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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

23. 再びパリへ

2005-11-19 18:40:44 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月20日>パリ
 10月19日、夜19時45分発のENユーロナイト寝台夜行列車でヴェネツィアを発ってパリへ向かった。パリには翌20日朝8時23分着。ヴェネツィアには後ろ髪を引かれる思いであったが、とりあえずイタリアの旅を終えた。
 
 朝どんよりとした空の中を、パリのベルシー駅に列車は静かに入り込んだ。外は小雨だった。思えば、今回の旅ではイタリアは晴天続きだったのに、フランスでは雨によく出あった。旅の初めのパリに着いた翌日の9月26日も小雨だった。そのあと、サンテ・ミリオン、カルカッソンヌ、モナコでも雨にあった。サン・セレでポールと一緒に買ったラフマの防水加工のブルゾンが役にたっている。フードつきだから小雨ぐらいだったら傘は要らない。
 
 そのままカルチエ・ラタンに向かった。メトロのオデオンの出口を出ると、やはりまだ雨は降っていた。
 すぐにサン・ジェルマン通りの角にあるカフェに入って、朝食をとった。通り沿いの席に座って、街行く人を眺めながらカフェオレを啜り、パンを囓った。私の席の隣は仲の良い若いカップルで、ノートを持っていたから学生だろう。学生なのに、私より贅沢にサラダもとっていた。一つの皿からお互いフォークを伸ばしてサラダをほおばっていた。彼らは昨夜の延長でここへ来ているのかもしれなかった。
 雨がやむのを待っていたがやみそうもなかったので、まずはホテル・サン・ピエールへ行くことにした。ホテル・サン・ピエールは、初めてのパリへの旅の際に泊まった想い出のホテルだった。
 このホテルのあるエコール・ド・メディシン通りは、得体の知れない通りだ。大きなサン・ジェルマン通りから斜めに切り刻んだようなこの通りは、右にパリ大学の塀が横たわり、殺風景で人通りも少なく、道も途中から急に細くなっている。その細くなったところから店が建ち並び、そこにサン・ピエール・ホテルはあるのだ。その道を真っ直ぐ通り抜けると大きなサン・ミッシェル通りにぶつかる。

 サン・ピエール・ホテルに入ると、フロントには鷹のような目つきの鋭い30歳前後の男がいた。笑顔をどこかに忘れてきたような無愛想な男だ。シングルの部屋はあるかと聞くと、あと1時間待ってくれと言う。近くをぶらぶらしようかと思ったが、雨も降っているので小さいロビーの椅子に座って待つことにした。
 ロビーのテーブルには雑誌『マダム・フィガロ』と一緒に『ル・フィガロ』が置いてあった。『ル・フィガロ』の表紙は、ブッシュとベン・ラディン(フランス綴りだとBen Laden)の顔写真だった。9.11テロ事件の波は、ヨーロッパのおしゃれな雑誌をも無視せざるを得ない状況であることを示していた。
 1時間ぐらいして、フロントの男に、もう部屋は空いたかどうかと質すと、パソコンを眺めてはボードのキーを叩いていた。どうやら空き部屋ができたらしく、5階の部屋だと言ってキーを渡した。エレベーターでその階を下りて部屋の近くに来ると、掃除係の女性にその部屋は空いていないと言われまたフロントへ戻った。すると、男はまたしかめっ面で真剣にパソコンに向かい、今度は違う部屋を告げキーを渡した。その部屋へ行くと、ドアは空いていたので中に入ると、ツインの部屋で誰かの荷物が置いてあった。もう1度似たような間違いがあって、計3度違う部屋に行かされた。
 パソコンの具合が悪いのか男がうまく使いこなせないのか、男は真剣な表情で、慇懃な態度が少しずつではあるが恐縮した顔になっていった。それでも、「ソーリー」の言葉もないので、ここまで間違われても怒鳴り声一つ出さない東洋人を、忍耐強いと思っているのか、あるいは怒ってこのホテルのドアを蹴って出ていけばいいのにと思っているのか、その表情からは窺いしれなかった。
 私は、「27年前にこのホテルに泊まったことがある」と言った。君がこのホテルと何のゆかりもない頃から私はこのホテルを知っているんだよと、嫌みを言ったつもりだったが、男の表情には変化はなかった。私のこのホテルに対する愛着が、急激に薄れていくのを感じた。
 やっと部屋が決まったのは、ホテルに着いて2時間がたっていた。男は、初めて「ソーリー」と謝った。フロントの男と私の関係は、少し変わったものになっていた。最初の傲慢な視線の代わりに、なるたけ目を合わせないでおこうという態度になっていた。

 雨の日は、美術館でゆっくり絵の鑑賞でもして時間を過ごそうと思ってオルセー美術館へ行った。すると、館はストライキで閉まっていた。入口で出くわした女の子は、昨日も来たが閉まっていたと苦笑いを浮かべ、お手上げの表情をした。私は、仕方がないので今度はルーブル美術館へ行った。ここも同じくストライキで閉まっていた。ルーブルの脊柱の庇の下で座って雨のやむのを待っていたが、なかなかやみそうもない。
 小雨の中、シャンゼリゼ通りにある政府観光局に走った。そこで、オルセーもルーブルも閉まっているが、ポンピドー美術館は開いているかと聞いた。すると、係の人は「そこも閉まっている。明日の朝11時にならないと、どの美術館も開館するかどうか私どもも分からない」と言った。
 やはり、フランスの労働者はたくましい。いまだに公務員でもストライキを実行するだけの実力を蓄えているのだ。日本は、バブル崩壊後はどの単産もそれだけの力はなく、組合も連合も骨抜きになり、それにストライキでもしようものなら世間から総叩きにあいそうな風潮である。

 明日10月21日に、パリからアムステルダムに行く予定である。明日、オルセー美術館が開いていたら、アムステルダム行きを遅らせてパリに滞在しようと思ったが、開いているかどうかも分からないのだったら、予定通りパリを発つことにした。どちらにしろ、10月25日、アムステルダム発KLMの飛行機で帰国するのだ。
 明日はパリからロンドンに行くのもいいかなと頭によぎったが、オランダも行ったことがないので予定通りそちらを優先させることにした。

 雨も小降りになってきたので、モンマルトルへ行くことにした。私のパリの定番だ。メトロを出ると、雨はあがっていた。時間もあるので、ロシュシュアール通りからテルトル広場の方に坂道を歩いていった。坂の上の広場から、今夜はシャンソを聴こうと思って「ラパン・アジル」に行った。
 かつてはユトリロやピカソも通ったという、いまだに古ぼけた屋敷のシャンソニエであるが、閉まっている。扉の前にぶら下がっているプレートを見ると、開店にはまだ1時間ぐらい時間があった。私と同じようにシャンソンを聴きに来ていたキョウコさんと、開店までに食事を済まそうということになってレストランを探した。語学留学でモンマルトルに住んでいるというキョウコさんであったが、なかなか安くて適当な店が見つからない。坂道を歩き続けたが、結局、テルトル広場近くの屋台のような店で27フランのバゲットをほおばることになった。

 ラパン・アジルは、予想に反して歌手と聴衆(客)の距離感がなく、アットホームな店であった。古い伝統の奢りはどこにもなく親しみ感があったが、私には歌声喫茶のようで物足りなかった。といっても、昔からこのスタイルだったのだろう。だから、あのアル中で自閉症のユトリロも安心して来ることができたのだろうと思った。
 数人の歌手が交代で歌った。各々個性があって、座ってお喋りを交えながらのものや大歌手のように威厳を持って立って歌う歌手もいる。
 一人のお喋りな頭の薄くなった歌手が「ここには日本人の客がいる。日本語では、ラムールは何ですか?」と聞いてきた。「アイ(愛)」と答えると。すかさず、「アイ、アイ、アイ、アイ……」という出だしの歌を歌いだした。こういうオチだったのかと私たちは笑って聴いた。
 やっと、私の知っている歌が歌われた。歌ったのは眼鏡をかけた学校の先生のような作家高村薫に似た女性だ。「サン・ジャン、私の恋人」(Mon amant de Saint-Jean)だ。しかも、シャンソンの中で私が最も好きな歌だ。この曲だけで満足してしまった。
 次々と歌い手に歌い継がれて時は過ぎていくのに、客はいっこうに帰ろうとしない。モンマルトルの夜は、こうして更けていくのだった。

 深夜、わが愛しのサン・ピエール・ホテルの帰ると、部屋は変わっていて荷物も移されていた。やれ、やれだ。
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22. いつの日か、ヴェネツィア

2005-10-30 02:24:18 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月19日>ヴェネツィア
 夜19時45分発のENユーロナイトの夜行列車でヴェネツィアを発つことにした。明朝20日8時23分にパリに着く。
 ヴェネツィアには、いつまでいてもいいと思わせるものがあった。街角のあちこちに発見があり、歩くことが楽しい。細い道の先には何かが現れた。路地から路地へ、広場へ、運河へ、そして時折船に乗る。こんな日々を続けられたらと思った。ここでは、音楽演奏会もあるし、映画祭もあるし、美術展もある。カーニヴァルだって催される。
 しかし、ここでは旅人と住人ははっきりと区別されている。生活のない旅人はいつまでも歩くしかない。しかし、旅人はいつか歩き疲れる。路地裏の鬼ごっこも、いつしか鬼の居所を見つけて、この遊びも飽きるだろう。
 まだここにいたいと思っている時に去るのもいいだろう。いや、旅人は遅かれ早かれ、その地を去らなければならないのだ。そう思って、後ろ髪を引かれながら去るしかない。

 この日は、田舎にいる親父のための土産を探そうと思った。喜寿の祝いだ。何度も海外を旅したのに、おふくろにはその都度何かしら買ってきたが、親父には最初に行ったパリでのパイプだけで、今まで何も買ってこなかった。
 懐中時計に決めていた。蓋つきの金張りで、3針で、しかも文字盤がアラビア数字でなければならない。それに、鎖つきだ。
 母が語っていた。「満州にいた頃はね、お父さんはぴしゃっと背広を着て、金の懐中時計を背広の内ポケットに入れていたのよ」と。
 しかし、その後親父が懐中時計を持つことはなかった。親父が時計のことを口にしたことはなかったが、きっと喜ぶに違いないと思った。

 私は、ヴェネツィアの街の土産物屋、時計屋、骨董屋と歩き回り、時計を探した。しかし、蓋にやたら派手な彫金が刻まれていたり、文字盤が算用数字であったり、形が大きすぎたり、逆に小さすぎたりと、なかなか見合うものがない。古い骨董もプレゼントにはふさわしくない。
 夕方になってやっと、観光客のいるところから離れた通りにある1軒の時計屋で、ウインドウの中に飾ってある時計の中にぴったりのものを見つけた。中の親父に値段を訊いたら手頃だ。しかし、この親父は商売っ気がなく、私の質問に答えたら、またすぐに店に来ていた客か友だちか知らないが別の男とお喋りをしだして、こちらはほとんど無視したままだ。
 私は、その店を出てもう少し歩いて時計を探した。しかし、そんなに時計屋があるわけではなく、しばらく歩いた後、あれ以上のものはない、あの時計を買おうと決心して、またあの店に引き返した。
 すると、店に明かりはついているのだが、戸には鍵がかかっていて中には誰もいない。1人でやっている小さなこういう店では、よくあることだ。連れの男と食事にでも行ったに違いないと思って外で待っていると、ほどなくして主(あるじ)は先ほどの男と一緒に戻ってきた。
 早速、値段の交渉をして、まけろと値切ってみた。しかし、わずかに引いただけで、ほとんど安くはしなかった。頑固そうなあるじだったし、ぼるような店ではなかったので、私もその値で買い求めた。
 やっと探し求めていたものを手に入れたことを悟らせまいと、嬉しさをかみ殺して私はその時計を手に取った。是非ともヴェネツィアで見つけたかったのだ。

 私は、初めて親父にプレゼントらしいものを買ったことに喜んでいた。今年の年末に、それを持って帰り、びっくりさせようと胸をふくらませた。

 その夜、夜行列車でヴェネツィアを発ち、再びパリへ向かった。帰国の予定も近づいていた。

            *
 *夏の盆に会った時には元気だった親父が入院すると田舎のおふくろから電話があったのは、その日から2か月後の、私が帰省する予定の1日前の12月19日だった。親父には内密であったが、癌で3か月は持たないとのことだった。
 私は、入院している病院にこの時計の入った箱を持って行った。親父に箱を渡すと、何も言わなかったのに、喉頭癌の掠れた声で「懐中時計だろう」と言い当てた。そして、箱の中から時計を取り出して、それを見ながらうんうんとうなずき、嬉しそうな顔をした。
 それから、医者の言うように、翌年の桜を見ることもなく2月9日に死んだ。
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21. 花のヴェネツィア③

2005-10-21 01:49:12 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月18日>ヴェネツィア
 ヴェネツィアは芸術の都でもある。
街は東西交易によって繁栄を極めた。豊かな財力の下で、建築、絵画、音楽が花開いた。しかし、どのような栄華もいつかは衰退する。没落したヴェネツィアは近代化の波に乗り遅れた。しかし、それが幸運にも他に類を見ない今日のヴェネツィアを生み出し、人々はその都市に酔うことになる。

