昨年、絶滅したと思われていた田沢湖のクニマスが、さかなクンたちの活動で密かに西湖で生息していたことが判明した。
絶滅種と認定されていたものが再生した(発見された)のは奇跡に近いという。
九州の片隅で、絶滅していたB級グルメが復活した。
その名は「たろめん」。佐賀県の大町町で、かつて親しまれていた丼麺である。
大町町は佐賀県の中央部にあり、現在県内ではもっとも小さな町だが、かつては県内屈指の石炭産出を誇った杵島炭鉱の中心部として栄えた町だ。
明治末期から大正・昭和にかけて、炭鉱王と言われた高取伊好による経営から本格的に出発した杵島炭鉱は、1958(昭和33)年に住友鉱業所へと経営は変わったが、大町町は杵島炭鉱の心臓部として賑わった。
町の繁栄を語る象徴としては、1950年代後半から1960年頃には、日本で一番大きなマンモス小学校を有していたことだ。多い学年では(今の団塊の世代だが)、1クラス50人で14クラスあり、生徒数の増加に教室の数が追いつかないほどであった。だから、教室・校舎の増築時には、2部交替で授業が行われた。ピーク時は、全体で4000人を超える生徒数だった。
人口密度は当時、県内でもっとも高かったのではないかと思われる。
かつて「黒いダイヤ」と持てはやされ、国の富国強兵、経済発展の一翼を担っていた石炭産業も、やがてエネルギー革命による時代の変化の波とともに斜陽の途をたどり、杵島炭鉱も1969(昭和44)年に閉山した。
炭鉱の閉山にともなって町は急速に衰退し、最盛期には2万3千余人あった町の人口も、今では8千人を切った。
*
炭鉱の町、大町町の中央には商店街が走り、その先に杵島炭鉱の本部があり、大型トラックがいつも出入りしていて、町中では頻繁に走るトラックが見られた。
トラックの荷台の後ろには最大積載量が記されている。7500kgのトラックは、その大きさを誇示しながら堂々と走っているように見え、そのトラックが通り過ぎると子どもたちは振り返って、「今の7トン半だ」と、感嘆まじりの嬌声を発するか、溜息をついたのだった。
炭鉱本部の近くには、高い2本の煙突が町のシンボルのように聳えていた。あたかも、東京のシンボルである東京タワー(それにスカイツリー)のように。
夏祭りのときには、「月が出た出た、月が出た。杵島炭鉱の上に出た。煙突があんまり高いので、さぞやお月さん、煙たかろ……」と、「炭鉱節」は歌われた。
選炭場には、当時県内一の建物階数といわれた佐賀玉屋百貨店と同じ、白い7階建ての建物が巨像のように構えていた。
石炭は、近くの六角川の港町(土場口)から船で河口の住ノ江港に運ばれ、川には荷船が何艘も停泊していた。
大町(3坑)から隣町の江北町(5坑)には、石炭を運ぶトロッコ電車(炭車)が往復した。トロッコ電車は鉱夫たちの通勤電車でもあったし、悪ガキたちが面白半分に走る電車に飛び乗る冒険溢れる遊びの標的でもあった。
野球場である杵島球場は、社会人野球(ノンプロ)チーム・杵島炭鉱の本拠地で、1952、53年と2年連続全国大会に出場した。黒江透修(元巨人、ダイエー・コーチ)、龍憲一(元広島)らも所属した県内有数の強豪チームだった。今でも、佐賀県勢の全国大会出場はこれだけである。
この杵島球場で、1953年には西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)対東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)のプロ野球の試合も行われた。
選炭されたあとの廃棄石炭を積んだ、炭鉱町のもう一つのシンボルともいえるボタ山も、少しなだらかに傾いたピラミッドのように、何層か列をなして横たわっていた。そこに登れば、捨てられた質の悪い石炭に交じって、様々な化石を見出すことができた。
町中には、大きな浴場が2つあった。そこでは、坑内から出てきた鉱夫たちの汗と炭塵を洗い流す姿が見受けられたが、誰でも無料で入浴できた。浴場は、子どもたちにとっても、社交場であった。
映画館も、町に2つあった。その一つである親和館は、時折、歌や芝居のイベントも行われた多目的劇場の役目も兼ねていた。
町のあちこちにあった炭鉱住宅(炭住)は、今ではその容貌を変え、子どもたちの遊び回る姿はなく、そこに在りし日の面影を見出すことは難しい。
*
