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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

2023(令和5)年の、お節料理

2023-01-02 03:17:12 | 気まぐれな日々
 降りかかる 風や雨をや 頬にうけ
  花と思いし 季節(とき)もありしか

 昨年の令和4年は、世界情勢においても私個人においてもいいことはなかった。
 降りつける風、降りかかる雨……
 あらゆるものが変わっていく。急激に、あるいは徐々に。
 
 こんな時、流す曲はショスタコーヴィチの交響曲第5番がいい。
 
 母がウクライナ人、父がベラルーシ人であるノーベル文学賞作家のスベトラーナ・アレクシエービッチさんが1月1日の朝日新聞の紙上でこう語っていた。
 「私たちが生きているのは孤独の時代と言えるでしょう。私たちの誰もが、とても孤独です。文化や芸術の中に、人間性を失わないためのよりどころを探さなくてはなりません」

 つくづく最近は、ドイツ文学者の高橋義孝の正月に関して言った「変わらないことはめでたいことだ」という意味を実感する。

 *

 令和5年のお節料理は、年末に寝ているときの空気乾燥により喉を痛めたこともあって、手間をかけない簡単お節にした。まあ、いつも簡単なのだが。
 蒲鉾、昆布巻き、田作り、で一応の正月らしさを作る。田作りは、鰯の煮干しをバターで軽く炒め味醂、醬油で絡めたもの。
 それに、ゆで卵、レンコン、カボチャ煮、銀杏。
 刺身は、かんぱち、サーモン。
 酒はいつもの、正月限定の越乃寒梅。今年は形だけ口にする。

 夜は、大晦日、つまり昨晩のすき焼きを再び。
 違うのは、大晦日はすき焼きの最後に年越しうどんを入れたのだが、正月は初餅を入れる。

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白昼のワヤン……「キスは"眼"にして!」

2022-10-10 00:25:39 | 気まぐれな日々
 FMラジオでのピアノの弾き語りの番組を聴いていたら、クラシックを基としたポップスとして、「キッスは目にして!」が流れてきた。
 カテリーナ・ヴァレンテ(日本ではザ・ピーナツ)が歌った「情熱の花」と同じく、ベートーベンの曲「エリーゼのために」をアレンジした、ザ・ヴィーナスが歌った曲である。
 う~ん、「キッスは、目にして」か、と思った。
 キスは、目に!

 実は、私は先月(2022年9月)末、目の手術をしたばかりだった。
 近年、自分の病気をテレビやSNSで公にする芸能人や有名人が多くなった気がする。「他人の不幸は蜜の味」ではないが、世間である視聴者の潜在的要求に同調する風潮があるのかもしれない。また、自分の病気体験を微に入り細に入り、子細に描く作家もいる。
 元々、私は自分の病気について書くつもりはないのだが、思いもよらず「キッスは目にして!」を耳にして、思えば稀有な体験というか、やろうと思ってもできる経験ではなかったので、書いておこうかとふと気持ちが動いたのである。
 私の敬愛する吉行淳之介も、かつて「人口水晶体」(講談社)という目の手術体験を書いている。
 この本は1985(昭和60)年刊行の本で、吉行が目の不調を自覚してから、1984年の年末に白内障の手術をするに至るまでの体験記である。彼がちょうど還暦のときである。

 吉行が52歳のとき、目の具合が何となく悪くなって病院で見てもらう。眼精疲労ぐらいに考えていたのだが、白内障と診断される。
 吉行が「目の酷使は関係ありますか」と質問すると、医者は次のような意味の答えをする。
「ありません。これからいくら使っても構いません。目の水晶体の白髪(しらが)というように考えてください」
 たしかに、白髪が痛くないように、その後も目が痛かったことはない……。

 まだ現在のように、白内障における眼内レンズが一般化されていない時代のことである。
 「人口水晶体」は、吉行が目の不調、視力が弱くなったことを自覚してから、診断を受けた担当の医者とのやり取りと手術までの心理の移ろいが、いかにも吉行淳之介らしく描かれている。
 この本を読んだ当時は私もまだ若かったので、その後自分が目で煩わされるとは思ってもいなかった。たしかに白髪が増えるのは痛くもなく、ロマンスグレイで渋いですねと言われて、まんざらでもない気分でいたぐらいだ。

 *「眼」の中が見えた、硝子体手術体験

 私たちが目で見るのは、外の景色である。
 外の景色を、目(眼球)の外側のレンズを通して反対側の内側の網膜に写すことによって、姿・形として見ているのである。
 目は丸い球体で、球体の中は硝子体といって透明なゼリー状の液体である。

 私の病名は「網膜前幕」(黄斑上膜)といい、網膜の前に薄い膜ができる症状である。白髪のように痛みも痒みもなく、初期は見え方に何ら変化もないが、この膜によって網膜に皺がよったりすると、視力が低下したりモノが歪んで見えたりする症状が起きる。
 つまり、網膜の前にできた不要な膜を除去する手術である。
 硝子体の中の手術ということで、目にメスが入るということである。
 手術での私の眼の中で起こった出来事の概略を記すと、次のようになる。場所は大学病院の手術室。時刻は昼下がり。

 <手術台でのシーン>
 ・眼が洗浄される。
 ・眼に麻酔注射が打たれる。チクリと痛い。(局部麻酔)
 ・眼に灯りが充たされ、全体が白く明るくなる。(明かり投射か?)
 ・白い世界に、液体のような気体のような緩やかな流れが、眼の球体内で流動、浮遊している。細かい鉄粉のような粒片も流れのなかに散在している。(硝子体の中の動きか?)
 ・緩やかな流動体は吸い上げられたのか、白い無風の世界になる。(硝子体内の液の排出と液体(水)もしくはガスの注入か?)
 ・白い世界に、左の方から黒い細いが幅を持った、影のような2本の線が延びてくる。向きあった細い刀のような、細い裁ちばさみのような、まっすぐ伸びたピンセットのような、2本の細い幅を持った線。(医療機器の鉗子である)
 ・2本の線がその先を摘まみ、白い世界からガムテープを剥がすように、影のようなベール状のものをめくって剥がし取る。(前膜の除去)
 ・影のような2本の線とそれによって剥がされた膜状が、左に引っ込むように消える。
 ・白い世界に戻る

 総て、白い世界での出来事で、モノクロの世界である。
 目は、外の世界しか見えないはずである。しかし、このとき、眼の中の世界、そこで起こっていたのが見えた。確かに、硝子体の中で起きていたことである。前記の出来事での( )内に記したのは、私の個人の想定である。
 私は、ひょっとしてこれは私だけが見ている、私だけが見えていることではと思うと、手術がもたらす不安というより感動に値するのではと感じた。

 手術が終わったあと、しばらくは白い世界が広がっていた。
 まるで、インドネシア・バリ島で見たワヤン・クリのようだ。かりそめのモノクロの影絵劇だ。
 (写真は、バリ島ウブドでのワヤン・クリのモノクロ写真)

 罠、罠、罠に落ちそう……
 メスよりも、キスは目にして!
 目の中の、硝子体の出来事はすべて陽炎(蜉蝣)……

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千鳥ヶ淵の花見のあとの、銀座裏通り

2022-04-10 02:32:29 | 気まぐれな日々
 *3年ぶりの千鳥ヶ淵の桜

 満開の桜の季節、3月30日、パンデミックで自粛していた千鳥ヶ淵の花見に、3年ぶりに出かけた。夕方、靖国神社をスタートし千鳥ヶ淵へ。
 人出は例年より少ないが、ほどほどには混んではいる。みんなマスクをしての花見だ。それにしても、コロナウィルスの3回目のワクチンは打ち終わったが、いつまでマスクをするのだろう。
 桜は満開で、ちょうど見ごろである。皇居の濠に向かってしなるようになびく桜の枝が織りなす花の舞は、変わらず絶妙であり絶品であった。
 今年は例年にも増して、濠に浮かぶボートの数が多かった。それに、行き交う外国人も多いように感じられた。いまだパンデミック下であるので観光客ではないだろうから、日本に住んでいる人たちであろう。
 世情が不安定であるから、みんな、桜でも見ようという心情であろうか。

 *日比谷の松本楼へ

 いつものように千鳥ヶ淵から濠に沿って歩いて、日比谷に出た。
 日も暮れた頃なので、夕食である。
日比谷公園を抜けて有楽町近くの日比谷界隈の店へ行こうと思っていたのだが、公園の中を歩いているうちに建物の灯りが見えたので気が変わった。そうだ、公園内にある松本楼へ行こうと思いたったのだ。

 「松本楼」は、西洋風の日比谷公園が1903(明治36)年に開園するにあたり開業した洋食店である。当時ハイカラ好きの間では人気だったようで、戦前には日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボースとの縁も伝わっている。
 若いときから日比谷や日比谷公園には何度も来ていて、私の好きな界隈なのだが、松本楼は入ったことがなかった。若いときは、何だか敬遠する店だった。
 店内は明るいながら、老舗の持つ落ち着いた雰囲気を漂わせている。
 少し歩き疲れた脚を慰めるために、ソーセージとエビの唐揚げを肴にビールを一杯。そして、ここの看板メニューともいうべきハイカラビーフカレーを食べた。

