goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「あの日」の小保方晴子

2016-05-18 18:15:19 | 本/小説:日本
 STAP細胞という耳新しい研究発表がノーベル賞級と大きな話題となり、やがてその論文への問題疑惑や不正が取りざたされるや称賛がバッシングに暗転し、それらに対する反論と検証が試みられるも混沌としたまま、やがて検証結果を受け論文は撤回となった一連の大騒動は、2014年の1月から始まりその年の12月に一応の終息を見た。
 1年にわたったこの騒動は、まるで連続する事件かドラマのように連日マスコミで取り上げられ、そこでは理化学研究所、ハーバード大学、早稲田大学、東京女子医大などの多くの関係者が登場し、その中心にいたのが「リケジョの星」ともてはやされた小保方晴子さんだった。
 小保方晴子さんがマスコミに登場しなくなってから1年。STAP細胞の発表からちょうど2年の今年2016年の1月、沈黙していた小保方さんが、あの騒動についての手記を出版した。

 題名は「あの日」(講談社刊)。
 流れを追う本の内容の「目次」を見てみよう。
 1.研究者への夢 2.ボストンのポプラ並木 3.スフェア細胞 4.アニマル カルス 5.思いとかけ離れていく研究 6.論文著者間の衝突 7.想像をはるかに超える反響 8.ハシゴは外された 9.私の心は正しくなかったのか 10.メディアスクラム 11.論文撤回 12.仕組まれたES細胞混入ストーリー 13.業火 14.戦えなかった。戦う術もなかった 15.閉ざされた研究者の道

 内容は、いかにして科学者小保方晴子が生まれたか、そして、あの新聞、週刊誌、テレビなどで報じられた一連のSTAP細胞騒動は本当はこうなのよと、彼女の視点で、彼女の見る範囲内で詳細に語られている。
 本を読んでいて感じたことは、彼女が普通の女性であること、そして科学者の視点からの文というよりも文学少女が書いた文という印象であった。
 まず、「あの日」というタイトルからして文学的、歌謡・詩歌的ではないか。
 巻頭の「はじめに」で、彼女は次のように書きだす。
 「あの日に戻れるよ、と神様に言われたら、私はこれまでの人生のどの日を選ぶだろうか。一体、いつからやり直せば、この一連の騒動を起こすことがなかったのかと考えると、自分が生まれた日さえも、呪われた日のように思えます」

 誰もが人生に満足してはいない。悔いはないと言っても、それは後悔したところで人生は後戻りなんかできないことを知っているからだ。失敗や後悔は、その場に置いていくしかないのである。万全の人生なんてありえないのだ。
 それでも、「あの日に戻れたら」と思わずにいられない時がある。
 「あの日」という言葉は、想像をかきめぐらす。過去の自分のなかに刻印された、忘れられない日、それが誰にでもある「あの日」なのだ。

 *

 本書は、科学者を夢見た日から、思わぬ研究者への道が開かれた日、スター誕生のような大反響を浴びた論文発表の日、四面楚歌と思えるなかで精神はおろか肉体までも逼迫、病んでしまった日、大学から博士号を取り消された日などの、小保方晴子さんの「あの日」が綿々と続く。

 「論文の撤回が決まったあと、検証の再現実験をすることとなる。
 「私は絶対に絶対に逃げない」そう自分に言い聞かせ、弱り切った心にギブスを巻いた。
 「私がすべきことも、真実も一つなのだ」と自分に言い聞かせ、気力を保った。」

 問題となったSTAP細胞の研究、実験、検証などは、表象部分ではあるのだがかなり詳細に書かれているものの、理・化学の知識に乏しい者にとっては隔靴掻痒の感ではある。しかし、理化学研究所や大学の研究者の本音とも思えるふとした言葉が随所に拾い綴られていて、その白い巨塔の実態が少しは垣間見ることができる。
 私は、2年前に現実に起こったことを追体験するかのように、本書を読むことができた。

 「「この業界で偉くなる人というのは堂々としていることではなくて細かな根回しを怠らない人たちなのだと感心しました」と私が相澤先生に言うと、「よく気がついたな。それは文としてどこかに残しといたほうがいいぞ」と珍しく褒められた。」
 小保方さんは、こう書いている。文中の相澤慎一氏は、理研の検証実験での総括責任者である。
 「「科学ってもっと優雅なものと思ってた」と私が言うと、相澤先生は「やっぱりお前はバカだな。こんなどろどろした業界なかなかないぞ。もうやめろ」と言ったことなどを思い出していた。」