 昨日ふと耳にした、現在開催中だというヴェネツィア・ビエンナーレ展を見に行くことにした。とりわけ現代芸術に関心があるわけではないが、こんな機会でないと見に行くこともあるまいと思ったからだ。
 リアルト橋からヴォパレットで約20分の、市街から少し離れたところで開かれていた。会場は海の近くの緑に囲まれた公園のようなところで、国別に展示場が造られていた。たまたま会場で、美術を研究しているというハマダさんと一緒に周ることになった。昼前から見始めて、見終わったのは夕方6時半になっていた。
 私一人だったら、もっと駆け足で過ぎていたであろうが、彼女の解説でじっくり見ることができた。何より、理解不可能な現代芸術というものに少し触れることができたのが大きい。ドイツ館は、迷路のような廊下で部屋が繋がっている朽ち果てた木造の家で、幽霊屋敷に迷い込んだような気分になった。一人だったら、この廃屋のようなこの建物のドイツ館が金獅子賞をとったなど知らずに過ぎていたかもしれない。

 夜になって、音楽を聴きに行くことにした。昨日アカデミア橋のたもとで、モーツアルトの格好をした若い女性が配っていた案内状を頼りに、演奏会が行われるパラッツォ・ゼノービオを探した。
 やっと探し当てた運河のほとりにあるそこは、古い建物だったが、風格がある。1階の受付を通り中庭を散歩した。運河に面した2階の会場に行くと、目を見張った。17世紀末に建てられたというこの建物は、贅を尽くした貴族の館だった。
 演奏会が行われるというティエポロの間は、華麗な装飾に彩られていた。運河に面したアーチ型の窓や壁には彫刻が施されていて、吹き抜けの天井には天使が舞っている絵画が天窓のようにある。左右に飾られた鏡が、部屋の奥行きをまるでイルージョンのように演出している。途中バルコニーが張り出していて、かつてここで楽士が演奏していたという。
 バロックの影響を色濃く残したこの部屋からは、爛熟した香りが充満していた。のちに、建築史としても、今に残るヴェネツィアの貴重な建物物の一つだと知った。
 
 楽団は、ヴェネツィア・オーケストラ。ヴァイオリンを中心とした弦楽奏団だ。まずは、ヴィバルディの「四季」の「プリマヴェーラ」(春)から始まった。ヴィバルディも、18世紀ヴェネツィアで活躍した作曲家だ。フィレンツェで見たボッテチェリの「プリマヴェーラ」といい、何と「春」が心地いいことか。かつらにロングドレスの当時の服装をして、プッチーニのオペラの歌曲も歌われた。宮廷音楽もさもありなんの雰囲気である。
 まるで私自身が、貴族の音楽会に紛れ込んでいるような錯覚に陥った。東京でのコンサートでは感じることのない、胸の奥の感動がわき上がってきた。私がこの場にいることが不思議に思え、この経験はもう二度と味わえないと思った。私は、この熱い感動を胸に刻み込もうと努めた。

 演奏に酔ったまま、迷路のような夜道を歩いた。この街は、酒など必要としないで酔わせてくれる。暗い街角も月明かりに光る運河の水も、この日の私には甘く映った。このまま水(海)に飛び込んだとしても、苦しい思いはないだろう。
 この街は、水の中、いや夢の中に人を誘い込む不思議な魅力を潜ましている。おそらく、街全体が舞台といえる。街が芝居を演じることを許容された、迷宮の空間だ。
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20. ヴェネツィア②

2005-10-13 10:56:42 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月17日>ヴェネツィア
 ヴェネツィアの街は、毛細血管のように、あるいは土中に伸びる植物の毛根のように、路地が延び、繋がり、分かれている。ビルとビルの間の人が一人通れるような空間も、貴重な通路というより道路となっている。狭い路地を伝って急に景色が広がると、そこは広場だったり教会だったり、あるいは運河の行き止まりだったりする。
 思わぬところまで水路の運河は掘られていて、思わぬところにも橋があり、思わぬことに橋の下にゴンドラが通ったりする。ひらひらとリボンを風になびかせたカンカン帽をかぶった、舟漕ぎの色男が旅人を見つけるとにっこりと笑う。
 この青空のようなドンファンは、どんな老人になり、どんな老後を送るのだろうかと考えた。

 ヴェネツィアは路地の街だ。地図を見ながら歩いていても、なかなか地図どおりに進むことが難しい。気がつくと、予期せぬところに来ていたりする。しかし、この街には、各路地にリアルト橋やサン・マルコ広場方面を表した矢印の表示板がある。そうなのだ、この街はこの二つが基点なのだ。リアルト橋かサン・マルコ広場へ出れば、何とかなるのだ。

