が及ぼした満州引揚げによる故郷喪失体験。
 その後長じて、時代の寵児となった作詞家生活から作家(小説家)への華やかな人生行路。
 成功した彼の生活に入り込んで、金をむしり取り続けた愛憎半ばする実兄の存在。
 満州時代のことは小説「赤い月」(2001年)に書かれているし、兄のことは小説「兄弟」(1998年)に詳しい。
 「夜の歌」は、その集大成として書いたのだろう。本書では、彼の今まで生きてきたことの真実、本音が、物語として絡めるように描かれている。

 *

 なかにし礼は、本音の人である。
 「夜の歌」で、週刊誌的観点で興味をひいたのは、作詞家として成功していく最中に、彼を彩った実在の女性の登場である。
 一人は、銀座のクラブ「順子」のママ。
 この店は、山口洋子の「姫」のナンバーワンだった田村順子が独立して開いた店で、なかにしは28歳の時、川内康範に連れられて初めて銀座のこのクラブに行く。そこで二人は、恋というか彼が言うところの疑似恋愛に陥る。
 当時、数ある銀座のクラブのなかでも、「姫」も「順子」も有名人が通う店として名前は知れ渡っていたし、田村順子もしばしば週刊誌で見る顔だった。彼女はのちに、日活の俳優、和田浩治と結婚している。

 もう一人は、当時歌謡界で同じ作詞家として華やかに活躍していた安井かずみ。
 安井かずみも僕の好きな作詞家で、彼女との関係は初耳だったので新鮮な驚きだった。彼女はのちにミュージシャンの加藤和彦と結婚(再婚)するのだが、すでに故人となったからここまで書いたのであろう。
 なかにしと安井の出会いの場面は、この二人だったらと想像させるがごとくの出会いと進行であったから、あまりにも出来すぎた物語のようであった。
 なかにしが安井かずみと初めて会ったのは日比谷有楽座前の三信ビルにある渡辺プロダクションでだった、と書いている。
 日比谷の三信ビルは懐かしい。
 今はない三信ビルは、昭和初期建造の古い洋風のビルで、1階の通路には左右に様々なテナントが入っていて、そのなかに老舗のフレンチ・レストランがあった。その中央通路部は1、2階が吹き抜けになっていて、2階のコーナーにはアールデコ風に彫刻が施してあった。通路の中央部にはまるでパティオのようなゆったりとした半円形のエレベーター部分があり、その半円形に沿って古風なエレベーターの扉がずらりと並んでいた。
 外から見る表面は平凡なビルのようだったが、中に入ると古いパリ風の雰囲気が漂っていて、歩くだけで楽しい僕の好きな一角だった。そのビルに渡辺プロが入っていたとは知らなかった。

 ことの本題は三信ビルのことではなく、次の件だ。
 なかにしは初めて会ったその日のうちに、その三信ビルから安井のマンションに、彼女のスポーツタイプのクラシック・カー、62年のロータス・エランで行くことになる。
 安井のマンションは僕も名前だけは知っていた川口浩が経営する川口アパートで、そこでレオ・フェレの「悪の華」(ボードレール)を聴く。そして、二人は前からそのような関係であったかのように愛しあう。いとも自然に、いとも当然のごとく。
 何とも安井かずみらしいし、なかにし礼らしい。
 レオ・フェレの「悪の華」は、僕もこのレコードを持っているので、何となく嬉しくなった。そんな時代だったのだ。
 そして、二人は赤坂にあった「ムゲン」に行く。
 「ムゲン」は藤本晴美によるサイケデリックな映像を使った、当時「ビブロス」と並んで最先端のディスコだった。僕も「ムゲン」には当時行ったことはあるし、ファッション雑誌でカメラマン立木義浩撮影で使わせてもらったことがある。
 ここで、コシノジュンコなどの新しい才能と出会い、交友が広がる。
 しかし、なかにし礼と安井かずみの二人の作詞家が親密な関係にあったことは、ずっと秘かに隠されたままにしておいた方が良かったように思えた。
 ※参照:「加藤和彦もいた、「安井かずみがいた時代」」→ブログ、2013.5.12
 
