かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「たろめん」に見る、杵島炭鉱の面影

2011-01-22 02:43:41 | * 炭鉱の足跡
 昨年、絶滅したと思われていた田沢湖のクニマスが、さかなクンたちの活動で密かに西湖で生息していたことが判明した。
 絶滅種と認定されていたものが再生した(発見された)のは奇跡に近いという。

 九州の片隅で、絶滅していたB級グルメが復活した。
 その名は「たろめん」。佐賀県の大町町で、かつて親しまれていた丼麺である。

 大町町は佐賀県の中央部にあり、現在県内ではもっとも小さな町だが、かつては県内屈指の石炭産出を誇った杵島炭鉱の中心部として栄えた町だ。
 明治末期から大正・昭和にかけて、炭鉱王と言われた高取伊好による経営から本格的に出発した杵島炭鉱は、1958(昭和33)年に住友鉱業所へと経営は変わったが、大町町は杵島炭鉱の心臓部として賑わった。
 町の繁栄を語る象徴としては、1950年代後半から1960年頃には、日本で一番大きなマンモス小学校を有していたことだ。多い学年では(今の団塊の世代だが)、1クラス50人で14クラスあり、生徒数の増加に教室の数が追いつかないほどであった。だから、教室・校舎の増築時には、2部交替で授業が行われた。ピーク時は、全体で4000人を超える生徒数だった。
 人口密度は当時、県内でもっとも高かったのではないかと思われる。
 かつて「黒いダイヤ」と持てはやされ、国の富国強兵、経済発展の一翼を担っていた石炭産業も、やがてエネルギー革命による時代の変化の波とともに斜陽の途をたどり、杵島炭鉱も1969(昭和44)年に閉山した。
 炭鉱の閉山にともなって町は急速に衰退し、最盛期には2万3千余人あった町の人口も、今では8千人を切った。

 *

 炭鉱の町、大町町の中央には商店街が走り、その先に杵島炭鉱の本部があり、大型トラックがいつも出入りしていて、町中では頻繁に走るトラックが見られた。
 トラックの荷台の後ろには最大積載量が記されている。7500kgのトラックは、その大きさを誇示しながら堂々と走っているように見え、そのトラックが通り過ぎると子どもたちは振り返って、「今の7トン半だ」と、感嘆まじりの嬌声を発するか、溜息をついたのだった。
 
 炭鉱本部の近くには、高い2本の煙突が町のシンボルのように聳えていた。あたかも、東京のシンボルである東京タワー(それにスカイツリー)のように。
 夏祭りのときには、「月が出た出た、月が出た。杵島炭鉱の上に出た。煙突があんまり高いので、さぞやお月さん、煙たかろ……」と、「炭鉱節」は歌われた。
 
 選炭場には、当時県内一の建物階数といわれた佐賀玉屋百貨店と同じ、白い7階建ての建物が巨像のように構えていた。
 
 石炭は、近くの六角川の港町(土場口)から船で河口の住ノ江港に運ばれ、川には荷船が何艘も停泊していた。
 
 大町(3坑)から隣町の江北町(5坑)には、石炭を運ぶトロッコ電車(炭車)が往復した。トロッコ電車は鉱夫たちの通勤電車でもあったし、悪ガキたちが面白半分に走る電車に飛び乗る冒険溢れる遊びの標的でもあった。
 
 野球場である杵島球場は、社会人野球(ノンプロ)チーム・杵島炭鉱の本拠地で、1952、53年と2年連続全国大会に出場した。黒江透修(元巨人、ダイエー・コーチ)、龍憲一(元広島)らも所属した県内有数の強豪チームだった。今でも、佐賀県勢の全国大会出場はこれだけである。
 この杵島球場で、1953年には西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)対東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)のプロ野球の試合も行われた。
 
 選炭されたあとの廃棄石炭を積んだ、炭鉱町のもう一つのシンボルともいえるボタ山も、少しなだらかに傾いたピラミッドのように、何層か列をなして横たわっていた。そこに登れば、捨てられた質の悪い石炭に交じって、様々な化石を見出すことができた。

