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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 錆びたナイフ

2007-08-02 02:07:50 | 映画:日本映画
 舛田利雄監督 石原慎太郎原作 石原裕次郎 北原三枝 小林旭 杉浦直樹 白木真理 安井昌二 宍戸錠 1958年日活

 子どもの頃、ジャックナイフという響きを聞いただけで何やら違った世界にいけた。あのパチンとバネで飛び出すやつ、小さなナイフだ。そこには、知らない大人の世界があった。
 どこかの少しいかれたお兄さんがそのナイフを持っていて、時々見せびらかしていたのを、そっとのぞいてみた。お兄さんはどうということはなかったが、ジャックナイフは何かを語っているようであった。
 まだ、石原裕次郎の映画は見たことはなかったが、「錆びたナイフ」の歌は少年の心に残っていたのだ。

 砂山の砂を指で掘ってたら、真っ赤に錆びたジャックナイフが出てきたよ

 1956年「狂った果実」「太陽の季節」でスターダムを駆け上がっていった石原裕次郎と、後に日活ダイヤモンド(アクション)ラインを組むことになる、小林旭、宍戸錠の初の3人の共演作である。石原裕次郎23歳、小林旭20歳、宍戸錠24歳の時である。
 
 物語は、地方都市の市長選に絡んで自殺と見せかけた殺人を3人が目撃する。それが、裕次郎、旭、錠である。
 3人は、元チンピラの仲間という設定である。共演といっても錠は最初にあっけなく死んでしまう(暴力団に殺される)。だから、本質は裕次郎、旭の共演ということになる。
 そして、旭も最後は死んでしまう(同じく暴力団に殺される)。残る裕次郎が仲間の仇を討つという、アクションがらみミステリー仕立ての物語である。
 裕次郎の相手役は、既定路線になっていた北原三枝で、旭の相手役は後にアクション映画においてダンサー役として欠かせない白木マリである。
 
 「俺は待ってるぜ」や「嵐を呼ぶ男」などで、アクション路線でスターの地位を築いていた裕次郎は、この年「陽のあたる坂道」の文芸ものを撮り、後に「あじさいの歌」「青年の樹」など、アクションと文芸の2本路線を進むことになる。
 一方、1956年「飢える魂」でデビューした小林旭は、方向が定まらないままアクション、文芸、青春ものと様々な映画に出て模索状態が続く。
 裕次郎の弟分として出演しているこの「錆びたナイフ」では、まだスターになっていなかった旭は、やはり役でも格下のチンピラである。しかし、この年の1958年、旭は文芸名作「絶唱」で浅丘ルリ子と共演している(後にこの映画は舟木一夫・和泉雅子、三浦友和・山口百恵でリメイク版が作られた)。小林旭・浅丘ルリ子のコンビは、その後「渡り鳥シリーズ」へと続くことになる。
 小林旭の運命を変えたのは、翌年の1959年である。
 この年、「渡り鳥シリーズ」の原型「南国土佐を後にして」が大ヒットする。すぐその後に「銀座旋風児」が封切られ、旭のアクションスターとしての人気が爆発する。「渡り鳥」「流れ者」「銀座旋風児」が揃ってシリーズとなり、次々と新作が発表されていく。
 旭主演の映画は、1959年13本、1960年、1961年12本、1962年10本封切られる。今では考えられない月1本のペースである。この頃の旭の人気は裕次郎を凌ぐものであった。
 
 日活ダイヤモンドラインは、その後赤木圭一郎、和田浩二が入り、裕次郎の骨折、赤木の急逝などにより宍戸錠、二谷英明の昇格(主演一本立ち)を図るが、徐々に衰退していった。

 「錆びたナイフ」は、日活ダイヤモンドラインの到来を予感させる記念碑的作品と言えるだろう。
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◇ 狂った果実

2007-07-31 02:43:03 | 映画:日本映画
 中平康監督 石原慎太郎原作・脚本 峰重義撮影 石原裕次郎 津川雅彦 北原三枝 岡田真澄 1956年日活

 フランスのヌーヴェル・ヴァーグは世界の映画界に大きな影響を与えた。もちろん、日本にもその波は押し寄せてきて、大島渚、吉田喜重、篠田正浩などによって松竹ヌーヴェル・ヴァーグという一大エポックを作りあげた。
 フランスのヌーヴェル・ヴァーグの代表作であるJ・R・ゴダールの「勝手にしやがれ」、アラン・レネの「二十四時間の情事」が1959年作である。フランソア・トリュフォーの「突然炎のごとく」は1961年作。
 日本の大島渚の「青春残酷物語」、篠田正浩の「乾いた湖」が1960年である。

