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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン

2010-12-04 02:47:37 | 本/小説:外国
 マーク・ローランズ著 今泉みね子訳 白水社

 最初のページをめくると、あとは夢中になった。そして、時折たち止まって、文を反芻した。
 それと同時に、1章節読み終えるたびに、惹かれた著者の呟きにも似た文章をパソコンに書き写した。記憶にとどめておきたいためである。そして、当然薄れゆくであろうその記憶と意味を、またいつか再確認したいためである。そうさせる本は珍しい。

 「哲学者とオオカミ」は、オオカミと一緒に暮らした男の、オオカミとの生活の回想の書である。
 大学の教職者(哲学)であるイギリス人のマーク・ローランズは、アメリカのアラバマ大学の準教授だったとき、「オオカミの子ども売ります」の新聞広告を見て、車を飛ばしてその日のうちに、生後6か月のオオカミの子どもを500ドルで買って帰る。
 家に帰ると、2分もしないうちに、まだ縫いぐるみのようなオオカミに、リビングのカーテンは引き裂かれ、庭に飛び出したその子に地下室の空調設備のパイプをすべて噛みちぎられた。
 こうして、著者ローランズのブレニンと名づけられたオオカミとの共同生活が始まる。それは、ブレニンが死ぬまで11年間続いた。
 マーク・ローランズは、オオカミのブレニンから多くのものを学んだ。
 私は、オオカミから学んだローランズから、この本を通して多くのものを学んだ。

 オオカミはイヌの祖先である。であるが、野生の動物である。
 この本は、オオカミの生態についての本である。それとともに、人間とは何かについての本でもある。そして、人生の目的、幸せ、時間とは何かについて言及した哲学の本でもある。かといって、こむずかしい本では決してない。
 まるで、読んでいる者(読者である私だが)がオオカミのブレニンと一緒に生活しているような気になってくる。そして、オオカミのように生きたい、と思うから不思議だ。著者がそう思うように。

 著者のローランズは、オオカミのブレニンを飼うことについては、常にブレニンの目の届くところにいるように決める。すぐに、鎖(紐)も結ばずに外に連れて行くようになる。
 一緒に走る。そして、一緒に海に浸かる。そのうち、仕事場(大学)にも、連れて行く。

 ローランズは、イヌの訓練にも言及している。
 訓練は、自分のイヌを順応へと強制する意志の闘いの場だと。
 正反対の誤りは、イヌを従順にできると思いこんでいる人は、自分のイヌが基本的に「ご主人」の思うようにしたいのだ、と苦言を呈する。
 彼のオオカミの訓練はこうだ。
 「おまえ(オオカミ)は状況が要求していることをしなければならない。状況が他の選択を許さないのだから」

 ローランズは、アメリカのアラバマからもっと広い土地のアイルランドへ移る。そして、大学(職場)を変えたのでロンドンへ、さらに環境のいい南フランスへと、いつもブレニンのことを考えながら引っ越しを繰り返す。
 彼はオオカミ(ブレニン)との共生を通して、動物への理解、動物に対する徹底して道徳的姿勢として、大好きなステーキを断念してヴェジタリアン(菜食主義者)になる。一時、完全菜食主義者(ヴィーガン)ですらあった。また、ブレニンはペスクタリアン(魚、乳製品、卵を食べるヴェジタリアン)となった。

 *

 この本を読んでいて、田舎の子どものときを思い出した。
 近所でシェパードを飼っていた。もちろん家の外で、放し飼いのようになっていた。
 当時、田舎では犬を室内で飼うなんてことはなかった。紐や鎖で繋がれることはなく、犬は自由に動き回っていた。犬は人間ではないけれど、学校にも仕事にも行かない近所の人、といった感じだった。
 子どものときだから、その犬はとても大きく見えた。そして、決して吠えたり人を噛んだりはしなかった。
 「トネ」という名のその犬は、いつも私たちの遊ぶ領域をうろついていた。私たちは、その犬を友人のように扱っていた。ボールや小枝を投げて、取ってこらせてはしゃいでいた。
 トネの他に、野良犬もよくいた。飼い犬と野良犬はすぐに区別がついた。もちろん首輪があるなしで分かるのだが、それ以外にも野良犬は性格が卑屈だった(人がそうさせたのだが)。人が近づくと、上目づかいに顔を見て、低くウーと唸った。
 東南アジアでは、今でも野良犬がよく歩いている。
 
 猫は、ほとんどが野良だった。猫も家の周りをよくうろついていた。
 犬と違って猫は憎まれっ子で、床下や塀の上にいるのを見つけられては、子どもに石などを投げられていた。猫はすばしっこいので、子どもの投げた石が当たることはなかった。
 時々、犬と猫が道で鉢あわせすることがあった。あるとき、前から嫌いあっていたのか、その日癇にさわることがあったのか、両方が相撲の仕切のように睨み合った。犬がワンワンと吠えて、猫が背中を高く丸め尻尾を逆立て、低くニャーと唸った。
 この成りゆきを見ていた私たちは、犬は強いものと思っていたから、当然犬が勝つものと思っていた。そしたら、ワンワンと吠えていた犬が、相手の猫がギャーと鋭い泣き声をたてるや、「すみません」とばかり、すごすごと背中を見せて退散したのだった。それを見て、私は犬にがっかりした記憶がある。
 
 かつて犬や猫は、捕らわれ、もしくは囚われの身ではなかった。少なくとも、今日ほどには。
 こうした自由な犬や猫を見て育ったので、都会で、しかも集合住宅で動物を飼う気にはなれない。特に、都会の犬は可哀想である。その本質が代々そこなわされていると感じる。
 元々彼らは、はるか何世代も前は、野や山を駆け回っていたのだから。しかし、今日、その面影を見つけるのは難しい。

 ローランズはこう言う。
 「人がどういう人間かを判定するとき、私は常に、その人が自分よりも弱い人間をどう扱うかを目安にしている。
 人間は弱さをつくりだす動物だ。人間はオオカミを捕らえて、犬に変える。バッファローを捕らえて、牛に変える。種ウマを去勢ウマに変える。私たちは物を弱くして、使えるようにするのだ。」

 現在は、異常なほどのペット・ブームだ。
 2006年度の日本ペットフード工業界の調査では、犬の飼育頭数約1300万、猫約1200万、計約2500万匹で、14歳以下の人間の子どもの数約1800万人をはるかに上回る数だ。
 人間は少子化で減っているのに、ペットは増えている。
 犬用ベーカリーのアメリカ人経営者が、日本の光景を見て、「犬をベビーカーに入れることまでは想像できない」と言っていた。

 *

 ローランズは、ブレニンを通して、オオカミ(イヌ)と、サル(人間)の違いについて考える。
 「陰謀と騙しは、類人猿やその他のサルが持つ社会的知能の核をなしている。何らかの理由で、オオカミはこの道を進まなかった。
 類人猿の王様、ホモ・サピエンスにおいて、このような形の知能は最高点に達した。」

 そして、おそらく最も重要なことを、まだ私には明確には分かっていないのだが、彼はこう言った。
 「私たちの誰もが、オオカミ的というよりサル的であると思う。
 サルの知恵はあなたを裏切り、サルの幸運は尽き果てるはずだ。そうなってやっと、人生にとって一番大切なことをあなたは発見するだろう。そしてこれをもたらしたものは、策略や智恵や幸運ではない。
 人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。あなたはいろいろな存在であることができる。けれども、一番大切なあなたというのは、策略をめぐらせ、自分の狡猾さに喜ぶあなたではなく、策略がうまくいかず、狡猾さがあなたを見捨てた後に残るあなただ。
 最も大切なあなたというのは、自分の好運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ。」

 ローランズは語る。
 「私がブレニンから学んだレッスンというとき、こうしたレッスンは直感的なものであって、基本的には非認識的なものだった。これらのレッスンはブレニンを研究することから学んだものではなく、生活を共にすることから学んだ。
 そして、レッスンの多くを私がやっと理解したときには、もはやブレニンはいなかった。」

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□ 最終目的地

2010-04-29 19:41:46 | 本/小説:外国
 ピーター・キャメロン著 岩本正恵訳 新潮社

 自分にはこの道しかない、この道が閉ざされたらすべてが終わりだ、と思うときがある。
 そう思うのは、多くが若いときの、受験だったり就職試験だったりのときである。また、あるときは恋の場合もあろう。
 しかし、あとから振り返ると、道はその道だけとは限らないことを知る。自分の望むただ一つの道が閉ざされても、別の道があるものなのだ。
 とはいっても、その時点ではそうは思えない。正面に広がっている道以外は、道とはいえない薮や闇にしか思えないのだ。
 しかし、望む道が遮られても、前に進まないといけない。とにかく進んでみて、違った脇道があるのを知るのだ。その脇道に、もっとすばらしい展開が待ちうけているかもしれないのだ。
 いやいや、すばらしいかどうかは分からない。その表現は間違っている。そもそも二つの道の比較はできないのだから、どちらがすばらしいかなど言えるはずがない。人は二つの人生を歩むことができないのだから。
 ただ、望む正面の道はある程度予測可能だが、脇道は何が起こるか分からないという予測不可能の道なのだ。
 どの道に進むにしろ、それが人生である。

 *

 アメリカのカンザス大学の大学院で文学を学んでいるオマー・ラギザは、作家のユルス・グントの伝記を執筆する計画でいる。この伝記を執筆するということで、大学の研究奨励金を受けていたし今後も受けられる予定である。それに、この伝記の執筆が終わったら、大学出版局から出版する認可も受けている。
 そうすると、博士課程を順調に進級・受得すると同時に、大学への教職の展望もうまく開けてくるだろう。つまり、彼の伝記作家としても研究者としても、レールに乗るだろうと思われるのだ。
 それには、故人となっている伝記対象者のユルス・グント氏の遺言執行者の伝記執筆に関する公認証明書が必要で、それを大学に提出しなければならない。要するに、グント氏の関係者の正式な許可が必要というわけである。
 グント氏の遺言執行者は、氏が作家活動を行った南米のウルグアイに住んでいる。
 関係者は3人いて、ユルス・グントの元妻、元愛人、それにユルス・グントの兄である。

 オマーが、彼らにユルス・グントの伝記の執筆依頼と、その公認証明書を与えて欲しいとする手紙を送るところから、この物語は始まる。
 しかし、オマーのもとに、思いもよらない不許可の返事が来る。
 彼は途方に暮れる。ほかの選択肢は考えていなかったし、見つからなかった。そんな彼を見て恋人のディアドラは、すぐにウルグアイに行って、彼らを説得するように言う。
 このような事情で、オマーは彼らが住む見知らぬウルグアイに行くことにする。
 住所をもとにたどり着いたそこは、静かな人里離れた村で、彼らが住む古い邸宅があった。
 突然の招かれざる若い男の出現は、彼らの心にそれぞれ波紋を呼び起こす。

 著者のピーター・キャメロンは、1959年生まれのアメリカの作家。少年時代をイギリスで過ごしている。本書は、「日の名残り」を撮ったジェイムス・アイボリー監督によって映画化されている。ちなみに、この映画には真田広之も出演しているという。
 
 まず裏表紙に紹介されている小説の粗筋を読んで、静かな平凡な家庭に一人の若者がさ迷いこんできて、彼らのすべての人と性的関係を持ち、家庭を崩壊させて去っていくという、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア映画「テオレマ」(テレンス・スタンプ主演)を想起させた。
 また、一人の男を巡る3人の姉妹との関係・動揺を描いた、韓国映画でイ・ビョンボン、チェ・ジウ主演の「誰にでも秘密がある」をも思い出した。

 しかし、この物語は少しニュアンスが違った。主人公は、完璧な男ではない、気の優しい青年である。
 作家の元妻、愛人、兄。彼らの一人一人が、作家の伝記に関して違った思惑を持っていて、違った目でさ迷いこんできた男を見、接した。やがて、そこで静かに暮らしていた彼らの過去が、少しずつ顕わになってくる。
 南米の静かな村。このまま平穏に進んでいくのではないかと思われた一見穏やかな関係に、亀裂が入る。関係の崩壊と同時に新しい展開が始まる。
 しかし結局、伝記を書くことしか思いがよらなかった大学院生のオマーは、すべてを捨て、まったく違った道を歩むことを決心する。
 物語の最終では、一人の男の道だけでなく、関係者のすべてが違った展開、道に出くわすことになる。おぼろげながらにこのまま進むであろうと思っていた静かな道以外に、別の道が現れたのだった。

 人生には、大きな真っ直ぐな道以外に小道や脇道や、人のあまり通らない獣道も存在する。思いもよらないところから出現する新しい細い道を一歩進むことから、その道は大きな道に変わる。それは、新しい人生とも言える。
 もちろん、それが正しい道とも、よりすばらしい道とも、誰も言えない。一歩前に進まなくとも、それは人生である。何を、誰に咎められよう。
 どのような道を選ぼうとも、時は均しく人に与えて、いつしか過ぎていく。