 町中には、大きな浴場が2つあった。そこでは、坑内から出てきた鉱夫たちの汗と炭塵を洗い流す姿が見受けられたが、誰でも無料で入浴できた。浴場は、子どもたちにとっても、社交場であった。

 映画館も、町に2つあった。その一つである親和館は、時折、歌や芝居のイベントも行われた多目的劇場の役目も兼ねていた。

 町のあちこちにあった炭鉱住宅(炭住)は、今ではその容貌を変え、子どもたちの遊び回る姿はなく、そこに在りし日の面影を見出すことは難しい。

 *

 大町町を歩いても、今はもうほとんど活気ある炭鉱の面影を見出すことはできない。
 賑わった商店街はシャッターを下ろした店が目立ち、そこには、時代の流れに身を任せた、ごくありふれた、寂しげな過疎の町がある。
 かつて、この町が炭鉱で栄えていた時代、「たろめん」なる丼麺が親しまれていた。
 当初は、地元の中華料理店「中国飯店」が出していたのがルーツという。その店の店主の死を期に、店の常連で炭鉱マンだった山本三国さんが1964(昭和39)年に、「たろめん食堂」として引き継いだ。その山本さん夫妻も高齢のため、店を閉めたのが2000(平成12)年のこと。
 もう、大町町でもその料理品があったことすら忘れ去られようとしていた頃、去年(2010年)の年末に、突然「たろめん」は復活した。

 年末、佐賀に帰っていた私は、何げなくその麺を知った。
 「たろめん」と書いた旗が、大町町の一軒の食堂の前で目に入った。その白い旗は、ひなびた町には珍しく、活気を持って風になびいていた。まだ、この町にはエネルギーが残っているぞと訴えているかのようであった。
 「たろめん」は、地元の商工会主導のもと、町復興の一貫として、炭鉱時代の味を残そうと、料理の再現を試みて復活したのだった。
 もう現役を引退している山本さん夫妻の伝達指導により復活した「たろめん」は、町内の8軒の食堂などで食べることができる。料理の基本は変わらないが、味は少しずつ店の個性によって違うという。

 国道34号線沿いの、普通の民家風の「東食堂」に入って、それを注文した。この店は、おかみさんが一人でやっているという。
 出てきた丼姿は、チャンポンを思わせる。キャベツ、人参、キクラゲなどの野菜の上に、干しエビが3尾のっている。麺を箸ですくってみると、うどんを小さくした麺だ。
 スープ味はとんこつ味をさっぱりした感じで、かすかに生姜の味がする。
 これが、かつての炭鉱の面影を残した味なのか、と思って食べた。炭鉱マンが愛したのだからもっと濃い味かと思ったが、意外や現代的でしゃれた味だ。

 クニマスの発見とはちとレベルと趣旨が違うが、まずは、絶滅していた麺の復活を祝福しよう。
 これで、佐賀に帰ったときに食べる麺が、チャンポン以外にもう一つ増えたことになる。

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「にあんちゃん」を知っている

2009-02-20 19:18:17 | * 炭鉱の足跡
 安本末子著 西日本新聞社刊(復刻版)、初版本は光文社刊。

 あれは、去年(08年)の冬だった。
 友人の車で唐津の呼子へ行く途中、肥前町に来たとき、ここに「にあんちゃん」の記念碑があると友人が言った。
 この「にあんちゃん」という言葉は、昭和30年代が持っているある種の懐かしさでもって響いてくる。
 「にあんちゃん」とは、二番目のあんちゃん、つまり次兄のことである。
 「にあんちゃん」と題した本が出版され、話題になったのは1958(昭和33)年である。著者は、安本末子という小学生。炭鉱住宅に住む貧しい在日韓国人であった。
 この本は、今村昌平によって映画化され、さらに大きな話題となった。演じたのは、若き日の長門裕之、吉行和子など。

