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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

振り向けば島根、石見銀山

2007-04-29 15:44:54 | ゆきずりの*旅
 文人、内田百閒風に言えばこうなる。

 ある日、ふと列車に乗って、島根に行こうと思いついた。
 特別な用事が元々ないので、旅行の日程は決めていない。
 自由と我儘はたっぷりある。

 列車に乗り、石見銀山へ行った。
 名所と呼ばれる場所はあまり好きではないが、行きたければ行く。良いものは良い。
 自由と我儘はたっぷりある。

  *

 こうして、佐賀へ帰る途中に、島根に寄り道しようと思ったのだ。
 東京駅22時発、夜行寝台車「サンライズ出雲」に乗った。
 北海道へ行ったとき以来の、久しぶりの寝台車だ。A寝台よりランク下のB寝台は、個室だが2層になっているので天井も低くて幅も狭い。大人が横になるともう余裕はない。しかし、ノビノビ座席に比べれば、おそらく横になれるだけ天国だ。
 
 列車が東京を出発したあと、おもむろに寝台車両のドアを開け隣の車両に足を踏み入れてみると、その部屋というか空間は、両窓に向かって小さなテーブルと椅子が並んでいた。片側4人ずつぐらいが並んで座れる、ショット・バーのような雰囲気がないでもない。
 そこで、外の夜景を肴にビールでも飲もうと思ってその在りかを探したが、自動販売機には酒類は置いてなかった。食堂車のように誰か係りの人間がいるのではなく、元々無人の客室である。窓のカウンターに座ったが、酒を飲まないで座っているバーのようで、なんとも手持ちぶさただ。
 反対側に座っていた仙人のような髭面の男性と、JRも商売っ気がないね、別にコンパニオンのお姉さんを置けばと言っている訳でもないのに、と話しが合った。通った車掌にそのことを尋ねると、いや、私どももそう思っているのですが許可が下りなくて、お客さんの方からも申請してくださいよ、と巧みな言い訳の返答だった。このような苦情が多いのだろう。
 このような車両(ミニサロン)は、車内でここ1箇所だけだという。たまたまこの部屋の隣の車両にいたから知ったようなものだが、こんな場所があると知っている人は相当の通である。この列車には、もちろん食堂車はない。
 そこへ、スーツ姿のサラリーマンと思しき男性が数人入ってきた。彼らは分かったもので、缶ビールや缶日本酒に乾きもののつまみ等も取り揃えていて、飲みながらの談笑となったので、僕は部屋に戻って早々に寝ることにした。

 * *

 東京を出た夜行列車は、京都から福知山線に入り鳥取から島根に向かうと思いきや、東海道線をひたすら倉敷まで走り、そこで北へ延びる伯備線に入り、中国山地を縦断して島根に向かった。
 翌日の朝9時ごろに島根県内の米子に入ったので、隣の車両の車窓カウンターに座った。もちろん、海が見える海岸線寄りにである。
 松江近くに来たときだ。小さな港に船が並んでいてその近くの家が建っているのを見て、なぜか懐かしさが込みあげてきた。
 母方のルーツは佐賀だが、父方は山口、島根なのだ。

 10時04分に終着駅出雲市に着いた。
 すぐに山陰線10時10分発益田行きの列車に乗り換えて、大田市に向かった。大田市には10時42分着。
 大田市駅から、銀山跡地のある大森までバスに乗った。

 石見銀山は16世紀前半から本格的に採掘され、20世紀まで操業されたわが国最大の銀鉱山である。いや、16世紀から17世紀にかけての全盛期には、世界の銀産出量の3分の1を占めた日本の大半をこの石見で産出していた。
 当時のヨーロッパは、アジアの金・銀および香辛料を求めて、アジアへの進出・交易にしのぎを削っていた。大航海時代のポルトガルで作成された地図を見ると、日本の中で石見(Hiwami)がしっかりと記載されている。
 
