正しさとは(下)
例えば子どもが迷子になっているとわかっていても、声をかけにくいという大人が多いときく。ケイコもおそらく、声をかけることをためらってしまう。自分がよかれと思ってしたことが、無用な疑いを生んでしまう可能性があるから。もしも誘拐犯や不審者だと思われたらどうしよう。その子の保護者に嫌な顔をされたら?結局自分がモヤモヤして終わるのではないか。せっかくいいことをしても、揉めたら自分が損をしてしまう。そんなことを考えているうちにもしも子どもに何かあったとしたら、後悔にさいなまれるかもしれないのに。それでもすぐにはきっと動けない。
時代のせいにすることは簡単だけれど、こういうことをぐちゃぐちゃと考えて大切なことを見失っていることが許せない。それなのにきっと今のケイコは咄嗟には動けない。嫌だ。こんな自分が嫌だ。あらゆる正義が振りかざされる中で、本当に正しいことは失われていく。そんな世の中になってはいけないのに。そもそも考える必要のないことを、考えてしまうことも、考えてかでなくては動けないことも、考えても動けないこと。正しさとは一体何なのか。よくわからないことが辛い。
スーパーの駐車場でのできごとの翌日、子どもが車の中で熱中症となり死亡したニュースを観た。神様は、ちゃんと見ている。これを偶然と片付けるには、あまりにも重い。
【波風氏談】ケイコさんの記事を読み、子どもの危険さに遭遇するのは多くないが、よくある困った大人のもの言いに困った時の自分のあるべき「正しさとは」を考えさせられる。黙っていて良いのか、言ったとしてもどう言うのが良いのか・・・。