 どろどろした世界であることは、小保方さんのネイチャー誌への論文執筆を指導した理研の笹井芳樹氏の自殺によってもうかがい知ることができよう。本書では、このことはあまり多くを語っていない。
 それにしても笹井氏の突然の死は(そう思えた)、私にとってはSTAP細胞よりも深い謎である。

 <追記>
 もし手記「あの日」がドラマ化されるとしたら、小保方晴子役は現在NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」でヒロインを演じている高畑充希が最適だと思う。高畑充希に割烹着を着せて実験用のペピットを持たせたら、小保方晴子と見まちがえてしまう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シングル・ライフ」から海老坂武「自由に老いる」

2016-02-01 00:53:27 | 本/小説:日本
 人は誰でも老いていく。そんなことは誰でも知っているけど、若いときは気にはしないで生きていく。自分だけは例外かのように。
 それが、ふとすぐ自分の後ろに忍び寄っているのに気づかされる時がやって来る。

 わが愛する「シングル・ライフ」の海老坂武も老いにぶつかった。(以下敬称略)
 フランス文学者として大学で教鞭をとりながら、主にフランス実存主義哲学書を翻訳し、自らも執筆し、休みのときにはフランスをはじめヨーロッパを旅し、自由に恋をし、現実の政治や社会問題にもきちんと発言し、ずっと独身を謳歌した。
 少し窮屈だった中年の独身生活者の生き様を、1980年代後半に「シングル・ライフ」と称して日の目を当てた。まるで僕の理想とする生き方だった。
 2003年の68歳で大学の教職生活をリタイアしたあと、次のステップを夢見て、海の近くの沖縄・那覇での生活を始める。
 現在、海老坂武は生まれ育ち教職生活を送った東京、東京の大学を定年退官し関西の大学に移ったときの芦屋、それに沖縄・那覇、時にフランスを行き来する、自称「止まり木暮らし」生活をしている。
 沖縄では海が近いので、いつでも泳ぎに出かけられる。また、かつて一時期やったイタリア語の勉強を再開する。中年の頃から始めているテニスは続けているが、大学時代までやっていた野球を再びやり始める。

 そんな海老坂武もすでに80歳を過ぎた。東大野球部のレギュラーを務めていたというスポーツマンで身体を鍛えていたとはいえ、スーパーマンではないのだから老いは必ずやってくるのだ。
 ちなみに、当時神宮球場での東京6大学野球の試合で、あの長嶋茂雄(のち巨人)、杉浦忠(のち南海)等と戦っている。長嶋より高い打率のシーズンもあったと少し誇らしげに他の本で書いている。  
 その杉浦は今はなく、長嶋も病から老いた。
 遅かれ早かれ、老いは誰にでもやってくるのだ。海老坂武にも、僕にも、それにまだ若いと思っているあなたにも。

 *

 海老坂武の新刊「自由に老いる」(さくら舎)には、「おひとりさまのあした」とサブタイトルがある。
 「おひとりさま」とは上野千鶴子の世界を思い起こさせ、颯爽とした感の「シングル・ライフ」も、萎れてきた老後の不安の手当てを考えるようになったのかと思うと辛い。

 海老坂武は本書で述懐する。
 「本当はノマド(放浪者)になりたいのだが、その勇気がないだけだ。青春の悔恨があるとすれば、あのランボーのように「大熊座を宿とする」(「わが放浪」)ことがなかったことだ。
 いまさらあちこちに止まり木を作ってみても、それが疑似的な渡り鳥生活であることはわかっているが、本物になれない人間は偽物に甘んじる以外にないではないか。」
 海老坂武は老いても、あくまで「シングル・ライフ」である。

 海老坂武は70歳を過ぎたころふいに難聴になったことを期に、それまで感じたこともなかった自分が老いたことを実感する。
 人は、往々にして、病において老いていく。

 *

 本書で、海老坂武は、自分の老いの度合いを測定しようと試みる。
 一般に、老人の精神の在り方についてしばしば指摘されるいくつかの欠陥である、偏屈、せっかち、怒りっぽい、無感動、昔話をするエトセトラについて、自分に当てはめて書き出している。
 読んでいて、あわせて自分はどうなのかも考えた。
 以下、各項目の要点部分を引用してみる。

 <頑固指数>
 「私が頑固であることはたしかだ。ただ、自分では若い頃からずっとそうだったような気がするが、歳とともにそれが嵩じてきたのかどうかは判断がつかない。ただ頑固にもいろいろな領域がある。知的な事柄に関しては自分で言うのもおかしいが、かなり柔軟なつもりだ。自分の間違いはすぐ認める用意がある。」
 いちばん頑固の領域で、変えようとしないのは生活習慣についてで、リズムを作る睡眠の時間帯を侵食されるのを嫌ったという。昔は朝方まで仕事をしていたので、玄関に「十一時以前はベルを押さないでください」と張り紙していたし、普通の生活になった現在は夕方昼寝をするので、その時間帯にはなるだけ用事を入れないなど。
 そして、くずさない服装、嫌いなものは食べたくないなど食べものの嗜好等々についての固執を語る。
 「頑固であるということはそれ自体は非難されるべきことではなく、かといって誇るべきことでもないということである。頑固が非難されるとしたら、頑固さに無自覚になって、凝り固まっている場合だ。そう、頑固さは自覚さえしていればいいのである。」

 いまだサルトルの実存主義について熱く語る、海老坂武が頑固なのはわかる。
 僕は若いときは、喧嘩も口論さえもしたことがない自分の性格を優しく弱いと思っていた。そして頑固などとはチラとも頭に浮かんだことはなかった。しかし、ある時期から周りの人間が僕を頑固だというのを聞いた。自分のことは、自分の判断より周りの人間の判断が正しいものである。だから、僕は自分が頑固だと認識し、今に至っている。
 自己主張のある人間は、ある種頑固なものである、と納得している。

 <せっかち>
 「昔からせっかちだった。人に待たされることが嫌いだった。だから人を待たせないように努めてきた。
 だらだらした時間を過ごすことが好きではないのだ。「のんびりする」という語は私の辞書にはない。だらだらする時間、のんびりする時間があったら寝ていたい。
 歳とともにますますせっかちになった。これは貧乏性なのかもしれない、と、ときに思う。時間にケチ、時間貧乏、何をそんなに生き急ぐ必要がるのか、という声が背後でする。」

 海老坂武がせっかちだとは知らなかったし、彼の著作を読んでもそう思わなかった。フランス人をはじめラテン系の人は、概して時間に関してはせっかちではない。時間に関してはおおらかだ。のんびり屋の僕はヨーロッパのそんなところが好きなのだが、彼がせっかちだというのは彼のなかで最も意外な要素だ。

 時間に関して、日本が最も厳しいとされる例は、列車の時刻を見ればよくわかる。
 日本では「定時に遅れる」というのは1分以上を指すといわれるが、ほかの国では1分の遅れなんて問題にもならない。
 ちなみに、イギリスでは10分、フランスでは14分、イタリアでは15分以上が「遅れ」とみなされるそうである。それでも定刻運行率は大体90パーセントという。(参考:「定刻発車」三戸祐子著、交通新聞社)
 10分や15分の遅れは「遅れ」とみなさない。ヨーロッパのそのくらいのおおらかさが、僕は人間的だと思うのだが。
 フランス人と結婚しパリで生活している元フジテレビ・アナウンサーの中村江里子は、フランスに行ってからは、文化の違いからショックを受けることが一日に何度もあったと著書のエッセイに書いている。
 その最たるものが時間の観念で、彼女が初めてフランス人と待ち合わせたとき、待ち合わせ相手がなかなかやって来ず不安になったが、30分ほどたって何事もなかったように「初めまして」と現われたこと。そのことはたまたま出くわしたことではなくて、ビジネス上の会議や打ち合わせでも20分、30分の遅れはザラで、定刻通りに始まることはほとんどないと記している。

 思うに、海老坂武のせっかち度は、フランス好き、フランス研究という部分とは無関係のところで、職業がそうさせているのだろうと考えてみた。時間を惜しんで研究・勉強しないとちゃんとした学者としての成果は築けない、いわば勤勉の結果なのだ、と。
 必須ではないが、学者としての必要要素なのかもしれない。

 <驚き度>
 「驚くことは少なくなっても、怒りだけはまだ十分にマグマが残っているのだ。」
 2011年の東日本大地震、それに関しての原発事故に対しての東電関係者や学者たちが口にした「想定外」に、驚きが怒りへと形を変えていくと述べる。