 ともあれ、「最終目的地」(The city of your final destination)は、どこにあるか分からない。決まっていないのが人生である。
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□ 初夜

2010-03-05 01:40:50 | 本/小説:外国
 イアン・マキューアン著 新潮社刊

 初体験は誰でも忘れがたいものであり、それは、ついに得た、やっと到達したといった、喜びに彩られるまでいかなくとも、それらのニュアンスが混じった表現が可能な幸せな者ばかりとは限らない。そこにたどり着くまでの過程は、誰もがそれぞれに深刻であり、見方によっては滑稽であり、場合によっては悲劇的な出来事になることもある。
 現在の性の開放を見ていると、初体験の年齢は著しく若年化していて、深刻さはあるにしてもかつてとは比較になりそうにない。
 僕は、飲み屋(スナック)に行った際、客がほかにいないのを幸いに、居並ぶ女性たち数人に初体験の年齢を語らせたことがある。20代の彼女たちの初体験は、おしなべて高校生のときに終えていた。その後も数少ない採集ではあるが、概ね同じような答えであった。この数字は、彼女たちがお水の仕事もしくはアルバイトだからというのではないようだ。
 彼女たちによると、友人のほとんどが高校時代に終えていて、なかには小学6年のときに体験した子もいたと証言した。しかも、彼女たちの喪失動機が、友だちも体験していた、終わっていたので私も早くと思っていた、という安易な答えが多いのには驚いた。
 若い女性が、初体験を開けっぴろげに語るのを、いい時代になったと言うのか、時代が進歩したと言っていいのか判断は難しい。
 しかし、初体験、それが真剣で深刻な問題であったのは、そう遠い時代のことではない。結婚するまで女性は処女でないといけない、あるいはそうである方が望ましいという考え方は、長い間、真剣に考えられてきたのだ。たとえ過去にそのような体験があっても、それは過ちとして覆い隠した方がいいと思われていたのだ。
 しかし、時代は変わった。
 いつの間にか、性がおおっぴらに語られ、それが恥ずかしいものではないようになっている。その傾向は、女性に顕著だ。
 巷には、雑誌、ビデオ、DVD、インターネットなどで、性が氾濫している。
 大きく変わったのはいつの頃からだろうか?
 石原慎太郎の「太陽の季節」に捩った、太陽族が出てきた1950年代後半からであろうか?
 いや、あの頃は、そのような若者はまだごく一部と見なされていた。だから、話題にもなったのだ。
 若者週刊誌「平凡パンチ」が創刊された1960年代中頃になると、大分性が語られるようになってはきたが、それはまだ男性からの一方的発言で、それでもまだメジャーではなかったはずだ。
 「an・an」あたりの女性誌が、「セックスで美しくなる」などの特集を組み始めたときは、もうそこには女性の羞恥心はない。
 少なくとも1960年代初頭は、性は厳粛だが隠微で、聖域だが猥褻で、大きな葉の下で湿っぽくはびりついているコケのように、日向で語られるものではなかった。

 小説「初夜」は、1962年のイギリスが舞台の、結婚初夜を迎える若い2人の一夜を描いたものである。
 この本の表紙折り返しの宣伝文に、この小説の時代背景を「性の解放が叫ばれる直前の1962年」と書かれている。この文から推察すると、イギリスにおいては、性は60年代の中ごろに解放が叫ばれたのだろう。
 ということは、イギリスにおいてもそれ以前は、性は閉鎖的だったのだ。
 いや、全世界でそうだったのだ。60年代、性の解放の嵐が起こった。おそらく、当時から文化やそれに付随する風俗は、グローバリズムが働いていた。
 ロック音楽が台頭・勢いを増し、若い女性たち、特に高校・大学生を巻き込んで、女性のスカートが膝上まで一気に短くなり、ミニスカートが瞬く間に大手を振って街を歩くようになった、若者文化・風俗と無縁ではないのだろう。
 この小説は「初夜」という生々しい題名だが、原題はイギリス海峡に臨む海辺の、「On Chesil Beach」(チェジル・ビーチにて)という平凡なネーミングだ。
 お互い愛しあっている、歴史学者を目指すエドワードとヴァイオリニストを目指すフローレンスは、無事結婚式を終え、風光明媚な海辺のホテルにて新婚初夜を迎える。
 2人とも初めての体験である「初夜」を前に、その揺れ動く心と、2人の出会いと環境が瑞々しいタッチで描かれる。

 小説の出だしは、こう書かれている。
 「彼らは若く、教育もあったが、ふたりともこれについては、つまり新婚初夜についてはなんの心得もなく、彼らが生きたこの時代には、セックスの悩みについて話し合うことなど不可能だった」
 そこは結婚式のあと2人で泊まるホテルのレストランで、ディナーのひと時である。これから迎えるであろう、初体験に対する2人の思いが、次第に仔細に描かれていく。
 「1年以上も前から、エドワードはその瞬間をうっとりと夢見ていた。7月のしかるべき日の夜、自分自身のもっとも敏感な部分が、たとえ束の間にせよ、この快活で、かわいらしく、おそろしく聡明な女性の内側に自然に形成されたくぼみのなかにとどまることになるはずだった。どうすれば滑稽に陥らず、落胆させることなしに、それを達成できるかというのが彼の悩みだった」
 「フローレンスの心配はもっと深刻だった。オクスフォードからの道すがら、何度となく、ありったけの勇気を奮い起こして、それを打ち明けてしまいたいと思ったほどだった。
 エドワードの悩みは昔からよくある初舞台の緊張にすぎなかったが、彼女が感じていたのは腹の底からの恐怖、船酔いと同じくらいはっきり感じられる、どうしようもない嫌悪感だった」
 初体験とは、このように臆病で切ないものだったことが、まるでセピア色の懐かしいアルバム写真を眺めるかのように、作者、イアン・マキューアンは自身の結婚初夜を思い起こすかのように綴っていく。

 マキューアンといえば、1998年「アムステルダム」でブッカー賞を得、2001年、キーラ・ナイトレイの主演で映画化された「つぐない」、原題「贖罪」がベストセラーとなった。1948年生まれで、今ではイギリスを代表する作家である。
 性が今のように開放されていない時代の若い2人の初体験、それも結婚初夜という大切な一夜を、マキューアンは丹念に、弦楽四重奏曲のように描いた。決してオーケストラのように仰々しくではなく、あくまで室内楽団が演奏するように。
 初夜を2人は、どう乗り越えていくのか? と、興味はそそられていく。
 ところが、その初夜で、2人の人生は変わってしまう。
 今だったら、こんなに深刻ではなかったかもしれない、確かにこのような時代があった、若い男女の初体験の物語である。
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□ 上海ベイビー

2009-10-14 15:00:20 | 本/小説:外国
 衛慧著 文芸春秋社刊

 本の帯に、「たちまち発禁処分を受けた中国の大ベストセラー。ポルノか新人類文学か?」とあるように、話題になった本だ。
 2006年には、映画化(ドイツの作品として)され、謎の富豪夫人役で松田聖子が出演している。

 上海は、かつて第2次世界大戦前は外国の租界地だったこともあって、中国の中では海外の影響を大きく受け、それが波打っている街だ。
 そんな街だからこそ、この小説が生まれたのだろう。

 1999年の上海を舞台にした、作家衛慧の自伝的小説である。この物語の主人公は、崇拝するココ・シャネルに因んでココである。そして、主人公である作家の最も崇拝する人物は、ヘンリー・ミラーであり、ここ上海の街で、誰かに注目されることがないかと思って生きていると自分に呟くことで、この物語は始まる。
 「上海は、1日中どんより靄がかかって、うっとうしいデマといっしょに、租界時代から続く優越感に満ち満ちている。それが、私みたいに敏感でうぬぼれやすい女の子をいつも刺激する。優越感を感じること、そのことに私は愛憎半ばする思いがある」

 ココは、上海のカフェでウェートレスをやりながら、小説を書いている25歳の女性である。
 彼女の恋人天天は、繊細でハンサムな男だが、両親との複雑な関係からか、性的障害を持っていた。
 そンな状況の中で、彼女にドイツ人のマークが近づいてきて、二人は男女の仲になり、彼女は性に耽溺する。

 舞台は上海なのだが、ニューヨークとも東京とも言ってよい、自由で奔放な恋愛が語られる。
 かといって、自由主義社会の文学では、発禁になるといった過激さではない。資本化を推し進めているとはいえ、社会主義を標榜する中国で生まれた小説としては、このような自由奔放な性愛を語る小説は異例なのであろう。
 旧租界地の自由さが生き残っている街、高層ビルが雨後の筍のように生まれている街、中国での上海、それは特異な街なのであろう。

 *

 上海を旅しようと思い、この本を手にしてみた。上海について何も知らないが、10月15日より、しばらく上海に行くことにした。
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□ 女は人生で三度、生まれ変わる

2009-01-23 19:39:20 | 本/小説:外国
 ローアン・ブリゼンディーン著 吉田利子訳 草思社

 男性と女性が違うという経験は、誰もが持ったことがあるだろう。
 まず、肉体的特徴が違うのだから、いくらか違うのは当然だと思うが、考え方や性格となると、正確に言い表すことが難しく漠然とした表現になる。ましてや、何故という原因にまで追究されると、生理的なことだろうと、これまた霧の中に茫漠と消えてしまいそうだ。
 ある程度人生を生きてきて、何人もの女性と接し、何人かの女性と恋をし、それに関する多少の本を読み、少しは女性を知ったつもりになっていた。
 しかし、やはり女性の行動や考えは分からないのであった。分かったと思えば思うほど分からないと言ったほうがいいかもしれない。

 この本は、男と女の違いは、すでに遺伝子で決定されていて、その違いは脳に起因しているという視点で書かれたものである。
 特に女性は、年齢によっていくつもの変化を遂げるが、中でも最も大きい変化は、思春期、子供を産んで母親になる時期、それに更年期だという。

 男と女の違いは、赤ん坊のときから違うという。
 「女児は生まれたときから情動の表現に関心を持っている。相手の表情や触れ合い、反応から、自分がどんな意味を持つ存在であるかを感じとる。
 女児は男児に比し10~20倍も母親の顔をうかがい、自分がしていることがいいことかどうかを確認した。
 男子は、母親を無視しているのではなく、警告の音調を聞きとることができない。
 だから、女の子の社会、言語、人間関係のスキルは男よりも何年も早く発達する」
 言葉を早く喋るのは女の子だし、女の子は相対的に早熟なのは脳の違いだったのだ。

 男と女の違いは、十代で顕著に現れる。
 「女の子は人間関係のストレスに、男の子は自分の権威への挑戦に強く反応するようになる。
 思春期の女の子がおしゃべりなのは、おしゃべりを通じた繋がりは少女の脳の快楽中枢を活性化するのだ。それに、女の子の方が孤立することに強いストレスを感じるのだ」

 男と女の恋愛の基本的システムは、男が追い、女は選択する。この形は石器時代からそうであるし、ほとんどの動物も同じである。オスが求愛し、メスが選択し受け入れる。
 恋に陥るとは、男女双方にとって、最も不合理な行動だという。つまり、相手の欠点が見えなくなるのだ。
 「恋の典型的な初期症状は、アンフェタミン、コカイン、ヘロインのようなアヘン系物質やモルヒネ、オキシコンチンなどの薬物の最初の頃の効果と似ている」
 脳の状態はほぼ6か月から8か月続くという。
 恋人の不在は、禁断症状なのだ。だから、遠距離恋愛も恋には悪いとは言えない。

 興味深いのは、ボディランゲージの効果だ。
 寄り添い、抱き合っていると、特に女性は脳にオキシトシンが放出されて相手を信じやすくなる。
 「抱擁に関する実験から、オキシトシンはふつう一人の相手と22回の抱擁ののちに脳内に放出されることが分かっている」
 だから、相手を信頼するつもりがなかったら抱擁はしないほうがいいし、相手を信頼させたかったら、頻繁に抱擁することである。

 片時も離れたくないといった情熱的恋愛も、いつしか静かな恋に変わる。
 脳に放出されたドーパミンは、だんだん鎮静化するのだ。ロマンチックな情熱的恋愛は、穏やかな愛着と絆の回路に変わっていく。
 熱烈な情熱的恋愛が永遠に続かないことを、私たちは知っている。ずっと恋愛関係を保っているカップルは、違った脳に移行しているのだろう。

 男と女の対応の違いも多々あり、おたがい戸惑うことも多い。
 女性は、誰かがつらい思いをしていると、自然に傍にいてやろうと思うし、慰めの言葉をかけるものだ。だが、男性は意外とそっけない。
 「男性は、自分が辛い思いをしているときには他者との接触を避けようとする。つまり、トラブルを一人で解決しようとする」
 だから、女性も同じだろうと思うところで、男女のトラブルが起こる場合もある。

 この本は女性神経精神科医により、女性を対象に書かれたものだが、男と女の違いを知るうえで興味深い部分も多かった。
 脳の違いを知ったところで、女を知ったことにはならないだろうなという思いが残った。
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