溝口健二監督 田中絹代 久我美子 大谷友右衛門 進藤英太郎 1954年作品
すでに『雨月物語』などで国際的監督になっていた溝口健二の『山椒太夫』に続く作品である。
京都の郭(遊郭)を舞台に、一人の男を巡る母と娘の葛藤を描いた物語。溝口の最後の作品になる『赤戦地帯』(1956年)に引き継がれていくテーマである。
郭を女手一つで経営している母(田中絹代)のところに、失恋の痛手を受けた娘(久我美子)が東京から帰ってきたところから物語は始まる。
父が亡くなったあと、母が一人で切り盛りしている京都の郭。娘は、家が女を商売にしていることに疑問を抱いている。
家に帰ってきた娘は、そこで郭に診療しに来ている、若い医者を知る。母は、その若い医者が好きで、彼が開院するための資金を工面しようと手を尽くしているのだった。そんな母の気持ちを知っているくせに、医者は娘が好きになり、二人で東京へ行こうという話になる。
娘と医者の気持ちを知った母は、逆上して倒れてしまう。
東京に行かず、家に残った娘は、母に代わって郭を切り盛りするところで物語は終わる。
この映画に根底に流れているものは、社会的な底辺にいる、郭の女性、遊女への溝口の温かい視線である。
物語を構成しているのは、男と女の三角関係である。しかも、一人の男に対して、母と娘が絡み合うという、危険な関係になっている。
ここで注目するのは、女の行動である。
若い男が、自分よりも若くて美しい娘に気持ちが傾いた時、それを知った母は手を引くかと思ってしまう。しかしそうではなく、母親が娘に対して「私の男を横取りするのかい」と言って、刃物を持つといった行動をとる。
母よりも女が現れるのを見るのは、辛いものである。しかし、こんな修羅場はいつの時代でもあるのだ。最近、社会面を賑わした母親による我が子の殺人を見せられるにつれ、女の業の深さを知らされる。
男は、年とった女の金と若くてきれいな女の体の両方が手に入ればと思ったのだろうが、そうはいかない。両方を狙った男は、その両方を失うか、よしんば手にしたとしたら、それは、それ相応の女しか手にしていないのだ。
この映画で興味をひいたのは、京都の粋人たちの遊びというか、時間の費やし方だ。
男と女が、食事するにはまだ時間があるからと言って、行った場所は、劇場である。踊りや狂言を見るのだ。かつては、そんな優雅な時間の使い方をしていたのだ。今では、ちょっと寄席に行こうよとか、映画でも見ようかというカップルも少ないようだ。
それと、花魁の出で立ちが見られるのも貴重だ。太夫と呼ばれる花魁が、高い木履を履いて、しゃなりしゃなりと街を歩く姿が、京都では日常的に見ることができたのだろう。
05年10月、名古屋の大須観音での祭りで、花魁行列があり、それを知りあいの女性がやるというので、見に行ったことがある。絢爛豪華であった。今、見ることができるのは、仮装行列でぐらいだ。
しかし、題名の「噂の女」であるが、誰のことを言っているのだろう。見終わっても分からないでいる。
すでに『雨月物語』などで国際的監督になっていた溝口健二の『山椒太夫』に続く作品である。
京都の郭(遊郭)を舞台に、一人の男を巡る母と娘の葛藤を描いた物語。溝口の最後の作品になる『赤戦地帯』(1956年)に引き継がれていくテーマである。
郭を女手一つで経営している母(田中絹代)のところに、失恋の痛手を受けた娘(久我美子)が東京から帰ってきたところから物語は始まる。
父が亡くなったあと、母が一人で切り盛りしている京都の郭。娘は、家が女を商売にしていることに疑問を抱いている。
家に帰ってきた娘は、そこで郭に診療しに来ている、若い医者を知る。母は、その若い医者が好きで、彼が開院するための資金を工面しようと手を尽くしているのだった。そんな母の気持ちを知っているくせに、医者は娘が好きになり、二人で東京へ行こうという話になる。
娘と医者の気持ちを知った母は、逆上して倒れてしまう。
東京に行かず、家に残った娘は、母に代わって郭を切り盛りするところで物語は終わる。
この映画に根底に流れているものは、社会的な底辺にいる、郭の女性、遊女への溝口の温かい視線である。
物語を構成しているのは、男と女の三角関係である。しかも、一人の男に対して、母と娘が絡み合うという、危険な関係になっている。
ここで注目するのは、女の行動である。
若い男が、自分よりも若くて美しい娘に気持ちが傾いた時、それを知った母は手を引くかと思ってしまう。しかしそうではなく、母親が娘に対して「私の男を横取りするのかい」と言って、刃物を持つといった行動をとる。
母よりも女が現れるのを見るのは、辛いものである。しかし、こんな修羅場はいつの時代でもあるのだ。最近、社会面を賑わした母親による我が子の殺人を見せられるにつれ、女の業の深さを知らされる。
男は、年とった女の金と若くてきれいな女の体の両方が手に入ればと思ったのだろうが、そうはいかない。両方を狙った男は、その両方を失うか、よしんば手にしたとしたら、それは、それ相応の女しか手にしていないのだ。
この映画で興味をひいたのは、京都の粋人たちの遊びというか、時間の費やし方だ。
男と女が、食事するにはまだ時間があるからと言って、行った場所は、劇場である。踊りや狂言を見るのだ。かつては、そんな優雅な時間の使い方をしていたのだ。今では、ちょっと寄席に行こうよとか、映画でも見ようかというカップルも少ないようだ。
それと、花魁の出で立ちが見られるのも貴重だ。太夫と呼ばれる花魁が、高い木履を履いて、しゃなりしゃなりと街を歩く姿が、京都では日常的に見ることができたのだろう。
05年10月、名古屋の大須観音での祭りで、花魁行列があり、それを知りあいの女性がやるというので、見に行ったことがある。絢爛豪華であった。今、見ることができるのは、仮装行列でぐらいだ。
しかし、題名の「噂の女」であるが、誰のことを言っているのだろう。見終わっても分からないでいる。