 大森地区に入ると、すぐに銀山跡地に向かった。山道を歩いていると、あちこちの坑道跡を見つけることができる。入り口は塞いであって中に入ることはできない。
 岩場の坑道を掘った跡を間歩(まぶ)と言う。現在、唯一坑道の中を公開されている龍源寺間歩にたどり着いた。
 抗口は、足尾の銅山や佐渡の金山とやはり大差はない。
 坑道の中に入るや、ひやりと冷気が身体を包んだ。外ではシャツ1枚だったのだが、すぐにジャケットを羽織った。この坑道は600メートル(公開されているのは約270メートル)におよび、かなり長い。
 佐渡や足尾、さらには夕張の石炭抗跡のように、模型人形の抗夫を坑道内に設置展示していないところがいい。ここは、原状ありのままに近い。

 * * *

 銀山跡地から、大森の街並みを歩いた。ここは、江戸時代銀山支配の中枢施設があった土地である。代官所跡や、武家屋敷、それに町人の家が混在して残っている。
 街を歩くと、まさにデジャヴの懐かしさが込みあげてくる。
 道に沿って建物から縁台が延びていて、そこに何気なく花や置物(小物)が置いてあったりする。風鈴の音が時を遡らせる。銀行や郵便局まで、民家風建物である。
 ここは、意識的にせよ無意識的にせよ、一切の建物と風景を近代化することから拒んできたと感じる。
 最近の世界遺産に申請云々以前からなのだから、計算された下心の俄か街づくりとは違う、本物の街の風味が漂っている。
 この銀山跡地を中心にしたこの地域一帯が世界遺産になっても、過大評価とは決して思わない。
 ヨーロッパには中世の風情をそっくり残したままの街が数多く現存するが、変化を遂げ続けた日本では珍しい希少の街だ。

 夜は、石見銀山の延長地にある温泉津に行ってみる。
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列車で、九州へ

2007-01-01 19:35:06 | ゆきずりの*旅
 年末の夜、冬の稲妻が走った次の日の東京は晴天だった。
 その日、僕は実家のある九州の佐賀に帰った。
 
 最近はしばしば東京と佐賀を行き来しているが、いつも列車だ。東京から博多まで新幹線。そこから、鹿児島本線で、鳥栖を経て、佐世保線で佐賀、肥前山口方面へ向かう。
 海外への渡航以外は、どんなに遠くだろうと大概が列車だ。北海道へも列車で行った。列車が好きなのだが、バスや船もいい。

 北海道へは、青函連絡船に乗って渡ったこともあったが、青函トンネルができて直接青森と函館は結びついた。
 JRも味なことをやるなあと思ったのは、津軽海峡の海底に駅を造り、そこで下車してもいいようにしたことだ。海底に住んでいる人がいるわけでもなく、そこに町があるわけでもないのだから、用事がある人などいないはずだ。だが、この試みは遊び心があって面白い。
 海底駅はすべての列車が停まるわけではない。特急など素通りする列車がほとんどだが、僕は、喜んで停まる列車に乗って、海底の駅で降りてみた。
 そこは、地下の坑道のようであった。そして、映画によく出てくる地底都市を思った。
 北海道へは、東京から船で行ったこともある。東京湾からカーフェリーで釧路へ行き、そこから道内を車で一周して、帰りは苫小牧から茨城の大洗に戻った。
 
 九州へ帰るとき、まっすぐに東海道新幹線を使うばかりではなく、京都から福知山線を経て山陰本線で西へ向かったこともあった。その場合は、松江や山口、萩に寄った。
 かつては夜行寝台列車(ナイト・トレイン)があり、時々それに乗って行ったが、今はない。寝台列車は、帰省というより旅という感じがした。

 九州へ、船で行ったこともある。
 東京湾から四国の徳島に寄り、門司へ行く船だった。船は、東京湾を夜11時ごろ出発する。夜の船着場は寂寥感が漂っていて、どこの街でもそうだが哀愁を感じさせる。
 船内で眠ったら、翌日徳島に着く。そこで一時停泊して、瀬戸内海を通って門司へ着くのだ。
 船の旅は、独特の雰囲気がある。みんなが無口だが、目に見えない連帯感が覆っている。ここでは、険悪そうな人相の人も穏やかに変貌しているように見える。そして、みんなが遠くを見ているような目になる。

 深夜バスも体験した。
 新宿を夜に出発して、早朝福岡に着く。バスはしんどいかと思ったが、思いのほか快適で、夜はバスのなかでDVD(ビデオ)による映画も上映して退屈しなかった。軽く一眠りしたら、もう九州だった。
 