 「夜の歌」には、なかにし礼の満州引揚げ体験から今日までの波乱に富んだ人生がパノラマのように描かれている。
 そして、彼は今も戦争反対、憲法問題など、文化人として本音を発信、発言し続けている。

 ※写真は、ハルピン(哈爾濱)から長春(新京)の間に広がる旧満州の風景(2015年5月列車から撮影)

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穴の向こう側に行く旅、「騎士団長殺し」

2017-10-10 03:50:24 | 本/小説:日本
 この文を書こうとしているとき、ノーベル文学賞の発表(10月5日)があった。
 村上春樹ではなく、カズオ・イシグロであった。意表を突かれた感じではあったが、意外ではなかった。カズオ・イシグロも、国際的に知られた作家だ。
 彼は受賞の会見の際、偉大な小説家より自分が先に受賞することを「後ろめたい」とも話し、「ハルキ・ムラカミの名前がまず思い浮かぶ」と語った。
 ノーベル文学賞への受賞理由として「人と世界のつながりという幻想の下に口を開けた暗い深淵を、感情豊かにうったえる作品群で暴いてきた」とあるのは、村上春樹(ハルキ・ムラカミ)にも当てはまるだろう。

 *

 さて、今年2月に発売された村上春樹の最新長編小説「騎士団長殺し」である。
 村上春樹は、この小説で何を言いたかったのだろう。
 いつものように僕の好きなメタファーに満ちた文体で、物語は予想不能の期待と意外性を持って進行する。
 通俗的な普通の作家の小説であったら、途中で本を放り出してしまいたくなるような奇想天外とも荒唐無稽ともいえる出来事や謎を持たせた描写でも、何か意味を見いださなければいけないと思わせられて、最後まで読ませてしまう力量はさすがである。
 ハルキストと呼ばれる人がいるそうだが、僕は彼の文体はいつも感心してしまうほど好きとはいえ、彼の小説すべてが好きなのではない。「ノルウェイの森」や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」のような男女の愛に関する小説は、申し訳ないがまったくいいとは思わない。

 村上春樹の小説は長いのが多く、それに相応する内容であるが、「騎士団長殺し」も、何と、上下巻併せて約1000ページの長編である。
 物語の「内容」は、肖像画を描くことを生業にしている主人公の「私」は、何の理由かわからず突然妻に離婚を言い出され、今は誰も住んでいない友人の家に一人住むことになる。その家は、友人の父である高名な画家が住んでいた家で、小田原市の高台に隣家とも離れて静かにあった。
 私はある日、そこの天井裏で隠したように置いてある「騎士団長殺し」と題した絵を見つける。その絵は、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」の「騎士団長殺し」の場面を、日本の飛鳥時代に翻案して描かれた奇妙とも思える日本画だった。
 その絵の作者はこの家の住人であった高名な画家によるものであろうが、私は、描かれている絵の意味となぜ人目を避けて隠されているのかを考える。
 ここから、不思議で奇妙なことが次々に起こる。
 深夜に、誰もいない庭の奥にある祠の下の土中から聞こえてくる鈴の音。肖像画を描いてほしいと申し出てきた、近くに住む大金持ちで紳士的な白髪の男の出現。私が教えている絵画教室の生徒の少女の存在。
 鈴の音が聞こえる土中を掘り起こすと、そこは石で作られた井戸のような丸い穴が出現する。そして、絵に描かれた体長60センチほどの「騎士団長」が出現することにより、物語は異次元の世界へ進む。

 いや、現実と異次元が同居する形で、物語は迷路に誘い込まれたように進んでいく。
 次々と起こる出来事は、偶然なのか何か仕組まれたものなのか? どのような意味があるのか? 物語の主人公も、読む者と同じく自問する。
 答えがわからないまま、やがて物語は静かに着地する。本当は何事もなかったかのように。
 見えるものと見えないもの、現実と非現実、地上と地下の世界など、現実には行けない「壁の向こう側」と行き来する村上春樹独特の世界といえる。物語の伏流として、ナチスのオーストリア併合と日本軍の南京大虐殺という歴史上の政治的問題も挿入されている。

 小説の醍醐味を堪能することができた。しかし、である。
 作者の傾向が変わっていくのは当然だが、この新作は同じメタファーを触媒にした過去の物語、僕を魅了した初期の「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」とは質が違う気がする。
 同じく「古井戸」が異次元の入口の象徴となる、「ねじまき鳥クロニクル」の延長線上におけるのかもしれない。
 しかし、荒唐無稽なSFあるいはファンタジーに終わらないのは、彼の比類なき創造力と想像力、それに特有な文体のなせる業である。それは、ある意味ではマジックのようである。
 いや、彼の本質は、一つのポンと提示した現象(突然の妻の離婚要求といった物語の発生)に対して、それを解くための方程式の補助線のような観念を具現(物語)化して、それを複雑に展開・発展させることによって読者をも戻ることができない迷路に引きずり込む、という策略(小説化)にこそあるのではないだろうか。

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「日本の夜と霧」の時代に明かりを照らした「唐牛伝」

2017-02-22 19:54:06 | 本/小説:日本
 「安保闘争」。その言葉は、聞く人の年代によって違った響きを持っているのだろう。
 「60年安保」は、それからすでに半世紀が過ぎもはや「歴史」となっているが、その言葉はずっしりと重い。
 当時僕はまだ少年で、それが何を意味するか理解してはいなかったが、反対を唱え国会を取り巻いた学生のデモ隊が「全学連」と呼ばれて、政府の指令の元の機動隊とせめぎ合い闘っていたことは、新聞やニュースなどで知っていた。
 全学連という言葉は、あっという間に普通に使われる名詞になっていた。「ゼンガクレン」を子どもも知っているぐらい、それは大きな社会的出来事であった。
 それまでの既成左翼の日本共産党から離れ、その新しい全学連を主導する学生組織であるブント(共産主義者同盟)の委員長が、当時北大生の唐牛健太郎という男だった。
 1960(昭和35)年、日米安全保障条約(安保条約)に反対する闘争のなかで、デモ隊のなかにいた東大の学生だった樺美智子が死に、結局反対闘争は敗北した。

 同時期、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱でも大きな闘争が行われていた。
 それが、会社の合理化に反対した労働者組合の無期限ストライキを含む闘争で、「総資本対総労働の対決」として連日報道されていた三池争議である。
 この三池争議も結局労働組合側の敗北に終わり、石炭から石油への政策転換のなかで、三井三池炭鉱も閉山に向かうことになる。
 1960年は、安保闘争と三池闘争(争議)という二つの闘争が同時期行われた年なのである。

 60年安保闘争の敗北後、学生運動は四分五裂し衰退の一途をたどる。
 敗北したとはいえ、岸内閣を退陣に追い込み、労働者を含め全国民をも巻き込んだこの闘争は、学生運動の発火点であり社会を巻き込んだ戦後最大の反政府闘争とも言えた。
 それ故、60年安保闘争の運動は、多くの人の心に刻み込まれているのだと思う。

 *

 60年安保を闘った学生たちは、その後さまざまな道に進んだ。
 そのまま運動を続けた者や大学を辞めた者もいるが、多くが大学に戻り、再び独自の道を進むことになる。
 全学連の委員長を辞めた後の唐牛健太郎は、大学にも戻らず、身一つで社会に飛び込んでいく。
 「唐牛伝」(小学館刊)は、その唐牛健太郎の半生、いやそう長くはなかった一生を綴ったドキュメンタリーである。サブタイトルに「敗者の戦後漂流」とあるように、唐牛を含め、当時闘争に参加したその後の足跡をたどった戦後私史ともなっている。
 著者は、「カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」」、「甘粕正彦 乱心の曠野」、「あんぽん 孫正義伝」など、徹底した人物取材で定評のあるドキュメンタリー作家、佐野眞一。
 佐野は、2012年「週刊朝日」に掲載された橋下徹の記事が差別内容であると批判され裁判となり、沈黙を余儀なくされたあとの渾身の一作である。 