 年をとると、驚くことや感動は薄くなっていくのだろう。
 これは好奇心の劣化に関係することなので、僕にとっても大きな問題である。好奇心は生きる原動力でエネルギーの源である。あらゆるものに興味をなくしたら、もうおしまいだ。

 <悲しみの感情>
 「人の死にもあまり心を痛めなくなった。ショックを受けることが少なくなった。」
 「いずれにしても感動する力がなくなっているわけではなく、ただそれが現実の出来事には直接向かわず、想像上の体験、記憶のなかの体験に敏感に反応するようになっている。」

 最近、テレビなどで大人の男が涙を流すのをよく見る。悲しみや感動の沸点が低くなったのか、泣くことへの恥じらいが薄くなったのか。
 大人の男は、そうそう泣かないものと思っている。年をとったら涙もろくなるというが、肉体の衰えに精神が引っ張られているのかもしれない。

 <自分を憐れむ感情>
 「近年は、それまでに知らなかった感情がしばしば湧いてくる。憐みの情だ。
 私はもともと憐れみを感じることの少ない人間、というか人々に憐れみを持つことが嫌で、この感情を否定しようとしていた。憐みを持つというのは、相手に対して一段高いところからなす行為だと考えていた。
 いま、憐みの感情を持てるのは、自分に対しても憐れみを持つようになったからだ。
 そう、私は自分の死が間近にせまっていることで、自分を憐れんでいる。そして人々を同じような眼で眺め、憐れんでいる。彼らもまたいずれ死すべき存在なのだ、と。」
 「憐みがいやだった理由はもう一つある。憐みは寛容と許しへと向かう。それは不正なものへの怒り、憎しみを解除する。ないしは和らげる。不正なものとの闘いを凍結する。死を前にした人間の平等の名のもとに、生きつつある人間の不平等を隠すことになる。」

 憐みは、突き詰めれば宗教的になっていくようだ。持つことも持たれることも好きではない。

 <自分との対話>
 「老人にたいして指摘される傾向のなかで、私にあてはまらないものがいくつかある。その一つが「愚痴っぽい」である。そう、私は人に愚痴をこぼすということがない。
 そのかわり、といってよいかどうかわからぬが、私は自分に向かってたえず愚痴をこぼしている。ああすればよかった、こうすべきだった、とたえず自分を振り返っている。」

 「昔話をするという傾向はどうだろう。ふと気づくと昔の話をしていることがよくある。ただこれも相手による。私という人間に関心をもつ相手の場合は、たしかに昔の話をする。しかしそうでない人間にたいして自分のことを話しても仕方ないということで、むしろ寡黙になる。
 そのかわり、ということにまたなるのだが、私は自伝なるものを書いている。自伝とは結局のところ昔ばなしだ。人に昔ばなしをしないぶんだけたっぷり書いてしまったというわけだ。」

 僕も会社勤めの頃から、人に愚痴を言った記憶がない。
 辛いときはどうしていたか、を振り返って考えた。
 若いときは、日記にぶつけていたようだ。大学ノートが何冊にもなった。僕も、自分に向かって愚痴をこぼしていた。よく言えば、自分の内面と対話していた。
 日記を書かなくなってからはどうしていたのか。
 会社で中間管理職の職務で、どうにもうまくいかない苦悩のときがあった。振り返れば、あの頃、よく週末にひとり車で遠出をして帰って来ていた。行先は、主に第3京浜で横浜の山下公園あたりへ、甲州街道もしくは中央高速で相模湖周辺から山道で脇に入って月夜野あたりへ、あるいはさらに長野・諏訪へ、ときとして東名高速で小田原から箱根一周など、意味もなくただ車を走らせ帰って来ていた。
 職場・仕事とは無関係の、地元の友人との酒やマージャンも気晴らしになっていたのだろう。

 <書くということ>
 「これは自分の資質に関係するのだが、私はそもそも過去志向型で、過去の体験をもとにして考えることが多い。映画にしても本にしても、見ているそのときに、読んでいるそのときに考えるというよりも、あとになってから、ときにはかなり時間がたってから反芻して考えている。
 人々の会話についてもそうだ。そのときはぼんやり聞いていて、しかしあとになって相手の言葉を考え直している。要するに鈍ということかもしれない。
 そして、ものを書くのが好きなのも、私が鈍だからだ、と近頃は思っている。
 少なくとも私にとっては書くためには、時間を置いての、ある種の言葉の沈殿が必要なのではないかと。」