 *銀座裏通りの三原小路へ

 松本楼を出たのがまだ夜8時だ。時間はあるので、銀座に行こうと思いたった。
 いつも気まぐれな行動だが、銀座のクラブに行こうというのではない。気になっていた、知人が話した銀座の裏通りを探そうと思ったのである。
 その人の話では、銀座を散歩しているとき、ふと小さな通りに入り込んだ。その通りは、普段知っている銀座とは思えない雰囲気があった。
 その通りの中ほどにある和風の食の店の前では、四角い煉瓦火鉢が置いてある。そこで小さな少女が、炭火で小さな餅を上手に焼いていた。
 思わず、「いつも焼くの?」と訊くと、「う~ん? お客さんの日だけ」と。「上手ね」と言うと、「う~ん?」と、あどけない返事とのこと。
 その通りは「三原小路」と言った。

 「三原通り」は、銀座中央通りと昭和通りの間を走っている通りである。地下鉄東銀座駅の交差点が「三原橋」で、今は知らないがこの地下街に、ピンク映画を上映している映画館があった。
 その「三原小路」は銀座5丁目というので、おおよその検討をつけて中央通りの裏通りを歩いたが、それらしい通りは見つからない。地元の人とおぼしき人に訊いて、その通りの入口にたどり着いた。
 ここに通りが、と思わせるところに、その通りは存在した。
 石畳の小さな通りに、小料理屋や中華などの店が左右に並んでいる。急に、何だか地方都市の通りに迷い込んだ雰囲気である。
 途中、和食店の前に例の煉瓦火鉢が置いてある。店は京都の町屋を思わせる、思ったよりきれいな造りだ。この夜は、誰も座って焼いてはいない。店の中から女将とおぼしき人が、何やら料理とおぼしき品を抱えて、道の前の別の大きな店に入っていった。
 店を過ぎ通りの端に出ると、赤い幟が並んでいるのが目に入る。そこは、よく見ると「あづま稲荷神社」である。小さな通りに小さな稲荷神社が佇んでいる。
 通りの入口には、「三原小路」と通りの名前を書いた明かりが、在処(ありか)を主張するかのように光っている。
 どうして、この通りを今まで見かけなかったのだろう。銀座4丁目から目と鼻のすぐのところにあるというのに。

 「小路」とは、侘しさとロマンを内に秘めた情緒のある通り名だ。
 日を改めて、ゆっくりもう一度来なくてはいけない。そして、ゆっくりと一杯飲まなくては……

 三原小路の 灯りのように
 待ちますわ 待ちますわ
 どうせ気まぐれ 東京の銀座裏通り
 ――「池袋の夜」(歌:青江三奈、作詞:吉川静夫、作曲:渡久地政信)の歌に合わせて……

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「忘れえぬ女」は、ウクライナの「女鉱夫」

2022-03-30 01:52:55 | 気まぐれな日々
 過ぎ去った時は帰ってはこない。
 失ったものは戻ってはこない。
 私の身のまわりで起こったことも、世界で起こっていることも……

 あれは、2009(平成21)年の春だった。
 その頃、一人暮らしの高齢の母は実家近くの病院付設の施設に入って、私は東京と佐賀を行き来していた。実家から自転車で走る佐賀平野の青い麦畑は、風にそよいであたかも「草原の輝き」を思わせ、佐賀も東京も穏やかで平和だった。

 思えば、私はいつも誘惑されていた。
 その頃は、ロシアの女に魅せられていた。その言葉通り、「忘れえぬ女(ひと)」である。
 私は移り気な性であるから、その前はイタリアの女の「ウルビーノのヴィーナス」に恋心を抱いていたし、さらにその前はトルコの女の「オダリスク」に下心充分であった。
 しかし、その頃はなぜかロシアの「忘れえぬ女」に心とらわれていた。
 その女が日本にやって来たので、私は勇んで会いに行った。場所は、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムであった。
 国立トレチャコフ美術館展「忘れえぬロシア」と銘うたれていた。謳い文句も表紙も「忘れえぬ女」の主役であった。いや、ひとり舞台とも思えた。
 やっと会えた彼女は、厳かな雰囲気を醸し出していていて、少し気後れした。

 「忘れえぬ女」イワン・クラムスコイ作、1883年制作。
 彼女の、馬車の上からこっちをじっと見つめる眼差しは、何を思っているのか計りかねた。こちらを蔑んだ目にも思えたし、誰にも話せぬ憂いを抱えているようにも見えた。
 華やかな衣裳からすると高貴な貴婦人に見えるが、実は椿姫、つまり高級娼婦だと囁く人もいる。
 また、トルストイの「アンナ・カレーニナ」に、ドフトエフスキーの「白痴」のナスターシャにイメージを重ねる人もいる。
 謎の女なのである。もともとこの女性の原題は「見知らぬ女(ひと)」であるが、いつしか「忘れえぬ女(ひと)」となった。