 今の列車は速い。東京・博多間を新幹線特急「のぞみ」で約5時間で行く。速くなるのは歓迎だが、旅の楽しみは奪われる。列車が好きだと言っても、リニアモーターカーのようなスピードを欲してはいないのだ。速いだけだったら、飛行機で十分だと思う。
 列車には、速度以外の愉悦感がある。

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縫ノ池(弁財天)

2006-10-30 14:05:48 | ゆきずりの*旅
 佐賀県白石町須古に、縫ノ池(ぬいのいけ)と称する湧き水の地がある。
 ここは、かつて「べんじゃさん」と言っていた。「弁財さん」のことである。弁天さんを祭った神社の横にある池に、湧き水が出ていたのである。その池には、フナ、ハヤ、タナゴ、スジエビなどが生息していた。
 昔、ここは大人も子どもも憩いの地だった。湧き水を汲み、水とたわむれ、魚採りをして楽しんだ。しかし、いつしか湧き水は出なくなった。池の魚も見なくなり、渇水で池の水が底をつき、ひび割れた地が現れたときもあった。こうして、べんじゃさんも忘れ去られていった。
 ところが、5年前に、突然湧き水が復活した。40年ぶりという。縫ノ池は再び脚光を浴びるようになった。
 縫ノ池という名は、知らなくてもべんじゃさんは知っている。べんじゃさんの名を新聞で見つけたときは、嬉しくなった。
 ちなみに、縫ノ池とは、この地の須古城主平井経冶のおじ縫殿助冶綱(ぬいどのすけはるつな)が、この地を治めるようになっての呼び名と言う。
 今では、湧き水を汲みに来る人が絶えなくなり、毎年、魚を放流する放生の会も催されるようになった。
 そして、今年の10月29日(日)には、野点による茶会が催された。田んぼの広がる田園の中での茶会は、のどかで優雅である。

 弁財天は、いうまでもなく七福神の一つだが、もともとはインドの神である。そして、水の神である。であるから、池の端の神社が弁財天を祭るのは納得がいくことである。
 地図を見ると、この地に厳島神社とある。僕は、それがどこにあるのか訝しく思っていた。それらしい神社が見当たらないのである。今回、初めて、この弁財天が厳島神社であると知ったのである。しかし、誰も、そう呼んではいない。
 確かに、ここの鳥居に厳島神社とある。あの宮島の厳島神社であろうか。

 宮島の厳島神社も、水の端にあり、鳥居が水の中にあることで有名である。調べてみると、厳島神社も、弁財天を祭ってあった。
 宮島の厳島神社は平家の信仰を集め、あの朱塗りのきらびやかな装いの神殿と鳥居は平清盛が造った。厳島神社は、海人の尊崇神であり、祭神は市杵島姫命(いちきしまひめみこと)とされる。
 ここ厳島神社こと弁財天と妻山神社を結ぶ地点の間にある杵島神社も、もともと市杵島姫命を祭っていて、ここもかつて弁財天と称していたという。
 当時、この白石の地も、広大な荘園として、平氏の勢力圏内にあったことを考えれば、白石の弁財天が厳島神社と記載されているのも、その流れかもしれない。

 白石町の南の有明町(現在は白石町)に竜王という地名がある。竜王という地名そのものが竜神(海神)からの由来であろう。その竜王崎に海童神社がある。創建から1100年、水の神を祭った神社である。竜王崎というからには、そこは岬であったと思われる。
 有明海は干拓によって陸地が広がったので、竜王崎は現在は内陸地だが、奈良・平安時代ごろまでは、海に近かったと思われる。
 地図を見ると、海童神社、稲佐神社、厳島神社(弁才天)、杵島神社、妻山神社とつながっている。海童神社から杵島神社までは、海、水に関する神社であろう。 杵島神社と妻山神社を結ぶ三角点の杵島山中腹には、霊水の地「水堂さん」がある。
 さらに海童神社の近くに琴平神社がある。あの香川県の金毘羅さんと同じである。この金毘羅さんも、船の生活者の祭りである。つまり、水に関係した神社である。