 *

 4人きょうだい(兄妹)の末っ子だった著者の安本末子が、本となる日記を書き始めた当時(昭和28年)は、小学3年生。早くに両親をなくし、20歳の長兄と5年生の次兄であるにあんちゃん、それにすぐに子守奉公に出る姉と暮らしていた。
 一家を背負う長兄東石は、佐賀県東松浦郡入野村(のち肥前町、現在は唐津市)の杵島炭鉱大鶴鉱業所に炭坑夫として働くが、朝鮮人ということもあって臨時雇いで給料も安かった。
 長兄は残業して懸命に働くがたいした額にはならず、安本一家はその日暮らしの貧しさを余儀なくされていた。

 「朝の五時ごろ、サイレンがなって、一ばん方から、とつぜん、ストにとつにゅうしました。(略)今日のストは、ちんぎんがあがるのではなく、ボーナスがあがるストだったので、私の家にはなんのききめもありません。ただのストだったら、こまるだけです。
 私は、いつもストがないようにと、心の中で、おがみます。それは、ストをされたら、はたかられないので、お金がなくなります。そして、いくらなくなっても、せき(籍)がないから、ろうどう組合から、かりることもできません。
 ストは、私の大かたきといっていいでしょう。」
 昭和28年、すでに炭鉱は斜陽の兆しを見せていた。ここ大鶴鉱業所でも人員整理が始まる。そして首切り(人員解雇)が行われる。
 いつの時代でも、真っ先に犠牲になるのは、臨時雇いからだ。

 「とうとう、兄さんは、あしたから仕事に行かれないことになりました。首を切られたのです。会社は、りんじ(臨時)から、まっさきに首を切ったのです。
 これからさき、どうして生きていくかと思うと、私は、むねが早がねをうって、どうしていいかわかりません。ごはんものどにつかえて、生きていくたのしみもありません。
 だいいちばんに、ねるところがなくなります。会社の家だから、首を切られたら、出て行かなければなりません。
 学校にも行けないようになるでしょう。いくら人間がおおいといっても、首を切ってしまうとは、あんまりではないでしょうか。
 人間は、一どは、だれでも死にます。
 私は、ためいきで、一日をおくりました。」

 「学校へ行きたくて、気が気ではありません。
 お金がないのがかなしくってたまりません。けれども、どうすることもできません。
 学校へいけないなやみが、はりさけるように、たまっています。(略)
 考えても、どうにもならないので、わすれようとしても、わすれることができません。
 夜もねむれません。学校へ行かれない、ただ一つのなやみのために。
 うけせん(受け銭)が、うそもかくしもしない、でんぴょう(伝票)をみせてもいい、たった二千四百円。どうやって生きていくのでしょう」
 「うけせん」とは、給料のことである。炭鉱ではこう言っていた。「でんぴょう」は、給料明細書のことである。長兄の給料がいくらかを、末子は把握し、一家の生活状態を知っているのだ。

 「朝おきてみると、兄さんのすがたが見えません。仕事を見つけに行かれたのです。
 だんだん、学校へ行きたい心も、しだいにきえていきます。考えていても、行かれないので、考えないようにしたのです。
 一年生の時は一かいか三かい休んだだけで、行きましたが、二年生の時も、三年生の時も、やく三分の一は、休んでしまいました。それもみんな、お金がないためです。びんぼうのためです。
 ああ、びんぼうって、かなしいことばかり。ためいきばかり。」

 「かなしい月日が、ゆめのように、すぎていきます。
 米がなくなり、夜は、しゃげ麦を、四ごうたきました。みんな、いろいろな思いをして、それを食べました。はしですくうと、はしのあいだから、ぽろぽろと、麦がこぼれおちました。
 麦だけのご飯でも、あちがたいことです。七がつなどは、朝から夜まで、一日中なんにも口にいれず、すわることも、立つこともできず、かみをふりみだして、青白くなって、ねていたこともあります。
 はらとせなかと、ひっつくほどにひもじい時もありました。それを思えば、麦だけでも、ありがたいことです。
 こんなぼろぼろの麦ごはんでも、
「ごはん」ときくと、みんなよろこんで、はんだい(飯台)につきます。」

