<2001年10月5日>ルルド
とりあえず南に向かおう。
ワインの街、ボルドーを南下し、ピレネー山脈に沿ってスペインの国境沿いに東へ向かうと、とりあえずの目的地である南フランス地中海の方に向かうことになる。
ボルドーから鉄道地図をなぞっていくと、そのピレネー山脈の北にルルドという街を見つけた。あの奇跡の街、ルルドがこんなところにあるとは。私は、すぐにここに行くことに決めた。予定にはなく、予想だにしなかったこの街に行けるとは、何という旅の幸運だろう。
現在(2005年9月)、先に亡くなった法王ヨハネ・パウロ2世を聖人とするかどうかが議論されているという。聖人の次に福者という称号(位)もあるそうだ。福者には、あのマリア・テレサもなったという。聖人になるには、奇跡を2回以上起こしていて、福者は少なくとも1回は起こしていなくてはならないらしい。
では、奇跡とは何かというと、「科学では証明できないもの」というシンプルな答えが戻ってくる。といっても、スプーンを曲げてみたり、消えたカードをレモンの中から取り出したりしても、聖人になったとか推薦されたという話は聞かないから、あれらは奇跡ではないようだ。
最近は奇跡とかカリスマとかの大安売りである。例えば、野球で最終回逆転サヨナラ満塁ホームラン・クラスでなくとも、奇跡の大逆転といわれるし、肩を故障して2年後復帰した投手が完封でもしたら奇跡のカムバックなんて言われる。カリスマ美容師とかカリスマ主婦とか、神の賜物である預言者も安っぽくなったものだ。しかし、こんなものはマスコミの安直な煽動的表現にのっかった、一過性の形容詞的表現にすぎず、すぐに消え去ってしまう。たとえ、衆人が「奇跡だ」と叫んでも、そうそう奇跡とは認知されるものではない。
しかし、一般的に「奇跡」と言われている出来事や場所がある(ようだ)。
でも待てよ、奇跡とは何を言うのだろうか。何をもって判断されるのだろうか。そして、誰が認知するのだろうか。
ルルドは、誰が言うのでもなく奇跡の街である。この街を紹介するのに、この言葉抜きでは語れない。奇跡が起きた(とされる)、世界でも数少ない聖なる地なのだ。そういう奇跡の街としては、ポルトガルのファチマと双璧であろう。
150年ほど前に、名もない小さなこの村で、一人の少女の前に聖母マリアが出現したのだ。そして、その地の洞窟から湧き出る泉の水は、数々の不治の病を治したという。今でも、奇跡の水を求めてやってくる人は、フランスはいうに及ばずヨーロッパ各地から絶えることなく続き、ルルドは聖地と仰がれているという。
私は、1995年のポルトガルへの旅の際も、偶然の発見と思いつきでファチマへ行った。そこも「ファチマ第三の秘密」として巷間伝わる、聖母が出現した小さな奇跡の街だ。私は期せずしてこの二大奇跡の街を訪れることになる。
私は、キリスト教信仰者でもオカルト嗜好者でもないが、この手の奇跡の街には興味が隠せない。このような地は、信仰者か研究者でない限りここだけの目的で行くところではないだろう。だから、偶然に行きついたといってもいい。しいて言えば、好奇心がそこへ導いていったといえる。
ボルドーのサン・ジャン駅を10時34分に出発したTGVは、13時03分にルルドに着いた。
ルルドの駅は思ったより静かでひっそりしていた。駅から目抜き通りに入ると、すぐに左右に土産物屋が並ぶ。ロザリオやロウソクに交じって、様々な瓶に入った奇跡の水も売られている。その土産物通りを下りていくと、広大な広場に連なり、その先にこんもりとした森を背景にした大きな教会が見える。広場は2万人収容だという。教会の前に立つ広場の奥の祭壇は岩場を抉って造られていて、徐々に左右が高く上ったアーチ状のドームに囲われるようになっている。だから、祭壇の左右と真上からも2階から見下ろすように広場を眺めることができる。
教会の奥に行けば、小さな森の麓にマリアが出現したという岩場があり、洞窟の前にはマリアの彫刻が建てられていて、装飾的に組み立てられたロウソクが作品のように置かれている。
洞窟の前には、泉から引かれた何本もの蛇口が並んでいて、泉の水を求めに来た人は、ここで飲んだり汲んだりすることができる。
駅には人影は少なかったのに、陽が暮れかかるとともに人が多くなってきた。夕方5時からの聖歌斉唱のころになると、広場やその周辺は人で埋まってしまった。いつの間にか、湧いてきたように人が増えてしまった。祭壇の上には何人もの僧が並び、聖歌が延々と歌われる。
街を散策して、夜9時からロウソク行進があるというので、再び祭壇の上の階に行ってみた。広場は暗く、空には丸い月がオレンジ色に光っていた。
遠く広場の端から小さな点の灯りが出てきた。その灯りは月よりも小さく、星の集団か蛍の群れようだ。そのきちんと並んだ小さな灯りのかたまりは、少しずつS字状にうねりながら線となって中央の祭壇に向かって進み、かつ伸びていく。灯りの数はだんだん多くなっていき、線と線の間は狭くなり、いつしか広場全体が灯りで一体となり、埋め尽くしてしまった。
夜のルルドの街に再び聖歌がこだました。それが終わると、人々は次々と祭壇に上がり、箱の中から披露されたキリストの像を拝み、触り、敬虔の念を表わした。
私は、今日は何かの祭りの日で、たまたまその幸運に出くわしたのだと思った。聞くと、そうではなく、この行事は毎日行われているという。私は、毎日何万本ものロウソクが消費されるのかと思った。
ルルドは、様式化されていた。宗教の持つエネルギーと教会の力を見せつけられた感じが強い。駅を降りたときの静謐な印象は、すっかり覆された。賛美歌斉唱もロウソク行進も整頓されて美しかったけれど、北朝鮮のマスゲームをちらと連想させた。
ポルトガルのファチマには、このような組織化は感じなかった。大きな教会が建てられて、同じく巨大な広場が整備されていたが、もっと牧歌的な印象を感じた。ポルトガルとフランスの違いであろうか。それとも、ルルドには聖なる水という物的付加価値があるという有利性からだろうか。
それはそうと、私も聖なる水を口に含み、小さな瓶に詰めて持ち帰った。
とりあえず南に向かおう。
ワインの街、ボルドーを南下し、ピレネー山脈に沿ってスペインの国境沿いに東へ向かうと、とりあえずの目的地である南フランス地中海の方に向かうことになる。
ボルドーから鉄道地図をなぞっていくと、そのピレネー山脈の北にルルドという街を見つけた。あの奇跡の街、ルルドがこんなところにあるとは。私は、すぐにここに行くことに決めた。予定にはなく、予想だにしなかったこの街に行けるとは、何という旅の幸運だろう。
現在(2005年9月)、先に亡くなった法王ヨハネ・パウロ2世を聖人とするかどうかが議論されているという。聖人の次に福者という称号(位)もあるそうだ。福者には、あのマリア・テレサもなったという。聖人になるには、奇跡を2回以上起こしていて、福者は少なくとも1回は起こしていなくてはならないらしい。
では、奇跡とは何かというと、「科学では証明できないもの」というシンプルな答えが戻ってくる。といっても、スプーンを曲げてみたり、消えたカードをレモンの中から取り出したりしても、聖人になったとか推薦されたという話は聞かないから、あれらは奇跡ではないようだ。
最近は奇跡とかカリスマとかの大安売りである。例えば、野球で最終回逆転サヨナラ満塁ホームラン・クラスでなくとも、奇跡の大逆転といわれるし、肩を故障して2年後復帰した投手が完封でもしたら奇跡のカムバックなんて言われる。カリスマ美容師とかカリスマ主婦とか、神の賜物である預言者も安っぽくなったものだ。しかし、こんなものはマスコミの安直な煽動的表現にのっかった、一過性の形容詞的表現にすぎず、すぐに消え去ってしまう。たとえ、衆人が「奇跡だ」と叫んでも、そうそう奇跡とは認知されるものではない。
しかし、一般的に「奇跡」と言われている出来事や場所がある(ようだ)。
でも待てよ、奇跡とは何を言うのだろうか。何をもって判断されるのだろうか。そして、誰が認知するのだろうか。
ルルドは、誰が言うのでもなく奇跡の街である。この街を紹介するのに、この言葉抜きでは語れない。奇跡が起きた(とされる)、世界でも数少ない聖なる地なのだ。そういう奇跡の街としては、ポルトガルのファチマと双璧であろう。
150年ほど前に、名もない小さなこの村で、一人の少女の前に聖母マリアが出現したのだ。そして、その地の洞窟から湧き出る泉の水は、数々の不治の病を治したという。今でも、奇跡の水を求めてやってくる人は、フランスはいうに及ばずヨーロッパ各地から絶えることなく続き、ルルドは聖地と仰がれているという。
私は、1995年のポルトガルへの旅の際も、偶然の発見と思いつきでファチマへ行った。そこも「ファチマ第三の秘密」として巷間伝わる、聖母が出現した小さな奇跡の街だ。私は期せずしてこの二大奇跡の街を訪れることになる。
私は、キリスト教信仰者でもオカルト嗜好者でもないが、この手の奇跡の街には興味が隠せない。このような地は、信仰者か研究者でない限りここだけの目的で行くところではないだろう。だから、偶然に行きついたといってもいい。しいて言えば、好奇心がそこへ導いていったといえる。
ボルドーのサン・ジャン駅を10時34分に出発したTGVは、13時03分にルルドに着いた。
ルルドの駅は思ったより静かでひっそりしていた。駅から目抜き通りに入ると、すぐに左右に土産物屋が並ぶ。ロザリオやロウソクに交じって、様々な瓶に入った奇跡の水も売られている。その土産物通りを下りていくと、広大な広場に連なり、その先にこんもりとした森を背景にした大きな教会が見える。広場は2万人収容だという。教会の前に立つ広場の奥の祭壇は岩場を抉って造られていて、徐々に左右が高く上ったアーチ状のドームに囲われるようになっている。だから、祭壇の左右と真上からも2階から見下ろすように広場を眺めることができる。
教会の奥に行けば、小さな森の麓にマリアが出現したという岩場があり、洞窟の前にはマリアの彫刻が建てられていて、装飾的に組み立てられたロウソクが作品のように置かれている。
洞窟の前には、泉から引かれた何本もの蛇口が並んでいて、泉の水を求めに来た人は、ここで飲んだり汲んだりすることができる。
駅には人影は少なかったのに、陽が暮れかかるとともに人が多くなってきた。夕方5時からの聖歌斉唱のころになると、広場やその周辺は人で埋まってしまった。いつの間にか、湧いてきたように人が増えてしまった。祭壇の上には何人もの僧が並び、聖歌が延々と歌われる。
街を散策して、夜9時からロウソク行進があるというので、再び祭壇の上の階に行ってみた。広場は暗く、空には丸い月がオレンジ色に光っていた。
遠く広場の端から小さな点の灯りが出てきた。その灯りは月よりも小さく、星の集団か蛍の群れようだ。そのきちんと並んだ小さな灯りのかたまりは、少しずつS字状にうねりながら線となって中央の祭壇に向かって進み、かつ伸びていく。灯りの数はだんだん多くなっていき、線と線の間は狭くなり、いつしか広場全体が灯りで一体となり、埋め尽くしてしまった。
夜のルルドの街に再び聖歌がこだました。それが終わると、人々は次々と祭壇に上がり、箱の中から披露されたキリストの像を拝み、触り、敬虔の念を表わした。
私は、今日は何かの祭りの日で、たまたまその幸運に出くわしたのだと思った。聞くと、そうではなく、この行事は毎日行われているという。私は、毎日何万本ものロウソクが消費されるのかと思った。
ルルドは、様式化されていた。宗教の持つエネルギーと教会の力を見せつけられた感じが強い。駅を降りたときの静謐な印象は、すっかり覆された。賛美歌斉唱もロウソク行進も整頓されて美しかったけれど、北朝鮮のマスゲームをちらと連想させた。
ポルトガルのファチマには、このような組織化は感じなかった。大きな教会が建てられて、同じく巨大な広場が整備されていたが、もっと牧歌的な印象を感じた。ポルトガルとフランスの違いであろうか。それとも、ルルドには聖なる水という物的付加価値があるという有利性からだろうか。
それはそうと、私も聖なる水を口に含み、小さな瓶に詰めて持ち帰った。