 海老坂武の自伝を読むと、何十年も前の若いときのことでも驚くような細かい記述が多い。あの頃、このことについて自分がこう書いていたとか、当時の新聞や週刊誌による社会情勢、論評なども頻繁に登場する。このことから、日記やノートはもちろん、大体が捨てる運命にある週刊誌・雑誌などがかなり保存してあることがうかがえる。
 僕もそうなのだが、おそらく彼は、かなりの保存魔、記録魔であろうことは推察される。このことも、ものを書く人間の必要要素だと思う。
 物書きは、過去を反芻する。過去に横たわる膨大な記憶と記録のなかからこれだというものを手繰り寄せ、結び付け、自分の文に構築していく。
 作家や物書きに整理魔、断捨離など、あまり聞いたことがない。乱雑に積まれた資料や本の中でインタビューに応じる作家をよく見かける。乱雑に見えても、本人はどこに何があるかわかっているのだ。
 パソコン、インターネットの普及で、原稿用紙と万年筆というスタイルが廃れて机の上は変わったが、僕は電子ブックが広く流布するとは思わない。やはり、本を読むのは紙でないと。

 海老坂武より2歳上だが、ほぼ同世代の五木寛之がこう言っていた。
「長生きのコツは、部屋を汚くする。僕の仕事場なんて信じられないゴミ屋敷なんですよ。死ぬに死ねないですよね、あれを見られちゃ大変だから。
 身ぎれいにして、いつ死んでもいいってのはダメですよ」

 海老坂武の「自由に老いる」とは、「シングル・ライフ」を持続させることで、いまだ混沌の中で老いを道連れにして生きていく、と自由に解釈した。


 *写真の表紙絵は、ロートレックによるモンマルトルの人気歌手アリスティード・ブリュアン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恋と革命と死、「青春の墓標」

2015-08-08 17:31:07 | 本/小説:日本
 「人生には無数の夜がある。だが、甘美な夕方は一度しかない」
         ――奥浩平「青春の墓標」

 まだ僕が若いとき、そして恋をし、恋を失ったとき、僕はたびたび奥浩平の「青春の墓標」を手に取り、彼の言葉を反芻した。
 「青春の墓標」は、当時横浜市大生だった奥浩平による、中原素子への書簡を中心とした遺稿集である。
 1960年代、政治の季節。大学では集会やデモがしばしば行われていた。若者の誰もが何かを求め、燃焼しながらも揺れ、もがいていた。
 甘美な夢と痛みを伴う現実の蹉跌は、いつも同時にやって来た。

 誰もが青春の一冊という本があるだろう。
 九州の片田舎から東京に出てきた甘いセンチメンタリストだった僕に、恋と死といえば、それまで僕を甘く包んでいた若きウェルテルの死だったが、この「青春の墓標」は、現実の甘くも重く息苦しいまでの恋と死に向きあわせた。それにもまして、この本が僕を長く魅了したのは、随所に見出すことができる、感性の瑞々しさと文章の美しさだった。
 そして、いつまでも深層に残る若き日の一冊になる。

 先月の7月の初め、朝日新聞の第一面の書籍広告に、奥浩平の「青春の墓標」(社会評論社)が載った。どうして今頃と、唐突のことのように思えた。
 それを目にしたとき、青春の傷あとをちくりと触れたかのような、苦い甘酸っぱさが走った。文芸春秋社による文庫本はとうに絶版になっているのだろう。

 これより先に、「本の窓」(小学館のPR誌)に、亀和田武が連載中の「60年代ポップ少年」なる自伝風エッセイにて、この「青春の墓標」を取りあげている。
 亀和田も代々木ゼミに通う浪人時代からデモに参加していて、この7月号では「反戦高協の少女が浮かべた笑顔と、誰もが読んだ奥浩平の遺稿集」、翌8月号では「党派を超えた愛に、反戦高協の少女は何を想ったか?」と題して、彼自身と17歳の高校生の活動家とのほのかな愛を綴っている。
 そして亀和田はこう書いている。
 「愛と革命に生き、そして死んだ学生活動家がいたことは、私を驚かせた。いや、私だけではない。1968年にまだ十代だった少年少女たちは、奥浩平の遺稿集を読んで、ほぼ例外なく強い衝撃を受けた」
 「青春の墓標」は、どこかで誰かに読み継がれて、心の澱を残していたのだ。