 こんな貧乏でも、末子は乞食に同情を寄せる心を持っている。いつも、弱いものの見方で、味方だ。
 しかし、仕事が見つからない長兄は県外に仕事を求め、きょうだいは別れ別れに暮らさざるを得なくなる。末子もにあんちゃんと一緒に、知り合いの家に預けられる。そことて、裕福な家ではないので、居心地はよいはずはない。

 *

 この本には、その時の次兄のにあんちゃんの文も挿入されている。
 本のタイトルにもなっているにあんちゃんは、勉強は学校でもトップクラスでスポーツも万能の、末子の自慢の兄だ。末子とともに知人の家にいたにあんちゃんは、仕事の手伝いもしていた。
 「ぼくは、もうこの家から立ちのかなければならない。僕は働きに来たのであって、仕事がなくなれば、当然出なければならない。といって、どこへ行く。(略)
 東京がぼくを呼んでいる。ぼくはいま、東京へ行こうと決心しているのだ。
 日本の首都、東京。一度行ってみたい。行ってみようと思う。行けばどうにかなるであろう。死にはすまい。いや、死ぬのをおそれてはいけない。まあ、行けよだ。こじきしてでも、東京でする方がましだ。」
 貧乏からの行き場のない脱出と都会への憧れが少年の心に滲んでいる。こうして、にあんちゃんは一人東京へ行く。このとき、にあんちゃんまだ中学1年である。
 当時、地方の少年たちは都会に憧れた。そこには、夢があった。特に東京は、眩しい存在だった。僕が高校卒業する頃に持った感慨を、にあんちゃんはすでに中学1年で持っていた。
 結局、にあんちゃんは東京で警察に保護され程なく帰ってくるのだが、一家の困窮は解決されないまま、きょうだい(兄妹)はさらに苦難の道を歩くことになる。

 *

 貧乏の話といっても、この日記文は、同情のお涙頂戴の話ではない。貧しい話が続くのだが、彼らはぎりぎりのところでもいつも前向きである。決して卑屈にもならないし、妬みや社会批判もない。ましてや、感動の押し売りでもない。
 読んでいて、悲しいまでも清々しい。
 朝鮮人だという差別は、長兄の雇用関係であったのだが、学校や近所の話では一度も出てこない。末子の日記にも、朝鮮人としての被差別意識は出てこないし、コンプレックスもない。おそらく、社会生活のうえでは人種差別はなかったと思われる。
 解説で杉浦明平も、「坑夫のあいだには、一般に、そういう差別はきわめて少ない。特に、佐賀の鉱山には差別がなかったらしい」と書いている。

 佐賀の田舎町の小さな図書館で、ひっそりと置かれていたこの「にあんちゃん」を見つけて、すぐに読んでみた。おそらく少年時代に読んだであろう本である。
 この少女の日記には、戦後の炭鉱町の一断面が描かれている。いや、もっと戦後の少年少女の瑞々しい感性が滲んでいる。貧しいけれども、究極は明るく決して夢を失わない。今読んでも新鮮だ。
 あえて言えば、時代は違えども、現在も似たような状況にはある。
 読み進むうちに、土門拳の写真集「筑豊の子どもたち」が脳裏を掠めたのだった。

 *

 現在は町村合併で唐津市になった肥前町の田んぼの片隅に、その「にあんちゃん」の碑はあった。
 周りを見渡せば、静かな何の変哲もない田舎の農村風景である。そこが、かつては4千人が暮らしていたという炭鉱の跡地だとは、誰も気づかないだろう。それほど、杵島炭鉱大鶴鉱業所の面影はなかった。
 道を隔てた田んぼの中に、やっとコンクリートで埋められた坑口跡を見つけた。それは、廃墟といえないほどうち捨てられた栄華の断片だった。
 黒澤明の「乱」のロケ地となった豊臣秀吉築城の名護屋城跡が、このすぐ近くの鎮西町にある。ここも「つわものどもの夢のあと」で、城の形は残っていないが、歴史を忍ばせる城の石垣がある。
 しかし、ここは活気をおびた一つの産業町が神隠しにあったように消え、なんの名残りもなく、匂いすらしない。一つの産業があっという間になくなり、風景までも変えてしまったのを見ると、時代の流れとはあまりにも無残で冷徹だと思わせる。
 今わずかながらに残っているこれら鉱工業のあとや名残りを、日本の近代化の産業遺跡といって一部注目を集めるようになったが、遺跡は、かくも短い時間(年月)に出来上がるようになったのだ。
 帝国と同じく、繁栄を誇ったどのような産業もいつかは衰退する。いつまでも続くものなんてないのである。
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炭鉱王の邸宅・高取邸

2008-02-01 15:09:46 | * 炭鉱の足跡
 明治から昭和初期にかけて、北九州では何人かの石炭採掘による炭鉱王が生まれた。
 財閥による組織的な開発に交じって、石炭の鉱脈を当てて、一代で巨万の富を築いたものもいたのだ。
 華族で歌人でもあった柳原白蓮を娶った、筑豊の伊藤伝右衛門と並び高名なのが佐賀の高取伊好(これよし)である。飯塚には伊藤伝右衛門の邸宅も残っているが、唐津の高取邸も去年修築が行われ、国の重要文化財として一般公開されるようになった。

 高取伊好は、幕末の1850年に佐賀・多久藩士の子として生まれ、明治になり上京して慶応義塾に学ぶ。その後工部省鉱山寮に入り鉱山学を学んで、長崎の高島炭鉱に入る。その頃に、大隈重信や岩崎弥太郎と知り合う機会を得た。
 高島炭鉱を退社したあと、明治18(1885)年独立し、次々と佐賀の炭鉱を開発していった。その代表的な炭鉱が、杵島炭鉱である。また、彼は、教育、文化にも寄与している。
 彼の経歴を見ても、一介の山師とは違う、正統的な明治の実業家の姿が浮かんでくる。

 高取邸は、唐津城の西の海に沿ったところにあった。
 長い石垣の中央のところに門があり、中に入ると洋風とおぼしき玄関が待ち受けている。その右側には和風の建物が添って建っていて、二つの建物が組み合わされた複雑な構造になっているのが分かる。
 敷地は2300坪で、中庭を持った大きな複合的な和風建築である。この中庭を囲んで、各部屋が繋がっているのである。そして、2階からは、北の方に玄界灘の海が臨める。
 部屋の基本は和風の畳敷きであるが、洋風仕立てで暖炉のある部屋もある。灯りもランプやアールヌーボー調の飾りも施されている。
 和室の障子、襖、さらに外に立てられたガラス戸は、職人の繊細な創意工夫が駆使されている。そして、目をとめるのは、部屋の各所に置かれた絵師によって絵を施された杉戸と、これまた職人による欄間の彫りである。当時、絵師や職人を長逗留させて、これらを作ったという。
 また、個人の家では極めて珍しい能舞台がある。座敷に組み込まれた能舞台は、国内唯一ではといわれている。

 当時の炭鉱王の贅が偲ばれるが、これが成金趣味とは決して感じられないのは、当主高取伊好の知性と教養であろう。各々の部屋が、今でもまるで血が通っているように繊細なのである。
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長崎の、崎戸島の遺産