 本書は、唐牛健太郎が深くかかわった「60年安保闘争」と、その後を検証した書であるが、全学連誕生の前夜から紐解いてあり、当時の学生運動の萌芽と生成への流れがよくわかる。
 僕が学生時代に見た大島渚監督の「日本の夜と霧」(1960年制作)は安保闘争前夜の学生運動を描いたものだが、公開から4日で打ち切られた幻の映画だった。
 60年安保闘争敗北後、闘争の実態を語る人が少なかったこともあって、映画を見た当時は大島が言おうとしていることがよくわからなかった。だが、本書を読んでいるうちに、こういう状況だったのかとこの映画を思い起こしたのだった。
 1960年前後の学生運動は、日本の夜と霧の中にいたのだ。

 *

 唐牛健太郎は、安保闘争後は、各界で活躍する仲間たちを尻目に、ある意味では無名の人生を生き、47歳という短い人生を終えた。
 あるときは堀江健一とヨットスクール経営、あるときは居酒屋店主、はたまた漁師と職を変え、鹿児島県与論島、厚岸、紋別、喜界島、東京と日本中を転々とした。
 唐牛が関わった人物も学生運動時の闘士、高名な学者をはじめとし、右翼の大物、ヤクザの組長など多士済々で、まるで小説の主人公のようであり、まさに波乱万丈の一生だったといえる。それだけに、唐牛健太郎の人物の大きさがわかる。
 意外な発見もあった。小学館のPR雑誌「本の窓」に桐島洋子が自伝エッセイを連載しているが、そのなかで彼女が唐牛とつきあっていたことが書かれていて驚いた。全学連の委員長と若い女性編集者(当時桐島は「文芸春秋」の編集者)は、二人ともおおらかで屈託がなく気持ちがいい。本書でも、桐島のことは出てくる。

 また、本書では60年安保を闘った他の男たちのその後もたどってあり、多くの証言を拾い集めた重層な安保史となっている。
 1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)における共産党の大幅な路線変更を契機として、共産党から除名された学生たちが中心となって組織された共産主義者同盟(ブント)が、新しい全学連を誕生させる。
 このとき、来たる60年安保を前にして、島成郎(全学連・ブント書記長、東大医)は、東大、京大で多くを占めていた首脳陣を見て、この状態では組織がまとまるのが難しいとみてとる。そこで、明朗快活で裏表のない性格の北大の唐牛健太郎に委員長の白羽の矢を立て、彼を説得して委員長に推す。
 このような状況下、誰もが予想しなかった唐牛健太郎の委員長が生まれる。

 60年安保闘争時の錚々たる闘士たちのその後も、実に興味深い半生である。本書に登場する主な人物を以下に記しておこう。
 島成郎(全学連・ブント書記長、東大医、精神科医)、青木昌彦(東大経、経済学者)、篠原浩一郎(九大経)、西部邁(東大経、評論家)、清水丈夫(東大経)、北小路敏(京大経)、柄谷行人(東大経、評論家)、東原吉伸(全学連財政部長、早大2文)、他。
 さらに、文化・知識人、大物有名人も多数登場する。
 鶴見俊輔、清水幾太郎、吉本隆明、埴谷雄高、長部日出男(当時「週刊読売」、作家)。
 田中清玄、田岡一雄、児玉誉士夫、町井久之。
 堀江健一、徳田虎雄、他。

 女性も書き加えておかなければいけない。
 津坂和子(北大卒、唐牛の元妻)、真喜子(唐牛の妻)、石田早苗(北小路敏の元恋人、劇団民藝、青木昌彦と結婚)、吉行和子、加藤登紀子、桐島洋子、他。

 唐牛健太郎の人間的な側面を表わした発言も、付加しておきたい。
 「女優で熱をあげたのは嵯峨美智子で、男優では高倉健と菅原文太」
 「入れあげた歌手は藤圭子と小林旭。小説家では断然筒井康隆だ。」
 「1984年2月13日、癌による脳の手術を受け、4時間の大手術のあとの第1声がよく口ずさんでいた小林旭の「さすらい」だったという。」
 同年3月4日、唐牛健太郎死去。

