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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

私小説③ 異端もしくは文豪への道、島田雅彦

2020-05-25 01:48:18 | 本/小説:日本
*流れゆく日々

 何もしないまま時間だけが過ぎていく。
 いつもより、空や雲を見る時間が増えた。それもあってか、時間が過ぎていくというより、空気が過ぎていく感じである。私は置き去りにされたまま。
 もともと籠ったような生活であるから、新型コロナウイルス危機による4月7日からの緊急事態宣言後の生活も基本的には変わらない。
 あゝ、それなのに……。
 
 島田雅彦の私小説「君が異端だった頃」を書こうとして、放置したまま1か月以上が過ぎた。「私小説」という方向で書きだしてから2か月以上が経っている。
 ただ時間ともいうべき空気が通り過ぎていった、不思議な無感覚の経過というべきだろうか。怠惰な流れに身を任せているというべきだろうか。
 とはいえ、私小説島田雅彦の「君が異端だった頃」について、ひとまず書いておかなければならない。

 島田雅彦は、大学在学中の1983年、「海燕」(福武書店、現ベネッセ)掲載の「優しいサヨクのための嬉遊曲」でデビューした時から、読まなくとも気になる作家であった。
 デビューからだいぶん後になり、島田が作家として幅を広げた活動をしていた頃、おもむろに彼の恋愛論を知ろうと手にした「彼岸先生の寝室哲学」には辟易したし、「新潮」(2003年8月号)に掲載された「無限カノン」3部作の一つ「美しい魂」は完読できなかった。
 それでも、ずっと彼の言動には、作品とは別の人間としての存在感が感じられた。芥川賞を6回落選(5回は受賞作なし)するも、彼の文壇での地位は徐々に揺るぎないものになり、現在はその芥川賞の選考委員を務めている。
 そして、大学の教授でもある。作家で大学で教鞭をとっている人間はそう珍しいことではないし、その逆も多々ある。島田が教えている学部が、文学部ではなくて国際文化学部というところがフリーな思考の彼らしい。

 なぜか彼が若いときから、文豪といえる道を歩くのはこの人だろうと私は思っていた。
 その、文豪の後を追うと公言している島田雅彦が私小説を書いた。

 *島田雅彦の私小説、「君が異端だった頃」

 この本の最終章の「青春の終焉」で、島田雅彦は次のように書いている。
 「そう遠くない未来、自分の記憶も取り出せなくなってしまうので、その前にすでに時効を迎えた若かった頃の愚行、恥辱、過失の数々を文書化しておくことにした。それにうってつけの形式は私小説をおいてほかにない。」
 私が私小説が好きなのと私小説の魅力については、先に「私小説」①で書いたとおりである。私小説は作者が自分自身のことを書いているので、読む方としてはある程度、作者の捏造や脚色を考慮する必要がある。
 しかし、島田は私小説について、きっぱりとこう付け加えた。
 「正直者がバカを見るこの国で本当のことをいえば、異端扱いされるだろうが、それを恐れる者は小説家とはいえない。小説、とりわけ私小説は嘘つきが正直者になれる、ほとんど唯一のジャンルなのである。」
 このように、正直に語ると潔く宣言して書かれた私小説も珍しく、少なくとも貴重だといえる。

 本書は、島田雅彦が「君」という二人称をとりながら、川崎市北部のニュータウン多摩地区で育った幼少期・中学時代から、川崎市の南部にある川崎高校時代をへて、自由闊達な東京外語大での大学生活、卒業を前にしての思わぬ形での作家デビュー、恵まれたともいえる文豪との接触や交友、そして作家としての現在へ至る入口までの歩みを、あらゆる制約から解放されたかのように、饒舌ともいえる筆遣いで「己の系譜」を書き綴っている。

 彼が大学3年のとき、目をつけた女性に接近するために、オーケストラに入りビオラを手にする。そして、半年後の演奏会でチャイコフスキーの「悲愴」を演奏するために練習を重ね、ついに演奏会にて出演・演奏するまでになる。
 私もヴァイオリンを手にした経験から、たった半年でチャイコフスキーの「悲愴」とは、技量はともかく大変なことだ。
 結局その目当ての女性も攻略することになったのだから、チャイコフスキーの「悲愴」は青春の嬉遊曲であろう。そして、結婚もした。

 この本のなかでは多くの作家が出てくるが、興味深かったのは、島田を舎弟のように扱った、愛憎半ばする中上健次との関係だ。中上の存在感に圧倒され、彼を疎ましく思いつつも、彼の死を嘆き、「自己申告ではない、正真正銘の文豪になれる手もあったじゃないですか」と呼びかける。
 私も一度だけ、中上に会ったことがある。会ったというより、見たといった方が正しい。
 新宿東口の駅ビルが「マイシティ」といっていた頃、8階にレストランと喫茶を併設した「プチモンド」があった。そこは、仕事の打ち合わせや待ち合わせによく利用していた。
 その日、出版社の同僚と打ち合わせを兼ねてコーヒーを飲みにプチモンドに入った。店内に入って、空いているテーブルを見つけてそこへ行くとき、すでに4人が座っているテーブルの脇を通った。通る時に通路脇に座っていた体のでかい男が、品定めをするかのような眼でじろりとこちらを見た。
 それが中上健次だとすぐにわかった。面識はなかったので、私たちは奥のテーブルに座った。しばらくして、もう一度彼らのテーブルを見やると、中上もこちらを見ていて目が合った。サバンナで獲物を見ているライオンのような表情だった記憶がある。

 しかし、何といっても島田雅彦にとって、柄谷行人と古井由吉との交友は大きかったと思う。現代の知の巨人と思える柄谷を通して、カント、マルクス、フロイト、ウィトゲンシュタイン、ゲーテ、漱石、小林秀雄、安吾を再発見したと記している。
 古井由吉からは、酒場での酒の飲み方、大作家の枯淡の境地を知ったのではなかろうか。

 島田雅彦より2年後に「ベッドタイムアイズ」でデビューした山田詠美に自分と同類の匂いを嗅ぎつけ、俄然興味を持ち文学仲間に引き入れるのも島田らしい。デビューしたての頃の山田も、才能が滴り落ちていた。

 島田雅彦の作家への道程に不可欠なのが、女性との恋や情事である。私小説(実体験)でありながらまるで小説(物語)のようにエピュキュリアン的アバンチュールだ。
 このなかで恋愛小説嗜好の私が惹かれたのは、そのとき結婚しているにもかかわらず、アメリカ娘の二人のニーナとの恋、もしくは情事のアバンチュールである。日本にまでやってきた大学院生のニーナの存在は、やがて妻の知るところとなり、案の定泥沼化する。この話は、改めて独立した小説もしくは私小説として読んでみたい、と思わせる内容の濃いものであった。
 このジャンルこそ、彼の本分だろうと思わせる。文豪への道は、思いきって「火宅の人」になるか、谷崎潤一郎への道かもしれない。

 「君が異端だった頃」には、人間島田雅彦が詰まった、小説を超える私小説の醍醐味があった。

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私小説② 文豪とは誰か?

