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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

18. フィレンツェ②

2005-10-08 15:14:55 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月15日>フィレンチェ
 サン・マルコ美術館は閑静な美術館である。東洋の寺を想起させる庭と建物だ。その2階に上った正面にフラ・アンジェリコの「受胎告知」はある。このマリアの表情は楚々としている。
 再びベッキオ橋に来てしまった。この橋は特別だ。ベッキオ橋を渡った銀細工屋で、土産用に葡萄の装飾が施されたビールとワインの栓抜きを買った。
 夜、昨日行ったリストランテを求めて、路地を何度も行ったり来たりとさまよったが見つからない。どうしたというのだろう。あの路地からあの店が消えてしまった。
 フィレンツェは小さな街で、歩けば1日で周ることができる。ここは、時が止まったような街だ。旅人もその時の流れに染まってしまい、静かに流されていく。
 明日は、この街をそっと抜け出して、イタリアでの最終目的地、ヴェネツィアに行こう。
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17. 時に紛れた街、フィレンツェ①

2005-10-06 01:30:37 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月14日>フィレンツェ
 ローマを発ってフィレンツェに向かうことにした。
 「ディ・リエンツォ」のホテルは特別きれいなホテルでもなく、何の特徴もない安ホテルだ。朝、ホテルでチェックアウトをしに受付へ行ったら、例のオーナーのおじさんがいた。おじさんも普段愛想はよくないが、私には顔を合わせるとにこりとする。しかし、イタリア語が話せないので話をしたことはない。
 このホテルには、モナコから着いた10月10日に1泊し、次の日ナポリに行ったあと12、13日と2泊した。昨日の朝、私がこのホテルにもう1泊したいと言ったとき、シャワーつきの部屋が空いたからと、同じ料金で移してくれた。
 この日チェックアウトの請求書を見たら1泊料金になっている。おじさんの開いた宿帳メモを見ると、昨日の日付のところに1泊料金が記載されていて丸で囲まれている。昨日、一昨日の12日の分を支払い済みと解釈できるようなメモ書きだ。支払済みなのは最初に泊まった10日だけで、12日に同料金で延長の意味でメモしたのを勘違いしているのだろう。私は、この請求書は間違いだと言って2泊料金を払った。おじさんはそうだったのかと改めて宿帳をしげしげと眺めていた。
 支払いを済ませて、玄関を出ようとするとおじさんがちょっと待ってと言って奥の部屋へ行った。そして、赤ワインを抱えてきて、これを持っていけと私に渡した。
 私は、おじさんの予期せぬ行為に驚いた。そして、私はこれから長旅をしなければならないから、とても残念だが受け取れない。しかし、あなたの気持ちはとても嬉しいと英語で言って、ワインは受け取らなかった。おじさんは仕方がないといった顔をした。少し辛そうな顔をしていた。私も彼の好意を受け取りたかったが、ボトルを持って旅するのを考えると遠慮せざるを得なかった。そして、私はホテルをあとにした。

 ローマのテルミネ駅を9時14分に出発した列車は、12時51分にフィレンツェに着いた。
 まずは宿を決めて、フィレンツェの象徴ともいえるドゥオーモを目指した。赤いレンガの王冠のような形のクーポラ(大天蓋)は、この街のランドマークだ。
 ドゥオーモは、13世紀から15世紀にかけて造られたらとは思えない完成度だ。ヨーロッパの教会や王宮は、歴史を超えた美しさを保持しているものが各地にある。フィレンツェのドゥオーモはその際たるものだろう。
 ドゥオーモからヴェッキア橋へ行った。まずはフィレンツェの核となるところを押さえておこうという魂胆だ。
 この橋は、橋の概念を超えている。こんな橋はどこにもない。両側に店が並んでいる。それも屋台といった即席のものではなく、2階建ての建物が続くのだ。一歩そこに入ったら、そこが橋の上だということを忘れてしまう。殆どが彫金細工や金銀細工の店で、若い女性や観光客を誘っている。
 橋の上は、いつでも人でいっぱいだ。橋の中央部に行くと店の建物は途絶えていて、欄干から川沿いの風景を臨むことができる。ここだけは橋という認識に戻ることができる。

 ベッキオ橋の架かるアルノ川のふもとにウッフィツィ美術館を見つけた。私の旅は、美術館めぐりは主体ではないが、フィレンツェではここだけは欠かせないと思っていたところだ。
 ここには、メディチ家によって花開いたルネッサンスの絵画が集められている。何といっても、ここではボッテチェリの「ヴィーナスの誕生」だろう。中学の美術の教科書で、最も印象的で最も男どもの揶揄の対象になっていた絵だ。女性の裸など見たことのない田舎の色気づき始めた男たちにとって、この「ヴィーナスの誕生」だけは何の後ろめたさなしに見つめることができる唯一の女体だった。
 しかし、その官能的な肉体とは裏腹に表情は何の欲情も感じさせない。その意味では、わが密かに嘆息するルーカス・クラナッハの蠱惑的ヴィーナスとは対照的だ。
 絵は想像していた以上に大きい。その横に、同じく華々しい「春」(Primavera)が並んでいる。この絵とて、官能はどこにも漂っていない。
 とはいえ、この2枚の絵から、ルネッサンスのエネルギーが伝わってくる。肉体の賛美、人生の謳歌が溢れている。いわば、かつて確かにあった私たちのまだ汚れなき時期の、青春の揺籃を想起させるのだ。
 しかし悲しむなかれ、私たちは、いや私は、若葉がいつの間にか色づき、枯葉になっていくことをすでに知っている。

  うるわしき春をとどめるすべもなし
  愉しめよ、明日を知らぬ身なれば

 夜、これからミラノへ行ってファッションを勉強するというアズミさんと、リストランテでキャンティ・ワインを飲みながらパスタを食べた。
 時を失ったようなフィレンチェの街には、時を駆ける少女が歩いているようだ。彼女たちは、街に溶け合っていて、あの角を曲がったらすぐに神隠しのように消えていくのではないかと思わせる。私はついに知ることができなかった、彼女たちの行く末を。フィレンツェの街は、暮れそうで暮れない黄昏の街だ。
 彼女と別れて、一人ほろ酔い気分で夜の街をさまよっているうちにレプッブリカ広場に出た。夜も深まっているというのに、若者が集まっている。どこの国でも若者はエネルギーを持てあましているようようだ。私がその何人かにカメラを向けると、あっという間に人垣ができた。時のとまったようなフィレンツェでも、若者は何かを求めている。
 この広場でも、パフォーマンスが行われていて、燃えるような火を操る大道芸人の若者がいた。
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16. ローマ②

2005-10-02 22:45:46 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月13日>
 ローマは考えていたような街ではなかった。もっと喧騒に満ちた観光都市にありがちな軽薄さがあちこちに見つけられると思っていたが、そうではなかった。
 豪壮で威厳を携えた建築や遺跡が、ある意味では無造作に散在していた。それらを目当てにウンカのごとく押し寄せる観光客を横目に、ローマ人(市民)はまるで他人事のように、さりげなく暮らしているように見えた。
 ローマ人は、長い歴史の流れに身を任せているように思えた。いや、ローマ人に限らずイタリア人は、過去の偉大な遺産を超えることがままならないまま、現実の刹那主義者に陥っているのではないかとさえ思えた。例えば、偉大な父を持った子が妙におとなしくなっていくように。

 いや、私には、ローマは過去が偉大で目立ちすぎて、現在が見えなかったといっていい。過去の遺産ばかりに目がいってしまって、現在のローマ人を見ないで通り過ぎてしまった。「真実の口」に「トレヴィの泉」、「コロッセオ」と観光コースばかりを歩いた。その中でも、偶然に見つけた「フォロ・ロマーノ」と、夜道の交差点で出くわした「4つの噴水」は忘れがたい。

 思えば、ローマ人の私生活を垣間見ることもふれることもしなかった。私もローマの過去の遺産を上滑りで歩いたにすぎない。果たして、ローマ人はどんな生活をしているのだろう。
 すでに40年も前に、ローマ人の刹那的な退廃ぶりを「甘い生活」で描いているフェリーニ。ローマ人の甘い生活は終わったのだろうか。

 テルミネ駅の切符売り場で待っていた韓国人の、ピアノと絵の勉強をしていると言った二人の学生。
 ヴァチカンで佇んでいたイタリア料理人志願の女性。
 彼女たちは、どこへ行ったのだろう。
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15. 再びローマ①

2005-10-01 10:45:44 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月12日>ローマ
 私に愛想の悪かったナポリを離れて再びローマへ向かった。ナポリを朝10時21分発の列車で、ローマへは昼12時22分着だ。
 車内で、私の前に座ったのは美しきイタリアンだ。濃紺のTシャツとジーンズというカジュアルなスタイルにサングラスだが、華がある。ウェーブのかかった豊かな金髪が、若さにゴージャスさを加味している。
やっとツキが周ってきたようだ。
 「あなたは女優ですか!」、「えっ、そうじゃないんだって! 私は一目見て、てっきりそうだと思っていた」、「普通のOLには決して見えない」etc.etc.
 私は、すっかりラテン系人間になっていた。「あなたは美しい!」。貧しい単語の埋蔵量の中から引っぱり出した、知っている限りの美辞麗句を並べた。
 彼女の名は、マルゲリータ。何て、素敵な名前なんだ。昨日食べたよ、残念だけどピッツァだけど(ここまでは言っていない)。
 マルゲリータは、ローマの前の駅で降りていった。「アルヴェデルチ!」

 ローマのテルミネ駅に着くと、先々日ローマに着いた日に泊まった「ディ・リエンツォ」に向かった。地の利と安いのがいい。
 2階の受け付けのところに行くと、例のオーナーのおやじと中国人とおぼしき若い女性が口論している。どうも約束より料金が高いと言っているようである。その女性の知り合いらしいもう一人の女性も、一緒に成りゆきを見守っていた。ぼるようなホテルではないと思っていたので、私は高みの見物をしていた。おやじは途中から相手にしないといった態度なり私に対応したが、中国人は私が荷物を部屋に置いて出て行くときもずっとわめいていた。いい執念だ。
  
 ローマの探索は、まずは正面突破とばかりヴァチカンへ向かった。ここはローマの市内にあるが、最も小さい市国だ。
 バスを降りて、寺院の大きなクーポラ(丸天井)を目指して歩いた。並んでいる円柱を潜り抜けると、目の前には円形の広場が広がっていた。見上げると、円柱の上で何人もの聖人像が広場を睥睨している。そこは、もうサン・ピエトロ広場だった。
 ここでは、石柱にもたれて日光浴をしている人や座って本を読んでいる人もいる。建物の入口には衛兵が立っていて、服装もファッショナブルだ。同じ小国のモナコと比べても、カトリックの総本山で法王のお膝元ということもあり厳粛さが漂う。

 ヴァチカンを出て、すぐ近くにあるサンタンジェロ城に行った。元々2世紀に王の廟として建てられて、それ以後ローマ皇帝の墓となったり法王の住まいになったり数奇な運命をたどった城だ。歌劇「トスカ」の舞台にもなっている。また、ここからは、サンピエトロ寺院をはじめ、ローマの市内がよく見える。
 その前に架かっている橋が、サンタンジェロ橋で、この橋の両サイドにはいくつもの天使(サンタンジェロ)像が置かれていて、歩いているだけでも楽しい。橋の上には天使像が長い影を作っていた。もう大分陽が傾いていた。
 この橋の上では、バッグを並べて売っている人間が何人もいる。売っている人間はよく見ると全員黒人だ。おそらくブランド品の海賊品か紛いものを売っているのだろう。そのとき、誰かが何かを叫んだと同時に、売っている黒人たちはあっという間にバッグを大きな袋に詰め込んで、クモの子を散らすように走り去った。しばらくして、警官が数人橋になだれ込んできた。橋の上に散乱したバッグの前で、逃げ遅れた男が1人警官に捕まって、ふてくされた態度で立っていた。
 捕り物劇を面白がって見ていると、「ここでは、よく見る光景よ」と、同じく橋を通ってサンタンジェロ城に向かっていた日本人の女性が説明してくれた。ローマに語学留学しているというナナエさんで、もうすぐ日本に帰国しなくてはならないので、今まで見ていなかったローマを見て周っているところだと言った。

 ナナエさんに連れられてサンタンジェロ城から歩いてしばらくすると、いきなりネプチューンの彫刻の噴水に出くわし驚かされた。そこはナヴォーナ広場だった。 暮れかかった広場には、憩いを求めて多くの人やってきていた。この大きな広場には、3つの彫刻に彩られた噴水があった。ムーア人の噴水の前では、真っ白に顔も塗った自由の女神の格好をした大道芸人が不動で立っていた。
 この広場は活気があり、私はとても気に入った。私がローマ在住だったら、足しげく通うだろう。

 ナヴォーナ広場からパンテオンはすぐだった。古代ギリシャ建築を思わせる円柱が並ぶ。もちろんアテネのパルテノンが先だが、こちらとて2千年以上過ぎている紀元前の建物だ。東京の多摩市にパルテノン多摩という建築物があるが、おこがましいネーミングだ。
 建物の中に入ると、円形の丸天井がそびえるように高い。その頂点に円くくっきりと明かりのようなものが見える。丸く象嵌されたように見えるのは、どう見ても紺色の空だ。もう外は暮れて薄暗いのに、そこは明るく浮いているように見える。空は思いのほか明かりを孕んでいることが分かった。私はふと吉行淳之介の小説の「星と月は天の穴」という題名を思い出した。
 私は、その天井の穴がガラスで覆ってあるのかと思って係員に訊いてみたら、何と空いているという。雨が降ったら室内に入ってくるが、そのときどうするのだろうと考えた。

 コロンナ広場からコルン通りを歩き、高級ブランド店が並ぶコンドッティ通りに入り、行き着いたところがスペイン広場だった。
 もう夜7時半をまわって、すっかり暗くなっていた。しかし、ここは観光名所だけあって多くの人が階段に肩を並べて座っている。ヘプバーンを真似てジェラートを食べている人がいないのを見ると、規制が厳しいようだ。観光名所好きの日本人がいないので訊いてみると、「ツアーなどで周る日本人は昼間来るのよ」とナナエさんが言った。

 夜道の中でやっと見つけたレストランでの、羊の肉とパスタは美味しかった。それに、赤ワインの「Pelissero PIEMONTE GRIGNOLINO 2000年」もいける。イタリアの食も少し見直しだ。

 地下鉄でテルミネ駅に戻ることにした。地下鉄の駅に行ったが、切符売り場が閉まっている。ナナエさんが切符なしで「乗りましょう」と言うので、来た電車に乗ってしまった。みんな平気な顔ですいすいと乗っている。定期券を持っている人も無賃の人もいるだろう。イタリア人はいい加減だが、無賃乗車が見つかった場合は罰金が高い。
 このことをナナエさんに言うと、「私の3か月間の経験では、夜10時以降に検察に来たのを見たことがない」と平気な顔で笑った。テルミネ駅でも、駅員はいなくてフリーパスだ。それでも、電車を走らしている。何と大らかな国なんだろう。私は、その懐の深さに感動すらした。

 東京の世知辛い改札の風景を思うにつれ、このイタリアのいい加減さと大らかさは貴重だ。
 インドとイタリアはその長い歴史のせいか、心の奥底に長い尺度を持っているように思う。インド人もイタリア人も、単にいい加減ではないのだ。
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14. 野卑な港町、ナポリ

2005-09-26 19:10:08 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月11日>ナポリ
 私は、イタリアのナポリとフランスのマルセイユを殆ど同列で考えている。フランスとイタリアの違いだけで、くだけた下町風情の地中海に面した港町。それに、底抜けに明るい青空と女の子。だとすると、ナポリに夢を抱いてはならない。マルセイユのように肩透かしを食うからだ。
 「太陽がいっぱい」は、フランス映画だが、舞台の港町はナポリ近くのイタリアの街だ。しかし、この映画からはマルセイユを想像してしまう。マルセイユもナポリも、この映画のアラン・ドロンのような野卑な若者が似合う街だからか。
  
 ローマからナポリに向かうために、ローマのテルミネ駅に行った。列車の中で食べようと朝食のためのパンを買った。これが第1の失敗だろうか。いや失敗の元は、その前の列車に乗ろうと思っていたのに、パンを買う時間がなかったので1台遅い列車に乗ったことにある。
 それで、10時45分ローマ発で12時30分にナポリに着く列車に乗ることになった。この列車はナポリまでは前の列車より早く着くが、列車番号の頭にICと書いてある。インターシティーの略で、予約が必要および特別料金がいる場合がある。しかし時間もなかったので、中で交渉すればいいと考え、パンを買ってとりあえず乗ることにした。
 車内は空席が目立っていたので、1等だがとりあえず空いている席に座った。駅で買ったパンをかじったが、やはりまずい。
 フランスからイタリアに入った途端パンの質が変わったのは、昨日から感じていた。かたくて味もまずいのだ。仕方ない。イタリアで食に多くを望むのはやめよう。
 ローマ駅をたって1時間ぐらいして、駅員が検察に来た。やはり、私の持っているユーレイルパスだけではいけないようだ。追加料金か罰金か知らないが、パスに印を押され2万リラの切符を切られた。やはり、前の列車に乗るべきだった。イタリア人はいい加減と聞いていたが、列車内は厳しいようでフランス人より融通がきかないようだ。
 反省1。イタリアでは、座席指定車には飛び乗らない。→車内で食べるパンは早めに買っておく。

 ナポリに着くと、すぐに駅の近くに安ホテルを見つけ、そこを出てまずは海を目指した。駅から続くウンベルト1世通りを歩いていくと、海へ着いた。ここはフェリーの船着場だ。想像していた熱気も喧騒さもなく、意外と拍子抜けだ。
 やはり、街の中に入ろう。歩き回っているうちに、ガレッリアの大アーケードに出た。高い天井に美しいアーチの美しさは、イタリア人の感性が息づいている。ここの中央の広場(空間)にはいくつもテーブルが置かれ、コーヒーを飲んでいる人もいる。
 コーヒーを飲もうかとカウンターに行くと、イタリア人の若者がケースの中をのぞきこみながら、次々とジェラート(アイスクリーム)を注文してはほおばっている。私も人気のジェラートにしようと、カウンターで注文した。すると、係りの男がテーブルで食べるかどうか訊いたので、疲れていたのでテーブルと言った。そのあと男は何か付け加えたが、よく聞きとれなかった。そして、盛ったジェラートを持って奥へ消えて、なかなか戻ってこない。とっさに悪い予感がよぎった。テーブルで待っていても、案の定なかなか持ってこない。よく見ると、テーブルでジェラートを食べている人はいない。
 やっとやってきたジェラートを見て、やはり謀られたと思った。そのジェラートは満艦飾だった。ガラスのコップに入れられ、スプーンつきである。ジェラートの4隅にはクッキーが、中心にはビニールで作られた観葉植物と大きな日傘が差されている。観賞用もしくはおのぼりさん用である。値段を聞いてみて、さらに私の怒りは大きくなった。普通、3千リラぐらいなのに1万3千リラという。私はジェラードだけ口にして、あとの装飾品をテーブルの下に叩きつけた。
 このような時、何も口にせず、金も払わず出てくればよかったのだ。怒りを抱いたままアーケードをあとにした。
 反省2。ジェラートは、立ったままか、歩きながらか、階段で座って食べるか、とにかくテーブルでは食べない。→かもられそうになったら、黙って逃走する。

 アーケードを出て歩き回っているうちに、道の両側に出店がいっぱい並んだ通りに出た。下町のスバッカ・ナポリと呼ばれる地区だ。雑貨屋や土産物屋もあり見るだけで楽しい。しかし、暑さに加えてトイレに行きたくなった。歩いても喫茶店も見つからず、店の探索もないがしろに急ぎ足で、ついにホテルまで戻ってしまった。
 歩き疲れてしまった。
 反省3。トイレは入れるときに入っておく。

 やはり、ナポリもマルセイユと同じでどうも相性が悪いようだ。

 夕食は、ちゃんとしたピッツァを食べたいと思い、ウンベルト1世通りを脇に入った「ディ・マッテオ」に行った。130年前から作り方を変えていない頑固な老舗とガイドブックにある。店はいっぱいで、私がテーブルに着いたあと10分もしないうちに、店の前に行列ができた。
 テーブルに着き周りのテーブルを見渡すと、殆どがトマトとモッツァレッラ・チーズに1枚のバジリコの葉ののったマルゲリータだ。トマトの赤にモッツァレッラ・チーズの白、バジリコの緑を加えて、イタリアの三色旗だ。
 私も、当然それにする。出てきたピッツァはボリュームがあった。確かに美味しいが、全部を食べるのにやっとの思いだ。イタリア人の若い女子は、ぺろりと平らげている。逞しい。

 ナポリで、ピッツァ以外に特記するものがないとは侘しい。ラテン系のイタリア人のことだ。ナポリのどこかで、誰かは今宵も歌って(囁いて)いるのだろう。
 「俺にはもう一つの素晴らしい太陽がある。それは愛する君の瞳なんだ」(「オ・ソレ・ミヨ/私の太陽」)、と。
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