 いまだ霧の中のように明確にはわからなかった60年安保闘争と唐牛健太郎の人物像が、この本で少しは見えてきた。


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「青春の門」から「玄冬の門」へ

2016-08-01 02:13:53 | 本/小説:日本
 「玄冬の門」とは、耳慣れない言葉だ。
 人生を季節になぞらえた、「青春」から始まる「朱夏」、「白秋」を経たあとの「玄冬」である。若くて青い若葉の春と違って、老いの暗い冬という、人生最終の季節、それが玄冬。

 五木寛之の「青春の門」の「筑豊篇」が出版されたのが1970年。その後、「青春の門」は後続篇が断続的に出版され、何度か映画やテレビドラマ化されて話題となった。
 本は、1993(平成5)年の 第7部「挑戦篇」の単行本が最後で、第8部「風雲篇」が1993(平成5)年から1994(平成6)年にかけて雑誌「週刊現代」に掲載されたが単行本化されていない。いわば、完結を迎えたかどうか不明のまま現在に至っている未完の長編である。
 その「青春の門」の五木寛之が、先ごろ「玄冬の門」(ベストセラーズ刊)を書いた。
 「青春の門」から、朱夏、白秋を通り超して、「玄冬の門」の発表となった。(写真:朝日新聞書籍広告蘭より)
 彼の著作で上記の季節の借用としては、「朱夏の女たち」という本が1冊ある。人生の最も熱い夏(朱夏)を生きる女たちを描いた、婦人誌(「ミセス」)に連載された小説である。
 僕が編集者時代に追いかけていた、文壇を颯爽と走っていた五木寛之も83歳となり、彼自身も人生の冬の季節に入ったということか。
 いや、誰もが遅かれ早かれ冬の季節を迎えるのだ。

 *

 青春や玄冬という言い回しは、もともと中国の陰陽五行説からきている。
 中国では古来、自然界を陰と陽に分けて考えた。「陽」の太陽、表、奇数に対して、「陰」の月、裏、偶数といった考えである。
 この陰陽思想に五行思想が加わり、陰陽五行の説ができあがったようだ。
 五行の思想は、自然界は「木」、「火」、「土」、「金」(ごん)、「水」の5つの要素で成り立っているというものである。
 この5要素は、色、季節、方角など、様々なものに適応されている。また、神獣にも呼応している。

 「木」=青-春-東-青龍
 「火」=朱-夏-南-朱雀(すざく)
 「土」=黄-土用-中央
 「金」=白-秋-西-白虎
 「水」=黒-冬-北-玄武(玄い亀と蛇が一体化した神獣)

 木、火、金、水の四季(春夏秋冬)に対して、土は各季節の変わり目に当てはめられ「土用」と呼んだ。
 日本では夏の土用の丑の日が、幕末の学者平賀源内の発案によるといわれている、鰻を食べる習慣として今日に残っている。
 この他、日本では様々な形でこの陰陽五行の思想の足跡が残っている。

 唐の長安を倣った奈良・平城京跡には、宮城(大内裏)において南面する正門として「朱雀門」があるし、京都にも朱雀門跡がある。

 奈良県明日香村で発掘された高松塚古墳やキトラ古墳の壁画には、大陸文化の影響が見てとれ4神獣が描かれていた。

 大相撲では、今では柱の代わりに4方に色のついた房が垂らしてある。これは方角を表していると同時に土俵を守っているとされるその方角の神獣を表しているとされる。
 なお、土俵は「正面」を「北」、その反対の「向正面」を「南」としている。正面東側(東北)は青房、東の青龍神。向正面東側(東南)は赤房、南の朱雀神。向正面西側(西南)は白房、西の白虎神。正面西側(西北)は黒房、北の玄武神、となっている。

 横浜の中華街に行けば、まず目につくのが煌びやかな門である。中華街は、みなとみらい線とJR線の間にできていて、中華料理店が並ぶ通りが縦横に走っている。目印にしたい門も、似たような門がいくつもあり、初めて来たらどこの通りかわからなくなるだろう。
 中華街の門は全部で10門あるが、東西南北に呼応する門がある。みなとみらい線の山下公園口に「朝陽門」(東)。元町・中華街駅口に「朱雀門」(南)。JR線石川町駅口に「西陽門」から続く「延平門」(西)。横浜スタジアムに続く「玄武門」(北)。これらの門を覚えておけば道に迷うことはない、はずだ。