大町町を歩いても、今はもうほとんど活気ある炭鉱の面影を見出すことはできない。
賑わった商店街はシャッターを下ろした店が目立ち、そこには、時代の流れに身を任せた、ごくありふれた、寂しげな過疎の町がある。
かつて、この町が炭鉱で栄えていた時代、「たろめん」なる丼麺が親しまれていた。
当初は、地元の中華料理店「中国飯店」が出していたのがルーツという。その店の店主の死を期に、店の常連で炭鉱マンだった山本三国さんが1964(昭和39)年に、「たろめん食堂」として引き継いだ。その山本さん夫妻も高齢のため、店を閉めたのが2000(平成12)年のこと。
もう、大町町でもその料理品があったことすら忘れ去られようとしていた頃、去年(2010年)の年末に、突然「たろめん」は復活した。
年末、佐賀に帰っていた私は、何げなくその麺を知った。
「たろめん」と書いた旗が、大町町の一軒の食堂の前で目に入った。その白い旗は、ひなびた町には珍しく、活気を持って風になびいていた。まだ、この町にはエネルギーが残っているぞと訴えているかのようであった。
「たろめん」は、地元の商工会主導のもと、町復興の一貫として、炭鉱時代の味を残そうと、料理の再現を試みて復活したのだった。
もう現役を引退している山本さん夫妻の伝達指導により復活した「たろめん」は、町内の8軒の食堂などで食べることができる。料理の基本は変わらないが、味は少しずつ店の個性によって違うという。
国道34号線沿いの、普通の民家風の「東食堂」に入って、それを注文した。この店は、おかみさんが一人でやっているという。
出てきた丼姿は、チャンポンを思わせる。キャベツ、人参、キクラゲなどの野菜の上に、干しエビが3尾のっている。麺を箸ですくってみると、うどんを小さくした麺だ。
スープ味はとんこつ味をさっぱりした感じで、かすかに生姜の味がする。
これが、かつての炭鉱の面影を残した味なのか、と思って食べた。炭鉱マンが愛したのだからもっと濃い味かと思ったが、意外や現代的でしゃれた味だ。
クニマスの発見とはちとレベルと趣旨が違うが、まずは、絶滅していた麺の復活を祝福しよう。
これで、佐賀に帰ったときに食べる麺が、チャンポン以外にもう一つ増えたことになる。
絶滅種と認定されていたものが再生した(発見された)のは奇跡に近いという。
九州の片隅で、絶滅していたB級グルメが復活した。
その名は「たろめん」。佐賀県の大町町で、かつて親しまれていた丼麺である。
大町町は佐賀県の中央部にあり、現在県内ではもっとも小さな町だが、かつては県内屈指の石炭産出を誇った杵島炭鉱の中心部として栄えた町だ。
明治末期から大正・昭和にかけて、炭鉱王と言われた高取伊好による経営から本格的に出発した杵島炭鉱は、1958(昭和33)年に住友鉱業所へと経営は変わったが、大町町は杵島炭鉱の心臓部として賑わった。
町の繁栄を語る象徴としては、1950年代後半から1960年頃には、日本で一番大きなマンモス小学校を有していたことだ。多い学年では(今の団塊の世代だが)、1クラス50人で14クラスあり、生徒数の増加に教室の数が追いつかないほどであった。だから、教室・校舎の増築時には、2部交替で授業が行われた。ピーク時は、全体で4000人を超える生徒数だった。
人口密度は当時、県内でもっとも高かったのではないかと思われる。
かつて「黒いダイヤ」と持てはやされ、国の富国強兵、経済発展の一翼を担っていた石炭産業も、やがてエネルギー革命による時代の変化の波とともに斜陽の途をたどり、杵島炭鉱も1969(昭和44)年に閉山した。
炭鉱の閉山にともなって町は急速に衰退し、最盛期には2万3千余人あった町の人口も、今では8千人を切った。
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炭鉱の町、大町町の中央には商店街が走り、その先に杵島炭鉱の本部があり、大型トラックがいつも出入りしていて、町中では頻繁に走るトラックが見られた。
トラックの荷台の後ろには最大積載量が記されている。7500kgのトラックは、その大きさを誇示しながら堂々と走っているように見え、そのトラックが通り過ぎると子どもたちは振り返って、「今の7トン半だ」と、感嘆まじりの嬌声を発するか、溜息をついたのだった。
炭鉱本部の近くには、高い2本の煙突が町のシンボルのように聳えていた。あたかも、東京のシンボルである東京タワー(それにスカイツリー)のように。
夏祭りのときには、「月が出た出た、月が出た。杵島炭鉱の上に出た。煙突があんまり高いので、さぞやお月さん、煙たかろ……」と、「炭鉱節」は歌われた。
選炭場には、当時県内一の建物階数といわれた佐賀玉屋百貨店と同じ、白い7階建ての建物が巨像のように構えていた。
石炭は、近くの六角川の港町(土場口)から船で河口の住ノ江港に運ばれ、川には荷船が何艘も停泊していた。
大町(3坑)から隣町の江北町(5坑)には、石炭を運ぶトロッコ電車(炭車)が往復した。トロッコ電車は鉱夫たちの通勤電車でもあったし、悪ガキたちが面白半分に走る電車に飛び乗る冒険溢れる遊びの標的でもあった。
野球場である杵島球場は、社会人野球(ノンプロ)チーム・杵島炭鉱の本拠地で、1952、53年と2年連続全国大会に出場した。黒江透修(元巨人、ダイエー・コーチ)、龍憲一(元広島)らも所属した県内有数の強豪チームだった。今でも、佐賀県勢の全国大会出場はこれだけである。
この杵島球場で、1953年には西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)対東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)のプロ野球の試合も行われた。
選炭されたあとの廃棄石炭を積んだ、炭鉱町のもう一つのシンボルともいえるボタ山も、少しなだらかに傾いたピラミッドのように、何層か列をなして横たわっていた。そこに登れば、捨てられた質の悪い石炭に交じって、様々な化石を見出すことができた。
町中には、大きな浴場が2つあった。そこでは、坑内から出てきた鉱夫たちの汗と炭塵を洗い流す姿が見受けられたが、誰でも無料で入浴できた。浴場は、子どもたちにとっても、社交場であった。
映画館も、町に2つあった。その一つである親和館は、時折、歌や芝居のイベントも行われた多目的劇場の役目も兼ねていた。
町のあちこちにあった炭鉱住宅(炭住)は、今ではその容貌を変え、子どもたちの遊び回る姿はなく、そこに在りし日の面影を見出すことは難しい。
*
大町町を歩いても、今はもうほとんど活気ある炭鉱の面影を見出すことはできない。
賑わった商店街はシャッターを下ろした店が目立ち、そこには、時代の流れに身を任せた、ごくありふれた、寂しげな過疎の町がある。
かつて、この町が炭鉱で栄えていた時代、「たろめん」なる丼麺が親しまれていた。
当初は、地元の中華料理店「中国飯店」が出していたのがルーツという。その店の店主の死を期に、店の常連で炭鉱マンだった山本三国さんが1964(昭和39)年に、「たろめん食堂」として引き継いだ。その山本さん夫妻も高齢のため、店を閉めたのが2000(平成12)年のこと。
もう、大町町でもその料理品があったことすら忘れ去られようとしていた頃、去年(2010年)の年末に、突然「たろめん」は復活した。
年末、佐賀に帰っていた私は、何げなくその麺を知った。
「たろめん」と書いた旗が、大町町の一軒の食堂の前で目に入った。その白い旗は、ひなびた町には珍しく、活気を持って風になびいていた。まだ、この町にはエネルギーが残っているぞと訴えているかのようであった。
「たろめん」は、地元の商工会主導のもと、町復興の一貫として、炭鉱時代の味を残そうと、料理の再現を試みて復活したのだった。
もう現役を引退している山本さん夫妻の伝達指導により復活した「たろめん」は、町内の8軒の食堂などで食べることができる。料理の基本は変わらないが、味は少しずつ店の個性によって違うという。
国道34号線沿いの、普通の民家風の「東食堂」に入って、それを注文した。この店は、おかみさんが一人でやっているという。
出てきた丼姿は、チャンポンを思わせる。キャベツ、人参、キクラゲなどの野菜の上に、干しエビが3尾のっている。麺を箸ですくってみると、うどんを小さくした麺だ。
スープ味はとんこつ味をさっぱりした感じで、かすかに生姜の味がする。
これが、かつての炭鉱の面影を残した味なのか、と思って食べた。炭鉱マンが愛したのだからもっと濃い味かと思ったが、意外や現代的でしゃれた味だ。
クニマスの発見とはちとレベルと趣旨が違うが、まずは、絶滅していた麺の復活を祝福しよう。
これで、佐賀に帰ったときに食べる麺が、チャンポン以外にもう一つ増えたことになる。