goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

虹の松原

2006-08-14 13:08:27 | ゆきずりの*旅
 夏になると、一度は海に行きたくなる。行かないと、夏を味わうことなく過ごしたと思えて、最近ではもう海に入るのは無理かなといった8月も終わろうという頃になっても行っていた。
 大体が8月の盆の季節は、佐賀に帰ってきているので、行くのは唐津の海である。それも、虹の松原である。
 虹の松原に行くには、最寄りの駅から佐世保線で肥前山口駅を経由し(しばしばここで電車を乗り換える)、久保田駅で西唐津行きの唐津線に乗り換え、唐津駅に出る。唐津駅から博多方面に向かう筑肥線で虹の松原駅下車という、なんとももどかしい1時間40分から2時間であるが、僕は列車の旅と思っているので、乗っているだけで楽しい。
 佐世保線沿線は、主に田んぼが広がる平野である。唐津線になると、途中多久、厳木(きゅうらぎ)あたりから列車は山林を分け入るような風景に変わる。そして、旧唐津市内に入ると、ゆっくりと流れる松浦川が現れ、列車はそれに沿って走り、遠く唐津湾の海が見えてくる。
 
 虹の松原は、玄界灘の唐津湾に沿って、東西5キロに伸びるクロマツの林だ。
 日本人は、御三家をはじめ三大何々という列挙といおうか格付け言葉が好きだが、この唐津の虹の松原も日本三大松原と呼ばれている。あとの二つは、三保の松原と天橋立である。
 最近の松原の松は、まっすぐに伸びているのが多いように感じる。かつては、お年寄りの背のようによく曲がっていた。その松の謂れというのが面白い。
 豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、唐津の先の名護屋に城を建て、陣をひいた。そのとき、唐津の松原がまっすぐ伸びているのを秀吉が見て、「頭が高い」と言って睨んで以来、曲がったのだという。
 最近では、太閤の威厳も遠のいたのかもしれない。

 スペインからポルトガルを旅したとき、まっすぐに伸びた木の林をバスで通った。それが、松林だと聞いて、驚いた記憶がある。まるで杉林のようだったからだ。それに、檀一雄が住んでいたポルトガルのサンタ・クルーズ村の松林の松ぽっくりは、日本のそれの10個分ぐらいはあろうかという大きなものであった。鶏の卵とダチョウの卵ぐらいの違いがあったろう。
 
 海は、ウインドサーフィンやジェットボートで楽しむ若者がいて、夏の華やぎを漂わせていた。そして、初めてのことだが、浜辺でビーチサッカーの試合が行われていた。

 海のあとは、唐津の街に出て、「イカの活き造り」を探した。
 地元の人に聞いて入った唐津駅前近くの「山茂」は、店内にイカの生簀がある。泳いでいるイカを掬って、その場で調理をしてくれた。皿にのせられたイカは、切り刻まれているのに、足が動いている。どんよりとした思いもよらない大きな目が、こっちを見つめているようだ。「ご免! 許せ」。
 
 この夜、唐津の空に花火が上がった。ほろ酔い気分で眺めた。盆なのだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海の街、呼子

2006-05-14 20:02:52 | ゆきずりの*旅
 唐津から玄界灘に沿って、北へバスで30分ぐらい行くと呼子という漁港に着く。いかにも地方の港といった雰囲気のある、この女の子のような名前の街が僕は好きである。
 港には、イカ釣り船や漁船が何艘も停泊していて、海辺では何軒かの家で、魚やイカを干していて、その場で売ってもくれる。料理屋が、民家の間に何軒か看板を掲げている。もちろん、獲りたての魚を料理してくれるのである。港のすぐのところに海に向かって神社があり、海の安全を見守っているかのようである。
 ここは、映画『男はつらいよ』シリーズの第14作目(1974年作)の舞台にもなった。マドンナは十朱幸代である。

 もうずいぶん前のことである。休みで佐賀の実家に帰ったときに、ある晴れた日、初めて僕は呼子に行った。そこで、腹が減っていたので「河太郎」という変わった料理屋に入った。
 注文すると、店の人が、店内にある船のような大きな生簀で泳いでいるイカを掬って調理場へ持っていく。そこで、そのイカをさっと下ろして造りにして出してくれた。薄く切られた身は、まだ透き通っている。足が動いているのを見ながら、その身を食するのだ。 
 その店を出て、海辺を歩いていると、漁船とは違ってやや大きな船が停泊していた。その船舶には「壱岐行き」と書かれていた。ここから、壱岐行きの船が出ていることを知った僕は、思わずそれに飛び乗った。
 壱岐は、のどかな島だった。牧場があり、今はいるかどうか知らないが海女(あま)さんがいて、海に潜って漁をしていた。
 壱岐で1泊して、再び船に乗って呼子へ帰った。午後のけだるい船の甲板で、うつらうつらと眠ってしまった。
 呼子から唐津へ行って、夜そこで飲んで帰ろうとバッグを見たら、財布がない。ポケットもどこを探してもないのだ。どこかで落としたのか、甲板で眠っている間にすられたのか、とにかく1銭もないのだから、飲むどころかわが家にも帰れない。唐津から実家のある駅まで、詳しくは覚えていないがおそらく600円ぐらいかかった。
 仕方なく、唐津の警察署に行き、事情を説明して、お金を借りることにした。千円までは貸してくれるという話を聞いたことがあったのだ。
 僕を応対したのは若い警察官だった。僕が、実家の住所と名前を書くと、その若い警察官は、「かつてその地域の所轄にいたとき、あなたのお父さんにお世話になったので、お宅はよく知っていますよ」と言って、気持ちよく千円貸してくれた。
 警察署を出た僕は、何だかこのまま帰るのが癪になってきた。それで、パチンコで勝って、とりあえずお金を返して帰ろうと思った。あわよくば、飲み代までも浮くかもしれないと考えたのだ。
 そんな虫のいいように、事が運ぶはずがない。用心深く100円ずつ玉を買っていたのだが、あっという間に手の中には百円玉3個しか残っていなかった。僕は、さらに落ち込んだ。自分のふがいなさと言うよりだらしなさに。
 仕方がないと、僕は残った金額分の乗車券を買って、電車に乗った。そして、壱岐で買った焼酎「天の川」を取り出し、ちびりちびり飲んだ。
 車窓からの夜景が切なく、酒はほろ苦くも美味かった。

 今回も、呼子に着くと、海辺の「河太郎」に行った。イカの生き造りは、変わらず美味しい。何より、窓から見える呼子港が旅情をそそる。
 店を出て、魚を干しているところで、アジの味醂干しを買いに行った。呼子に着いたすぐに、家の前でおばさんが魚を干しているのをのぞいたら、とても美味しそうなのだ。
 「いくらね」とおばさんに聞くと、「10匹、500円」と言うので、「イカを食ってきて、帰りによるけん」と言っておいたのである。
 イカを食べたあと、そこへ行くと魚は干してあるが、おばさんがいない。すぐ後ろの家を見ると横の玄関は開いているので、呼んだらおばさんが出てきて、きょとんとした顔で僕を見た。僕がアジを買いにきたと言ったら、やっと思い出してくれた。そして、「イカは美味かったろー、どこの店に行ったね」と訊きながら家を出てきた。
 僕が行った店の名前を言うと、「あそこはうまかろー?」と言いながら、板の上に乗っているアジを見わたした。「こっちが、昨日干したので、あっちが今日干したの。どっちにすっね」と訊いた。僕は、「今日干したの」と言うと、「そいがよかかもしれん」とアジをつかみ始めた。
 アジを数えながら袋に入れているおばさんに、僕が冗談に、「1匹ぐらい間違えて多く入っととやなか?」と言うと、おばさんは笑いながら、「そいじゃ、間違えとこー」と言って1匹多く入れてくれた。そして、「こいも間違えとこー」と言いながら、隣の板で干していた小イワシを3匹袋に入れた。

 呼子のあと、名護屋城を通って、玄海町の原発を見に行った。
 名護屋城は、呼子の先の鎮西町にあり、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄、慶長の役)の際、拠点として築いた城である。全国の有力各藩の陣地も置かれ、当時は広範囲で大規模な城郭が出現していた。今は、崩れた石垣がわずかに残っているだけである。その哀しげな石垣は、黒澤明の映画『乱』の舞台になった。

 玄海町の原発は、最近計画が持ち上がりながらもストップしている各県に先駆けて、佐賀県がプルサーマル計画に初めて同意して新聞紙上を賑わしたところである。
 原子力発電所というものを一度も見たことなかったので、一度見ておきたかった。施設は、植物庭園が覆うようにして、なかなか見えなかった。近くの小高い丘から、やっと円い半円の建物が見えた。
 それに初めて知ったのだが、不思議なことに、原発の近くに風車が何台か不規則に建てられていた。風車は風力発電で、自然の力を利用する、いわば原子力発電の対極とも言えるものである。そういえば、青森の竜飛岬にも風車があった。青森には原発再処理工場のある六ヶ所村がある。少しでもバランスを取ろうという意図なのであろうか。

 玄海町を出て、日が暮れたので、唐津の湊というところにある海の見える店で、唐津に住んでいるケイさんとビールを飲んだ。海を見ながら飲めるのはいい。
 いつまでもぐだぐだと飲んでいたい気持ちだったが、田舎の終電車は早い。何と僕の家に着く最終電車は、唐津発21時24分なのだ。
 また、夜景を見ながらの列車である。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

列車に乗って

2006-01-01 02:31:23 | ゆきずりの*旅
  ゆく水も 流れる雲も 散る花も
  たとえていえば かりそめの旅

 2006年1月1日、新しい年が始まった。僕は今、母の住む実家の佐賀にいる。
 この僕の育った町は、戦後のある時期栄えたものの、今では過疎と高齢化が進む典型的な田舎の街だ。何の変化も起きない、あたかも老いに身を委ね、自然死に向かってただ静かに息をしているかのような町だ。街には、永田町で演じられる小泉劇場もイラクのテロも、無関係かのように風は吹いている。
 
 この佐賀の田舎に東京から帰る時、僕は列車で行く。東京に戻る時もそうだ。かつて何度か飛行機を利用した時もあった。福岡の板付空港に行き、博多からは在来線の列車佐世保線を使って佐賀へ行く。
 佐賀空港が開港した直後、どのような空港かと好奇心から佐賀空港を利用したこともあった。この空港は、有明海の干拓埋立地に造ったというだけあって、周りは長閑な田圃が広がっている。
 東京・福岡間は、格安旅客機が運行するようになってから、料金は格段と安くなった。その恩恵でか、佐賀行きも福岡に準じた割引運賃である。であるから、今では時間も旅費も列車(JR)の方が多く(高く)かかる。しかし、僕は緊急の時以外は列車での往復を選ぶ。かといって、緊急の時とはそうあるものではない。親の危篤ぐらいであろう。だから、殆ど列車になる。
 
 列車はいい。あの移動感覚が好きだ。旅が好きな人は、あの移動感覚が好きなのに違いない。
 「そんな長い時間、退屈しないですか」と言う人がいる。僕には、そう言う人の気が知れない。そもそも退屈な時間などないからだ。
 目的地に確実に向かっているという充足感。過ぎ去っていく景色が、それを証明してくれているという安心感。そこが初めての土地だとすると、その新鮮な風景と小さな発見に伴う緊張と高揚感。
 それにもまして、目的地に移動しているという主目的に加えて、それ以外に何か(風景の観賞や読書や何か)を行っているというプラスアルファーの付加価値感。つまり、列車に乗っている間の、時間を二重に使用しているという感覚は、それだけで僕を満足させる。
 列車に乗る時は、乗っている時間からして、このくらいは読めるであろうと思って文庫本を1、2冊用意していくが、これが1冊も読み終えたためしがない。それでも、たとえ列車に乗っている間、(眠っていたりして)何もしなかったとしても、目的地に向かった(そして到着した)という主目的は達成したのだから、何も言うことはない。

 これが飛行機のように、箱に詰められ自由を縛られて、強制的に一気に目的地に運ばれたとなると、移動感覚は半減もしくは消滅する。それに、窓の外の景色は殆ど見えないか、運良く窓側の席とて飛んでいる間に見えるのは空か雲だけである。 国内だと、週刊誌を読んでいたら目的地に着いていたという時間間隔は、移動感覚が生まれる余裕はない。

 だからと言って、移動時間が長ければいいというものではない。長すぎてもいけない。今日、新幹線で東京・博多間が5時間で行ける時代、かつて(僕が学生時代)のように24時間以上かけて移動しようとは思わない。
 新幹線で行けるところを各駅列車で行くとなると、これは別の目的になる。時間の二重使用という移動感覚の愉悦感は磨耗させられてしまう。その代わり、違った愉悦感が生まれるかもしれないが。
 幸か不幸か、列車は、速くなる一方である。

 しかし、新幹線(超高速列車)のないインドのような国であれば、何時間列車に乗っていてもいい。多少到着時間が遅れても一向に構わない。
 この移動感覚とは、相対的なものである。

 もう一つ、列車の持つ大きな特徴は、途中下車できることである。目的地に行く途中で気が変わることがある。また、目的地を通り過ぎることもできる。はっきりと目的地を持たないままで、列車に乗ることもある。
 気まぐれな旅には、列車がいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする