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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 彼女たち--性愛の歓びと苦しみ

2008-12-11 14:20:58 | 本/小説:外国
 J-B・ポンタリス著 辻由美訳 みすず書房

 最後に何か本を書きたいと思ったなら、こんな本だろう。
 この本は、フランスの精神分析学者であり編集者である著者が、自分の人生を振り返って、「彼女たち」つまり、自分に関わりあった女性=彼女たちについて語ったものだ。
 それは、著者の愛の履歴書である。この紐解かれた愛の履歴のなかには、官能的な愛、プラトニックな愛、つかのまの愛、そのほか文学のなかの彼女、妄想の中の彼女など、様々な愛が入っている。
 おそらくもう恋をすることもないだろう、そう思った頃(そんなに思えるのはいつの頃だろうか)、通り過ぎていった愛の体験を語ることほど、愉悦を味わえるものはないと思える。それは、自分の人生の情熱を、すなわち最もいい思いを反芻するに等しいからだ。
 年齢にかかわらず、過ぎ去った恋や失った恋を思いおこすと、そのときに感じた苦しみや哀しみを甘酸っぱさが上回っている。それは、時間が過ぎ去った出来事に甘さを添加してくれるからだ。

 「精神分析用語辞典」の著者でもあるポンタリスであるが、この本では専門用語を使ったり、フロイト風に恋について精神分析をしているのではない。自分の気持ちを素直に吐露しているので、すんなりと心に入り込むいい台詞が散りばめられている。

 ――女一般について語って何になろう。「ある春の晴れた日」のように現れては、去っていく現実の女たちを愛そう。恋に落ち、愛のなかで新しい命を得よう。――

 恋をすると、その恋人が他の誰よりも美しく、素晴らしく見えるものだ。
 ――誰でも自分が恋する人をつくりあげるものだ。恋とは、その本質からして過剰評価にほかならない。現実主義ではないのだ。
 どんなに近くに寄ろうと、水平線は、見えるものと見えないものとの接点にあるがごとく、遠方にあり、そして、私が抱きしめる女は、島に接近させてはくれるが、私はその島に降りたつことができないのだ。(遠方にありて)

 「通りすがりの異国の女たち」で、彼はこう言う。
 ――彼は仕事の都合で、ローマ、ロンドン、ストックホルムなど、ヨーロッパのいろいろな都市によく出かけた。ほんの数日の滞在だった。そのたびに一人の女と出会い、たちまち恋におちいった。
 それを出会いと呼びうるとすれば、そうした出会いはときにはほんのつかの間のものであった。
 この話を聞いた彼の友人で、フロイトの考えに影響を受けている男がこう言ったという。「君のリピドーは信じられないほど不安定だよ」
 「説明してください。無意味なのに、あの異国の女性たちに僕はどうして激しくひきつけられるのだろう。ただすれちがい、ちょっと顔を合わせただけで、それもほんの短い時間のことなのに」――
 この文章を読んだとき、これは僕のことかと思った。

 ポンタリスは1924年生まれだから、生きているとすればもう80代の半ばである。死が身近に迫っているのを感じる年であろう。
 ――私は死の横暴に屈したくない。死は、生きている者に対して情け容赦なく存在を保持する。
 少し前に、コメディー・フランセーズでラシーヌの戯曲「フェードル」を観劇した。その台詞の一つが頭に残っている。「生きることをやめるのは、それほど大きな不幸だろうか?」
 その言葉を、その日がきたとき、私自身の口から発してみたい。私なりのやり方で、死を失望させ、死の勝利と凱歌を抑制するのだ。「それほど不幸なことだろうか?」――

 僕は、死を前に、こう言い放つことができるだろうか。
 まったく自信がない。
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□ アムステルダム

2008-12-08 01:38:27 | 本/小説:外国
 イアン・マキューアン著 小山太一訳 新潮社

 才能と出世と女に恵まれた者は、やがて身を滅ぼす…
 それは、おそらく本当である。
 
 「アムステルダム」は、映画「つぐない」(原題「贖罪」)の原作者であるイギリスの作家、イアン・マキューアンによる1998年ブッカー賞受賞作である。
 本文の前に、こう序文が書かれている。
 「ここで会い、抱きあった友らはもういない、
  それぞれの過ちに戻って。
   W・H・オーデン「交叉路」 」