 *

 奥浩平は都立青山高校時代から社会問題に強い関心を寄せていて、1浪後の大学入学後、学生運動に身を置く。 一方、同じ高校に在籍していた中原素子(仮名)とデイトや、「青春の墓標」の主内容になる、手紙のやり取りをするようになる。
 中原素子は奥より一足早く現役で早稲田大に入学していて、「今度の日曜デイトしないか」で始まる、浪人決定時頃の奥の彼女への冒頭の手紙からは、受験の失敗の重荷も感じさせず、恋心の予感と若々しさが溢れている。
 当時、原潜寄港、日韓条約締結に反対などの政治闘争の最中、奥は大学入学後、学生運動の活動家としての道を歩く。しかし、当時学生運動は組織が細かく枝分かれしていたし、各大学によって組織の勢力図も大きく違っていた。
 そんな中、二人の愛は育まれていく。本書に散りばめられた文面からは、 政治青年というよりは文学青年の一面も強く漂っていて、いつの時代でも繰り返される、いかに生きるかという自らへの現実への問いかけが投げかけられている。

 「昨日、中原さんの手を握ってはじめて散歩した。だがそれが一体なんだろう。ぼくの顔はほてり、彼女の顔も紅潮していた。おれには二〇.二九闘争がある。このギラギラ輝く太陽の下で、ぼくは生きていかなければならないのだ。なんということだろう、なんということだろう!」
  ――(ノート、1964年5月17日)

 しかし大学入学後は、奥はマル学同中核派に、中原は革マル派にという対立する活動組織にいて、二人の間には次第に溝ができていった。
 恋と闘争と……奥は語り続ける。彼女に、そして自分自身に。
 ついには、愛するあまり、彼は拒絶する彼女の頬を殴ってしまうということも起こしてしまう。

 「ごつごつとぶつかり合うような感情の交錯ではなしに、私たちは、もっと静かに愛し合うべきなのだ。私はふたたび女性を見出すだろう。だが、私には最後まで彼女の心の裡がつかめないのだ。一・一八闘争で彼女はずっと僕を見つめていた。私は、ついに耐ええずに彼女の視線に捉えられた。ああ、なんの問題もありはしないではないか、あの優しく美しい瞳に捉えられて、私は心がうずいた。これほどまでに愛し合い、許しあっているものがこの世界のどこにいるのだろう、私はそう思った。錯覚なのだろうか? 幻をみているのだろうか? それとも真実なのか?」
  ――(ノート1965年1月21日)

 1965年2月17日、椎名訪韓阻止羽田闘争で、機動隊により鼻硬骨を砕かれて入院。
 入院中に、中原素子は友人と一緒にケーキを持って見舞いに来ている。
 退院後10日目の3月6日、奥浩平、自宅にて服毒自殺。21歳と6か月の短い生涯だった。

 奥浩平の死から50年。
 時代は変わりながらも、今、国会周辺のデモが大学生さらには高校生の間にも広まりつつあるという。
 この夏は熱い。

 (写真は佐賀の田舎の夕景)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸人の域を超えている、又吉直樹の「火花」

2015-06-09 00:19:44 | 本/小説:日本
 近年、話し言葉で語尾に必要以上に「ね」を付けて話す人が気になっていた。優しさと丁寧さを併せて出しているつもりだろうが、特に男が使う場合は、どうも気持ちが悪い。「ね」の同調押し売りは勘弁してほしい感じだ。
 そして、違和感がぬぐえないのが、いまだに女性がよく使う「そうなんですね」という曖昧な相槌言葉である。この言葉を使われると、力が抜ける。

 例えばだ。僕がバー(酒場)に行った時の、店の女の子との会話でのことである。
 女の子が、僕に訊いてきた。
 「最近、どこか行きました?」
 「先月、中国に行ったよ」
 「そうなんですね。中国のどこですか?」
 「中国東北部の旧満州地方だよ」
 「そうなんですね」
 ここで、僕は我慢できなくなって言う。
 「<そうなんですね>はおかしいだろう。君は僕が中国に行ったことを今初めて知ったのだから、この場合は<そうなんですか>だろう。あるいは、<そうでしたか>、<そうですか>だろう」
 「そうなんですね」
 「……」

