かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 華氏451

2008-12-19 01:48:49 | 映画:フランス映画
 レイ・ブラッドベリ原作 フランソワ・トリュフォー監督・脚本 オスカー・ウェルナー ジュリー・クリスティー 1966年英=仏

 華氏451とは、本、つまり紙が発火するときの温度である。
 本を読むことが禁止された近未来社会の出来事を、あのトリュフォーが風刺的に映像化した。つまり、焚書坑儒の世界を描いたものである。
 舞台となっている街は、閑静な住宅街。燃えないコンクリートの家が散在している。今でもよく見かけるような郊外の街である。
 家にあるテレビは、今の液晶テレビのような大画面で壁に装置されている。
 放映されている内容は、本を持っていた(法律を犯した)何名の者が逮捕されたといった、政府の一方的報道のような番組が主流のようである。討論のような番組では、視聴者も家にいながら参加できるようになっている。かといって、娯楽ではない。
 電話は、旧式のダイヤル式であるが、部屋のあちこちに置いてある。40年前には、携帯電話の普及は想像外だったようだ。
 いや、さらに未来になると携帯電話もなくなるかもしれない。
 街に車はなく、出てくるのは赤い消防車のみである。人の交通機関は、モノレールが使われている。
 モノレールは未来社会を想起させるのだろうか。映画で描かれた未来の街といえば、モノレールがしばしば登場する。

 主人公の男(オスカー・ウェルナー)は、消防士である。かつて消防士とは、火を消す役目であったが、本を燃やすのが仕事である。政府の警官とも特高機関ともいえる職業だ。
 彼の上司である長官は、本の害毒についてことあるごとに語る。
 「本は人を不幸にする。人心を乱して、人々を反社会的にする」
 「隊員にもっとスポーツをやらせろ。忙しくしていれば、幸せに感じる」
 「本を読むと不幸になる。なかでも小説は、幻に憧れてしまうからだ」
 「本を読むと人より賢くなったと思いこむ。それがまずい。皆、同じでないとな。平等でないと、幸せを感じない」

 本を読むこともない実直な消防士が、少し本に興味を持ちだしたときから、彼の人生は変わりだす。昇進を前に、彼は本を読み始めたのだ。
 そして、反抗を、すなわち小さな反乱を起こす。
 トリュフォーの、全体主義、独裁主義への風刺作品である。
 彼は、芸術表現への規制を非常に嫌った。だから、新しい映画というものを模索した。それが、ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた。

 主人公のオスカー・ウェルナーは、トリュフォーの名作「突然炎のごとく」に出演していた男である。ハンサムではないのだが、奇妙な味がある。
 小学校の校内で、小さな生徒が出てくるシーンがある。その子は、おそらく4年前の「小さな恋のメロディー」(1970年)のマーク・レスターに違いない。
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◇ パリところどころ

2008-12-17 18:01:39 | 映画:フランス映画
 監督:ジャン・ダニエル・ポレ(1話) ジャン・ルーシュ(2話) ジャン・ドゥーシェ(3話) エリック・ロメール(4話) ジャン・リュック・ゴダール(5話) クロード・シャブロル(6話) 
 出演:ミシュリーヌ・ダクス(1話) ナディーヌ・バロー(2話) バーバラ・ウィルキンド(3話) ジャン・ミシェル・ロジェール(4話) ジョアンナ・シムカス(5話) ステファーヌ・オードラン(6話) 1965年仏

 ヌーヴェル・ヴァーグ、つまりフランスから始まった映画の新しい波は、1950年代後半から60年代の全世界の映画界を席巻したと言っていい。
 日本にもその波は押し寄せ、大島渚や吉田喜重などの松竹ヌーヴェル・ヴァーグをはじめ、篠田正浩、蔵原惟繕などが影響を受け開花させた。さらに、本家ヌーヴェル・ヴァーグに影響を及ぼしたといわれる中平康の名も付け加えなければならないだろう。
 このヌーヴェル・ヴァーグは、狭義の意味ではフランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の主催者アンドレ・バザンの思想性の影響の元に制作された、ジャン・リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、エリック・ロメールなどの、監督たちの作品を指した。
 しかし、広くはアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダなどのモンパルナス界隈に集まっていたドキュメンタリー出身の左岸派も含めて総称されるようになった。
 この波は、映画にとどまらず、サルトルをはじめとするフランス実存主義者や、ヌーヴォー・ロマンと称せられたアラン・ロブグリエ、マルグリッド・デュラスなどの(相互)影響もあった。

 この映画「パリところどころ」は、パリの街をモチーフに、当時のヌーヴェル・ヴァーグと称される監督たちのオムニバス映画である。
 40年前のパリの街角が映し出される。
 最も瞠目すべき作品は、第2話のジャン・ルーシュ監督による「北駅」である。
 北駅近くにアパルトマン(日本ではマンション)を買った新婚夫婦が、出勤前の朝の部屋で映し出される。そこで、家(部屋)を買ったのはいいが、すぐ近くで工事が始まって煩く、買ったのは間違いだったと女性が言い出し、夫婦喧嘩になる。
 女性は、今夜は帰らないと言い放って家を飛び出し会社に向かった。女性が道路を渡ろうとした際に接触しようとした車から男が出てきて、謝った。そして、歩きながら女性に話し出す。男は真面目で金持ちそうである。
 謝っていた男性は、このまま二人でどこかへ行きませんかと誘う。そして、ついには空港へ行って、どこか遠くへ出かけないかと話は、非現実的であるが魅惑的な方向にいく。とは言っても、男は詐欺師のようではないし、金はありそうな紳士である。
 女性は、男に好感は持てたものの、これから会社があるし、一緒に行かないと断わる。
 なおも、男性は誘い、言葉を続ける。
 「何げない出会いも、運命の象徴になりえます」
 「突然どこかに行きたくなる。通りすがりの見知らぬ人と」
 「人は相手を知れば知るほど、逃げたいと思う」
 「秘密が消えると、愛は消える」
 男の言う言葉は哲学的で、多くの知己に富んでいる。
 「例えば、闘牛です」と男は言って、言葉を繋ぐ。
 「いつも牛と闘牛士が戦う。どちらかが死ぬ。同じことの繰り返しだが、戦う相手は毎回違う」
 「男女の出会いも有史以来同じことの繰り返しだ」
 女性は「どちらかが死ぬの?」と質問する。
 男は「死が怖い?」と逆に質問する。
 女性は「誰でも怖いわ」と応える。
 男は言う。
 「君は人生を愛し、秘密が好きだね」
 「じゃあ、行こう。我々は死よりも強い」
 女性は、それでも冷たく「話もあなたも魅力的よ。でも行かないわ」と答える。
 すると男は打ち明ける。
 「実は、今日、自殺しようと思っていた。しかし、あなたの笑顔に会って考えが変わった。賭けてみようと思った。もし、あなたが同意してくれたら、私に不可能はない」と。
 だから、ぜひハイと言ってほしいと頼む。
 それを聞いても、女性はハイとは言わないで、断わる。
 すると、男は、陸橋の上に登るやいなや、その向こうへ飛び落ちる。女性は叫ぶが、地面に叩きつけられた男をカメラが上から映し出す。
 この間15分ほどを、カメラはほとんどカットなしで撮り続ける。
 最もヌーヴェル・ヴァーグらしい作品と言える。

 ジャン・リュック・ゴダール監督による第5話も面白い。
 付きあっていた男を二股にかけていた女性が、速達を二人に出すが中を間違えて投函し、2人のところに行って何とか言い訳し、ごまかそうとする話である。
 主演のジョアンナ・シムカス(「冒険者たち」など)が可愛い。彼女は「招かれざる客」で共演したシドニー・ポアチエと結婚し、早々と映画界を引退してしまった。
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◇ 悪魔の美しさ

2008-10-29 17:36:55 | 映画:フランス映画
 ルネ・クレール監督・脚本 ジェラール・フィリップ ミシェル・シモン シモーヌ・バレール ニコール・ベナール 1949年仏伊

 あなたの最も欲しいものは何だろう。
 愛、富(金)、名誉、それとも……。
 何だろう。
 しかし、人が行き着くところは、最も欲しいものは、若さであろう。
 今現在若い人は、そうとは思わないかもしれない。老いを微塵も感じることなく若さが溢れている人は、もっと現実的に最初にあげた愛、富、名誉や権力などが欲しいと思うかもしれない。金があれば、愛も手に入れることができると思う人もいるだろう。
 しかし、今若い人もいつかは老いる。それは、必ず、なのだ。例外はない。あなたにも、そして僕にもやってくる。いや、もうすぐそこにやって来ている。
 ゲーテの作り出した「ファウスト」は、悪魔と取引をして、欲しいものを手に入れた。それで、交換するものは、何か?
 魂である。
 若さと引き替えだったら、魂など誰もがすぐに差し出すだろうか?
 きっと、ほとんどの人間が差し出すに違いない。
 
 ファウスト教授(ミシェル・シモン)は、学問一筋で50年がたった老学者だ。ある程度の名誉は得たが、遊ぶこともせずに老いてしまった。長年行ってきた錬金術の研究もあと一歩である。
 そこへ、悪魔の手先のメフィストフェレスが顔を出し、ファウスト教授に契約を持ちかける。望むものを与えてやるので、魂を売れと。
 断わる教授に、とりあえず、悪魔は無償で教授に若さを与える。
 彼は、美貌と若さを手に入れる。
 老教授からハンサムな若者アレン(ジェラール・フィリップ)になったファウストは、若さを享受するかのように村の酒場で飲み叫び、ジプシーの娘に恋をする。
 しかし、金がないと若さだけでは思うにまかせない。
 そこで、悪魔は若者アレンに研究していた錬金術の完成策を教える。砂が金貨に変わる術で、彼は宮殿で名誉も金も手に入れる。足りないのは愛で、美しい王妃(シモーヌ・バレール)の愛も手に入れる。
 その先はどうなるのか?
 彼は悪魔に頼んで、自分の未来を見て、愕然とする。

 金で買えないもの、それは若さである。
 だから、秦の始皇帝からマイケル・ジャクソンまで、いやいや、あなたの身の回りにいる知り合いの彼女まで、若さを手に入れようと必死になる。
 しかし、それは叶わない。そう見せかけられるか、少し長生きするかぐらいである。かといって、身も心も衰えた末に、自分が少し長生きしたところで何になろうか。
 長生きしなくていいから、若いままでありたい。この矛盾した思いが、最も我が儘で本当のところかもしれない。
 されど現実のわれわれは、「ファウスト」か「ドリアン・グレイ」のように、魂を売ることさえできない。
 
 主演のジェラール・フィリップは、老いさらばえることなく36歳の絶頂期に没した。かくして、彼は永遠の美男子と称されるようになった。

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◇ ペルセポリス

2007-12-15 01:38:53 | 映画:フランス映画
 マルジャン・サトラピ原作・脚本・監督 ヴァンサン・パロノー共同脚本・監督 2007年仏映画 12月22日~シネライズ他全国順次ロードショー

 「ペルセポリス」とは、ギリシャ語で「ペルシャの都市」という意味である。
 この映画は、ペルシャの都市、今はイランの都市におけるつい最近の時代の物語である。監督はイラン生まれでフランスで活動しているマルジャン・サトラビ。この映画は、彼の自伝的同名本のアニメ映画化である。
 アニメ映画であるが、カラーではなくてモノクロで、アニメならではの特殊な動きや背景が出てくるわけではない。つまり、例えば宮崎駿監督の実写ではできない想像力を駆使したアニメ映画の対極ともいえる、まるでかつての紙芝居の動画版のような感じである。
 その時代と逆行した素朴なアニメが、想像力を掻きたてる効果を得ていることを、私たちは見終わって知る。
 この映画は、2007年カンヌ映画祭にてコンペティション部門に出品し、審査員賞を受賞している。

 王朝だったイランは、1978年学生デモをきっかけに、王政への国民の怒りが爆発し、全国で暴動が勃発する。翌79年にパーレヴィ王政が崩壊し、パリに亡命中だったホメイニ氏によって革命政府が樹立される。
 しかし、翌80年には隣国イラクとのイラン・イラク戦争勃発し、戦争は8年にも及ぶ。そんな中、新政権は女性のヴェール着用、男女別教育の方針を打ち出し、さらに西洋文明の排斥に動き出す。言論や思想の自由は、ますます狭まっていく。

 この激動の時代のイランで、一人の少女マルジャン(愛称マルジ)を主人公にした、監督の自伝的物語である。
 混迷の政局の下、少女マルジは様々な社会的矛盾に純粋で率直な疑問を抱く小学生である。大胆な発言や行動を起こすことから、心配した両親は彼女をオーストリアのウイーンに留学させる。
 ヨーロッパの自由な空気の下で成長した彼女は、恋もし失恋も経験して大人になる。そして、いまだ制約の多い家族の住む祖国イランに戻ることを決意する。

 このアニメ映画を見て、僕は「テヘランでロリータを読む」(アーザル・ナフィーシー著)を思い出した。
 この本も著者の自伝に基づいたもので、アメリカの本を読むことが制約されつつあるイランにおいて、秘密裏に行われた著者主催の読書会の模様を描いたものだ。
 これらイランでの映画や本によって、自由に発言することができない社会、また、本を読むことを制約されたり、服装を規制されたりすることが、どのようなことかが、ひしひしと伝わってくる。
 この映画の監督は、なぜ実写でなくアニメにしたかを、固定観念にとらわれないように、想像力によってインターナショナルな概念に広がるようにと、答えている。
 つまり、主人公を実際のイラン人による実写映画にすると、人物の持つイメージが固定される恐れがあるということである。そして、それを回避する企ては成功したと思える。
 イランが舞台であるが、言葉はフランス語である。そして、その声の配役がすごいメンバーなのだ。
 主人公のマルジの役は、キアラ・マストロヤンニ。彼女は、マルチェロ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌーブの間に生まれたフランスで活動している女優である。
 そして、マルジの母役がカトリーヌ・ドヌーブ、祖母役がダニエル・ダリューという大物女優なのである。

 フランスの各紙誌は、この映画をこう述べている。
 イランの物語でありながら、普遍性を帯び、身近な事柄のような印象をもたらす映画であると。
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◇ エディット・ピアフ~愛の讃歌

2007-10-04 19:00:03 | 映画:フランス映画
 オリヴィエ・ダアン監督 マリオン・コティヤール ジェラール・ドバルデュー 2007年フランス/チェコ/イギリス合作

 天才とは、そのような生き方しかできない人である。
 だから、その生き方で認められ、名声や富を得ようとも幸せとは限らない。なぜなら、幸せとは周囲や関わっている世界との関係で決まり、極めて個人的な価値観だからだ。

 エディット・ピアフはシャンソンの大御所的存在だった人で、シャルル・アズナブールやイブ・モンタンを見いだし、愛人関係にもあった恋多き人である。そして、彼女の歌には、いまだ歌い継がれている素晴らしい曲、有名な曲が数多くある。
 ところが、エディット・ピアフを僕はあまり好きではなかった。
 ピアフの代表的な歌の「愛の讃歌」や「バラ色の人生」を誰かが歌っているのを聴くと、何だかむず痒くなってくるのだった。そんなに、素晴らしい愛だ、幸せだと大声で訴えなくてもいいだろうという気持ちになってくるのだ。
 つまり、愛を熱唱する歌より、愛に傷ついた思いや、愛なんて何になるのといった、愛を哀しんだり、中傷したりする歌が好きなのだった。
 
 ところが、このピアフの映画を見て、この歌に対する思いが少し変わった。
この愛を滔々と讃える歌は、ピアフの哀しみと苦しみに彩られた人生の果てにたどり着いた思いを訴えたものであった。ピアフだからこその歌だったのだ。やはり、僕はピアフの上っ面しか知らなかった。
 「愛の讃歌」や「バラ色の人生」は、ピアフ以外の人が歌うと、特に素人が歌うと、往々にその重みに見合うことなく、俗っぽい歌に聞こえるのも道理である。

 ピアフは、子どもの頃に苦労して育ち、その天才的な歌唱力で、大スターの地位を築いた人間である。そして、晩年は孤独と薬に悩まされ、四十代で死んでいった。
 ピアフが舞台で倒れた場面は壮絶であった。
 「パダン、パダン、パダン…、このメロディーが追いかけてくる。…このメロディーが私を指…」と歌ったところで、突然彼女は倒れる。
 ピアフの歌の中では、個人的には、この「パダン、パダン」(Padam…padam)が一番好きな歌だ。だから、この歌が始まったときは身を乗り出して見入り(聴き入り)、突然倒れたときは、息を詰めた。
 ピアフが、息を引き取る前に流れる「水に流して」(Non,je ne regrette rien.)もいい歌だ。
 「いいことも、悪いことも、何も後悔してはいない…」
 こんな台詞を残して死ねたらいい。

 ピアフを演じたマリオン・コティヤールは、ピアフになりきっていた。ジェラール・ドバルデューがプロデューサー役で出ていたのは愛嬌か。

 僕はずっと、ピアフと美空ひばりを何となく重ねていた。
 もちろん、まったく違う生き方であるが、どちらも天才である。その天才の持つ孤独と舞台への執念は、この映画を見て改めて共通していると感じた。
 ピアフとは、「雀」の意味である。
 フランスの「すずめ」と日本の「ひばり」。どう見ても、似ている。まるで、示し合わせたようである。
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