 一人の魅力ある女性モリー・レインが、突然死んだ。それも、彼女の生前の輝きからは想像もできないような、尊厳も自尊心もない死に方で。
 彼女の葬儀に集まった参列者のなかで、彼女に関わりのあった3人、英国屈指の作曲家クライヴと辣腕新聞編集長ヴァーノン、それに総理も狙おうかという外務大臣ガーモニーが、物語の登場人物である。いずれも活動の場は違えども、最前線で活躍する男たちだ。
 しかし、3人の男たちは彼女の死を契機に、追い込まれていく。
 
 モリーの死後しばらくして、彼女が撮ったと思われる外務大臣ガーモニーのスキャンダラスな写真が出てきた。この写真が、売れ行きが後退しているヴァーノンの新聞にチャンスをもたらす。ヴァーノンはその写真を新聞で公開することで、センセーションを巻き起こし、新聞の部数を伸ばす画策をする。そして、事態はそのように動きだす。
 しかし、結局は彼の思うようには事は運ばない。
 ヴァーノンは、昔からの友人である作曲家のクライヴに相談する。クライヴは、交響曲を発表するため、曲作りの最後の局面にきていた。
 クライヴは、自分の才能と成功を疑わない男だった。作っている曲は、後世に残る最高作になるはずだった。しかし、肝心の詰めの段階で、ヴァーノンの電話で曲作りが中断され、うまくいかなくなる。
 二人は喧嘩し、やがて事態は、二人にとって思いもよらない方向へ転げ落ちていくことになる。

 イギリスが舞台なのに、「アムステルダム」という題名はなぜだろうと訝った。 最後に、クライヴが交響曲を発表するのが、アムステルダムの有名なホール、コンセルトヘボウだからだろうか、と思った。しかし、それだけでタイトルにするのは弱すぎる。
 著者マキューアンは、このアムステルダムを、クライヴの言葉を借りて、成熟した紳士的ないい街だと書いている。
 僕は、かつてアムステルダムを旅したとき、コンセルトヘボウの近くに宿をとった(たまたまだが)ことがある。確かに静かで落ち着いたいい街だが、何の刺激もなく興味を抱く街ではなかった。

 「アムステルダム」のタイトルの由来について、訳者あとがきに、著者のインタビューの引用が載っている。
 彼と友人の精神科医がアルツハイマーの進行の速さについて話していたときのことだ。ジョークとして、二人のうちどちらかがアルツハイマーにかかったときは、アムステルダムに連れて行き、その屈辱的な最期から救うため、安楽死させるという約束である。
 そうなのだ。そう言えばこの小説の最後に、このインタビューの記事を裏付ける、物語のキーになるアムステルダムに関する文が出てくる。
 それは、オランダの安楽死法について語ったあとの、アムステルダムの窓の外を眺めながらの文である。
 ――なんと明るく、秩序のある通り。角には小ぎれいなコーヒーハウスがあるが、おそらくドラッグを売っているのだろう。
 「ああ」と最後にジョージが言った。
 「オランダ人てのは合理的な法律を作るもんだ」
 「合理的ということになると、連中は行きすぎるからなあ」――

 アムステルダムは、合理的すぎる法律がある街だったのだ。
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□ 最初の恋、最後の儀式

2008-11-24 00:18:28 | 本/小説:外国
 イアン・マキューアン著 宮脇孝雄訳 早川書房

 イアン・マキューアンなる作家をご存じだろうか。
 先ほど公開された映画「つぐない」(キーラ・ナイトレイ、ジェームス・マカヴォイ主演)の原作者(原作「贖罪」)と言えば、ああそうかと納得されるだろう。
 1948年イギリス生まれで、映画化された「イノセント」はベストセラーになり、「アムステルダム」ではブッカー賞を受賞しているイギリス文壇の第一人者である。
 不覚にも、この著者を知らなかったので、まずはデビュー作である「最初の恋、最後の儀式」(First love, Last Rites)を手に取った。この短編集で、有望な新人に与えられるサマセット・モーム賞を受賞している。
 
 作家の資質は、最初の数行読んでピンとくるものがあり、数頁読めば確信する。海外文学の場合は、訳者の力量におうところも大きいが、文体は分かる。
 表題作は、若々しい文章で始まる。
 「夏の初めからすべてに意味がなくなるまで、僕たちは頑丈なオーク材のテーブルに薄いマットレスを敷き、開いたままの大きな窓の前で絡みあった。部屋にはいつもそよ風が吹き込み、四階下にある波止場の臭いを運んでくる。」
 少年と少女の性愛は、彼の瑞々しい文体と裏腹に、危険を感じさせる。
 いや、この本全編に共通しているのが、エロチシズムと危険な恐怖心なのだ。
 巻頭作の「立体幾何学」では、冒頭からガラス瓶に入ったペニスが登場する。一瞬、この作家は奇異を狙った猫だましの作風かと思わせる。しかし、読み進むうちにそうではないと思わせる何か、端的に言えば特異な感性に気づかせられる。
 「自家調達」(Hommade)では、少年の性に対する好奇心の発露が、妹により試みられる。幼い少年と少女の近親相姦が、あっけなく描かれる。しかし、この題にルビで「おうちでエッチ」と訳者によって書かれているのは、本文の訳がいいだけにいただけない。少なくとも、文学作品にエッチという言葉を安易に使うこと自体文学的品性を疑われるだろう。いうまでもなく、エッチは性交を意味するのでなく、もともとは変態のローマ字の頭文字として流行った俗語である。
 「夏が終わるとき」は、少年と、彼の家に来た太った女性との奇妙なエロチックな匂いを孕ませた物語である。
 「蝶蝶」は、小児愛者の殺人の心理を描いた不気味な話である。
 「装い」も、小児愛者にして服装フェチの女性が、少年に絡んでくる話である。

 多くが一人称の少年期の性に絡んだ奇妙な小説で、深層心理に入り込んでくる物語である。
 本書は、1975年に出版され(日本語訳は1999年)、新世代の旗手としてその年に上記の賞を受賞しているが、その後彼はインタビューで、こう答えている。
 「今でこそ小説家はマイナーなロック・スター並みの扱いを受けているが、当時、小説は死にかけた芸術と見なされており、こちらもそのつもりで書いたから、プレッシャーは少しも感じなかった」
 その後の活動でも、映画の脚本を書いたり、オーケストラの反核オラトリオの台本を書いたりと、小説以外でも表現の幅を広げている。
 若い頃はボルヘス、メイラー、ミラーなどを読んだ(おそらく影響を受けた)というが、本書における20代の刺々しい才能は、日本の谷崎潤一郎や映画でいえばポランスキーを想起させるものがある。
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□ 潜水服は蝶の夢を見る

2008-09-22 15:13:49 | 本/小説:外国
 ジャン・ドミニック・ボービー著 河野万里子訳 講談社

 ほっくりとやわらかい牛肉の赤ワイン煮、それには透明のゼリーが寄せてあり、アプリコット・タルトからは甘酸っぱい香りがする。気分によってはエスカルゴを12個、シュークルート(酢漬けのキャベツ)とソーセージをつける。それに、いわゆる遅摘みの、金色がかったアルザス・ワイン「ゲヴェルツトラミネール」を奮発してもいい。
 いかにも美味しそうだ。
 別に、上に挙げた料理に限らず、旬の素材を、それも最高級の素材を使って、料理を楽しむ。あるいは、レストランに行って食するのもいい。
 これらは、値段のことを考えなければ、あるいは少し奮発すれば、僕らは叶えることができる。いや、僕らというのは、普通の人ならばという条件が付くが。
 ここでいう普通とは、健康ならばという意味である。

 著者のボービーは、何に遠慮することもなく、いつでも、上に挙げた料理の食卓につくことができる。レストランに出かけるにしても、予約する必要もない。
 そう、ボービーは、頭のなかの思い出の世界で、いかような食卓にもつくことができるのだ。いや、普通の人にはとても悲しいことであるが、彼は思い出の世界でしか、食卓につくことができないのだ。
 
 本の原題は、「潜水服と蝶」(Le Scaphandre et le Papillon)である。
 重い潜水服に包まれたように身動きできない身体と、思いだけは蝶のように花から花へと飛んでいける心のことである。
 映画にもなったこの本の著者は、ファッション雑誌「ELLE」の編集長だったときに、身体的自由をすべて失うという病気にかかってしまう。動くのは、左瞼だけだという状態になってしまった。
 その瞼の動き、つまり瞬きで、アルファベットを刻んで、この書を執筆した。途方もない忍耐と精神力だ。
 それなのに、素晴らしい文章なのだ。
 家庭もあり、愛人もいて、地位もあった働き盛りの43歳の男が、一瞬にして、すべてが記憶の中に葬り去られた。手足が動かないどころか、口を動かすことができないので食事もできない。
 活動するのは、記憶を引っぱり出し、想像を働かせる頭の中だけとなった。
 だから、冒頭にあげた食卓に、いつでも、どこでもつくことができるのだ。
 それに、彼はときとして映画監督にだってなる。
 例えば、あるときは、顔を青く塗り、頭のまわりにダイナマイトを巻きつけた「気狂いピエロ」の主人公にもなる。

