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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

曜変天目の謎に迫る、「中国と茶碗と日本」

2013-04-25 03:02:12 | 本/小説:外国
 中国に「南橘北枳」(なんきつほっき)という言葉があるらしい。南の橘(たちばな)が北へ移ったら枳(からたち)に変わってしまうということである。橘も枳も同じミカン科であるが違う木である。
 中国人で日中の比較文化の研究をしている彭丹(ほうたん)(法政大社会学部講師)は、日本と中国の文化の違いをこの例えをもって説明する。

 2009年に、私が中国の上海を旅したときである。
 中国語はできないが、同じ漢字の国だから少しは分かるだろう。いざとなったら筆談でもいいわけだから。こう思っていたのは甘かった。駅や街中の表示は漢字で書かれているにもかかわらず、大半がわからなかった。中国が略字体というだけでなく、そもそも日本と違う単語が多すぎた。同じ漢字文化圏でありながら、こうも違うのかと思った。

 こう思ったのは、日本人だけでなく、日本語を勉強した中国人もそうなのだった。
 先にあげた彭丹が、中国にいたときに日本語を学び始めて、日本の漢字に驚く。
 日本の漢字に「訓読」と「音読」の2通りの読み方がある。訓読が日本のやまと言葉の読みだから中国語にはないとして、音読が中国読みかといえば、そうとは限らなかったのである。いや、現代の中国読みとは全く異なっているという。
 それだけではない。中国では、原則的には1漢字につき1音が統一されているが、日本の漢字には、音読にいくつもの読み(発音)がある。
 例えば、日本では、「青」は訓読みの「あお」以外に、音読みでは「ショウ」と「セイ」がある。それより多いのもいくつもある。例えば、「行」「明」「経」の類は、音読みだけで3通りもある。
 氏は、このことに驚く。
 なぜこうなったかというと、日本にこれらの漢字が中国からもたらされた時代によって、読み方が違ったのが原因だが、それを日本は丁寧にも残していたということである。
 例えば、「行」は、訓読みでは「いく」。音読みでは、呉音で「ギョウ」「ギャウ」、漢音で「コウ」 「カウ」、唐音で「アン」となった。
 中国では、古いものを捨てて新しいものに変えてきたというのに、日本では中国に残っていないものも残してきたという事実に、氏は驚きと感嘆の念を持つ。

 彭丹が日本に来て、習慣や漢字など、中国からもたらされたものでも、今では日本と中国がまったく違う形になっていたりする、多くの文化の違いに遭遇する。
 そもそも、氏は日本に留学し、日本に住むようになって、彼女が日本文化の粋とはなんですかと日本の知人に訊いてみる。すると、日本人の多くは侘び、さびと答える。日本の茶のなかに、その真髄があると言う。
 氏は、さっそく日本文化の茶道の門をたたく。そこで氏が興味が注がれたのは、茶器である。お茶にとって茶器は重要な要素で、昔から大名はじめ日本人はそれを慈しんだ。中国から輸入された貴重な陶磁器は、ことさら重宝がられてきた。
 しかし、日本人が重宝がるその茶器の陶磁器に、中国との違いを見て、氏は驚く。
 そもそも、陶磁器は中国から日本に入ってきたものである。しかし、その違いへの疑問と興味から、陶磁器を通して日本と中国の文化の違いを研究する旅に出る。
 日本や中国の多くの文献を渉猟し、ある時は現地まで訪れ、日中の様々な人から意見を聴く。
 こうして纏められたのが、「中国と茶碗と日本」(小学館)である。氏は中国人であるが、本書は翻訳でなく日本語で書かれてある労作である。
 
 この本は、今年(2013年)1月2日の本ブログ「長安を忍ぶ、元旦の屠蘇酒」で、少しふれた。屠蘇も中国では文献でしかなく、日本で元旦に屠蘇酒を飲む習慣があるのに出合い、著者の彭丹は感動したのであった。
 それを、改めて読み直したのである。

 *

 この本によって、青磁や曜変天目などがわかったし、中国人の龍紋に対する執着も理解できた。陶磁器を通して見た日本と中国の違いは、とても興味深く、それを探っていく過程は、あたかも推理小説を読むようであった。
 日本人ではたどり着かないだろうことが、中国人の目を通せば、ああこういうことかというのも、貴重な視点発見だった。

 現在、日本には8点の国宝茶碗がある。そのうち中国製が5点を占める。
 そのなかで、「曜変天目茶碗」というのがある。世界に3点しか現存しなく、その3点は中国製で、しかし3点とも日本にあり、国宝となっている。この事実は、注目すべきことだ。
 「天目茶碗」とは、宋代に中国で焼かれた、漆黒の釉色が特徴の黒磁茶碗である。「天目茶碗」とは日本での呼称で、中国では「黒盞」(こくさん)と言うらしい。盞とは茶碗の意とある。
 「曜変天目」は、漆黒の釉色のなかに、いくつかの瑠璃色の暈を持った銀色の斑点が浮かびあがった茶碗である。
 私も数年前、世田谷美術館でこの展示会をやっていたのを見に行ったことがある。黒い茶碗の底に妖しく虹色の歪んだ点が光るさまは、確かに人智を超えたもののようであった。
 「油滴天目」とは、漆黒の釉色のなかに、銀色の油滴様斑点が一面に散りばめられた茶碗である。曜変と比べて遺品が多く、曜変より評価は低い。
 その曜変天目であるが、中国で作製されたにもかかわらず、なぜか中国には1品すら残っておらず、それどころかその痕跡すらないという。なぜなのか?
 その謎が、この本では解かれていく。
 中国では、どの時代でも、天上の日月星辰、地上の陰陽五行の変化を通して、天意を推測し、吉凶を判断してきた。曜変天目と、この中国の陰陽五行が関係があると氏はいう。
 そして、おそらく「窯変」から「曜変」へと名称が変わった過程も突き詰めている。

 曜変天目の作り方はいまだ分かっていない。現代でも、多くの陶工家がこの曜変天目の再生に挑戦してきた。しかし、まだ誰も成功した人間はいないようだ。
 私の手元にある、曜変天目ではないが、「油滴天目」と「禾目(のぎめ)天目」と思われるもの(それを目指したものか)があるので、掲示してみた。(写真、右:油滴天目、左:禾目天目)
 もちろん宋時代のものではなく、今日の日本人作家のものである。
 今でも曜変天目に挑戦して、黙々と作り続けている陶工がいるに違いない、と想像するだけで胸がわくわくする。
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畏敬の念を抱かせる、「狼の群れと暮らした男」

2013-02-10 03:09:33 | 本/小説:外国
 狼は、その名の通り神々しい。人におもねることのない、威厳を漂わせている。それで、日本人は畏敬をこめてオオカミ(大神)と呼んだに違いない。
 西洋でも狼は特別だ。ローマで見られるオオカミの乳房に食らいつく双子の子ども像は、のちのローマの建国者だ。
 子どもの頃、野生のライオンや狼と友だちになれたらと夢想したものだ。ターザンのように。
 しかし、ニホンオオカミは絶滅したように野生の狼は減少しており、われわれも狼そのものをめったに目にすることはない。

 狼を飼った男が書いた「哲学者とオオカミ」(マーク・ローランズ著、今泉みね子訳、白水社刊)は、非常に興味深い書だった。この著者は、子どもの狼を引き取って育て、一緒に生活し観察したものだった。
 <2010年12.月4日ブログ>
 http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/5d449260950bd3c7d9b03a5ab702695c

 ところが驚くことに、本当に野生の狼の群れの中に入って、狼とともに生きた人間がいた。
 かつてインドで、狼に育てられたという少女2人が発見されて、世間を騒がせたことがあったが(育てた神父の創作劇という説もある)、そのような話ではなくて、ちゃんと現代の文明社会に育ったイギリス人の男が、自らの意志で狼の群れに入り込んだのだ。
 現在、ロッキー山脈にあるアメリカ合衆国のイエローストーン国立公園では、絶滅したオオカミを再び導入し、野生の状態においている。男は、その森の中に1人入って、狼と接触し、その群れの仲間として生きたのだ。

 「狼の群れと暮らした男」(ショーン・エリス、ペニー・ジューノ著、小牟田康彦訳、築地書館刊)は、狼に仲間と認められた男の話である。
 その男ショーンは、森の中の狼の群れに入り、少しずつ距離を縮めていって、狼とのボディランゲージをとるのを試みる。
 人間に飼いならされた犬に対するように、エサ(食料)を与えて安心感と主従関係を作るのではない。彼は自らも野生の生活をし、何も与えるものも持たずに素手で狼に近づき、接触を果たすのである。
 仲間と認めてもらうために、何度も足や口を噛まれる。また、喉や腹を彼らにさらけ出さねばならない。一歩間違えば自殺行為である。いや、彼以外の人間だったら命はなかっただろう。
 さらに驚いたことに、群れに入った彼は、逆に狼から、彼らが狩から獲ってきたシカやウサギなど獲物の肉の1片を与えられるのである。彼は狼と同じように、その与えられた肉を食することによって、生きながらえていく。
 森での生活は、2年間も続く。
 狼に人間は怖いものでないという認識が植えつけられる前に、男は狼の群れから離れる。そのとき、男にとっても限界だったという。

 人間社会に戻ったときに、男がまず蜂蜜が無性に食べたくなったというのが印象深い。実際、すぐに瓶の半分を一気に食べたという。
 しかし、2年間の野生生活の間で、男は痩せ衰え、胃は小さくなっていて、現代社会の食事は受けつけなくなっていた。元の生活に戻るのに、かなりの時間がかかった。

 男は、吹雪の森の中で、腹が減り心身ともに壊れ始めたと思ったときのことを、次のように書いている。
 「どんな状況にいようと、どんなに絶望的に見えても、急いで選択肢を探さなければいけない―どうやって腹を膨らませるか、自分を守るために、あるいは傷の手当てに何を利用できるか。気持ちを強く持たねば、死あるのみだ。オオカミが同じだ。彼らは決して諦めない、決して自分をみじめだと思わない。彼らは致命傷を負っても走り続ける。だから私は何よりオオカミのようでありたかった。ほとんどの人間は愛玩動物を自分に似せようとしたがる。私は自分が大好きな動物のようになりたいといつも思った。」

 「オオカミは殺戮の力を持っておりいつでもそれを使えると示すが、どうしようもないときにしかそれを行使しない。」
 物語や空想ではない、本当に狼になりたい男の話を読むうちに、狼が愛おしくなり、会いたくなってくるから不思議だ。

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20歳の思い、ニザン「アデン、アラビア」

2013-01-10 19:12:48 | 本/小説:外国
 「20歳、それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」
 20歳を過ぎたときから、僕らはこの言葉をしばしば口にした。それは、あっという間に過ぎ去った20歳という若さの象徴的年齢を嫉妬するようでもあり、20歳といえばまだ青二歳だという、自分より若い人間たちを軽くいなそうとする思いも含んでいた。
 僕らは、つまり僕の若い頃は、同世代の男たちは同じように、この20歳……という言葉を自嘲を含めて呪文のように口にした。この言葉だけで、まるでポール・ニザンという人間を知っているかのように。
 とりわけ若さをメタファーとして強調する場面では、遠のいていくそれへの逆説的言い訳のように、その台詞を口にした。僕はもう誰に出したかも忘れてしまったはるか昔に、恋文にもこの言葉を引用した。
 ポール・ニザンは、セピア色の青春の片隅に顔を出す名前だ。

 町の図書館の閑散とした棚の中から、ポール・ニザンの「アデン、アラビア」を見つけた。池澤夏樹編集による「世界文学全集」(河出書房新社刊)の1巻だ。
 それに、サルトルの研究者でフランス文学者の海老坂武の自伝にしばしば出てくる本である。
 この「アデン、アラビア」の冒頭の文が、この20歳……である。
 厳密に書けば、小野正嗣訳によるとこうである。
 「僕は20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」
 そして、次のように続くのであった。
 「何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツイことだ。」
いつの時代でも若さというものは、希望よりも現実に対する懐疑や否定や怒りの方が大きいものだろう。

 ニザンがフランスに生まれたのは1905年で、高等師範学校を卒業後アデンに出発したのは27年、翌年帰国。31年「アデン、アラビア」を出版している。まだ26歳のときだった。
 この本を20歳のときに読んだなら、僕はもっと熱狂しただろう。文体は若さの持つ発熱したものだし、時代と社会への懐疑と反逆の鋭敏なまなざしは、のちの実存主義の萌芽に満ちている。
 しかし、時代も僕も、時の流れのなかで移り変わってしまった。サルトルも読まれなくなった時代だ。
 それでも、この本の精神には普遍性がある。若者特有の痛ましい刃物のような精神の呟きと叫びが文章から溢れている。

 「旅って言葉にまだどんな意味があったのかって? このパンドラの箱には何が入っていたかって?
 自由、無私無欲、冒険、充実感。多くの不幸な人には届かず、カトリックの青年たちにとっての女性がそうであるように夢のなかでしか手に入らないものすべて。この言葉のなかには、平穏、喜び、世界を讃えること、おのれに満足することが含まれていた。
 崇拝の対象となった作家たちが引き合いに出された。スティーブンソン、ゴーギャン、ランボー、ルバート・ブルック。」

 1920年代、旅はまだ一般人には及ばない、自由や冒険を含んだ憧れの延長にあった。今日のように、簡単に飛行機で一飛びの物見遊山という時代ではない。わが国でいえば、永井荷風や金子光晴の旅のように遥かな人生行路だったのだ。
 そして旅とは、逃走でもあった。
 閉塞感溢れる世界からの逃走は、自由と自己変革への脱出だった。
 自閉症に苦しんでいた20歳の頃のニザンは、海外への脱出を夢み、アデンでの家庭教師の職を得る。雇い主はフランスの輸入業者の大商人であった。

 そう、20歳、それは決して美しいときではなく、今あるそこからの脱出、逃亡の季節なのである。
 20歳、まだ吉凶定かならぬ目の前に現れ始めた巨大な社会に臨むにあたって、それは精神的に最も苦しいときかもしれない。

 「ひと月の間、海の上にいて、風になぶられ、そこかしこで停泊し、風のなかでこそこそと話をしていると、この旅がどんなものからなりたっているかわかってくる。この旅に何が起こるのか?」

 古くから海運の要衝であったアデンはアラビア半島の先端に位置し、現在はイエメンに属するが、長くオスマン帝国の支配下にあった。のちにイギリスの植民地となり、スエズ運河が開通してからはさらに重要性が増した街である。
 ニザンがアデンに行った当時は、ヨーロッパ人の植民地政策によるコロニーができていた。

 「東洋と大英帝国が混じりあうここで、週ごと夜ごとに、めまいがどんどんひどくなっていったが、こんなとんでもないめまいがあるなんて思ってもみなかった。」

 「土地と顔が持っていた真新しさが失われ、さまざまな色あいにもあたり前になり、風景が色あせたものになっていけば、アデンを理解しようとすることはもう不可能ではない。
 アデンは数多くの縄をしっかり束ねる結び目である。この東洋の面白さを知りつくし、縄を引っぱりこの結び目を締めつける諸力を汲み尽くすには何か月もいらなかった。」

 ニザンがアデンで見たものは、ヨーロッパの植民地搾取の過酷な実態だった。その実情を見ながらも、彼は真剣にビジネスマンになろうかと考えたという。まるで、アデンで詩を捨て去ったランボーのように。

 ニザンはアデンから帰国後、結婚、そしてフランス共産党に入党し執筆活動を続けた。しかし、のちに独ソ不可侵条約にショックを受け党を脱退。直後、アルザスに兵士として動員され、1940年、ダンケルクから撤退の途中、戦火のなかで死亡した。35歳だった。

 戦後、いったんは文壇からも社会からも葬り去られたようなニザンだが、1960年、サルトルの序文を付した「アデン、アラビア」が再刊されるや、ニザンは復活する。時代を先取りしていたニザンに、やっと時代が追いついたと、本書の解説で澤田直(立教大教授)は書いている。
 フランスの1968年の5月革命を経て、怒れる若者のヒーローとなり、ニザンは青春の象徴的作家となった。
 「20歳、それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」
 「アデン、アラビア」は読まれなくとも、ニザンのこの言葉だけは生き続けるだろう。

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現代ミステリー・ガイドのような、「二流小説家」

2012-03-21 00:40:32 | 本/小説:外国
 若いとき、名前は忘れたが有名な作家が「ミステリー小説は読まないようにしている」と話していたのが記憶の底にいまだに残っている。
 その理由が、純文学を読まなくなるからというのだった。つまり、面白くて、読書の傾向がそちらの方にいって、事件も殺人も起こらないどころか、深刻で堅苦しい純文学系統の小説を読む気が失せると困るからという主旨だった。
 そのとき、僕はなるほどと妙に感心したものだった。仕事もあるし、遊びもあるし、読書の時間は限られている。そこに割りあてる限られた時間で、何を読むかは重要だ。
 もともと読書にたいして時間を割いていないが、この作家の話を聞いてミステリーを読まない免罪符を得たような気分になった。
 それで、ミステリーはもっぱら映画やドラマで楽しむことにした。

 かといって、ミステリーはすべて読まないという頑なではない。書評などで興味を惹いた内容の本は、少しは読んではきた。
 「二流小説家」(デイヴィッド・ゴードン著、早川書房刊)は、その題名に惹かれた。「恋愛小説家」ではないが、二流小説家が主人公というのは、面白そうだ。
 そもそも、僕は二流小説家に憧れていた。
 一流小説家ではないから名前も顔も知られていない。初対面の相手から、「何をなさっているんですか?」と訊かれれば、「いや、ちょっと、小説を…」などとぼそぼそと答えるのだ。すると、相手は「ほう、どんな小説をお書きですか?」と興味深そうに探りを入れてくる。すると、「まあ、何ていうか、どちらかといえば恋愛小説ですかね」と、照れくさそうに少し下を向きながら答えるのだった。
 そんなことを、僕は妄想族だから思ったりもした。

 *

 「小説は冒頭の一文が何より肝心だ。唯一の例外と言えるのは、結びの一文だろう」
 小説「二流小説家」は、冒頭から、著者が姿を現す。そう、この小説の主人公は小説家で、二流小説家なのだ。複数のペンネームを使い分けて、安手のミステリーやSFやヴァンパイア、それにポルノの小説をシリーズとして書き続けてきた。出版の依頼がくるのだから、それぞれに、多くはないがそこそこの読者はついている。
 著者は、自分の思いを織り交ぜて、小説である物語に入っていく。
 「この小説を、ふさわしくも印象的な一文で始めたい理由はもうひとつある。それは、これがぼくの実名で、ぼく自身の声で世に出す初めての作品だということだ」
 実際、この「二流小説家」が、著者デイヴィッド・ゴードンのデビュー作なのだ。だから、彼は、自分のすべてをこの小説の中に投入している。これでもか、とばかりに。

 このぼくである主人公の二流小説家のところに、死刑執行を3カ月後に控えた、世間を騒がせた猟奇殺人犯から、告白本の依頼が舞い込んだのである。ベストセラー間違いなしだ。これで、二流小説家ともおさらばで、流行作家になるだろう。
 ぼく(主人公)は、獄中の猟奇殺人犯に面談・接触する。
 そこで殺人犯は、告白本をぼくに任せる代わりに、ある条件を出す。もちろん、流行作家になるためには、その条件なんて軽いものである。ぼくは彼の条件に従って行動する。

 話は、次々と得体のしれない人物が登場する。さらなる猟奇死体が出てくる。二流小説家は、探偵のように犯人を追いつめる。FBI特別捜査官が出てくる。物語の間に、著者の文学論や人生観がつぶやかれる。
 ミステリー、ハードボイルド、サイコ、ホラーの小説をミックスしたような展開だ。
 主人公は、ある時はエルキュール・ポアロのように緻密に推理し、フィリップ・マーロウのように危ない目にあうが騒ぎたてることもなく、ジェームス・ボンドほどではないが美人のストリッパーと濡れ場を演じるほど女性にももてるのだ。さらに、ジョン・H・ワトスン君のような冷静な助言をする女子高生のビジネス・パートナーである相棒がいる(ありえない設定だ)。
 猟奇殺人犯と主人公のやりとりは、「羊たちの沈黙」(原作:トマス・ハリス、監督:ジョナサン・デミ)の色彩が色濃く滲み出ている。
 物語の途中に、ぼく(主人公)の作品のSFやヴァンパイアの物語が挿入される。
 何もかもできすぎで、盛りだくさんだ。ミステリー、ハードボイルド、ホラー小説のコラージュあるいは見本市のようだ。なのに、結末は、意外!ではない。

 物語の「エピローグ」で、主人公は語る。
 「推理小説を書くにあたって一番厄介なのは、虚構の世界が現実ほどの謎には満ちてはいないという点にある。人生は文学がさしだした形式を打ち破る。」
 実際、現実社会は事件と殺人と謎に満ちている。世界を見渡せば、各地で一触即発の戦争の危機すら存在している。わが国とて一見平和そうだが、天災、人災で明日はどうなるかわからない。

 さらに、著者は続ける。ミステリーを客観視しているという、巧妙な本音と計算を含んだエピローグだ。
 「真の不安と危機感とは、次に何が起こるかをいっさい知らないことから、先の見えない“いま”を生きていることから生じるものなのだ。“いま”という時は、一瞬一瞬に類がなく、二度と繰り返されることがない。そして、ぼくらにわかっているのはただ一つ、それがいつかは終わるということだけだ。だからこそ、ぼくは大半の推理小説に落胆してしまうのだろう。そこに示される解答が、みずから蒔いた途方もない疑問に答えているとはとうてい思えないからだ。」

 著者は、読者の感想をも記してしまったようである。そして、いみじくも推理小説の限界をも自ら嘆いている。

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文明の格差 「銃・病原菌・鉄」(上)より

2011-02-18 01:23:40 | 本/小説:外国
 ジャレド・ダイアモンド著 倉骨彰訳 草思社

 世界はどうして、こうも格差ができてしまったのだろう。
 現在、ヨーロッパやアメリカは文化も経済も発達しているが、近代の歴史の中で、アフリカやアジアや南米などは、どうして取り残されていったのだろう。
 古代文明の発祥地は、メソポタミア、エジプト、インド、中国なのに。いや、さらに歴史を遡れば、人類の出現・誕生はアフリカである。なのに、一歩先に歩き出した民族が、先頭をいつも歩いているのではない。
 人類はアフリカから誕生して、ユーフラテス大陸へ移動し、さらにベーリング海を渡って北米、南米大陸へと行きたどった。太平洋の島々から、オーストラリア大陸にも住みついた。
 しかし、人類は別々の言語を持ち、まったく違った文化と組織(国)を持った。
 先にスタートしたアフリカだが、メソポタミア地方の三日月肥沃地帯に早く文明は発達して、ユーラシア大陸・ヨーロッパに拡大していった。そして、多様な文化発展をしていった。
 その違いを、僕は環境・風土の違いと思っていた。
 白人は、長い間、白人種が最も優秀だと思いこんでいた。それが、黒人の奴隷制や黒人、黄色人種の国の植民地化など、差別意識として表れていると思われる。

 ジャレド・ダイアモンドは、アメリカの生物学者で人類学者である。
 彼が蝶類の進化について研究のために、ニューギニアを歩いていたとき、現地の政治家ヤリと知りあった。
 ヤリは彼にこう言った。
 「あなた方白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」
 これに対して答えられなかったダイアモンドは、25年後に、彼の答えというものを発表した。
 それが、「銃・病原菌・鉄」(倉骨彰訳)である。
 「朝日新聞のゼロ年代の50冊」でNo.1となった本で、「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の1位にもなっている。
 ダイアモンドは、1万3000年前に、人類がスタートしてから、どのような軌跡をたどったか、そしていかにして現代社会の構造になったかを、緻密に解説している。
 彼は、大きな分岐点となったのを、表題の銃、病原菌、鉄に置いている。

 近代において、人口構成を最も変化させたのは、ヨーロッパ人による新大陸(アメリカ大陸)の征服である。
 その象徴として、1532年11月、スペインの征服者ピサロがインカ皇帝アタワルパを捕らえたときの状況を、文献を元に詳しく描写している。
 そのとき60人の騎兵と106人の歩兵、計166人のスペイン兵が、少なくとも4万人とも、8万人ともいわれたインディオの兵士を、あっという間に破っている。
 この時、スペイン人は銃を持っていたし、馬も持っていた。これらは、インカにはなかったことはよく知られている。
 この時、スペイン兵は1人の死者も出さずに、インディオ人は6000人から7000人が死んだという。
 スペイン人がインカやアステカ帝国を制覇したのは、武器と馬による圧力だけではないとダイアモンドは言う。
 彼は、新大陸の原住民の人口を減少させた決定的な要因は、病原菌にあると言っている。
 1519年には、コルテスがアステカ帝国を征服させるためにメキシコに上陸した。しかし、勝敗を決したのは武力ではなく、スペインからもたらされた天然痘の蔓延だったという。この病原菌で、アステカ帝国の人口の半分が死亡したという。さらに、2000万人いたメキシコの人口は、天然痘によって1618年には160万人まで激減したという。
 新大陸にヨーロッパ人がやってきた16世紀には、このほかにも北米大陸の先住民であるインディオは、ヨーロッパ人がもたらした感染症によってあっという間に人口が激減し壊滅状態に陥った。

 人間の新しい感染症は、動物から感染することが多い。
 人間は、しばしば家畜やペットから病原菌を感染させられている。天然痘、インフルエンザ、結核、マラリア、ペスト、麻疹(はしか)などは、非常に深刻な病気である。 これらの感染症は元々動物がかかる病気だったが、今では人間だけが感染し、動物は感染しない。
 人間に感染し、多くの人間を死に至らしめた病原菌も、長い間に、人間は抗体を作り、それに対する免疫力を備えてくる。そしてまた、病原菌も自分の生き残りのために、変化し続ける。
 爆発的に猛威をふるう病原菌も、いつしか下火になる。そして、ある周期をもってまた病原菌の流行がやってくる。こうして、長い間、人類と病原菌の闘いと共生が行われてきたし、これからも行われるだろうというのだ。
 つまり、ヨーロッパ人が長い間の家畜との共生で、免疫力を持っていた病原菌を、新大陸の人間は持っていなかったので、またたく間に蔓延し、短期間の間に人口は激減したとされるのだ。

 人間の能力に、人種による格差はないという。
 では、どうやって文明は違った道を歩いたのだろう。食料生産の収穫差、産業改革・発明などが、進歩・格差を生んだのか?
 著者は、それを丹念に紐解いていく。

 そして、本書の「下」では、文字はどのようにして生まれたのか? が書かれている。

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