 有明海は干潟だが、昔はもっと荒海だったのかもしれない。だから、台風などの多い九州では、海岸寄りには海を鎮めるための神社があちこちに造られた。内陸部は、渇水から稲作を守るための神社が造られたのだろう。
 かつて、水は生活を左右する、いや人の命を左右するものだった。だから、水の神はあちこちにある。
 こうして、べんじゃさん(弁財天)が、復活したことは嬉しい限りだ。

 普通、湧き水は谷川沿いや渓谷や森の麓といった所に出現する。
 縫ノ池の湧き水が不思議なのは、平地、田んぼの真ん中にあるということである。
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旅の道づれ

2006-08-26 00:28:35 | ゆきずりの*旅
 以前にも書いたが、僕は、旅はというより移動は、飛行機より列車が好きだ。海外以外は、ほとんど列車を選択する。
例えば東京から九州に帰るなど、少し長い旅(移動)をするとき、バッグに文庫本を突っ込む。
 読み終えるには十分な時間なのだが、1冊とて読み終わったためしがない。それどころか、最初の何ページか何十ページで終わってしまうことがほとんどである。
 これらの読みかけの本は、次の旅とかいつかの旅にまた持っていくことが多い。そして、また初めから読み始めるので、途中まで何度も読む羽目になる。つまり、旅に持っていく本の顔ぶれは、ほとんど同じものが多いのだ。
 今度こそ読みきろうと思って持ってきた本だが、列車が終点に着く頃には、ほとんど本を読んでいない自分に落胆した。休みの後の受験勉強の計画表を見るのに似ている。
 なぜか? 僕が怠け者であることもあるが、それがすべてではないようだ?
 
 先ほどといっても大分前だが、テレビ「笑っていいとも」の「テレフォン・ショッキング」で、タモリと元宝塚の女優(たぶん真矢みき)が話していたのを見て、僕もひどく頷いてしまった。
 女優は、「地理に凝っている」という話をした。
 「私も好きですよ」と、タモリが相槌を打つ。
 「私、地図マニアで、地図を見るのが好きなんですよ」
 「私も、暇なときは地図を見てますよ」
 「そうですかー。地図は面白いですよね」
 「地図もいろいろ変わりますしね。道ができたり橋ができたりすると」
 「最近は、地形が気になって、地形図も見ているんです」
 「そこまで行きましたか。女性としては珍しいですね」
 「ですから、移動にも飛行機はあまり使いません。列車です」
 「私も列車です。列車マニアです。汽車マニアというのとは少し違うんですがね」
 「列車で走っていると、ここがこの前と違ったと分かるんですよね」
 「そうなんです。博多まで列車・新幹線で行くというと、そんな長い時間退屈しませんかと言う人がいるんですが、退屈なんかしませんよ。あちこち見なくちゃいけないんで、忙しいんです」
 「そうです。いろいろ見なければいけないんで忙しいですよね。この前、地形を見るために、どこそこ(場所は忘れた)へ行ってきました」
 「そこへ行きましたか。そこは面白いところでしょう」
 「ええ、暇があったら地図を見て行き先を決めているんですよ」
 「私も、時間があればねぇ~、列車の旅をしたいんですが。この前は、用事で、博多まで日帰りをしましたよ。列車で」
 「それは、すごい!」
 といった話が、いつ終わるともなく続くのだった。いや、残念ながら、話は時間制限のため10余分で終わったのだった。

 僕は、タモリや元宝塚女優のように、地図や地形マニアではないので、車窓の景色を見るのに忙しいと思ったことはなく、ただぼんやりと見ているのが心地いいのである。それで、今度こそ読書をと思いながら、いつもそれを果たせず列車は終着駅に着く。

 僕が、旅に出るとき持って出る本は大体が決まっている。若いとき読みそこなった本である。本棚に積んだままになった本で、それでいて気にかかっている本である。
 それらは、「サフォー(哀愁のパリ)」(アルフォンス・ドーデ)、「愛人(ラ・マン)」(M・デュラス)、「北回帰線」(ヘンリー・ミラー)、「キャンディ」(デリイ・サザーン)、「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」(金子光晴)などで、その時の気分に応じてあわててバッグに入れることになる。大体が出発前はばたばたで、熟考している暇はない。この中で、金子光晴の旅の3部作はすでに読んでいるのだが、旅というとつい手が伸びる本である。
 時たま、新刊ですぐ読みたいというのが入るときがあるが、旅には古典がいい。僕の横にいて一緒に旅しているという安心感のある本、何度読んでも初めてのような色褪せない文体を持った本がいい。