 筆者の想像力と現実の描写は、とても活きいきとしている。ジョークも洒落ている。彼の状態を知らない人が読んだら、健常者が書いたと思うだろう。何ら普通の人と変わらない。いや、普通の健康な人以上に活きいきとした内容なのである。
 何もできないからといって、卑屈なところはどこにもない。夢すらある。
 
 しかし、彼は自分の置かれた状況を、観念したかのように書いた文は胸を苦しめる。それは、想像ではなく、現実だからである。
 彼が、パリ郊外の病院に入院してから、つまり、彼の言葉を借りれば「この潜水服の中に住むようになってから」、救急車に乗って、2度住みなれたパリに行ったことを述べた文がある。
 「僕が、遠ざかっていく。ゆっくりと、でも確実に。
 海に乗り出す船乗りたちが、消えゆく岸辺を見ているように、僕は、自分の過去がかすんでいくのを感じている。以前の僕の生(いのち)は、今でも僕の中で燃えている。だがそれも少しずつ、思い出という灰になろうとしている。」
 彼は、動けない。それがどういうことか、そのことを自覚し始めた頃のことだ。
 最初のとき、彼がパリの街の、働いていた会社の建物の前を通ると、誰か同僚が見てくれているのではなかろうかと、様々な思いが浮かび、涙を流す。周りの人間は、その思いに誰も気づきはしない。
 「パリに出かけた二度目は、その四か月後だった。
 僕は、変わった。もうほとんど何も、感じなくなっていた。通りは七月の華やかな光に包まれていたが、僕自身は、ずっと冬のただ中にいるままだった。外の景色はただ、救急車の窓ガラス越しに映し出された、映画の背景のようにしか見えなかった。……
 そう、僕には、パリの街を走り抜けていくことなど、もうどうでもよかった。
 だがパリ自身は、何も変わっていなかった。花模様のワンピースをまとった主婦(マダム)たち、ローラースケートに興じる若者たち。バスの騒々しいエンジン音、スクーターに乗った配達員のののしり声。デュフィの絵から抜け出してきたような、オペラ座広場。建物の正面にかぶさりそうなほど茂った、緑の街路樹。青い空に浮かぶ、綿のような雲。
 何も、変わってはいない。ただ僕だけが、いない。僕だけが、ここに、いない。」 

 普通の人、つまりそれなりに動ける人は、この本を読んで、自分の身を振り返るだろう。いかに現状に甘んじているかと。そして、想像でなくとも、やろうと思えばできる状態の今の自分に、感謝と悔恨を覚えるだろう。
 今まで自分は何をしてきたのか、そして、明日から何をすべきかと。

 見上げれば、空があり、雲が流れている。
 どこかで、鳥の鳴き声もしている。
 並木道の街路樹の葉は、手を伸ばせば届くし、道の辺の見知らぬ小さな花を千切ることもできる。

 *「潜水服は蝶の夢を見る」の映画についての文(08年3月15日ブログ)は、以下にて。

http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/5863cdc665c148a8b72902d6edab34da


 
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□ まぐれ

2008-07-30 20:25:09 | 本/小説:外国
 ナシーム・ニコラス・タレブ 望月衛訳 ダイヤモンド社刊

 投資家は、なぜ運を実力と勘違いするのか?
 筆者は言う。人はどうして、投資で儲かると自分の実力だと思い込み、損をすると運が悪かったと思うのか? 投資とは、つまりトレーダーのことでもあるのだが、行き着くところは、実力ではなく偶然だと。
 そうかもしれない。必ず儲かる法則なんてないのだから。そういえば、ノーベル経済学賞を受けた学者だって、結局(受賞後だった)ファンドで敗北したではないか。
 著者は、数理系トレーダーにして不確実性理論の大学教授。トレーダーとしては、ニューヨークとロンドンで20年のキャリアを持っている。
 本書の主旨は、プロのトレーディングの成功は、殆どがまぐれにしか過ぎないと主張していることである。
 著者はトレーダーでありながらトレーダーを、経済学の研究をしていながら、現代の経済学者を、心の中では軽蔑しているように見える。いや、反面教師として、この書を書いたようだ。
 資本主義の金を儲けることの台(枠)に乗って生きていながら、自分が乗っているその台が、本心から心地よくないことを著者は知っている。金儲けのために、自分も含めたその周辺の人種が人間性を失っていることを感じとっている。
 おそらく、そこにこの本を書く動機があるようなので、従来のとはまったく違った投資・確率に関する経済論になっている。いや、異色の人間論と言っていい。
 彼が行き着いた先にあった、彼の論理を支えているものは、意外なことに情緒であり文学のようだ。
 様々な例えが、経験と箴言とメタファーで綴られる。

 *

 ロシアン・ルーレットの例えは象徴的だ。
 著書は、いくつかの選択の結果を違った歴史として考えてみようと言って、次のような例をあげる。
 変わり者で退屈している王様が、あなたに1000万ドルやるからロシアン・ルーレットをやってみろと言ったとする。
 つまり、6発弾丸を込められる拳銃に1発だけ弾を込めて、こめかみに銃口を当て引き金を引くゲームだ。
 問題は、歴史のうち実際に観察されるのは一つだけだというのである。
 1000万ドルを勝ち取った人間は、愚鈍なマスコミ(経済誌あたり)から感心されたり賞賛されたりする。また、ウォール街で会った殆どの経営者(重役)も、出元(ジェネレーター)を確かめもしないで、富があるという外見だけに目をつける。
 もし、ロシアン・ルーレットで遊ぶ(バカな)人間が、このゲームをやり続ければ、そのうち悪い方の歴史に捕まるだろう。25歳の人間が1年に1回ロシアン・ルーレットをやり続けるとしたら、50歳まで生き延びる可能性はとても小さい。単純に計算すれば、6年の間に死ぬはずである。
 しかし、そんな危険でバカなことをする25歳がたくさんいたら、ものすごい金持ちの生存者が一握りはいるだろう。そして、多くの墓場もできることだろう。

 例えば、1万人のファンド・マネジャーがいたと想定しよう。
 勝負は、完全に5分5分と仮定する。
 年末に、コイントスをし、表ならそのマネジャーはその年1万ドル稼ぎ、裏なら1万ドル損をする。負けたマネジャーは、退場しなければならないとする。
 最初の年に、5000人のマネジャーが一万ドル稼ぎ、5000人が1万ドル損をする。
 次の年、2年目は、2500人が2年続けて利益を生み出す。3年目は1250人、4年目は625人、5年目は313人である。
 単なる5分5分のゲームでも313人のマネジャーが5年続けて儲けを出す。純粋な運だけでだ。
 そうやって、うまくやっているトレーダーの一人を世に送り出せば、とても面白いことになる。世は、彼の成功談、その要因について興味深くコメントが寄せられる。ときには、この頭脳がどうやって生育したかをも解説してくれるだろう。
 ところが、翌年連勝が止まると(彼は退場し)、悪者探しが始まる。つまり、彼の欠点やマイナス要因を取りざたするのである。
 トレーダーが運を使い果たしただけなのに。

 *

 デイヴィッド・ヒューム(スコットランドの哲学者)は、黒い白鳥問題として次のように言っている。
 白い白鳥を何羽見ようと、すべての白鳥は白いと推論することはできない。
 一方、黒い白鳥を1羽でも見かければ、その推論を棄却するのに十分である。

 次のような数字の魔法(錯覚)の例もある。
 人生は、偶然の出会いでいっぱいだ。
 誕生日のパラドックスというものである。
 アトランダムに選んだ他人と誕生日を言い合って、同じ日である確率は、365.25に一つだ。出会ったとすると、かなりの偶然だ。
 部屋に人が23人いるとする。すると、そのうち二人の誕生日が同じである確率はいくつかというと、何と、50%だ、そうだ。
 意外と、偶然は起こりえるものだ。(計算方式を確立していないので、確かめてはいないが)。

 例えば、統計学者がデータを見て、何らかの関係を検証しようとする。何かと何かの相関関係を調べて、何か関係性が出てきた場合は、結果は本物である可能性が高い。
 ところが、コンピュータにデータを放り込んで、何でもいいから関係がないかと探せば、一見関係があるものが間違いなく現れる。例えば、株式市場の行方は女性のスカートの長さに関係がある、といったような。
 そして、誕生日の偶然の一致と同じように、そういうことがあると人は感心してしまう。