2020-03-24 01:41:57 | 本/小説:日本
*文学全集の時代

 現在、文豪と呼ばれる人はいるのだろうか。いるとしたら、誰だろう。
 文豪は、私が子どもの頃はいた。いや、私の若い頃、少し前にもいた。
 その当時、この人は文豪だと思っていたわけではないが、その基準は図書館に行けばわかった。棚に並んでいる文学全集に載っている作家、それは紛れもなく文豪たちだった。
 今の時代はどうだか知らないが、私らの戦後世代は、日本文学全集、世界文学全集で育った。文芸出版の各社から、競作のように全集が出ていた。子ども向けの、少年少女世界の名作文学などもあって、世界の文学に馴染むこともできた。
 だから、明治以降の大方の有名な作家の名前と代表作はおのずと目に入っていたし、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介などの著名な作家の本は手にとるし、読まずとも全集のなかに見つけることができる作家であれば、その作家は偉大だと暗黙に了承するのだった。
 それが証拠に、彼らは半世紀たった今でも、文学史をひも解くと名前が出てくる作家たちで、作品は図書館で手にすることができる。
 それで、谷崎潤一郎、川端康成以降、全集に載っている現代の作家は誰だろう。
 それはそうと、そもそもかつてあれほど栄光を誇った文学全集が、近年発行されたというのをとんと聞かない。

 そう思っていたら、もう数年以上前になるが、私が佐賀に帰っているとき小さな大町図書館で、池澤夏樹の個人編集による「世界文学全集」(河出書房新社)というのを見つけて、何冊か借りたことを思い出した。
 世界文学全集といえば、ゲーテの「ファウスト」やスタンダールの「赤と黒」、ドストエフスキーの「罪と罰」、トルストイの「戦争と平和」などの古典が思い浮かべられるが、この全集はそうではない。
 ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」(路上)が、第1巻であるのに象徴されるように、今までの全集にある古典とは異なる、池澤が選んだ新しい世代に趣をおいた全集(全30巻)である。マルグリット・デュラスやフランソワーズ・サガン、それに、アルベルト・モラヴィア、ル・クレジオ、ウラジーミル・ナボコフなどの有名作家もいるが、私が知らない作家も多くあって新鮮なラインナップだった。

 その後、同じ池澤夏樹の個人編集による「日本文学全集」も同じ出版社から刊行された。「古事記」をはじめとする古典から近現代文学まで全30巻である。
 ここでは、日本の古典文学を今活動中の作家たちが現代語訳しているが、既に源氏物語などは文豪による現代語版が何冊も出版されているから言及はしない。
 問題の近現代の文学には、どのような作家が入っているのかと注目してラインアップを見てみた。掲載されているのは、文豪と呼ばれる作家から現在進行形の作家まで多彩な顔触れである。
 文豪の代表作が入っていないのは、既刊の文学全集もしくは文庫本で読んでくれというのだろう。しかし、当然入っているべき文豪が入っていなくて、なぜこの作家がという人が入っている。
 これには、著作権の問題と出版社の事情および編者の池澤夏樹の趣向等々が入っているのだろう。つまり、文学全集というより文学選集というべきものなのだろう。
 今ある作家の作品が、半世紀後にも生き延びているかどうかは、誰も計り知れない。今日、毎年大量に出版される小説の命は、どんどん短くなっている。

 *私のなかの文豪

 私のなかでは、文豪とは作品の評価だけではない。作品の質というよりむしろ、その生き方が文学的、あるいは哲学的、もしくは芸術的であることである。そして、“異端”が多かれ少なかれ本質的に内包されていると思う。
 文豪とは、個人的には近・現代作家では、谷崎潤一郎、永井荷風、中村真一郎、大岡昇平、安部公房、吉行淳之介などが思い浮かぶ。
 この他にも、川端康成、三島由紀夫、井上靖、松本清張、古井由吉、森敦、大江健三郎なども加えられる。
 やはり、大御所になってしまった。

 必ずしも、亡くならなければ文豪と呼ばないわけではないだろう。勝手に、自分のなかで文豪を思い浮かべてもいい。
 今日、あるいは今後、文豪と呼ばれる作家の誕生は、作家が排出される量に反比例して少なくなっていくように思う。その土壌となっていた文壇バーも少なくなっているようだし、異端も無頼も減っている。
 これから、誰が文豪の道を追うというのか?
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私小説① “私小説”における覗き見的誘惑