 私は、終日路地を歩きまわり、疲れたらヴォパレットと呼ばれている乗り合い船に乗り、この街を徘徊した。
 この街は、どこを歩いても心が弾む。その訳は、どこにでも張り巡らされた、どこに出るか分からない迷路のような路地がつくりだしているといってもいい。子どもが街や山を冒険するときのときめきに似ている。パズルのような路地が胸を躍らせるのだ。
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19. ヴェネツィアに死すとも

2005-10-10 17:42:51 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月16日>ヴェネツィア
 9時25分フィレンツェ発の電車に乗ってヴェネツィアに向かった。イタリアの最終目的地であると同時に、今回の旅で最も行きたかった街である。
 ヴェネツィアは、アドリア海の上に建てられた街だ。ヴェネツィアに行く列車は、ヴェネツィアの市内に入るとまずメストレ駅にとまるが、ここで降りなくて次のサンタ・ルチア駅で降りなければならない。大陸内のメストレ駅からは列車は海に突き出た線路を走り、サンタ・ルチア駅に着く。
 
 昼過ぎに、私の乗った列車はメストレ駅に着いた。ここで多くの乗客が降りた。大きな荷物を持った旅人もいた。私は、ここで降りる人も結構いるんだと少し不思議に思った。ここにも何か見るところがあるのかもしれない。
 メストレ駅を発車してしばらくすると、車掌が乗車券の検閲に来た。この列車に乗って3回目だ。2回目の検閲のとき、イタリア人は見ずに素通りして私に対して乗車券を拝見ときた経験があったので、私は「もう2回見せた。イタリア人にはチェックせず、私にはチェックする。それは私が異邦人だからか。それに、私は次の駅で降りるんだ」と言ったが、駅員は見せろと言い張った。しぶしぶ3回目のユーレイルパスを見せたが、当然何の問題もない。
 私にパスを返しながら駅員が「君はどこへ行くのか」と訊いたので、「ヴェネツィアだ」と答えた。「サンタ・ルチア駅か」と訊き返したので、「そうだ」と言うと、「この列車はサンタ・ルチア駅にはとまらない」と駅員は言ったのだ。私は驚いた。それで、前のメストレ駅で多くの人間が降りたのかと合点がいった。メストレ駅で乗り換えなければならなかったのだ。
 駅員は、時刻表を見ながら「次の駅で降りて、13時23分発の列車に乗り換えるといい」と言った。そして、にやりと皮肉っぽく笑いながら、「君は3回チェックしたから、よかったようなものだ」といったようなことを言った。私も苦笑いで、「ありがとう」と感謝せざるを得なかった。彼が言うように、駅員の「乗車券拝見」で救われたようなものだ。

 サンタ・ルチア駅で列車を降りると、そこはもうヴェネツィアそのものの風景が広がっていた。淡い青空の下にやはり青い海があり、船がとまっていた。船に人が乗りこもうとしていた。水上バスともいうべき乗合船だ。海辺に続く石段には、まるで砂浜に憩うかのように何人かが座っていた。
 ルノアールの「舟遊びの昼食」、もしくは印象派の絵画を想起させた。私も、その絵画の中に溶け込もうと石段に座って、船着場の光景を眺めた。
 船がこの街では移動手段だ。もうここからは、普通の都市に見られる車は走っていない。街中を縦横に刳り抜かれた運河が道なのだ。そのことが、このヴェネツィアの街を決定的に他の都市と区別するものにしていた。移動手段が歩くか船というのは、現代において恣意に時間を停止させているようなものだ。
 
 駅の構内にあるインフォメーションで紹介されたホテルは、リアルト橋に近い路地を入った運河の近くにあった。リアルと橋、それはこの街のへそのようなものだ。
 私は、すぐにリアルト橋に行った。この橋も、フィレンツェのベッキオ橋と同じく、橋というより建築物だ。この街も、リアルト橋からすべてが始まる。

 私が一時期、麻布出版という小さな出版社の仕事をしていたとき、先代の未亡人が会長となって出社していた。もう70歳にもなろうかという人だったが、ヴェネツィア旅行から帰ってこられたときの言葉が印象に残った。
 「私は、ヴェネツィアの橋の上から水を眺めていたとき思ったね。ここでなら、水の中に飛び込んで死んでもいいと」
 ヴェネツィアは、そう思わせる街だ。この街の中に一歩入りこんだら、もう街が演じている世界に迷いこんでいく自分をとめることが難しい。
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