 著者は次のようにも言う。
 データ・マインニングという行いを神学にしてしまった人がいる。それは、マイケル・ドロズニンの書いた「聖書の暗号」である。
 陰謀論が生まれる背景にも、同じ仕組みが働いている。
 芸術家や芸術か集団が描いた絵を大量のコンピュータに取り込んで、彼らの絵に共通する特徴を(何十万という特徴のなかから)一つ見つければ陰謀論なんて簡単に作れる。
 ベストセラー「ダヴィンチ・コード」の著者がやったことも、どうやらそんなところのようだ。

 *

 「ビュリダン(14世紀の哲学者)のロバ」と言われているものがある。
 偶然の結果に見られる非線形性を使って、行き詰まった状態から抜け出すことができる場合がある。
 お腹の減り具合と喉の渇き具合が同じぐらいのロバがいるとする。食べ物があるところと水があるところは別々で、今いるところから完全に同じ距離だ。この設定だと、ロバは飢えと渇きの両方で死んでしまう。まずどちらへ行くか決められないからだ。
 そこで、ランダム性を持ち込む。
 ロバをランダムに、ちょっと押してみるのだ。すると、どちらかに少し近づき、したがってもう一方からは少し遠くなる。どちらへも動けない状態が、即座に解決して、ロバは幸せに、たっぷり食べてからたっぷり飲むか、たっぷり飲んでからたっぷり食べるかのどちらかになる。
 これは意志決定の過程で偶然にまかせて物事を決める例で、これを一般的に「無作為抽出」という。

 *

 筆者がとても人間的なことは、確率論を語り、現実の生々しい経験上の欲望を論じながら、詩もしくは文学的なところである。彼は、彼の気に入っているC・P・カヴァフィスの詩を奏でる。
 ふるえる心を抱きつつも、意気地なしのような哀願や不平を口に出してはいけない。ただ聴け。
 そして、勇敢な行動とは、人としての品格を次のように言っている。
 英雄的とは、必ずしも戦いのなかで殺されたり、自分の命を絶ったりといったような極端な行動を指しているわけではない。
 偶然を乗り越えて状況をコントロールできるかどうかは、大なり小なり人の行動に現れる。叙事詩の英雄は結果で判断されるのではなく、とった行動で評価されるのを思い出そう。私たちがどれだけ賢明な選択をしようとも、オッズがどれだけ有利であろうとも、結末を決めるのは偶然だ。私たちにできるのはただ、尊厳を持つことだけだ。
 尊厳とは、直接的な状況に影響されずに行動するための手順に従うことである。そうしてとる行動は最適ではないかもしれない。しかし、間違いなく一番快いのはそんな行動だ。
 例えば、「プレッシャーの下での優雅さ」がそれにあたる。あるいは、得られるものが何であろうと誰かに媚びたりはしないというのもそうだろう。
 セックスの相手候補を口説いているときに、こんなサインを送るのもそうだ。
 「聞いてくれ。私はあなたにぞっこんだ。あなたのことが頭から離れない。でも、私は自分の尊厳を損なうような真似は一切しない。だから、あなたにほんの少しでも鼻であしらわれたら、もう二度と会わない」

 不幸な目にあったときから、人としての品格を大事にしよう。どんなときでも、sapere vivere の(人生を悟った)態度を示すのだ。
 勝負の日にはいい服を着る。背筋を伸ばし、胸を張って、殺し屋の集団にもいい印象を残す。
 癌だと診断されても犠牲者ぶらない。(他人には言わない。話は医者との間だけにする。ありきたりなことを言われずにすむし、誰にも哀れな犠牲者みたいに扱われずにすむ。それに、尊厳ある態度をとれば、負けても勝っても英雄の気分になれる)
 自分の身にふりかかったことを人のせいにしない。仮にそれが人のせいであっても。
 自分の大切な人がスキーのインストラクターなり若くてきれいなモデルなりと逃げてしまっても、自分を哀れむような態度は見せない。文句は言わない。

 *

 私も、ずいぶん前に、カジノに少しのめり込んだことがある。
 そこで得た結論は、ギャンブルで勝つことはないということである。
 唯一勝つには、勝ち逃げしかない。
 例え最初勝ったとしても、次か、いつか(何回目かに)吐き出す羽目になる。勝ったすべてを吐き出し、もういいと思うまで吐き出さないと(とことん負けないと)、そのギャンブルをやめられない。
 だから、勝ち逃げは(なかなか)起こらない。
 森巣博(カシノ<カジノ>打ち師、作家)は、この件に関して結論は巧みに言っていないが。
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