 いつごろから蔓延してきたか知らないが、この曖昧な「そうなんですね」は、2年前の2013年7月に出版された「カネを積まれても使いたくない日本語」(内館牧子著、朝日新聞出版刊)に、「ヘンなあいづち」として出ている。
 著者は、この「そうなんですね」を連発されると、同書に出てくる「ヘンなあいづち」である「ホントですか」「マジっすか」の類の方が、まだましだと思えてくるとさえ言っている。

 *

 さて、「火花」は、ピースの又吉直樹の小説である。
 今年の「文学界」(文芸春秋社)2月号の巻頭を飾った。表紙には「又吉直樹 デビュー中編「火花」230枚一挙掲載!」とある。
 堂々と作家としての扱いである。
 僕は初出の雑誌「文学界」で読んだが、その後単行本化され、そのネームヴァリューもあって文芸書としては異例の売り上げを続けているようだ。
 当初、タレントの小説を文芸誌に載せたので、どんな内容かと興味本位で読んだのだが、意外にもその質の高さに失礼だが驚いた。タレントの書いた小説では、劇団ひとりの「陰日向に咲く」を読んだことがあるが、又吉の「火花」は、さらに文学的といっていい。
 内容は、売れない芸人の主人公が熱海の花火大会で尊敬する先輩芸人と会い、個人的に師弟関係を結ぶ。小説は、概ね最後まで主人公と一風変わった個性的な先輩芸人とのやり取りである。そのなかで、芸人として考えていることや、先の見えない不安定な日々が描写される。
 「火花」は三島賞を惜しくも逸したが、芥川賞の可能性は残っている。
 芥川賞を受賞したとしても、話題性で取れたと思わせない質の高さを持っている。また、「火花」初出の「文学界」および単行本の版元が、芥川賞を創設した文芸春秋社である。芥川賞、直木賞等の文学賞の授与を行っている日本文学振興会は、この文芸春秋社内にある。

 「火花」の小説のなかで、おやと思うところがあった。
 このなかの会話に、「そうなんですね」という言葉が何度か出てくる。
 ということは、又吉がこの言葉を日常的に使っているのだろう。この曖昧な相槌と同意を内包する言葉を、又吉は無意識に使い分けているように見えるし、そうでないようにも見える。
 ほとんどの人が、この言葉使いになんとも思わないのかもしれない。それに、文芸春秋の担当編集者も看過しているのだから、この言葉使いも市民権を得ているのかもしれない。
 水泳の北島康介が2004年のアテネ・オリンピックで金メダルを取った時、「チョー(超)気持ちいい」と言って、それまで蓮っ葉な若い子が使っていたと思っていた「チョー(超)」が市民権を得たのを思い出した。この言葉は今でこそだいぶん廃れてきたが、ずっと違和感は拭えない。
 日本語は、どうなるか(どう使われるか)分からないものだ。

 
 *

 本日、7月16日、僕が考えていた通り、又吉直樹は第153回芥川賞を受賞した。羽田圭介の「スクラップ・アンド・ビルド」と同時受賞である。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カジノの必勝法を求めた、「波の音が消えるまで」

2015-03-26 02:05:03 | 本/小説:日本
 1997年6月30日。香港は、イギリス領から中国に返還されることとなった。
 それに遡る1989年に、北京で民主化運動による天安門事件が起こり、変換されたら香港はどうなるのかという思いが広まった。
 僕は返還前の香港を見ておかないといけないという思いで、1993年、香港へ飛んだ。そして、軽い気持ちで、香港の隣の澳門(マカオ)に足をのばした。マカオも当時まだポルトガル領で、ここも1999年に中国に返還されることになっていた。マカオは小さな街なのだが、カジノで名が知られていた。
 香港から船でマカオに着くと、僕はカジノがある葡京酒店(リスボア・ホテル)に宿をとり、カジノの扉の中に入っていった。(写真)
 そこで、僕は思わぬことにカジノの深みにはまり、時間を忘れて浸り、瞬く間に燃え尽きて、ほうほうの態(てい)でマカオをあとにした。
 そのことは、先にブログで、大王製紙前会長の井川意高の著書「熔ける」に関連して書いた。
 *「悪魔のようなカジノの甘い快楽と陥穽を偲ぶ告白録「熔ける」」2014.9.1ブログ

 *

 「波の音が消えるまで」(沢木耕太郎著、新潮社刊)は、このマカオのカジノを舞台にした小説である。
 沢木耕太郎のマカオでカジノといえば、彼の旅行記「深夜特急」をすぐに思い浮かべるだろう。この本は、そのことを膨らませ小説化したものである。「深夜特急」では、大小という丁半賭博だが、本書ではバカラになっている。
 バカラといえば、先に書いた大王製紙前会長の井川意高が嵌り、106億余円もの借入金をつくったカード博奕で、世間を賑わせた。

 「波の音が消えるまで」の主人公は、返還最後の日である1997年6月30日に香港にやってくる。そして、マカオに向かい、リスボア・ホテルに泊まり、カジノに出向く。
 僕がマカオで泊まったホテルで、出向いたカジノだ。
 彼は、ギャンブルが好きだったわけではないのだが、バカラを後ろで見ていて、要領を覚えたら、自分も賭けてみる。

 バカラは、ブラックジャックと同じカードゲームである。
 バンカー(胴元)側とプレイヤー(客)側に2枚ずつカードが配られ、その合計数の下一桁が9に近い方が勝ちとなり、0が一番弱い数となるゲームである。絵札はすべて10でカウントする。
 2枚ずつ配った時点で下一桁が8か9以外の場合は、双方の数によってもう1枚カードを配る場合がある。

 主人公がバカラの深みに嵌っていき、バカラの本質を見極めようとするのが本書の主題である。
 本書のなかには、カジノの戦略本として、賭け方の戦略が紹介されている。
 そのなかで、マーチンゲール方式というのが紹介されている。
 以前から、僕もこの方法だったら絶対勝つと思ったやり方だ。僕は、カジノでその方法を試みたが、すぐに破棄した。理論的には正しいのだが、実際やり始めたらやり通すのは難しい。
 「まず1の単位を賭ける。負けたら2の単位を賭ける。それでも負けたら4の単位を賭ける。そのようにして倍々に賭けていくと、いつかは必ず勝って、すべての負けを取り戻すことができる」というものだ。
 しかし、この本では、それはまったく愚かな戦略だという解説が紹介されている。
 「まず第1に、すぐに巨大な賭け金になってしまうという点、第2に、その巨大なリスクを冒しても得られるものがわずか1単位の金に過ぎないという点に戦略としての不完全さがある」というのだ。
 「もし100ドルから賭けを始めて10回続けて負けると、11回目は1024単位の10万2400ドルを賭けなくてはいけなくなっている。しかも、それほどのリスクを冒して勝負し、何とか勝ったとしても、それによって手に入るのは、それまでの負けを相殺すると、わずか1単位の100ドルに過ぎない」という理由である。

 バカラも、大小と同じく、ほぼヒフティ・ヒフティの丁半博奕である。
 本書では、登場人物に、博奕に関する箴言のような言葉をつぶやかせる。
 「丁半博打は、すべてが偶然だ。出る目に法則などありはしない。だから、勘に任せて張るしかないとも言える。しかし、それではカジノに払うコミッションだけ失っていくことになる」
 「強く信じたときだけ強く賭けることができる」
 「重要なのは波だ」
 「バカラの台が海だとすると、8組416枚のカードが海の水です。……しかし、それがどんなかたちの波になるのかは、砕け散ってしまわなければわからない」
 そして、最後に、闇社会の帝王は言う。
 「バカラの必勝法。そんなものはこの世にありません。カジノで勝とうするのは、ティンホー(天河、天の川)を泳いで渡ろうとするようなものです」

 ギャンブル小説は、ギャンブラーが書いたものが真に迫っているのはいうまでもない。そして、実際に体験したことが胸に響くものだ。
 そういう意味で、僕は沢木耕太郎の「深夜特急」のマカオの場面は彼の実体験に基づいているので大好きなのだが、小説化し、主人公がサーファーからカメラマンとなり、女性との愛も絡むとなると、ギャンブルの本質を追及するという主題が、物語として美しく人工的に組み込まれ過ぎたと感じた。
 沢木耕太郎には、小説としてではなく、伝説のギャンブラーをドキュメントとして書いてほしい。

 *

 博打打としても名高い阿佐田哲也(色川武大)の「麻雀放浪記」や、カジノ(カシノ)の常打ち賭人の森巣博の「越境者たち」などは体験的に心情に迫るものがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする