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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

13. 一気に、ローマへ

2005-09-23 16:54:59 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月10日>ローマ
 モナコのモンテカルロ駅を朝8時20分発の列車に乗ってフランスを出国し、まずイタリアの出発点といえるヴェンティミリアに行った。ここでローマ行きの列車に乗り替え、イタリア半島をなぞるように海岸に沿って南へ向かい、一気にローマへ向かった。ローマ着は夕方16時57分で、約8時間の長乗車だ。
 
 ヴェンティミリア駅で、同じコンパートメントに一緒に乗り込んだのはカリフォルニアから来たというアメリカ人の若いカップルだ。男は、アメフトをやっているような筋肉隆々のマッチョマンだが顔は童顔でかわいらしい。女は、黒ぶちの眼鏡をかけたインテリ風。
 次のサンレモ駅で、長身のアロハ風シャツにサングラスをかけた男がドアを開けた。一見にやけた男が、荷物のバッグをコンパートメントの中に入れた。1個入れて部屋を出て行って、また1個持ってきて部屋に入れた。それで終わりかと思っていると、そうではない。男は何度か部屋を出たり入ったりして、汗びっしょりになって荷物を部屋に入れた。
 私が持っているバッグと同じぐらいの大きさのを2個、それよりやや小さいのを1個、そしてその2倍ぐらい大きいのを1個、計4個持ち込んだ。大きな荷物は、行商の千葉のおばさんもビックリの小柄な大人が入るほどの大きさだ。これだけの荷物ならどうして送らなかったのかと思ってしまう。
 男は空いている棚をすべて占領して荷物を詰め込んだ後、席に座るや汗を拭きながら照れ隠しのように何やらぺらぺら喋りだした。色男ぶった格好だが、お調子者のイタリア人のようだ。イタリア語はアメリカ人のカップルもよく分からないようで、私たちは黙ってうなずいて聞いていた。
 時々英語を交えての会話によると、サンレモで音楽関係の仕事をしていて仕事関係でローマへ行くとのことだ。
 途中、ピサの駅でアメリカ人のカップルが降りた。男は大きなリュックを事もなげに軽々と背負った。25キロあると言い、私は試しに背負おうとしたができなかった。肉食人種の逞しさを見せつけられた。
 気障な色男と顔を見合わせての列車の旅は、またたく間に終着駅であるローマのテルミネ駅に着いた。荷物を出すのにまた男の悪戦苦闘が始まった。私は見るに見かねて、その中の1個を持ってやった。色男も必死の形相だ。駅を出てタクシー乗り場まで来て別れるとき、色男は「グラチィエ、グラティエ」と頭を下げた。
 
 ローマのテルミネ駅は広く、喫茶店もセルフ・レストランもある。コンコースを出た駅前は、チンクエチェント広場でバスターミナルでもある。乗るバスを探すのにも一苦労する広さだ。広場の奥の方にはアジアにあるような屋台や土産物屋もある。
 私は、テルミネ駅の南側のホテルが点在している通りに行き、ホテルを探した。さすがに観光都市ローマだ。ホテル代はどこも安くない。駅から10分ほどの、通りより奥に入った2階に、見逃してしまいそうな「ディ・リエンツォ」を見つけた。
 受付には眼鏡をかけた気の弱そうなおじさんがいて、ホテルとは思えない普通のよれよれのシャツを着て座っていた。部屋はさほどきれいでないが、静かで駅にも近いし、この辺では安い。部屋代は、交渉して7万リラで決まった。
 イタリアでの一日の始まりだ。駅の近くのリストランテで食事したが、値段の割にはそう美味しくはない。フランスと比べると無理もないだろう。ピッツァに期待しよう。
 
 明日は、さらに南下してナポリに行こう。ローマの探索は、そのあとにしよう。
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12. 雨のモンテカルロ

2005-09-22 11:58:50 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月9日>モナコ
 マルセイユから西へ海岸線を縫うように海の上を列車は走る。コート・ダジュールは、駅も海の風景と溶け合っている。この路線上には、「海の上」(sur-Mer)とついた駅名がいくつかある。その中でも「海の上の美しいところ」(Beaulieu-sur-Mer)などは、ここだから許される名だろう。
 私はカンヌもニースも素通りしていく。高級避暑地にことさら興味はない。この紺碧の海と爽やかな潮風を嗅ぐだけで十分だ。しかし、モナコは立ち止まらなくてはならない。1日で隅から隅まで歩けるような小さな街でも、ここは立派な独立した王国なのだ。
 それに、モナコには夢がある。どんな夢が?

 昨日のマルセイユの夢を引きずったまま、モナコのモンテカルノにやってきた。そんなにうまくことは運ばないのが世の常だ。駅を降りて、東の大公宮殿の方へ向かった。アルム広場の近くの路地を入ったところにある、2階のエルヴティア・ホテルに入った。オーナーは気さくなおばさんだ。
 私は、街中を探し物を探すように歩いた。モナコの宮殿は湾のふもとのなだらかな坂を登ったところにある。城を想像していたが、過剰な装飾性を排した近代的な建物だ。銃を掲げた近衛兵がいなかったら、ヨーロッパによくある市庁舎といった感じである。
 宮殿を出て、モナコの湾を囲うように突き出た岬を歩いた。カモメが1羽、はぐれたように海岸の歩道の壁にとまっていた。事件もいいことも起こりそうにない。
 
 モナコといえば、カジノへ行かねばならない。モナコを語るにはカジノを抜きには語れない。日中は青空だったのに、カジノへ着いたころには雨が降り出した。
 ここのカジノではダークスーツで決めたかったが、あいにくスーツはおろかタイも持ってきていなかった。靴はスニーカーでチノパンツという軽装だが、カラー(襟)のついたシャツというので許してもらおう。しかし、どう見ても上客の紳士には見えない。
 カジノでのギャンブルは、澳門(マカオ)でそれの持つ魔力と陥穽を知らされ、勝負運というものを使い切ってしまったので、勝負をする気はなかった。この日は、ヨーロッパを代表するカジノの雰囲気を味わうのが目的である。こう思っていること自体、もう博奕の勝負には負けているのだろう。
 カジノの建物は、パリのオペラ・ガルニエを設計したガルニエの作だけあってオペラ劇場を髣髴させる煌びやかさだ。そして、中は外見に劣らない、他のどこのカジノよりも洗練されて美的であった。シャンデリアの灯りに充たされた部屋は、ベル・エポック調の装飾で設えてあり、王宮か貴族の館のようである。吹き抜けの天井は、イタリア・ルネッサンス風壁画で彩られている。
 
 とりあえず、20フラン・チップを10枚替えた。ブラックジャックやバカラはやめて、すぐにルーレットに行った。台は0、00の他に1から36を3列12段に区切ってあり、4つの番号に絡めばいい「コーナー」に賭けることにし、下列の左交差線上にチップを置いた。31、32、34、35のいずれかに入ればいい。掛け率は8倍である。チップを1枚ずつ張ったとして、10枚手の中にあるので、その内1回ないし2回勝てばいいと思った。
 しかし、あっという間に5連敗した。次にディーラーが玉を回したときに、彼と目が合いにっこり笑ったので同じコーナーにとっさに2枚張った。しかし、その目はこなかった。また、1枚に戻して同じコーナーに張り続けたが、結局9連敗してポケットのチップは空になった。
 このままでは帰れないので、今度は100フラン・チップを5枚替え、隣に場を替えた。そこでも同じコーナーに張った。しかし、またも3回続けて外した。あと残りは100フラン・チップ2枚だ。また最初の元の場に戻って、意地で同じコーナーに張った。しかし、こない。最後の1枚も当然のようにこなかった。1回も勝てずに14連敗の完敗である。
 私の博奕の項の設定には「負」が刻印(インプット)され、澳門の悪霊を引きずっているようである。
 
 雨の中を濡れながら、疲れた足どりでホテルに向かった。ホテルの並びには洒落たレストランがあったが、カップルが目立ち一人で入るような雰囲気ではなかったし、濡れそぼった自分には不相応に思えた。その向かい側にある、アラブ人がカウンターにいる薄汚いピザ料理屋に入った。今の自分にはここが相応しいと思えた。客は私のほか誰もいない。ピザの皮で米と野菜をはさんだ生温かいピザもどきをほおばりながら、一人ビールを飲んだ。

 夢はどんな風にでもある。だから、シャボン玉のようにすぐに消えてもしまう。
 明日は、念願のイタリアへ行こう。
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11. マルセイユの夢

2005-09-19 01:18:40 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月8日>マルセイユ
 片雲に誘われて旅を続けたのは芭蕉だが、青空を求めて南仏マルセイユにやってきた。マルセイユは、はちきれんばかりの若い女のイメージがある。
 あの詩人金子光晴が、1年がかりの船旅でやっとはいあがったところがマルセイユだ。金子はマルセイユからパリへ行った。ゴダールの「勝手にしやがれ」のJ・P・ベルモンドも、マルセイユで車を盗んでパリへ向かった。
 マルセル・パニョルの「マリウス」も、マルセイユが舞台だった。文学座での渡辺徹の初舞台が1984年、この「マリウス」だった。共演は平淑恵。その劇の音楽監督をやっていた知人から、劇中で歌う古いシャンソン「Si petite」(こんなに小さい)の訳詞をやってくれないかという話が私に舞い込んできて、訳詞をしたのも懐かしい。そのころ私は、なかにし礼の気分だった。
 マルセイユは、すかんぴんの人間にも何か夢を抱かせるものがある。まず、何よりも抜けるような青空がある。目の前には海が広がる。そして、大らかなはちきれんばかりの女がいれば、マルセイユは完璧だ。

 アヴィニョンを発ってマルセイユに着いたときはもう陽は真上に昇っていた。駅は高台にあり、駅を出ると、すぐになだらかな広い階段が街に向かって下りていて、海に向かう街が見下ろせた。階段の両サイドには装飾的な塔と彫刻が並んでいて、駅前は私の抱いていた少し野卑なマルセイユらしからぬ気取った雰囲気だ。
 階段の上から街を見下ろしていると、はちきれんばかりの女性が駅に向かって登ってくる。白いTシャツにコットンのパンツ。若い日本人のようだが、シャツははじけそうでまぶしい。こんな女性がこの街にはよく似合う。マルセイユの陽の光が、私のアドレナリンを活動させる。彼女は、スイスでバイトしていて時折日本へ帰っていると言った。こんな国際的渡り鳥の生活は素敵だ。日本にいたところで、明日の見えないのが今日だ。
 彼女は、これから友人とニースで落ち合うと言った。私は、ニースは素通りして明日はモナコへ向かうつもりだと言った。彼女も、モナコへ行くかもしれないと言った。

 駅から坂を下り、街中を過ぎて港へ行ってみた。波止場では釣り糸をたれている人もいる。石場に座っていると潮の香りがする。
 マルセイユは坂の街だ。港から坂の上にあるノートルダム・ド・ラ・ギャルドバジリカ聖堂に行ってみた。行きの上り坂はさすがにバスに乗った。マルセイユの街全体が見下ろせる。帰りの下り坂は街の臭いを嗅ぎつつ、道をいくつも折れながら歩いた。港の近くの通りには、市がたっていて賑やかだ。野菜類に交じって、魚介類が豊富なのが港町らしい。
 こうなると、やはり夕食はブイヤベースである。海の近くにレストランが並ぶ。その中の1軒は、ブイヤベース定食(メニュ)で89フランと安い。ムール貝にホタテに白身魚と海の幸がたっぷりだ。

 この街の潮風が人を夢想に誘い込む。はちきれんばかりの女の子のことを、ブイヤベースと酒とともに考える。何とかうまくいきそうな気分が鼻梁を通り抜けていく。それは、ただ潮風の悪戯にすぎない。
 しかし、港町での夢想はいい。ギャングに追われても、ベルモンドのようにここでなら何とかなりそうだと思うだろう。
 明日はモナコへ行こう。マルセイユの先には、モンテカルロが待っている。
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10. 南仏プロヴァンス、ラコスト

2005-09-16 23:02:52 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月7日>ラコスト
 計画のない旅がいいのは言うまでもない。その日の夜に、翌日の行き先と列車を決める。そんな気ままな旅をしているものが、はずせない時間を決めて計画に従おうとしたときに限って、思わぬことが起こるものだ。
 昨晩カルカッソンヌから、プロヴァンスのラコストに住んでいる彫刻家の永井氏に電話をして会うことになった。
 永井氏は、鎌倉書房のパリ駐在員であった奥さんの佐久間さんと長い間パリに住んでいた。そして、20年ほど前に、プロヴァンスにアトリエと居を移した。私は佐久間さんを仕事を通して知っていて、永井氏は佐久間さんを通して知ったわけだ。私が1974年初めてパリへ旅したとき、一度パリのアパルトマンに伺ったことがある。
 ポールもパリを離れて彫刻家と田舎に移り住んだ。しかも、地域は違えども同じ地名のLacoste(ラコスト)だ。

 朝ホテルを出て、カルカッソンヌの駅に7時50分に着いた。8時05分発のナルボンヌ行きの列車に乗る予定である。ナルボンヌは地中海に面した街で、スペインのバルセロナ方面から南仏プロヴァンス、コート・ダジュール方面を結ぶ列車との接続駅である。ナルボンヌでアヴィニョン行きに乗り換えて、永井氏と約束しているアヴィニョンの駅に10時40分に着く予定だ。
 駅の構内の表示板を見ると、私の乗る列車のところに「Retard 30m.」と記されている。私は嫌な予感がした。30分遅れである。ナルボンヌ駅での接続時間は20分である。これでは約束の時間に間に合わない。まだ永井氏は家を出ていないと思い、永井氏宅に電話し、電車が遅れている旨を告げ、時刻表を見てアヴィニョン13時51分着にと変更した。これだったら余裕がある。
 トゥールーズ、パリ方面からの列車は軒並み遅れているようだ。何か事故があったに違いない。トゥールーズでは、私がフランスに入国する直前の9月21日に化学工場が爆発するという大惨事が起こっている。テロではという疑惑が起こっていた。しかし、こちらの駅員は列車の遅れに対して、何の説明もしない。
 30分待ってもまだ列車は来る気配はなく、表示は50分遅れになった。そして、あっという間に表示は1時間30分遅れと変わった。ナルボンヌ行きの次の列車のパリ発ディジョン行きのTGVも50分遅れである。私の乗る予定のナルボンヌ行きの表示が2時間遅れと変わるや、私は冷や汗が出た。これでは、遅らした時刻にも間に合わない。
 私は、50分遅れでホームに滑り込んできたディジョン行きのTGVに飛び乗った。TGVはアヴィニョン駅には停まらないが、途中のニームには停まる。私は、とりあえずニームまで行った。ここまでくれば、もうアヴィニョンはすぐだ。

 ニームの駅で降りた。次のアヴィニョンに行く列車まではあと1時間ある。
ニームは古い街である。フランス最古のローマ都市で、ローマ帝国の遺跡がいくつも残っている。駅を出ると静かなプラタナスの並木道が続き、突き当りがシャルル・ド・ゴール広場だ。
 日差しの強さが、ここが南仏であることを教えてくれた。公園の中心に、ギリシャ彫刻のような人と獅子の口から水が噴射しているプラディエの泉がある。私は公園の隅にあるベンチに腰を下ろして、さっき買ったパンをかじった。隣のベンチには、何もするあてもないといった風情の中年の男が身動きもせず黙ったまま座っていた。私たちの座っているベンチの奥には、乗り手のいないメリーゴーランドがあり、その先にはローマのコロッセオとも見まがう古代闘技場が見えた。
 隣の男もメリーゴーランドも、途方に暮れているように見えた。何かから置き去りにされて、すでに半ば諦めているようにも、かつてあったかもしれない栄光を恨んでいるようにも思えた。

 私は、メリーゴーランドに出合うと、吸い寄せられるようにそこへ行ってしまう。そして、パブロフの犬のように、いつも子供の頃を思い出す。
 子供の頃、長い休みのたびに祖父母のいる福岡県の大牟田市に行った。私が住んでいた佐賀の田舎町から大牟田の祖父母の家へ行くには、最寄りの駅から国鉄(JR)で佐賀駅まで行って、佐賀からバスで柳川まで行き、そこから西鉄電車で大牟田の倉永まで行き、そこから15分ほど歩いて祖父の家に着くという道のりだ。
 いや、私の子供の頃は、佐賀駅から今では廃線になった佐賀線で瀬高(福岡県)まで行き、そこで鹿児島本線に乗り換え大牟田の倉永に行った記憶がある。佐賀線とは、佐賀・福岡両県を分ける筑後川に架かる、日本で初の昇降鉄橋があるので知る人ぞ知る線だ。
 小学校低学年までは父や母に連れられて、それ以後は一人であるいは弟と一緒に、汽車とバスと電車を乗り継いで行った。初めて一人で行ったときには、ちょっぴり大人になったような誇りと同じぐらいの緊張感があった。
 大牟田の中心街にある松屋デパートの屋上には、回転木馬のメリーゴーランドがあった。それに乗るのとお子様ランチを食べるのが楽しみだった。それは、子供の私たちにとって、最高の贅沢であり喜びだった。
 今、メリーゴーランドは寂しい。人がそれに歓喜する時代は短く、すぐに忘れられてしまう。いや、メリーゴーランド自体が公園から消え去ろうとしている。少なくとも、日本では絶滅種族のように滅多に目に入らなくなった。だから、ヨーロッパで、特にフランスで生き残っているのを見つけると、私はにじり寄ってしまう。昨日行ったカルカッソンヌの城壁の中にも、メリーゴーランドはあった。

 アヴィニョンの駅で永井氏と無事会うことができた。永井氏の車で、ラコストの家へ向かった。田園や林が一面に広がっている。かつて、ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』という本が日本でも話題になったが、まさにその舞台がこの一帯なのだ。恵まれた気候と肥沃な大地。それに、ワインも採れる。ここでは都会の雑踏とは無縁ののどかな時間が流れている。
 ラコストは白い石が採掘されるというから、彫刻家の氏にとっては格好の場であろう。石切り場の横には、氏の作品である壮大な石の彫刻が鎮座していた。村をあげての開陳の日には、ピエール・カルダンもやって来たという。
 ラコストは、18世紀にはあのサド侯爵が領主を務めていたという。近くにサド侯爵が住んでいた城があるというので見にいった。城は、手入れされることなく荒廃していた。しかし、かろうじて昔日の栄華を想起させる崩れ落ちた石垣は、風に吹かれて時の流れをあざ笑っているかのようであった。
 
 その日、奥さんの佐久間さんの息子夫妻が日本から来たところだった。日本から持ってきたという新聞を見せてもらい、12日ぶりの日本の情報を知る。
 その年大リーグ・デビューしたイチローは、変わらず3割5分台で打率首位を走っていた。
 こんな小さな村にもホテルがあった。ホテル、キャフェ・ド・フランスは、親父さんが一人でやっている鄙びた旅籠だ。今夜の客は私一人のようだ。
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9. 城の街、カルカッソンヌ

2005-09-14 23:43:40 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月6日>カルカッソンヌ
 ルルドからトゥールーズを経て東へ向かうと南仏、地中海へ出る。その途中にカルカッソンヌがある。
 カルカッソンヌは、中世の城塞都市である。最初は通り過ぎようと思った。城砦を見にいくだけでは面白くはないだろうと思ったのだ。しかし、スペインを旅したとき、同じく城塞都市トレドに寄らなかったことを後悔したことを思い出した。
 カルカッソンヌは世界遺産の街でもある。このことで心が動き、この街に寄ることにした。世界遺産というブランドは大変な威力である。この街が単なる城のある観光街だったら、私は通り過ぎていたであろう。世界遺産という御札があるとないとでは、知名度と集客力に相当の違いが生じるだろう。
 
 ルルドを朝の8時45分発の列車に乗ると、昼ごろにはカルカッソンヌに着いた。カルカッソンヌの駅を出て南に20分位歩くと、川で分断されている街を結ぶ橋に出る。この橋を渡ると城のあるシテ地区に入る。橋は新橋(ポン・ヌフ)と旧橋(ポン・ヴュー)がある。ポン・ヴューを渡り始めると、すぐに長い城壁に囲まれた城が見えた。それはいかめしくも壮大で、こちらの街を睥睨しているようであった。
 城は二重の城壁に囲まれていて、ヨーロッパ最大といわれているように一周するのに相当の時間を要した。脚を棒のようにして歩いた。城壁の中に街があり、人が住んでいるのには驚かされた。
  
 城のあるシテ地区は、廃市のようである。道も家々も灰色と茶色であった。静かで、人々は何十年も何百年も同じ生活をしているように感じられた。同じように廃市の街インドでは、すれ違う人の目はぎらぎらしていたのに、ここは静かだった。長い間、中世の時間とともに忘れられた街と人たちのように思えた。
 ポン・ヴューのふもとの古いホテルに泊まることにした。夕方から小雨が降りだしていた。夜になり一番上の階(4階)のテラスに出てみると、ライトアップされた城壁が浮かび上がっていた。その状景は、雨に打たれて血に染まった幽霊城を思わせ、その中ではシェイクスピアの『リヤ王』もしくは黒澤明『乱』のごとく暗鬱な人間劇が繰り広げられているかのようであった。
 晴れた夜にワインでも飲みながらの眺めには、旅人には格好であろう。
 城塞の町は、やはり時が止まっているようであった。
 明日(10月7日)は、南仏、プロバンスの田舎に住んでいる彫刻家、永井氏宅を訪ねよう。
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