 *

 彼女を記憶に残し、会場を見まわった。
 会場には、19世紀から20世紀初頭の帝政ロシア時代の「リアリズムから印象主義へ」というテーマで集められた絵画が並んでいた。そこには、一昔前のロシアの静かな風景や人物がある。
 ふと、一人の女の前で足が止まった。
 その女(ひと)は、「女鉱夫」。
 うっすらとほほ笑んでこちらを見ているようであった。作業着であろうか普段着であろうかラフに着た衣服が、彼女の生活感を感じさせる。右手に持って肩に掲げている布地のようなものは何であろうか。
 彼女は、内面の温かさと大らかなエネルギーを発散させていた。こちらが失敗しても、何とかなるわよと勇気づけてくれる前向きな生命力を持っているように思えた。
 私は、この女に釘付けになった。

 「女鉱夫」ニコライ・カサトキン作、1894年制作。
 作者のカサトキンは、1892年よりドネツク炭田に通って「炭鉱夫」シリーズを描き、その1枚がこの絵だと図解説書にはある。日本でいえば明治の初頭で、「忘れえぬ女」とほぼ同時代である。
 ドネツク炭田は、現在ウクライナの南東部にあり、世界有数の炭田地帯である。
 ということは、おそらく「女鉱夫」はウクライナ女性と思われる。そして、彼女の後ろには炭鉱の住宅(炭住)が見える。
 あゝ、彼女は、名も知らぬ女鉱夫!

 この日、「忘れえぬ女」に会いに行ったのに、またたく間にまったく違った魅力を持つ「女鉱夫」へ気持ちが揺らいだのだった。「女鉱夫」が、忘れえぬ女となった。
 移り気な男だ。
 (写真:左は、国立トレチャコフ美術館展「忘れえぬロシア」のチラシの「忘れえぬ女」。右は、図解説書のなかの「女鉱夫」)

 *

 あれから10余年、年月は流れた。時はとどまってはくれない。
 あの頃から、1年後に母はなくなり、古くなった佐賀の家も今はない。
 私たちの身のまわりはおろか世界も、天災も人災も絶え間なく続いている。


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お節料理2022年――変わらないことは、めでたいことなのか?

2022-01-02 03:56:30 | 気まぐれな日々
 春一夜 波に移ろふ 花影に
  身は浮草を 誘ふ水かや
          沖宿

 正月はめでたいことになっている。何がめでたいのだろうか。
 もう何年も、いや何十年も前のことである。まだ私が若いと思っていたときである。
 いつものように九州の実家に帰って、正月を迎えていた。そのときの正月の朝日新聞に、私の薄らいでいく記憶では、全5段広告だったか、ドイツ文学者の高橋義孝の正月らしい和服姿の写真が載っていた。そのなかで、正月について述べた言葉がずっと心に残っていた。
 それは、変わらないことがめでたいことである、といった言葉を並べていた。

 正月は、新しい年に変わっていくからめでたいのではないかと思っていた私は、変わらないのをめでたいとする彼の言葉が腑に落ちなかった。ずっと気になっていた。
 しかし、歳を重ねるにしたがい、幸も不幸も、酸いも甘いもあるなかで、体力面をはじめあらゆる面で衰えを感じ、現状維持を良しとする不甲斐なさを度々痛感させられるのである。その上、ここ2年はコロナ禍の情勢である。
 最近は、正月のたびに思うのである。変わらないのが良いことで、めでたいことなのである、と。

 *
 こうして、2022(令和4)年の正月を迎えた。気温は低いが外は青空で、窓から日が差していい天気である。
 この年のお節料理は、変わらず手抜き料理である。
 正月定番の蒲鉾と昆布巻き、ゆで卵で基本とする。今年は田作り(ゴマメ)は省いてしまった。
 刺身はカンパチ、それに鯨。
 野菜類は、カボチャ煮、春菊のおひたし、豆苗、トマト、銀杏。
 それに、昨日の残りのローストビーフ。
 正月のみの日本酒は、これまた定番化(変わらない)してきた新潟の越乃寒梅。
そして、最後に、昨日買ってきた赤飯で〆。

 *
 日も暮れた頃、近年恒例となりつつある(変わらず)多摩センターの白山神社に初詣に行った。
 多摩センター駅からパルテノン多摩に続く大通りは、年が明けてもイルミネーションが輝いているが、さすがに1月1日は多くの店が閉まっているので、人は少ない。いや、この日に開いている店がいくつかあるのが驚きだ。

 夜は、雑煮を作る。これも、変わらない。
 変わらないことをやる、いや、変わらないことができることは、めでたいことである。



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