2008-01-16 16:22:09 | * 炭鉱の足跡
 長崎県の西彼杵半島の西海町から橋を渡り、大島町に向かった。その先に崎戸町である崎戸島がある。

 この一帯は、かつて石炭の炭鉱で栄えたところである。
 北九州は、福岡県の大牟田・三池、田川・飯塚・直方周辺の筑豊、佐賀県の唐津、多久、大町・北方・江北の杵島、それに長崎県の高島、池島、それにここ大島・崎戸の島など、大小の良質な石炭を採出する炭鉱が乱立していた。
 明治以降の日本の産業革命、富国強兵政策にも合致して、そこには街ができ、ひとつの繁栄を極めた。しかし、昭和30年代後半から40年代にかけて、エネルギー革命の波と同時に次々と閉山に見舞われた。活気に満ちていたこれら炭鉱の街は、その後は見る見るやせ細っていった。
 僕は、機会あるごとにこれらの炭鉱町を歩いたが、おしなべてそれらの町々は、落ちぶれたとはいえ、華やかなりし頃の青春時代を回顧することを堪(こら)えて生きている中年男のように見えた。
 これらの町々が、すべて指をくわえて衰退(老人になること)に身を任せていたのではない。炭鉱がなくなった後、町を何とかせんといかんとどこもが思っていたはずである。といって、労働力はあっても代わりの産業がすぐに育つわけではない。模索しながらも、多くの町は老人になっていった。
 「フラガール」で有名になった、常磐炭鉱(福島県)の転進の例もある。観光やメロン、国際映画祭と大胆に舵を取った夕張(北海道)は破産してしまったが、身の丈以上を背負ったからにすぎない。
 そもそも閉山当時は、炭鉱が佐渡金山や足尾銅山、石見銀山のように観光として成りたつとは考えられなかった(石見銀山は町の地道な努力が身を結んだといっていい)。だから、ほとんどの炭鉱は、炭鉱の象徴である抗魯や坑道や煙突やボタ山などは消滅させてしまった。中年になって放り出された男たちは、青春の情熱とエネルギーなんかくそ食らえと思ったのだ。30余年を経て、近代化遺産として注目を浴びるとは思いもよらなかったのである。
 もと炭鉱マンたちは、数少ない炭鉱の足跡である産業遺跡を見ても、それらを青春の栄光として見るのでなく、青春の傷跡として甦らせているに違いない。

 大島から崎戸に入ると、すぐに製塩所が目についた。ここでは、海水から塩を製造していた。それも、一つの地場産業の成長した姿である。
 街中を走っていると、ホテルや施設の看板、表示板が目につく。意味が分かりにくいRV村というのもある。この島には厚化粧と思うぐらい豪華なホテルは、もと国民宿舎だということだ。
 島内を巡っていて、やがて、ここは島ごと観光町として売り出していたことを知った。観光パンフレットもあったからである。
 島には、歴史民族資料館があり、館内に井上光晴文学館もあった。井上は遠藤周作ほど知名度はないが、彼と違ってこの地で文学講習会を開いていた作家である。
 しかし、「33゜(さんさん)元気ランド」には苦笑した。33℃の温泉浴場と思ったぐらいである。

 この島で、僕の目がとまった遺産が二つあった。
 一つは、北緯33°線展望台に行ったときである。ここからは、五島列島沖がよく見える。この展望台の横にあった、蔦の絡まった朽ち果てた石造りの建物である。
 格子状に窓のある高い建物で、最初は炭鉱の遺跡かと思ったが、中を見ると何もないがらんどうであった。中の資材はすべて持ち去られていたか既に遺棄されていた。友人が、これは軍の遺跡だなと言った。
 やはりその通りで、昭和13年(1938)に造られた、海底スクリュー音をキャッチするための海軍の見張り所、聴音所であった。
 ここ長崎には、人間魚雷の訓練所跡や、佐世保・針尾の巨大無線塔など、軍事遺産が多数ある。
 
 もう一つは、炭鉱の炭住(炭鉱住宅)であった。
 炭住といえば、平屋の長屋形式がほとんどであるが、ここは鉄筋の4、5階建てであった。
 長崎の離島には、鉄筋の炭住が多い。風が強いので強固な建物が必要だったのだろう。昭和初期に建てられた長崎沖の端島(軍艦島)の炭住は、鉄筋の建物が濫立していて、現代の風景のようである。
 崎戸の炭住は、窓がくりぬかれ、骨格だけが島の高台に聳えていた。かつて頻繁に人が行き来したであろうそこまでの道は、既に途中で途絶えて車では行けないようだ。
 廃墟となったそれは、取り残された建物というより、遠いギリシャやローマの神殿のように僕には厳かに見えた。

 栄枯盛衰とは歴史上のみではなく、目に見える形で私たちの周りで行われている。
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「三池」 映画が呼び起こす街

2006-08-03 13:39:25 | * 炭鉱の足跡
 熊谷博子監督 大牟田市・大牟田市石炭産業科学館企画・製作協力 2006年上映(ポレポレ東中野)

 「三池」と聞いただけで、胸が熱くなり、様々な思い出がわきあがってくる。あの、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱である。
 戦後、福岡には、鉄鉱の八幡を筆頭とした小倉、若松、戸畑、門司などの北九州工業地帯とともに、中部の田川、飯塚周辺の筑豊炭鉱、さらに南の有明海沿岸には三池の大牟田があり、一大工業地帯を形成していた。大牟田は、三池とともに栄えた九州最大、いや日本最大の炭鉱都市であった。
 
 *

 大牟田には、父の祖父母が叔母とともに住んでいた。
祖父は軍の役人を辞めたあと、旧満州で酒の工場を経営していたという。なかにし礼の祖父を思わせる。
 戦後、中国から引きあげて大牟田に住んでいた祖父母は、とおに隠居の身であった。髭をはやした祖父は墨絵を描いたり、木の彫り物をしたりしていて、文人のようであった。祖母の父方が岩国(山口県)・吉川藩の絵師だったので、その影響かもしれない。
 父の兄、すなわち僕の伯父は、山口県小郡市に住んでいて、油絵を描いていた。
 幼いとき、僕は父に連れられて、時々祖父母の住む大牟田に行った。やはり、僕の住んでいた佐賀の町も炭鉱町だったが、祖父母の住む町は炭鉱の香りがどこにもない住宅地だった。だから、祖父母の住む大牟田と三池は、当時は結びつかなかった。
 小学校に入ると、夏と冬の休みの時は、決まって父に連れられて大牟田へ行った。母も一緒に行く時もあった。
 僕の町に比べれば、はるかに大牟田は都会だった。大牟田に行くと、決まって栄町の松屋デパートへ連れて行ってもらった。屋上に、木馬のメリーゴーランドがあり、それに揺られるのが楽しみだった。そして、食堂で食べるランチ。旗のついているお子様ランチがお気に入りで、それが僕の定番だった。
 5歳下の弟も彼が少し大きくなった後、一緒に行くようになった。
 そんな大牟田も、僕が東京に出てきてからは、滅多に行くこともなくなった。

* *

 この映画『三池』は、「終わらない炭鉱(やま)の物語」というサブタイトルが付いているように、大牟田、三池の現在とかつての映像によるドキュメンタリーである。かつてとは、1960年、総労働対総資本と言わしめた、1年にも及んだ三池闘争のことである。
 この三池争議は、第2組合ができて、闘争はさらに熾烈になり、第1組合から死者を出すまでに激化した。その後、石炭産業は、石油によるエネルギー革命によって衰退化をたどり、三池も1997年に100年以上続いた歴史に幕を下ろすことになった。
 映画は、炭鉱のいまも残る足跡を映しだす。朽ち果てた、しかし偉大な産業遺産である。それと同時に、石炭産業が華やかなりし頃を生きた人の、いまを映しだす。かつて第1組合だった人も第2組合だった人も、経営者サイドだった人も、一様に年老いた。各々、過去を懐かしむように語り出す。それは、もはや戻っては来ないあの頃の、自分の若さと情熱と、三池という石炭産業への二重の思いだ。
 いま、「三池」という栄光の輝きの時代が、風化に曝されている同時に、大牟田の人々の心に伝説化されつつあるかのように見えた。

* * *

 閉山が決定した1年後の1998年の夏、僕は久しぶりに大牟田へ行った。
 いま考えるに、炭鉱と縁もゆかりもなかった祖父母がなぜ大牟田に住みついたのだろうかと不思議に思う。炭鉱に限らず、新しい産業などで発展してきた町はよそ者が入ってきて、栄えてきた。誰をも迎えうる新興の炭鉱町の持つ度量の深さが、あらゆる階層の人が集まる基盤を作り、住みやすさを生みだしていたのかもしれない。
 すでに祖父母も叔母もなく、僕は大牟田ではなく「三池」を見に行った。三池は、一時は20もの抗口(坑道の入口)を持ち、全国の石炭の4分の1を産出した。
 
 まず地図を頼りに、万田坑跡へ行った。万田坑は明治35年に開坑し昭和26年に閉坑していた。しかし、塔を思わせる竪坑用の車輪を持った鉄製の魯と、レンガ造りの巻室は残っていた。これを見ただけで、炭鉱遺産と分かる。
 建物の中は立ち入り禁止と書いた看板が取り付けられて、門が閉まっていた。周りは、雑草の夏草が蔓延っていて、誰も人はいない。
 草むらの中に、まるで坑道のようにレンガで囲まれた入口を見つけた。向こう側に通り抜ける地下があった。中に入ってみると、遠くに出口の日の明かりが見える。距離は50メートルぐらいだろうか。途中一箇所、天井を刳り抜いた明かり窓があるだけで、電灯もない。この中だけは、夏の盛りで汗をかいていたのも忘れるくらい涼しい。出口のところの頭の上に、ランプの形をした電灯の枠があったので、かつては明かりが取り付けてあったのだ。
 かつては人が頻繁に行き来し、子どもたちの叫び声が響いたことだろう。こういう穴蔵は、子どもは大好きなのだ。
 
 草むらの中で、ボルトで留めた鉄板が並び敷かれた砂利道が、まっすぐ延びていた。炭鉱鉄道の跡だ。すでにレールはない。普通の線路より少し幅が狭い。

 砂利道を歩いた。夏の日差しが眩しい。30分ほど歩いたところで、また鉄製の櫓が見えた。宮ノ原抗跡だ。開坑は明治31年で、閉坑は昭和6年。ここにもレンガ造りの巻室が残っていた。
 この近くに、鉄筋2階建ての住宅が並んでいた。すぐに炭住(炭鉱住宅)と分かった。歩いてみると、昭和30年代の空気が流れてきた。庭に面した窓から中が見えるが、人は住んでいないようだ。しかし、ついさっきまで住んでいたと思われる生活の息づかいが感じられる。
 いつ建てられたものか知らないが、シンプルで近代的な建築だ。最近表参道ヒルズにリニューアルした、かつての原宿の同潤会アパートに似ている。おそらくこの住宅も当時は最もモダンな建築だっただろう。
 この建物の前の道を自転車が通り過ぎた。まだ住んでいる人がいるのだろうか。
 さらに歩いて、有明海の港へ向かった。

 有明海の三池港は、石炭の積出港として栄えたところで、周辺には、四山坑や三川坑があり、最後まで採掘していたところだ。沖には、人工島の初島がある。
 三池港は、閉山になったとはいえ、息をしていた。三池鉱業所の看板を掲げた事務所は開いていて、人の出入りがあった。炭鉱(やま)の人間がまだ仕事をしていた。おそらく残務整理だろう。門が開いていたので、敷地の中に入ってみた。建物の裏に池があり、鯉が泳いでいた。不思議な気がした。

 帰りに、三池港の近くにある「港倶楽部」でコーヒーを飲んだ。明治41年に建てられた西洋館で、催しものも行われている現役の建物だ。華やかさもある、歴史的建築物だ。柳川にある旧立花藩の別荘「御花」と遜色ない。
 当時の三池の栄華を残す唯一の建物だが、最近営業は停止されたと聞く。
 三池の足跡が、また一つ遠くへ行ってしまった。
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