 また、佐賀から東京へ列車で帰る。今度はどこまで読めるかな、「哀愁のパリ」を。
 そのうち、この旅の道づれに、プルーストの「失われた時を求めて」が加わるかもしれない。これだと、いつ終わるとも知れないので、僕のような旅には相応しいように思える。
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波佐見から、大村湾へ

2006-08-17 16:52:12 | ゆきずりの*旅
 磁器の町、佐賀・有田の西に波佐見町がある。波佐見もまた磁器の町だが、ここは長崎県である。以前はここで製作される磁器も、有田焼といって売り出されていた。有田の全国区の名前を拝借していたのだが、最近は波佐見焼きで出回っている。
 波佐見焼きの歴史も、有田に準ずるように江戸初期と古い。やはり有田と同じく、朝鮮の陶工によるものであろう。有田が肥前・鍋島藩の管理によって生産・輸出されたのに対し、こちらは大村藩によってなされた。
 
 旧友が波佐見町に住んでいるので、彼の案内で街を歩いた。磁器を見ても、豪華で華美なものはないが、並べてあるのも見ても、有田と変わらない。主なものは、一般に使用する食器や湯飲み、コーヒーカップなどだ。
 目立ってはいないが、ここは普段日常的に使用する食器類を中心に、磁器を昔から地道に生産してきた町なのだ。その中には、「くわらんか碗」と呼ばれたものもある。
 波佐見は有田の町より小さいが、その中で良質な生産工房が集まっているという中尾山に行ってみた。少し小高い丘の川に沿って寄り集まっている陶房の数々。川に架かる石橋には、磁器がタイルのように敷いてあり、橋に大きな磁器の大花瓶が装飾として立っている。伊万里の鍋島藩の御用窯が築かれた磁器の里、大川内山を想起させた。
 この中尾山の中腹にある「陶房、青」を見せてもらった。白磁に青をあしらった食器や花瓶は、落ち着いた感触を備えている。円さは小ぶりだがすっと丈の高いコップは、ビールを飲むのにも向いている。水差し口が少し傾いた真っ白な一輪挿しは、ユーモアも含んでいて洒落ている。
 今では、窯で焼くのは、人間の勘に頼っていた薪ではなく、ほとんどがガスである。出来不出来のむらが少なく、温度調節もできる。
 波佐見は、今では有田の名を借りることなく、自分の名前でしっかり歩いている。

 波佐見をさらに西に行くと、大村湾に面して川棚町がある。大村湾に出てみた。夕焼けが海を照らして美しい。ここは、第2次世界大戦中、人間魚雷の特訓基地だったところだ。
 大村湾にイボのように出ている大崎半島公園から、海の向こうの陸地に3本の鉄塔が立っているのが見える。ただただ高く伸びた、遠くから見ると線香のような感じの塔だ。見たものは誰でも、何だろうと不思議に思うだろう。高さ137メートルの旧海軍の針尾の無線塔だ。密かに、不気味に立っている戦争遺産だ。

 この近くに、ハウステンボスがある。遠くからでも、広大に敷地の中に、いくつかの豪華な建物が見える。敷地に近づくと、すぐに目につくのが、アムステルダム中央駅を模倣した威容堂々とした建物だ。さらに、いくつかのヨーロッパ風の華美な建物が建っているのが見える。これらは、ほとんどがホテルだという。施設内を見て周るだけでも疲れそうだ。
 オランダ村はどうなったのだろうと思っているうちに、広大なハウステンボスがいつの間にか出来あがった。この周辺の道路の整備を見れば、大変な力の入れようである。長崎は、佐賀と違って観光立県だ。
 しかも、ハウステンボスという駅までできている。博多から、ここまで「ハウステンボス号」というネーミングの特急列車も走っている。
 中に入ることなく、敷地を一周し、外観を展望しただけで通り過ぎた。閑散とした地に、突然現れたオランダ町で、オランダを味わうことができるのだろうか。
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