 この中平康の「狂った果実」は、1956年作。
 日本のヌーヴェル・ヴァーグはおろか本家のフランスよりも3年も早い封切りである。ここに、こうして比較したのは、この映画を見てこの映画こそヌーヴェル・ヴァーグの嚆矢と思ったからである。
 この映画は、石原裕次郎の最初の主演作という話題だけで、作品の評価には恵まれていない。しかし、この映画には、後のヌーヴェル・ヴァーグの映像の数々、スピリットを随所に見いだすことができる。当初、まずF・トリュフォーが絶賛したと言われているのもむべなるかなである。
 
 話は、湘南で退屈紛れに遊んでいる金持ちの若者たちの生態を描いたものである。石原慎太郎がまだ瑞々しい感性を持っていたときの原作である。
 遊び人の兄(石原裕次郎)に比べて純真な弟(津川雅彦)が、街で見かけた魅力的な女(北原三枝)に恋をする。その女は米人の愛人であることを知った兄は、弟を嫉妬しながら女を口説き、ものにする。しかし、次第に女に本気で惹かれていく。そして、ある日、弟に黙って女を遠く海へヨットで連れ出してしまう。それを知った弟は、ボートで兄を追う。そして、ついに、兄と女が乗っているヨットを見つけ、悲劇が起きる。

 ここには、後にトリュフォーがしばしばテーマにする3人の男女の絡み合いがある。
 若者の愛と嫉妬があり、悲劇が待っている。
 海とヨットの犯罪は、ルイ・マルの「太陽がいっぱい」を想起させる。
 反射するきらめく波のもたらす死の予感は、J・R・ゴダールの「気狂いピエロ」に繋がる。
 
 なにより、海の撮影が素晴らしい。
 海岸に置き忘れられたトランジスタ・ラジオが、遠くボートが去っていくのを映しながらも、音楽を流し続けている。
 夜の月の光が作り出す波のきらめきの手前で、抱擁する若者の影姿。
 兄と女の乗っているヨットの周りを威嚇するように、黙って弟がぐるぐると乗り回るボートを、空から映しだすポエジー。

 現代日本映画史上の第一頁を飾る映画と言えるだろう。
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◇ 秋たちぬ

2007-07-26 01:46:21 | 映画:日本映画
 成瀬巳喜男監督 笠原良三脚本 乙羽信子 藤間紫 藤原鎌足 夏木陽介 賀原夏子 菅井きん 大原健三郎 一木双葉 1960年東宝

 神田の神保町の映画館で「子どもたちのいた風景」と銘打って、昭和30年代の映画を上映しているとの記事が目に入り、見に行った。
 実は、「にあんちゃん」(今村昌平監督、1959年)を見るつもりで行ったら、既に終わっていて「秋たちぬ」が上映されていた。
 成瀬巳喜男監督作品である。この人の作品では、林芙美子原作の「浮雲」が有名で、そのほかにも林原作を何本か映画化している。その人の少年が主役の映画である。

 長野から、母(乙羽信子)に連れられた小学6年の男の子(大原健三郎)が東京の伯父さんの家にやって来て、そこで住むことになる。父が亡くなり、長野で住めなくなったのだ。母は、近くの旅館で住み込みで働くことになる。
 伯父さん(藤原鎌足)の家は、築地あたりの八百屋で、その店で働いているいなせな息子(夏木陽介)と、銀座のデパートに勤めているちゃきちゃきな娘(賀原夏子)がいる。
 少年にとって、東京は何もかも珍しくもあり、母と別れて暮らす生活は寂しくもある。そんな時、母が働いている旅館の小学4年の娘(一木双葉)と知り合いになる。旅館業を営んでいる少女の母(藤間紫)は、金持ちの男の妾で、彼女は妾の子だった。
 少年と少女は、兄妹のように仲良くなる。そして、よく一緒に遊ぶようになる。
 少女と仲良くなった少年は、少しずつ東京の生活に慣れていく。しかし、それも束の間、母が旅館の馴染みの客(加東大介)と駆け落ちしていなくなる。そして、少女も急に引っ越してしまった。

 1960年(昭和35年)頃の銀座が頻繁に映しだされる。
 銀座通りには、既に多くの車が行き交う。それに交ざってオート三輪が走っている。
 車の飛び交う信号のない道路では、子どもたちが車の走る合間を縫って道路を横切るが、田舎から出てきたばかりの少年はなかなか渡れない。
 デパートの屋上(おそらく高島屋)からは晴海の海が見える。
 二人は、海を見に行こうと晴海へ行く。海を見たことがない少年は、「もっと青い海が見たい」と言う。
 晴海の先には、荒野のような埋め立て地が広がっている。「もうすぐ、ここにビルが建つのよ」と話す少女。
 この映画で、変わりゆく寸前の東京に出合うことができる。
 夢の島の埋め立て地でさえ懐かしい風景である。

 田舎から来た転校生の方言をからかったり、すぐに喧嘩したりする少年たち。それでも、またすぐに仲良くなる。
 少年たちは、少しの空き地を見つけては三角野球をする。そして、空き地の管理の小父さんにしかられ、蜘蛛の子を散らすように逃げまとう。
 東京にもカブトムシがいるはずと探しにやって来たのは多摩川べり。川では青年たちが泳いでいる。まだ多摩川では泳げたのだ。

 東京と田舎は風景は違えども、少年たちの心は同じだ。
 田舎の子が野や山を走るように、都会の子も路地やビルの裏通りを走っていた。
 そして、大人の世界に揉まれながら、いや、大人の世界の犠牲になりながら、少年も少女も成長を余儀なくされ、大人になっていく。
 清々しさと哀しさの混じった余韻が残る映画である。

 「にあんちゃん」は見逃したけど、この映画を見たことはよかった。少年の世界を描きながら、大人の世界をも描ききった秀作である。
 この映画の中の伯父の娘役の賀原夏子が、当時の活きいきとした若い女性を演じて印象深い。
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◇ 明日の記憶

2007-07-02 17:16:36 | 映画:日本映画
 堤幸彦監督 渡辺謙 樋口加南子 香川照之 大滝秀治 2006年

 人生とは何だろうと考えると、年をとるにしたがって、人生とは記憶であると思うようになってきた。
 愛にしても仕事にしても、かつて経験してきたことや体験したことは記憶にあるから人生といえるのであって、記憶からなくなってしまえば、それは人生と言えるのだろうか。そして記憶がなくなったとすると、その(記憶からなくなった)人生を、つまり流れていった年月とその堆積を、誰が証明してくれるというのだろうか。
 
 これは、記憶を失っていく病気になった男の話である。つまり、若年性アルツハイマーになった普通の男の物語である。
 普通の、と言うより少し仕事のできるサラリーマン(渡辺謙)が、物忘れが激しくなり、仕事も失敗が続く。否応なく妻(樋口可南子)に連れられていった病院での診断は、若年性アルツハイマー、つまり認知症である。まだ働き盛りの49歳の時である。
 健康で、それなりに仕事をこなし部長となり、幸せな家庭を作り、家を建て、娘が結婚した。それなりに、順調な人生である。
 結局、男は仕事を辞めることになる。その時、男は会社を去りながら呟く。
 「こんな形で終わるとは。しかし、何事もいつかは終わるのだ」
 取引先の課長(香川照之)が電話で言う。
 「あなたの後任の彼はまだダメだよ。早く職場に戻ってきてよ。そして、一緒にキャバクラ行こうよ」
 しかし、この話は実現することはない。
 ここまでは序章である。

 男は、仕事も辞めて家にいる日が続く。妻が働きに出る。
男は病気と言っても体は健康である。どうして、簡単なことをすぐに忘れるのか、何もできないのか、働きに出ている妻の帰りが遅い時は他に誰かと会っているのではないかと疑ったり、考えれば考えるほど頭が混乱する。解決策が見つかるはずもなく、男のジレンマは募る。
 ある日、男は妻が友人からもらっていた田舎の医療施設に一人でぶらりと出向く。その足で、かつて妻と習っていた陶芸の先生(大滝秀治)の古い家に辿り着く。そこで、先生と一緒に焼き物を焼き、そこでいつしか眠りにつく。
 朝起きると、先生はどこにもいないし、家は廃屋と化している。しかし、昨晩焼いた焼き物だけはある。まるで、上田秋成の「雨月物語」である。
 心配して迎えに来た妻が、そこで夫である男を見つける。その時、男は妻に「親切に」と挨拶する。既に、男は妻を認識できなくなっていたのだ。
 妻は涙が止まらない。男は、妻がなぜ泣いているのか分からない。
 第2幕章の終わりである。映画はここで終わる。

 ここから、実際は第3幕章が始まるはずだ。男にとっても妻にとっても、まだ長い残りの人生が。
 しかし、人生とは何なのであろう。
 そして、記憶とは何なのだろう。
 生きていくということは。
 終わり方は、どれも哀しみに彩られているのだろうか。

 僕は、古代ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの言葉が忘れられない。
 「遠からず、君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう」(「自省録」)
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◇ ジャンケン娘

2007-06-19 16:57:49 | 映画:日本映画
 杉江敏男監督 美空ひばり 江利チエミ 雪村いづみ  山田真二 浪速千恵子 1955年東宝

 当時人気沸騰の歌手、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの3人娘によるトリオ初の映画である。水谷良重、黒柳徹子、横山道代のタレント・俳優が3人娘と称したのはあったが、各々独立した人気歌手がユニットとしても活動した最初の3人組ではなかろうか。この時、美空ひばりはまだ18歳。
 このあと、この3人組は「ジャンケン3人娘」と呼ばれることもある。この3人組は、翌年「ロマンス娘」、翌々年「大当たり三色娘」と映画出演する。

 映画の内容は、高校生の美空と江利が京都の修学旅行で舞子の雪村と知り合い、雪村が一目惚れをしたという東京の大学生を3人で探すという他愛のないものである。
 映画が作られた1955年といえば戦後10年である。まだ日本が貧しさから脱却していない時期である。それなのに、今見て目を見張るのは、いずれも豪華で綺麗な家と衣装であることだ。画面のどこにも貧しさが映しだされてはいないのだ。
 例えば、遊園地では既にジェットコースターがある。家には電話があり(庶民の家にはなかった)、彫刻家である江利の家では、客が来てウイスキーを出すのだが、ジョニーウォーカーであった。ジョニーウォーカーといえば当時最高級のウイスキーで、海外に行った人がお土産に持ってきて、滅多に飲めるような代物ではなかったのである。
 いわば、スターの映画は庶民に夢を見させるものだったのである。
 
 このあと3人組と言えば、60年代に、「スパーク3人娘」として、渡辺プロの中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりが登場する。この3人組で、64年にNHK紅白歌合戦にも出場している。
 後日中尾は、「当時、一人で充分やっているのに、なぜ3人でやらないといけないのか不満だった」と述べている。近年40年ぶりに3人組を再結成しているが、その時、3人ともがそう思っていたということが分かったと、今では笑って語っていた。
 その後は、70年代のアイドル、南沙織、小柳ルミ子、天地真理の同期デビューの3人娘、それに続くアイドル、山口百恵、森昌子、桜田淳子の「花の中3トリオ」であろうか。
 
 男性歌手でいえば、○○3人男と称するものはあったが、60年代の「御三家」を嚆矢としようか。青春歌謡の先陣を切った橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦である。こちらも、何年か前に3人で同じ新曲を吹き込み公演を行っていたが成功したとはいいがたく、また各自の行動に戻っていった。
 当初御三家は、橋、舟木に三田明であった。ところが、三田は橋と同じレコード会社のビクターである(ちなみに舟木はコロムビア)。そこで、バランスを取るため、新しくクラウンからデビューした西郷になったという裏話がある。
 そして、70年代の新御三家は、郷ひろみ、野口五郎、西条秀樹である。
 80年代の田原俊彦、近藤真彦、野村義男の「たのきんトリオ」も範疇であろうか。

 何しろ、日本人は3の数字が好きである。日本三景をはじめ、日本3大○○をあげれば、枚挙にいとまがない。
 3つや3人はバランスがいいのかもしれない。
 1人ではプラスもマイナスも背負うのが大きい。2人では、比較しがちになり、そうするとバランスが崩れやすい。しかし、3人だと1人が出っ張っていても1人がへこんでいても、配列や組み立てによって均衡は保ちやすい。各々の欠点は補われ、むしろ長所に映る場合がある。

 美空ひばりはその後昭和の歌謡界の女王として君臨してきたが、冒頭の「ジャンケン3人娘」のうち、残っているのは雪村いづみだけとなってしまった。


 冒頭の「ジャンケン3人娘」のうち、残っているのは雪村いづみだけとなってしまった。
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