2020-03-10 01:58:50 | 本/小説:日本
 私小説は、ある意味では小説より面白い。
 自分の体験をもとに物語を書くというのは多くの小説にみられることであるし、想像が広がる創作・物語の世界は面白いが、その人となりの個人的体験談も違った好奇心を刺激させる。
 作家(筆者)の体験を事実に基づいて語る自伝的色彩をもつ私小説は、純粋な小説とは同じ描かれ方にしても受け取る側の感情や読む印象がかなり違ってくる。何しろ、主人公は書き手本人だからだ。
 小説の「そういうこともありうるよなあ」から、「そういうことがあったのだ」と私小説の受け取り方は変わってしまう。
 自分の体験を書くのに、粉飾、創作の誘惑をぎりぎりまで抑え込み、それまで蔽い隠していた生身の自分を思いきり晒した作品は、その人の思わぬ実像が浮かびあがり、ときに驚きの発見があり、さらに作者への感情移入が重なることになる。
 つまるところ上質の私小説は、その人の本質を帯びた人生を覗き見、伺い知ることで、物語を上回る皮膚感覚でその作中人物、つまり作者に浸透できるということだ。
 うまくいけば、主人公(作者)と同じ視線でそこに立ち、一緒に歩くことができる。

 *作家の生身を見る、私小説の快楽

 私小説は、人生のある程度の域に入った人の作品が面白い。
 というのも、ある程度年を重ねると、若いときの気負いも衒いも取り去ることができ、もうそろそろ人生の締め切りが見えてきたので、覆い被せていた真実を語ろうという気になるからだろう。
 
 もはや職人芸とも名人芸ともいえる川崎長太郎をあげるでもなく、檀一雄の戦後の出世作ともいえる「リツ子・その愛、その死」は私小説だし、彼の代表作で遺作となった「火宅の人」は、私小説の最たる傑作といえる。
 なかにし礼の、兄のことを書いた私小説、「兄弟」や、満州体験を基に書いた「赤い月」、癌を患ったあと人生の集大成として書いた「夜の歌」等は、積年の告白にも似て、直木賞受賞作の「長崎ぶらぶら節」より、はるかにコクがあるし読みごたえがある。
 伊集院静も自伝的小説が面白い。色川武大との交流を描いた「いねむり先生」や「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」なども私小説といっていいだろう。

 告白といえば、三島由紀夫の「仮面の告白」も自伝的小説と捉えられているし、永井荷風の初期の海外滞在を描いた「あめりか物語」や「ふらんす物語」、向島・玉の井を舞台にした「濹東綺譚」や、谷崎潤一郎の「痴人の愛」なども、私小説として読むと作家への距離が縮まった感じがする。
 伊藤整の自伝的小説「若い詩人の肖像」は、瑞々しい「雪明りの路」を思い浮かべさせた。
 情愛もの作家として有名な渡辺淳一であるが、初期の名作「阿寒に果つ」は、儚い青春を描いた優れた私小説といえる。

 私はSFや推理小説等のエンターテイメント系の小説はほとんど読まないが、作家がある時期からそれまでの作品群とはまったく異なった作品、自己の内面を吐露した小説を発表することがある。晩年に発表した告白ともいえる、彼らの体験を基にした私小説を読むと、イメージでしか知らなかったその作家の生身に触れたようで興味深い。
 SMものなどの官能小説の第一人者であった団鬼六は、晩年にしみじみと「最後の愛人」を書いたし、バイオレンス官能作家だった勝目梓は、70代で「小説家」、「老醜の記」と私小説を発表し、違った素顔を見せた。
これを書いているとき、先の3月3日に勝目梓が亡くなったと報道された。享年87。

 思うに、私小説が面白いのは、文豪、無頼派、異端といった、生き方そのものが個性的な作家だ。

 作家ではないがサルトル研究家でフランス文学者の海老坂武には、同じ「シングル・ライフ」のなし崩し独身者として、世代は違うが共感を抱いていた。
 彼の自伝である「〈戦後〉が若かった頃」、「かくも激しき希望の歳月」、「祖国より一人の友を」の3部作は、フランス、女性、映画への思いと愛、それに政治へのアンガージュマン・スタンスなど、共鳴と同時に羨望を持って読んだ。
  ・「海老坂武の世界」①~④―→ブログ(2012.6.13~7.20)

 そうなのだ。私小説の魅力は、作家への感情移入と同時に共感、共鳴であろう。
 私小説を書かない作家もいるが、それとて彼もしくは彼女のイマジネーション・創作の源はそれまでの体験、経験である。それまでの人生といってもいい。
 そういう意味では、あらゆる小説にその書き手の個人的体験が内包されていると言える。それをあからさまに表したのが私小説ではないだろうか。
 極言すれば、あらゆる小説に私小説の痕跡がある。

 そして、島田雅彦がこのたび私小説「君が異端だった頃」を書いた。


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「いつもそばには本があった」① 國分功一郎と互盛央の1990年代

2019-08-31 18:48:56 | 本/小説:日本
 自分の人生を形づくったものは何だろう? と考える。
 それは、「恋と映画と旅」だと、僕は答える。
 本当は、「恋と本と旅」だと言いたいところだが、自分に影響を与えた本がすぐに頭に浮かんでこないし、それほど本を読んでいない。自分自身を形成する青春期、とりわけ学生時代は、本より映画の影響が大きかったと思う。
 いつもそばには本があった、のだが。

 *通り過ぎていった構造主義

 「いつもそばには本があった」(講談社)は、哲学者・國分功一郎と人文書編集者・互盛央の対話もしくは往復書簡風な構成による本の紹介である。
 タイトルからして、二人の今まで読んだ本の中でお薦めの本を取りあげるという、よくある教養書かと思った。
 しかし、この「対論」(かつて五木寛之と野坂昭如でこういう本があった)ともいうべき本書は、僕のなかの遠く眠っていたアカデミズムを刺激する本であった。
 この本は、彼らの学者としての出発点となる、学生時代からの自己の原点を振り返る本の紹介・遍歴に加え、のちの学者、人文書編集者としての時代背景を吐露するものであったからである。
 この本は、自分の学生時代を想起させ、青春期の思考を刺激した。

 本書に登場する本・雑誌は、湘南の士がリストアップしてくれたところによると、マルクス、フロイトからハンナ・アーレント、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャック・ラカンまで、計136冊にも及ぶ。
 本書によると、大学院時代に知りあったほゞ同世代の二人の書(本)への知的邂逅は、彼らの学生時代の1990年代から始まっている。
 ということは、僕の学生時代からおおよそ30年後の時代である。
 1990年代は、1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される東欧社会主義国の雪崩現象、そして1991年のソ連邦の解体などの政治変革により、アカデミズムの世界は当然のごとく大きく変容しつつあった。経済学や政治学、哲学などのジャンルで大きな影響力を持っていたマルキシズムも真価と評価を問われていた。
 本書には、当時ヨーロッパのアカデミズムに大きな潮流を成していた構造主義、さらにポストモダンの本が数多く登場する。
 しかし、その時代、そのジャンルの思想、本には、僕は涵養することなく通過させている。
 有名であったロラン・バルトですら、タイトルに魅かれて「恋愛のディスクール・断章」を買ったものの、完読せずに本棚に眠っているありさまだ。
 90年代、僕は何を読んでいたというのだろう。
 弁解がましく言えば本書に出てくるあまたの本は未読に充ちていて、それゆえの新鮮さと発見も多くあった。
 ただ、國分功一郎もしくは互盛央を知らない人間には、たとえ本好きであっても本書は退屈かもしれない。 というのも、いわゆる本の案内書や解説書ではないからだ。この本の目指しているところは、二人の個人的な知的揺籃期の再発掘と再確認、そして、本を媒体とした二人のカンバーセーションであるからである。

 *國分功一郎

 僕が國分功一郎を知ったのは、彼の代表作となる「暇と退屈の倫理学」である。
 ずっと僕は、自由な時間の費やし方と人生の意義の関係を考えていたが、本書は現代人の時間の費やし方を暇つぶしとして哲学的に探る、極めて僕の興味に沿ったテーマであった。
 その後、彼の熱心な読者とは言いがたいが、興味をひいたテーマの本を何冊か読んだ。
 それについては、本ブログに記している。
 
 ※「暇と退屈の倫理学」ブログ(2013.11.23)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201311
 
 ※「来るべき民主主義」ブログ(2014.2.18)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201402

 学生時代に、國分は学問に入る大きなきっかけとして柄谷行人をあげ、彼の著書を通して、マルクスの「資本論」を読む。そして、哲学者への道に踏み出すことになる。
 彼は「暇と退屈の倫理学」を30代の後半に出版したのだが、本の構想の起源が学生時代のあの時、勉強会での田崎英明氏の講義だったと、ピンポイントで位置づけているのは興味深かった。

 のちのその人が生成・結実する、つまり人生を形づくる種子は、どこに埋もれているかわからない。

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アマゾンの奥地に消えたイゾラド「ノモレ」

2018-12-15 20:07:59 | 本/小説:日本
 現代では、地球のいたるところに行けるようになった。
 かつては秘境と呼ばれたり、世界七不思議などと言われたりしたところも、世界遺産というブランド・レッテルができて人気観光地になるや、ツアーが組まれていとも簡単にかつ安全に、各地に行くことができるようになった。
 だから、究極の旅はもはや、北極や南極などの極地、ヒマラヤ山脈をはじめとする最高峰地、サハラ砂漠やゴビ砂漠などの不毛の地、海底の深海など、人が容易に近寄れないところといえるだろう。
 と書いたところで、南極行きのツアーすらあるのを思い出した。僕の子どもの頃は、南極観測隊が観測船(「宗谷」)で南氷洋の氷を砕きながら、やっとの思いで南極にたどり着いていたのがニュースとして国中の話題になり、記念切手が発行され、映画や歌になっていたというに。
 もはや本当の旅は、「冒険」なのかもしれない。

 * 最後の秘境、アマゾン

 極限の地でなくても、行けそうで行けないところが「アマゾン」である。
 アマゾンといえば、鬱蒼とした熱帯雨林と巨大にうねるアマゾン川。
 そこに住む生きものも、獰猛な肉食魚のピラニアや、鱗が靴ベラとしても使用されるほどの巨大魚ピラルク、映画にもなった巨大蛇のアナコンダ、それに軍隊アリや毒蜘蛛と、恐ろしい生き物、珍しい貴重な生物の宝庫である。
 生物ばかりではない。アマゾンの奥地に住む、文明と隔絶した生活を送る先住民も時折発見され、その接触がテレビや本で紹介されてきた。
 そして、存在は確認されているものの、接触や交流のない先住民族は、「イゾラド」(未接触の先住民)だと呼ばれる。ときに、「マシュコ・ピーロ」(凶暴で野蛮な人間)だと言われることもある。今は、現地の政府は安易な接触を禁じている。
 世界最大の河川アマゾン川の奥地は、いまだ全貌がわかっていない最後の秘境かもしれない。

 「西欧から初めてスピイン人やポルトガル人がやって来た5百年前、ブラジルには少なく見積もっても、数百万人の先住民がいたとされている。だが、その<文明>がやって来てから、先住民の人口は5百年で20万人まで減った。実に人口の90パーセントが失われた計算となる。
 生き残った者たちも不幸だった。
 森を失い、自給自足を止めた者たちを待っていたのは、最底辺の暮らしだった。
 物乞い、ドラッグの蔓延、アルコール中毒、売春、将来に絶望しての自殺。北米のネイティブアメリカンや極北のイヌイットが通った道を、南米の先住民も歩むことになった。」
  ――「ノモレ」(国分拓著、新潮社刊)

 * アマゾンの奥地に住む先住民族

 アマゾンの奥地に住む先住民の部族の一つにイネ族がいる。「イネ」とは、彼らの言葉で「人間」という意味である。
 イネ族の言葉で、仲間や友を「ノモレ」と言う。
 「ノモレ」(国分拓著)は、NHKのTVディレクターである著者が、ドキュメンタリー番組「最後のイゾラド」などの作成をもとに綴った書である。

 舞台となったそこは、アマゾンの河口から川をつたえば、実に5千キロ以上も離れているという。
 彼らの集落だというアマゾン川の支流のラス・ペドラス川とリディア・グランデ川の合流地点というところを、地図で探してみた。
 ブラジルの奥地、ボリビア、ペルーの国境の辺りである。この辺りを見てみると、スペイン語の港を意味する「プエリト」を冠する地名が多く目につく。かつての道は川しかなく、交通の手段である舟で行き来していたのだろう。
 さらに3百キロほど上流に遡れば、そこはアマゾンの果て、未踏の源流域である。

 * 最後の「イゾラド」は、「ノモレ」か?

 百年以上前、南米アマゾンの深い森に、まだ無数のゴム農園があった。
 当時のゴムは莫大な儲けを生むため、多くの白人たちが富を求めて森に入り込んできた。彼らは、ゴムの木がありそうな川辺の一帯を自分たちの「農園」だとした。
 そして、その近辺に住んでいた裸の先住民たちが農園に連れてこられて、労働力としてこき使われた。その部族の一つが森と川に生きるイネ族だった。

 その農園では、重労働と伝染病で多くの先住民が死んでいった。耐えかねたイネ族の一部の男たちが、支配している農園主を殺して、森へ逃げ込み遥か遠い故郷へ向かった。彼らは何日も歩き続けた。
 執拗に武器を持った追手が迫ってきた。途中の森のなかで、彼らは一網打尽の全滅を避けるため、右と左の二手に分かれて逃げることにした。
 一方の者たちは5百キロもの距離を歩いて、故郷まで逃げ切った。農園を脱走して半年以上がたっていた。
 別れたもう一方の者たちは、森の中に消えたままとなった。
 逃げ切ったイネ族は、森で生き別れになった仲間(ノモレ)と、再会することを子どもたちに伝えた。
 
 それから、約百年が過ぎた。
 近くの村では、「イゾラド」(未接触の先住民)の存在が目撃されていて、村人が何者かに襲われる事件も起きていた。
 2015年、対岸の川沿いにイゾラドが現れたと報告がある。
 報告を受けた、今は村の指導者的立場にいる、逃げ切ったイネ族の子孫であるロメウは、そのイゾラドは森に消えたままの仲間、「ノモレ」ではないかと直感する。彼は、イゾラドとの接触のリーダーの役割をすることになる。

 本書は、対岸に現れたイゾラドとの接触と交流の話であるが、テレビ取材として日本人である著者の体験したことを、先住民族のロメウを通して書いている。それが、この話を第三者が書いたものとは一味違う、生身の血の通った体験談と化す効果を生んでいる。

 ロメウたち一行は、イゾラドが現われたという奥の川辺に舟で行くことにする。
 果たして、彼らは弓を持って現れた。対岸に現れたイゾラドを見て、ロメウたちは舟のなかから「ノモレ」と何度も叫ぶ。
 彼らを見て、曾祖父たちが行き別れた仲間(ノモレ)だ、その子孫たちだと、秘かに誰もが思う。
 彼らは、警戒心を解かなかったが、どうにかイネ族の古い言葉が通じるようだった。
 こうして、お互い恐るおそる接触が始まるのだが……。

 文明社会と接触しないイゾラドは、現在多く見積もっても500人程度だと言われている。そして、2、3年後にはいなくなるだろうとも。

 本書は小説ではない。文字もなく、語り継がれた先住民族にまつわる、本当にあった現代の物語である。
 ドラマチックではあるが、甘い話ではない。アマゾンの森の、厳しい現実の物語である。
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