 *

 1966年、「さらばモスクワ愚連隊」で颯爽と文壇にデビューし、その翌年には「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞し、歌謡曲の作詞をするなど、時代の先頭を走っていた自称「外地引揚派」の五木寛之。そんな彼が突然休筆し、仏教を勉強するために大学に再入学するなど、作家としては独自の生き方を貫いていた。
 それ故、「他力」や「大河の一滴」など、仏教的色彩の滲んだ人生論風エッセイも多い。それは、すべて時代を見つめ、その先端を照射したものといえる。

 最初の「青春の門」が出版された1970年は、ベトナム戦争が拡大するなかヒッピーの風俗が広がり、中国の文化大革命が進行し、1968年のパリ五月革命、ソ連のチェコ侵攻、翌69年東大安田講堂攻防、その後全国の大学に広がった全共闘の学生運動と、若者を囲む社会情勢は揺れ動いていた。
 物語は、九州の筑豊で生まれた男の子が、戦後の混乱期、少年から青年へと成長し、人生へ船出するというもの。
 1970年代、学生運動はその後衰退の一途をたどり、高度経済成長、バブルとその崩壊などに見られるように、日本の若者を囲む社会情勢も変わっていった。
 五木が「青春の門」を継続しないのは、「青春の門」にみる主人公の生きる場がない時代だからなのかもしれない。

 *

 五木寛之は、ずっと移り行く社会を見つめてきたと思う。しかし、彼は変わらない。いつも淡々と社会を、人生を語る。いつも同じスタンスのように感じる。彼の激した表情も悲しんだ表情もあまり記憶にない。
 遠くから見ると、孤高に見えた。穏やかだが、深いが強い孤独感を抱いていることがわかる。彼はそれを見せるのをよしとしなかったのだ。
 五木の病気に対するスタンスも面白い。大学入学時のレントゲン検査以来、歯の治療以外病院に行ったことがないという。自分で養生しているのだと言う。
 外地引揚派である、僕の親父もそうだった。喉が痛くて物が食べられなくなりやむなく病院に行ったときは、咽頭ガンですでに余命3か月だった。87歳まで生きたのだから、それはそれでいい。
 それに、失礼だがあの年齢で、五木は若いときからずっとライフスタイルはいまだに夜型だ。早朝寝て、昼頃起きるという。僕も夜型だが、毎日のように普通の生活(夜寝て朝起きる)に戻そうと思っているにもかかわらず、できないでいるにすぎない。しかし、彼は平然と言う。人それぞれ個性があるように、ライフスタイルも食事(時間や回数)も自分に合っているスタイルでいいのですよ、だから変える気はありませんと。

 青春、朱夏、白秋を過ぎて、最後の玄冬の季節だ。人生に例えると、いかに老いと向かいあって日々生きていき、どのように死を迎えるかの季節であろう。
 「玄冬の門」のなかで五木寛之は、老いたら、人生の一線から静かに退場する旨を語る。例えば、老いた野生の獣がそっと群れから離れるように。
 とはいえ、老いたらどう生きるべきか、それは重要で困難な問題だ。
 五木は、一人で生きていく術を覚えるべきだと説く。それには、孤独に慣れ、楽しむ、孤独の幸せ感を覚える。そのためには、孤独を嫌がらない、孤独の中に楽しみを見出す、それが大切だと言う。
 親鸞も孤独のなかに生きたが、法然は弟子に「群れ集まるな」と説いたという。
 九十過ぎたら野垂れ死にする覚悟を持つ。孤独死のすすめ、単独死のすすめを五木は淡々と説く。

 老いを感じる年齢になった。格好いい老いなどありはしない。
 いずれ、そっといなくなるのだ、多分。
 しかし、五木寛之は年老いた今でも時代を先取りしていて、今なお色褪せない「道」の水先案内人だ。
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